第8話 一番好きな血
翌日の午後、グレイは一人で夜の王の館を訪れた。
内門の街は昨日と変わらない。
通りには買い物をする人間がいて、店先では客と店主が笑っている。軒下では老人が椅子に腰掛け、その傍を子供たちが駆け抜けていった。
変わったように見えるのは、自分が知ってしまったからだ。
あの老人も。
走っている子供も。
道の向こうで荷物を運んでいる男も。
夜の王にとっては、すべて大切な家畜なのだろう。
その言葉だけを抜き出せば、昨日のうちに夜の王を嫌うこともできた。
だが、グレイにはそれができなかった。
夜の王は何も隠していない。
人間を傷つけて喜んでいるわけでもなければ、粗末に扱っているわけでもない。むしろ自分の手の届く範囲に置き、病気になれば治療し、老いて血を提供できなくなっても生活を守る。
ミナのことも、本当に大切にしていた。
だからこそ、分からない。
分からないまま嫌うのは簡単だったが、それでは昨日から何も進まない。
館の門を抜けながら、グレイは小さく息を吐いた。
今日は喧嘩をしに来たわけではない。
話をしに来た。
それでも理解できなければ、その時に考えればいい。
◇
「今日は一人なんだね」
夜の王は、昨日と同じ居間にいた。
低い卓の上には本が一冊置かれ、その隣には湯気の立つ茶器がある。
グレイを見る表情にも警戒はない。
「ああ。今日はお前と二人で話したかったから、みんなには宿にいてもらった」
「昨日のことかな?」
「それもある。というか、ほとんどそれだな。俺はまだ、お前の考え方がよく分からない」
夜の王は少しだけ目を細めた。
「それで、わざわざ話をしに来てくれたのか」
「分からないからって勝手に決めつけても仕方ないだろ。お前がどう考えてるのかは、お前に聞くのが一番早い」
「私は嬉しいよ。君とは一度、ゆっくり話してみたいと思っていた」
夜の王が向かいの椅子を示す。
グレイはそこへ腰を下ろした。
すぐに使用人が新しい杯を運んでくる。グレイは礼を言って受け取り、一口だけ飲んだ。
香草の香りが強い。
夜の王は急かさない。
グレイも、どこから話すべきか少し考えた。
「ミナは昨日、かなり混乱してたぞ。自分たちを家畜だと思ってること自体、知らなかったみたいだからな」
「そうだろうね」
「言ってなかったの?」
「聞かれなかったからね」
悪びれた様子はなかった。
「私から彼らへ、自分たちが家畜であると意識させる必要もないだろう。普段の暮らしに必要な知識ではないからね」
「でも、外へ出ようとすれば関係してくるだろ」
「その時には説明するよ。昨日のミナのように」
「そこで初めて知るのか」
「そうなる子もいるだろうね」
グレイは杯を卓へ戻した。
やはり、感覚が違う。
夜の王に悪意がないことだけは、昨日よりもはっきり分かる。
「お前は、人間に自分たちの立場を理解させて従わせたいわけじゃないんだな」
「そんなことをして、何になるんだい?」
逆に聞き返された。
「彼らが穏やかに暮らしてくれるなら、それでいい。自分を家畜だと毎日意識しながら生活する必要はないだろう?」
「……そういう考えなのか」
「君は違うのかな?」
「違うと思う。でも今日は、そこを言い合いに来たんじゃない。俺も吸血鬼だから、別のところから聞いてみたい」
夜の王の目に興味が浮かぶ。
「別のところ?」
「血だ」
グレイは椅子へ背を預けた。
「お前は前に、魔力の高い人間ほど血が美味いって言ってただろ。だから内門には魔力の高い人間が多い。それは俺にも分からなくはない」
「君も味の違いは感じるのかい?」
「感じるぞ。血なら何でも同じってわけじゃない。魔物でも種類によって違うし、強い奴の血は含んでる魔力も多いからな」
夜の王が少し身を乗り出した。
昨日まで、人間について話していた時とは違う興味だった。
「魔物の血を飲むのか」
「飲めるものならな。俺は血を魔力に変えられるから、人間だけに拘る必要がない。高ランクの魔物なら、むしろ効率がいいこともあるぞ」
「なるほど。真祖ともなると、その辺りも違うのかな」
「俺自身が色々試した結果だから、真祖なら全員同じかは知らない。でも、人間を襲わなくても困らない方法は作れた」
夜の王は素直に感心したようだった。
「面白いね。私はそこまで魔物の血を試そうとは思わなかったよ」
「不味いのも結構あるからな。何でも飲めばいいってものじゃないぞ」
「それは想像できる」
夜の王が笑う。
初めて、同じ吸血鬼同士として話が噛み合った気がした。
血を必要とする身体。
種類による味の違い。
魔力の量。
そこまでは、二人とも同じものを知っている。
ならば。
「そういえば、面白いものを持ってる」
グレイは収納していた小瓶を取り出した。
透明な容器の中に、深い赤色の液体が入っている。
卓へ置いた瞬間だった。
夜の王の視線が止まった。
「……それは?」
「血だぞ」
「それは見れば分かるよ」
夜の王は笑ったものの、目は小瓶から離れない。
「誰の血なんだい? 瓶越しでも妙な感じがする」
「龍だ。それも普通の龍じゃない。前に会った古龍から分けてもらった」
アルディエルの名までは出さなかった。
必要がない。
夜の王はしばらく小瓶を見つめたあと、グレイへ確認する。
「開けても?」
「そのために出したんだから構わないぞ。ただ、いきなり全部飲むなよ。人間の血とは魔力の密度が全然違うからな」
「さすがにそんなことはしないさ」
夜の王が小瓶を手に取る。
栓が外れた。
その瞬間、空気がわずかに変わった。
魔力を抑えるための処理はしてある。それでも開封すれば、中に込められたものが普通ではないことくらい分かる。
夜の王の笑みが消えた。
不快になったわけではない。
集中している。
「これは……」
瓶を鼻元へ近づける。
吸血鬼にとって、血の匂いは人間が食事の香りを嗅ぐのとは少し違う。
含まれる魔力まで感覚に触れる。
夜の王は小さな器へほんの少量だけ注いだ。
「本当に飲んでいいのかい?」
「それくらいならな。俺も最初に飲んだ時は驚いたから、少しずつにしておけ」
「では、遠慮なく」
夜の王が器を傾ける。
ほんの一口。
それだけだった。
飲み込んだ瞬間、動きが止まった。
グレイは黙って見ていた。
夜の王の瞳がわずかに見開かれる。
やがて器を卓へ置き、ゆっくり息を吐いた。
「……驚いたな」
初めて聞く声だった。
普段の穏やかさは残っている。
しかし、明確に感情が乗っていた。
「だろ?」
「想像していたものとは全く違ったよ。魔力が濃いなんて言葉では足りない。これほど少量なのに、身体へ入った瞬間に分かる」
夜の王は自分の指先を見る。
身体の内側を確かめているらしい。
「吸血衝動まで薄れている」
「俺が試した感じだと、かなり長く持つぞ。お前くらいの吸血鬼なら、量にもよるけど数十年単位で抑えられると思う」
「数十年?」
「ああ。腹を満たすっていうより、身体そのものが血を求めなくなる感じに近いな。普通の血と同じ量を飲む必要もない」
夜の王が小瓶を見る。
今度は明らかな驚きがあった。
「これは、とんでもないものを持ってきたね」
「珍しいのは間違いないぞ。俺も好きなだけ手に入れられるものじゃないからな」
「そうだろうね」
夜の王はもう一度、器に残った僅かな血を味わう。
今度はすぐに飲み込まず、舌の上で確かめるようにしていた。
やがて目を閉じる。
「……美味い」
その一言だけで、どれほど気に入ったのか分かった。
夜の王がここまで明確に何かへ感動する姿を、グレイは初めて見た。
「そんなに?」
「君はこれを飲んで、そう思わなかったのかい?」
「美味いとは思ったぞ。でも俺は血を味だけで選んでないから、お前ほど気にしてなかった」
「勿体ないことをするね」
夜の王が笑う。
「香りだけでも普通の血とは違うけれど、口に含むとさらに分かる。濃いのに嫌な重さがない。魔力が強すぎる血は舌に残ることもあるが、これは綺麗に消えていく」
「随分詳しく見るんだな」
「好きだからね」
迷いのない返事だった。
夜の王は小瓶の栓を丁寧に戻し、名残惜しそうに卓へ置いた。
「長く生きてきたつもりだったけれど、これは初めてだ。血にここまで驚かされたのも久しぶりだよ」
「そこまで気に入ったなら、一つ気になることがある」
「何かな?」
グレイは小瓶を指先で軽く押した。
「それがあれば、人間を飼う必要もなくなるんじゃないか?」
夜の王が瞬きをした。
それから、すぐに首を横へ振る。
「いや。それとこれとは別だよ」
「数十年も吸血衝動を抑えられるんだぞ。お前が人間から血をもらってる一番の理由が吸血なら、こっちで代わりになるだろ」
「確かに、血を必要とする身体だけを考えるならそうだね」
「なら何が違う?」
夜の王は少し考えた。
今度はグレイに伝わる言葉を探しているようだった。
「君は酒を飲むかい?」
「飲むぞ。別に詳しくはないけどな」
「なら、酒で考えると分かりやすいかもしれない」
夜の王は卓上の小瓶へ目を向ける。
「この龍の血は、間違いなく最高級だよ。もし血を酒に例えるなら、王侯貴族でも一生に一度口にできるかどうかという特別な酒に近い」
「随分高く評価するな」
「実際、それだけの価値があると思う。吸血衝動を数十年も抑えられるという効能を抜きにしても、私はまた飲みたい」
そこで夜の王は微笑んだ。
「でも、最高級の酒が、自分にとって一番好きな酒とは限らないだろう?」
グレイは少し考える。
「値段とか希少さと、好みは別ってこと?」
「そういうことだよ。誰もが最高級と認める酒があったとしても、毎晩それを飲みたいとは限らない。昔から飲み慣れた安い酒の方が好きな者もいるだろうし、特定の土地で作られたものを好む者もいる」
「龍の血は美味いけど、一番好きな味じゃないのか」
「そうだね」
夜の王はあっさり認めた。
「驚くほど美味しい。特別な日に飲めるなら、これ以上ない贅沢だと思うよ。でも私が一番好きなのは、この街で育った人間たちの血だ」
予想していた答えだった。
それでも、グレイは黙った。
「魔力が高いから?」
「それもある。でも、それだけではないね」
夜の王の表情が柔らかくなる。
「同じくらいの魔力を持つ人間を外から連れてきても、全く同じ味にはならない。食べるもの、育った環境、体質、年齢。その人間が積み重ねたものが少しずつ違いになる」
「だから自分で育てるの?」
「そうだよ。もちろん、味だけのために暮らしを決めているわけではないけれどね。健康で穏やかに育ってくれれば、結果として血の状態も良くなる」
夜の王は楽しそうだった。
昨日、ミナの幼い頃を話していた時と同じ顔だ。
「特に気に入ってる奴はいるの?」
「いるよ」
答えるまでの間すらなかった。
「ミナだ」
グレイの指が止まる。
夜の王はそれに気づかず、懐かしいものを思い出すように目を細めた。
「ミナは少し甘いんだ。幼い頃からそうだったよ。成長するにつれて魔力が濃くなって、味もずいぶん変わったけれどね」
その声は温かかった。
初めて歩いた子供の話をするような。
背が伸びたことを喜ぶような。
何年も見守ってきた相手の成長を懐かしむような声だった。
「最初にきちんと採血できる年齢になった頃は、まだ随分と軽い味だった。今は魔力も安定して、以前よりずっと深みが出ている。体調によっても少し変わるから、無理をさせないように気をつけているんだ」
グレイは何も言えなかった。
夜の王はミナを見てきた。
幼い頃から。
成長していく姿を。
体調を。
魔力を。
そして、血の味を。
「この先も変わるだろうね。大人になれば身体も落ち着くだろうし、年齢を重ねればまた違ってくる。それを見守れるのも、長く育てる楽しみの一つだよ」
穏やかな笑みだった。
純粋な愛情がある。
だからこそ、グレイの中で何かがはっきりと分かれた。
これは理解できない。
夜の王が嘘をついているからではない。
悪意があるからでもない。
むしろ逆だった。
本当に大切にしている。
本当に成長を喜んでいる。
その同じ感情の中に、血の味が変わっていくことへの喜びまで何の違和感もなく収まっている。
「……お前、本当にミナが好きなんだな」
「もちろんだよ。あの子は特に可愛い。素直で、好奇心も強い。少し怖がりなところがあるのに、興味を持ったことには意外と頑固だ。昨日は驚いたけれど、ああいう一面があることを知れたのは嬉しかったよ」
「それでも海には行かせない?」
「それは別の話だね」
迷いはない。
「好きだからこそ手元で大切に育てたい。危険な外へ自由に出す理由にはならないよ」
グレイは椅子の背へ身体を預けた。
もう一度、卓の小瓶を見る。
少し前までは、話せば何か分かると思っていた。
実際、分かったことは増えた。
けれど理解できたわけではない。
むしろ、違いが以前より鮮明になった。
「俺なら逆だな」
「何がだい?」
「大切な奴が何か見たいって言ったら、危ないからって止めることはある。でも最後まで行きたいって言うなら、どうすれば行けるかを考えると思う」
「君らしいね」
「そうなの?」
「昨日から話していて、そう感じるよ。君は守ることと、相手の選択を残すことを同時にしようとする」
夜の王は穏やかに笑った。
「私は違う。危険な場所へ行く必要がないなら、行かせない方がいいと考える。安全で満たされた暮らしがあるのに、わざわざ危険を選ばせる理由が分からない」
「見たいからだろ。ミナは海を見たいって言ってた」
「知っているよ」
「それだけじゃ足りない?」
「足りないね」
夜の王の答えは変わらなかった。
「海を見たいという願いより、あの子を安全に育てることの方が私には大切だ」
グレイはそれ以上、同じ問いを重ねなかった。
答えは出ている。
何度聞いても変わらない。
「分かった。たぶん俺とお前は、そこでは理解し合えない」
「残念かな?」
「少しはな。でも、分からないものを無理に同じにする必要もないだろ。お前が何を考えてるのかは、昨日より分かった」
「それなら、今日話した意味はあったね」
「そうだな。納得したわけじゃないけど、最初からお前を間違ってるって決めるのも違う気がする」
夜の王が興味深そうにグレイを見る。
「君は優しいんだね」
「そういう話じゃない。俺と違うってだけで全部否定したら、話をしに来た意味がないだろ」
「なるほど」
夜の王は嬉しそうに頷いた。
グレイは窓の外を見る。
午後の日差しが少し傾いている。
内門の屋根が並び、その間を人々が歩いていた。
あの暮らしが幸せではないとは言えない。
ミナだって、海の話をするまではここから出ることを深く考えていなかった。
家族もいる。
友達もいる。
食事に困ることもなく、病気になれば治療を受けられる。
夜の王に愛情もある。
それでも、昨日ミナが見せた顔を知ってしまった。
「一つ聞いていい?」
「もちろん」
「お前にとって、人間を飼うこと自体は変えられないの?」
夜の王は少し考えた。
「今のところ、変える理由がないね」
「龍の血があっても?」
「それは先ほど話した通りだよ。これがあれば吸血衝動を抑えられる。素晴らしいことだと思う。でも、私が彼らを育てる理由のすべてが吸血衝動ではない」
「好きだから?」
「そうだね」
夜の王は街を見る。
「私は人間が好きだよ。短い時間の中で成長し、家族を作り、次の世代へつないでいく。見ていて飽きない。だから大切に育てたい」
グレイはその横顔を見た。
言葉だけなら、優しい。
人間を愛している。
その部分は疑えない。
「やっぱり変だな、お前」
思わず漏れた。
夜の王が笑う。
「君に言われると、少し複雑だね」
「何でだよ。俺はそんなに変じゃないぞ」
「龍の血を持ち歩いて、初対面に近い吸血鬼へ飲ませる真祖は、十分変わっていると思うけれど」
「今日は話をするために持ってきたんだ。それに、全部やるとは言ってないぞ」
「それは残念だ」
夜の王の視線が、小瓶へ落ちた。
ほんの一瞬だった。
だが、グレイは気づいた。
「やっぱり欲しいの?」
「欲しくないと言えば嘘になるね」
夜の王は素直に認めた。
「これほどの血は二度と飲めないかもしれない。少量でも長く吸血衝動を抑えられるなら、その価値は味だけではないからね」
「人間の血が一番好きなんだろ?」
「好きなものと、珍しいものは別だよ」
先ほどの酒の話と同じだった。
「毎日飲みたい酒があっても、最高級の酒を手に入れる機会があれば欲しくなる。矛盾はしないだろう?」
「そこは分かる」
「それに、これほど強い血なら保存方法も試してみたい。時間が経った時に味がどう変わるのかも興味がある」
「本当に血が好きなんだな」
「好きだよ」
夜の王は笑った。
グレイは小瓶を手に取る。
残っている量を光へ透かす。
アルディエルから分けてもらった血。
貴重なものではある。
だが、グレイにとって絶対に手放せないものではない。
自分自身の吸血衝動を抑える手段なら、すでに他にもある。
「もう一口欲しい?」
「いいのかい?」
「聞いただけだぞ」
「君は意地が悪いね」
「お前がどれくらい欲しいのか知りたかったんだ」
夜の王は少し考え、今度は冗談を混ぜずに答えた。
「かなり欲しいよ。これほど明確に欲しいと思ったものは久しぶりだ」
グレイの指が瓶の表面をなぞる。
かなり欲しい。
その言葉が残った。
もし、これを渡す代わりに。
そこまで考えたところで、ミナの顔が浮かんだ。
昨日。
夜の王から家畜だと告げられた時の顔。
母親が知っていたと分かった時の顔。
そして、その前の日。
青い表紙の本を抱えながら、海の話を聞いていた顔。
――交換。
その言葉が頭をよぎった瞬間、グレイは眉を寄せた。
「どうしたんだい?」
「いや……ちょっと嫌なことを考えた」
「嫌なこと?」
「まだまとまってないから、今はいい」
夜の王は追及しなかった。
「そうか」
グレイは小瓶を収納へ戻した。
視界から龍の血が消える。
それでも、一度浮かんだ考えまでは消えなかった。
物と人間を交換する。
そう考えた瞬間、自分まで夜の王と同じ場所に立つような気がした。
ミナは物ではない。
誰かから受け取るものでもない。
本人の意思で歩いていく人間だ。
それなのに、夜の王がミナを自分の家畜だと考えている以上、あの男の価値観の中で自由にするには、何か別の形が必要になるのかもしれない。
「難しい顔をしているね」
「お前のせいだぞ。話せば少しは簡単になると思ったのに、前より面倒になった」
「私は随分と楽しかったけれど」
「俺もつまらなくはなかった。でも、お前の考えを聞いたら余計に分からなくなったところもある」
「それでも、また話しに来てくれるかな?」
グレイは少し考えた。
「来ると思う。理解できないままでも、お前が何を考えてるかは聞いておきたいからな」
「歓迎するよ」
夜の王はいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
その笑顔を見ても、もう昨日のような違和感はなかった。
何を考えているか分かったからだ。
だからといって、受け入れられたわけでもない。
夜の王は人間を愛している。
その愛情に嘘はない。
けれど、対等だとは思っていない。
グレイにとって、その二つを同じ場所へ置くことはできなかった。
「じゃあ、今日は帰る。龍の血はもう飲ませないから、そんな顔で見ても無駄だぞ」
「残念だね。少しくらい置いていってくれてもいいと思うけれど」
「嫌だ。欲しいなら、それなりのものを出してもらう」
口にしたあと、グレイは止まった。
夜の王も、わずかに目を細める。
「それなりのもの?」
「……今のは忘れてくれ。まだ何も決めてない」
「そう言われると気になるね」
「決めてから話す。その方が面倒がないだろ」
「分かったよ。楽しみにしておこう」
夜の王はそれ以上聞かなかった。
グレイは立ち上がる。
扉へ向かい、途中で一度だけ振り返った。
夜の王は卓の上に残った小さな器を見ていた。
龍の血はもう残っていない。
それでも名残を確かめるように、器を手に取っている。
本当に気に入ったらしい。
グレイはその姿を数秒見てから、今度こそ部屋を出た。
◇
館の外へ出ると、夕方の風が頬へ触れた。
昼間より少し冷たい。
グレイは一人で石畳を歩く。
すぐに宿へ戻る気にはならなかった。
気づけば昨日ミナと歩いた通りへ足が向いている。
菓子屋。
広場。
子供たちが遊んでいる路地。
そして遠くには、内門を囲う壁。
その向こうに海はない。
海までは、さらに遠い。
「交換、か……」
小さく口にしてから、グレイは足を止めた。
嫌な言葉だった。
龍の血とミナ。
並べて考えること自体が気に入らない。
けれど、夜の王にとってミナが家畜であるなら。
家畜を手放すという考え方なら。
そこに対価を置くことは、あの男の中では成立するかもしれない。
問題は、それを自分が口にしていいのかだった。
ミナを自由にするために、ミナを取引の対象として扱う。
それでは何かが違う。
グレイは再び歩き出した。
答えはまだ出さない。
まずミナと話す。
本人がどうしたいのかも知らずに、自分だけで決めるつもりはなかった。
昨日の自分が夜の王へ言ったことを、自分で破る気もない。
大切だからこそ、本人の選択を残したい。
その部分だけは、やはり譲れなかった。
夕暮れの街に、家々の明かりが灯り始める。
グレイはその中を歩きながら、収納の中にある小瓶へ意識を向けた。
夜の王が珍しく欲しがったもの。
数十年の吸血衝動を抑えられる、古龍の血。
そして夜の王が、それ以上に好きだと言ったもの。
この街で育った人間の血。
特に――ミナ。
同じ秤に載せること自体、グレイには気に入らない。
それでも。
あの男が見る秤の上なら、話を動かせるかもしれない。
グレイは足を止めず、夕暮れの道を宿へ向かった。




