第7話 家畜
午後の内門には、薄い雲を通した柔らかな陽が差していた。
夜の王の館へ続く道を、ミナはいつもより少しだけ速く歩いている。
隣にはグレイ。その後ろをライアン、ライカ、セバス、ロイが続いていた。
昨日までと同じ街だった。
通りでは店主が客と笑いながら話し、軒先では洗った布が風に揺れている。小さな子供が母親の手を引き、菓子を売る露店を指差していた。
グレイは、その横を通り過ぎるミナを見る。
今日は朝から落ち着かない。
何度か口を開きかけては閉じ、館が近づくほど歩調が速くなっている。
「そんなに急がなくても夜の王は逃げないだろ。昨日から決めてたんだから、着いてからゆっくり話せばいい」
「分かってるんですけど……ちょっと緊張してるんです」
「怒られるようなことを頼むわけじゃないだろ。海を見たいって言うだけなんだから、そのまま話せばいいと思うぞ」
「はい」
ミナは頷いた。
それでも、しばらくすると胸元で両手を組む。
「一人だったら、たぶんもう少し先にしてたと思います。でも皆さんがいるうちなら、海のことも説明してもらえるし……今が一番お願いしやすいかなって」
「それで私たちも一緒に来たんですから、途中で怖くなっても気にしなくていいですよ。ミナが自分で話せるところまで話してください」
ライカの声に、ミナの肩から少し力が抜けた。
「ありがとうございます」
「それに、断られたとしても理由を聞けばいいっスよ。何か準備が必要とか、時期が悪いとかなら、それが分かってから考えればいいんスから」
「そうですね」
ミナは今度こそ笑った。
グレイも同じように考えていた。
内門の人間が外門へ行くこと自体はある。
ならば完全に外出が禁じられているわけではない。
海までとなれば距離もある。安全の問題や、仕事の都合もあるだろう。
そのあたりで条件を出される可能性はあると思っていた。
ミナもそれを考えていたのか、昨日の夜に母親へ相談したらしい。
海へ行ってみたい。
一度だけでいい。
母親は驚いたものの、最後には「夜の王様へ自分で聞いてみなさい」と言ったという。
だから今日、ミナはここにいる。
「海までどれくらいかかるんでしょうね」
「この辺りの道を俺は詳しく知らないから、そこは夜の王に聞いた方がいいな。近くまで空間で移動することもできるけど、最初からそれを当てにしない方がいいだろ」
「グレイさんの魔法で行けるんですか?」
「行ったことがある場所ならな。でもミナが普通に旅してみたいなら、途中まで歩くのも悪くないと思うぞ」
その言葉に、ミナの目が明るくなる。
「旅もしてみたいです」
「なら、そのことも言えばいい」
「はい」
館の門が見えてくる。
ミナは一度だけ深く息を吸った。
グレイはそれ以上何も言わなかった。
頼みたいことは決まっている。
あとは、ミナ自身が口にすればいい。
◇
夜の王がいたのは、館の奥にある広い居間だった。
高い窓から午後の光が入り、磨かれた床へ長い形を作っている。壁際には本棚が並び、中央には低い卓と椅子が置かれていた。
夜の王は窓辺で本を読んでいた。
グレイたちが入ってくると、栞を挟んで本を閉じる。
「随分と大勢で来たね。今日は何か面白い話でもあるのかな?」
声は穏やかだった。
昨日、採血について話した時と変わらない。
「俺じゃなくてミナに用があるみたいだぞ。俺たちは一緒に来ただけだから、まずこいつの話を聞いてやってくれ」
「ミナが?」
夜の王の視線がミナへ向く。
それだけで、表情が少し柔らかくなった。
「珍しいね。君がわざわざ私のところへお願いに来るなんて。どうしたんだい?」
「えっと……」
ミナがグレイを見る。
グレイは頷くだけに留めた。
ミナは胸の前で指を組み、一度息を整える。
「お願いがあるんです」
「もちろん。私にできることなら聞こう」
「海を……見に行きたいんです」
夜の王が瞬きをした。
怒る様子はない。
むしろ意外なものを聞いたように、わずかに眉を上げた。
「海か」
「はい」
「急にどうしたんだい?」
「前から本では読んでたんです。でも、昨日グレイさんたちに実際の海の話を聞いて……もっと見てみたくなりました」
「なるほど」
夜の王は納得したように頷いた。
「本で読むのと、実際に見るのとでは違うだろうね。海はとても広い。初めて見るなら、驚くと思うよ」
ミナの表情が明るくなる。
「夜の王様も見たことがあるんですか?」
「もちろん。昔は海沿いの街へ行くこともあったからね。穏やかな日は綺麗だよ。特に朝はいい。水平線から光が広がって、水面の色が少しずつ変わっていく」
「朝……」
「港も面白い。早い時間から船が入り、魚や荷物が次々と下ろされる。君なら、海だけでなくそちらも楽しめるんじゃないかな」
「私も港を見たいと思ってたんです!」
ミナが一歩前へ出る。
夜の王は楽しそうに笑った。
「それなら早起きしないといけないね。港は昼からでも見られるけれど、朝の方が活気がある。魚を見るなら、なおさらだ」
「大丈夫です。早起きできます」
「君は朝が苦手だったと思うけれど?」
「海に行く日なら起きます」
「そうか。それは楽しみだね」
二人の会話を聞きながら、グレイは椅子へ身体を預けた。
どうやら心配する必要はなかったらしい。
夜の王は海の話を知っている。
ミナが興味を持ったことも嬉しそうに聞いている。
隣ではライアンも口元を緩めていた。
「話早そうっスね」
小さな声だった。
ライカも何も言わない。
ミナはすっかり緊張が解けたらしく、続けて尋ねた。
「この街からだと、海までどのくらいかかりますか?」
「そうだね。普通に街道を使うなら、かなりかかるよ。途中で何度か宿を取る必要もある」
「そんなに遠いんですね」
「海は逃げないさ。急ぐ必要はないよ」
「はい。でも、グレイさんたちと一緒なら大丈夫だと思います」
そこで夜の王が少しだけ首を傾げた。
ミナは気づかずに続ける。
「皆さん、これからも旅をするんですよね?」
「ああ。この街にずっといるつもりはないから、そのうち出るぞ」
グレイが答える。
「だから、その時に途中まで一緒に行けたらって思ったんです。海までずっとじゃなくても、近くまで連れていってもらえたら、私も安心だし」
「俺たちは別に構わないぞ。行く方向が多少変わるくらいなら、それも旅のうちだからな」
「本当ですか?」
「ミナが行けるならな。そこは先に夜の王へ聞く話だろ」
「はい」
ミナは再び夜の王を見る。
さっきまでよりずっと自然な笑顔だった。
「一度だけでいいんです。海を見て、港を歩いて、それから帰ってきます。絶対に帰ってきますから」
夜の王は黙ってミナを見た。
笑みは消えていない。
怒ってもいない。
ただ、何かを考えているようだった。
やがて、穏やかな声で答えた。
「それはできないよ」
ミナの笑顔が止まった。
「……え?」
「海へ行くことは認められない」
声色は変わっていない。
だからこそ、ミナはすぐに意味を受け取れなかったようだった。
「どうしてですか?」
「外へ出すことはできないからだよ」
「でも……外門に行く人はいますよね?」
「いるよ。必要な仕事がある者には外門へ出てもらうこともある」
「だったら、私も――」
「それとは違う」
夜の王は優しく遮った。
「外門へ出る者は、必要があって出しているんだ。行く場所も、戻る時間も決まっている。海まで旅に出るのとは違うよ」
ミナの指が胸元で絡む。
グレイは黙って二人を見る。
ここまでは、まだ理解できた。
外門への仕事と、長い旅を同じものとして扱えないという話なら分かる。
「それなら、ちゃんと決めます」
ミナが言った。
「行く場所も、帰ってくる日も。勝手にどこかへ行ったりしません。グレイさんたちと一緒なら危なくないと思うし、迷惑もかけません」
「君が迷惑をかけるとは思っていないよ」
「じゃあ……」
「それでも駄目なんだ」
夜の王は静かに首を振った。
ミナの表情から、少しずつ笑みが消えていく。
「何でですか?」
「何で、と言われてもね」
夜の王は困ったように笑った。
それは、子供から思いがけない質問をされた大人のような顔だった。
「海が危ないからですか?」
「危険はあるね。海だけじゃない。街道にも魔物は出るし、悪意のある人間もいる」
「でも、皆さんが一緒です」
ミナはグレイたちを見る。
「グレイさんたちは強いです。セバスさんも、ライアンさんも、ライカさんも、ロイさんも。私一人で行くわけじゃありません」
「そうだね。彼らと一緒なら、そこらの護衛を何十人つけるより安全だろう」
「だったら!」
ミナの声が少しだけ大きくなる。
夜の王はそれを咎めなかった。
むしろ落ち着かせるように、ゆっくりと言葉を続ける。
「安全かどうかが問題ではないんだよ」
「じゃあ、何が駄目なんですか?」
「ミナ」
「私、ちゃんと帰ってきます」
夜の王が言葉を挟む前に、ミナが続けた。
「海を見たいだけなんです。ずっと外で暮らしたいなんて言ってません。母さんもエナもいるし、ここが嫌いなわけでもありません」
「分かっているよ」
「だったら、一回だけ行かせてください」
これまでグレイが見てきたミナとは違った。
普段なら、少し困った顔をして引いていたかもしれない。
けれど今日は引かない。
昨日、何度も読んだ本を抱えながら海の話を聞いていた顔を思い出す。
朝の港。
船。
魚。
夜の海。
あの時、ミナの中で初めて本の外側に形を持ったものがある。
だから、諦められないのだろう。
「お願いします」
ミナは頭を下げた。
「一度だけでいいんです。ちゃんと帰ってきます。約束します」
室内が静かになる。
窓の外から、庭で鳴く鳥の声が聞こえた。
夜の王はしばらくミナを見つめていた。
その目は優しい。
困らせられて苛立っているわけでもない。
むしろ、どう説明すればミナが納得するのか、本気で考えているように見えた。
「ミナ」
「はい」
「君が海を見たい気持ちは分かったよ。そこまで興味を持てるものが見つかったことも、私は嬉しく思っている」
ミナが顔を上げる。
「だったら――」
「けれど、外へは出せない」
同じ答えだった。
ミナの唇がわずかに震えた。
「……どうして?」
今度の声は小さかった。
夜の王は首を傾げる。
本当に、その問いの意味が分からないようだった。
「どうしてと言われても、君は内門で暮らす子だからね」
「それだけじゃ、分かりません」
ミナが初めて夜の王の言葉をはっきり否定した。
「私はここで暮らしてます。でも、ずっとここから出ちゃいけないなんて聞いたことありません」
「わざわざ言う必要がなかったからね」
「どうして必要がないんですか?」
「ミナ」
「私、もう子供じゃありません」
声が強くなる。
ライカがわずかに身体を動かしたが、口は挟まなかった。
ミナ自身が話している。
今は止める場面ではない。
「自分で行きたい場所を決めるくらいできます。危ないなら準備します。帰る日を決めろって言われたら決めます。それでも駄目なら、ちゃんと理由を教えてください」
夜の王は黙った。
ミナは一歩も引かない。
「私が帰らないと思ってるんですか?」
「そういうことではないよ」
「じゃあ、信じてもらえないんですか?」
「君を疑っているわけでもない」
「なら、どうして?」
夜の王の目に、ほんのわずかな困惑が浮かんだ。
ミナが何を理解できていないのか。
それ自体が分からない。
グレイには、そんなふうに見えた。
夜の王は椅子の背へ身体を預け、少し考える。
やがて、本当に分かりやすく説明するような口調で言った。
「大切に育てた家畜を自由に放して、帰ってくることを期待する飼い主はいないだろう?」
音が消えた。
少なくとも、グレイにはそう感じられた。
窓から入っていた風も。
庭の鳥も。
誰かの呼吸さえ、一瞬だけ遠くなった。
ミナは動かなかった。
目を開いたまま、夜の王を見ている。
言葉の意味が分からないのではない。
理解したからこそ、何も返せないように見えた。
グレイの隣で、椅子が小さく軋んだ。
ライアンの指が背もたれを掴んでいる。
さっきまで浮かんでいた笑みは消えていた。
ライカはミナを見ている。
表情はほとんど変わっていないが、閉じた鉄扇を持つ指に力が入っていた。
セバスは動かない。
ただ、夜の王へ向けられた視線だけが鋭くなっている。
ロイは目を細めていた。
誰も口を開かない。
夜の王だけが、変わらない。
「……家畜?」
ようやく、ミナの口から声が漏れた。
「そうだよ」
夜の王は優しく答えた。
「君たちは私にとって、とても大切な存在だ。だからこそ、危険な場所へ自由に出すようなことはしない」
グレイの中で、昨日聞いた言葉がつながった。
育てている。
守っている。
健康を管理する。
病気になれば治療する。
血を取れなくなった老人も見捨てない。
子供からは取らない。
妊婦からも取らない。
無理な結婚もさせない。
大切だから。
そのすべてに嘘はなかった。
ただ、その大切という言葉が、グレイの考えていた場所に置かれていなかった。
グレイは夜の王を見た。
「……お前、こいつらを何だと思ってる?」
自分でも、声が低くなったのが分かった。
夜の王がこちらを見る。
怒気に反応した様子はない。
むしろ質問そのものを測るように、少しだけ首を傾げた。
「何だと思っている、とは?」
「そのままの意味だ。ミナも、この街で暮らしてる他の人間も、お前にとって何なんだって聞いてる」
「先ほど答えたつもりだけれど」
夜の王は少し考えた。
そして、グレイが何を確認したいのか理解できないまま、それでも答えを探したように口を開く。
「私の家畜だが?」
何も変わらなかった。
声も。
表情も。
ミナを見る目も。
夜の王は笑っていた。
いつもと同じ、穏やかな笑みだった。
「……人間だぞ」
「もちろん知っているよ」
夜の王はすぐに答えた。
「人間であることと、私の家畜であることは別に矛盾しないだろう?」
グレイは言葉を失った。
夜の王は本気だった。
侮辱するために言っているのではない。
ミナを傷つけようともしていない。
相手を下に置いて、自分の優位を見せつけたいわけでもない。
ただ事実を説明している。
「お姫ちゃん」
ライカの声がした。
グレイは視線だけを向ける。
ライカは夜の王ではなく、ミナを見ていた。
それで、グレイも気づいた。
今、問い詰めるべきなのは自分ではない。
ミナがいる。
「ミナ」
夜の王が呼ぶ。
少女の肩がわずかに揺れた。
「怖がらなくていい。君に何かをするつもりはないよ。海へ行かせられないというだけで、今までの生活が変わるわけではない」
「……家畜って」
ミナは夜の王を見ない。
床へ視線を落としたまま、ゆっくり口を動かす。
「私も、ですか?」
「もちろん」
迷いのない答えだった。
ミナの指先が震えた。
「母さんも?」
「そうだよ」
「エナも?」
「ああ。彼女も大切な子だ」
「みんな?」
「内門で私が育てている人間たちは、皆そうだよ」
夜の王はそこで微笑んだ。
「君たちは、私にとって大切な人間たちだからね」
昨日なら、その言葉は別の意味に聞こえただろう。
今は違う。
大切な人間。
大切な家畜。
夜の王の中では、最初から同じ場所にあった。
ミナがゆっくり顔を上げる。
「じゃあ……私がここを出たいって言ったら?」
「海の話ではなく?」
「はい」
「外で暮らしたいという意味かな?」
ミナはしばらく黙った。
「……そうです」
夜の王は少し困ったように笑った。
「それも認められないよ」
「どうして?」
「同じ理由だ。君はここで暮らすために育てられている。外へ出て暮らすことを前提にはしていない」
「私が決めても?」
「それは君が決めることではないんだ」
ミナの呼吸が止まった。
グレイの中でも、何かが静かに引っかかった。
「待て。それはどういう意味だ?」
「難しい話ではないよ、グレイ」
夜の王は穏やかに答える。
「私は彼らが健康に暮らせる場所を用意し、食事を与え、病を治し、危険から守っている。彼らが安心して世代を重ねられるようにもしている。その代わり、必要な範囲で血を分けてもらう。それがこの街の形だ」
「それは聞いた。でも今は、ミナが自分で外へ行きたいって言った時の話をしてる」
「だから、それを許可することはできないと言っている」
「本人が望んでも?」
「本人が望んでもだよ」
夜の王の声には、苛立ちがなかった。
グレイは逆に、そのことが気になった。
話せば話すほど分かってくる。
これは誤解ではない。
夜の王はミナを大切にしている。
大切だから守る。
大切だから病気にさせない。
大切だから飢えさせない。
大切だから、勝手に出ていくことも認めない。
全部が一つにつながっている。
「俺には分からないな。大切だって言うなら、こいつが自分で決めたことくらい聞いてやればいいだろ」
「聞いているよ」
「聞くのと、最初から選べないようにするのは違うだろ」
「そうかな?」
夜の王が不思議そうに首を傾げる。
「私はミナの希望を聞いた。海を見たい理由も理解した。それでも許可できないと判断した。それだけだよ」
「それを決めるのがお前なのか?」
「そうだよ」
即答だった。
グレイの眉がわずかに寄る。
夜の王はそれに気づいても、表情を変えなかった。
「君も、自分の大切なものを守るだろう?」
「守る。でも、俺が大切にしてる奴らは俺の持ち物じゃない。そいつが何をするかまで、俺が全部決めるつもりはないぞ」
「なるほど」
夜の王は素直に頷いた。
「君はそう考えるんだね」
反論ではなかった。
否定もしない。
ただ、自分とは違う考えとして受け取っただけだった。
その反応に、グレイは続く言葉を止めた。
怒鳴れば伝わる相手ではない。
そもそも夜の王は、自分が何か酷いことを言っているという認識すらない。
「主」
ロイの声が低く入る。
グレイが振り返ると、ロイはミナへ目を向けていた。
「今はそっちだ」
「ああ」
グレイは息を吐いた。
また同じことをしていた。
ライカに止められ、今度はロイにも戻された。
ミナはまだ立ったままだ。
「ミナ。座った方がいいんじゃないか? 無理に立って話す必要はないぞ」
「……大丈夫です」
答えは返ってきた。
けれど声は弱い。
夜の王が心配そうにミナを見る。
「顔色が悪いね。少し休んだ方がいい」
その言葉にも嘘はない。
ミナの体調を、本気で心配している。
「水を持ってこさせようか?」
「いりません」
初めてだった。
ミナが夜の王の言葉を、ほとんど間を置かず拒んだ。
夜の王は驚いたように瞬きをする。
それでも怒らない。
「そうか。必要になったら言いなさい」
優しい。
どこまでも優しい。
ミナは唇を噛んだ。
「夜の王様」
「何だい?」
「私のこと……好きですか?」
夜の王の表情が柔らかくなる。
「もちろんだよ」
迷いはなかった。
「君が小さい頃から知っている。熱を出した時も、初めて採血を受けた時も覚えているよ。最近は随分と大人びたと思っていたけれど、こうして見るとまだ子供らしいところもあるね」
ミナの目が揺れた。
「じゃあ、母さんのことも?」
「大切に思っているよ。君の母親が幼い頃から知っているからね」
「エナも?」
「もちろん。君と一緒に走り回って、よく服を汚していた子だろう?」
ミナが何も言えなくなる。
夜の王は覚えている。
誰が誰なのか。
どんな子供だったのか。
病気をしたことも、成長したことも。
家畜という言葉で一括りにしているだけではない。
一人一人を見ている。
その事実が、かえってミナから言葉を奪っているようだった。
「だったら……」
やがて、掠れた声が落ちた。
「どうして、家畜なんですか?」
夜の王が少し考える。
「どうして、と言われると難しいね」
「私たち、人間ですよ」
「そうだね」
「名前もあります」
「知っているよ」
「家族も、友達もいます」
「もちろん」
「自分で考えられます」
「ああ」
すべて認める。
それでも夜の王の答えは変わらない。
「その上で、君たちは私が育てている人間だ。私は君たちを守り、君たちは私へ血を与える。それを家畜と呼ぶことに、私は何もおかしいとは思わないよ」
ミナの顔から、完全に表情が消えた。
ライアンが目を伏せる。
ライカはもう鉄扇を握っていなかった。両手を身体の前で重ね、ただミナを見ている。
セバスも口を挟まない。
誰かが代わりに怒ってしまえば、ミナが今受け止めようとしているものを奪う。
グレイにも、それくらいは分かった。
「……帰ります」
ミナが言った。
夜の王が頷く。
「そうした方がいい。今日は疲れただろう」
「はい」
「母親には私からも――」
「言わなくて大丈夫です」
ミナは小さく頭を下げた。
「自分で話します」
夜の王は少しだけ目を細めた。
「分かった。ゆっくり休みなさい」
その声は、最後まで優しかった。
◇
館を出ても、ミナはほとんど喋らなかった。
来た時と同じ道を歩く。
けれど足取りは遅い。
グレイたちも急かさなかった。
内門の街は変わらず動いている。
子供たちが遊び、店先では夕食の材料が売られている。洗濯物が風に揺れ、家々の窓から生活の音が漏れてくる。
昨日と同じだ。
何も変わっていない。
変わったのは、ミナがその街を見る目だけだった。
通りの先から、見覚えのある少女が走ってきた。
「ミナ!」
エナだった。
こちらに気づくと、嬉しそうに手を上げる。
「どうだった? 海、行っていいって?」
ミナが止まった。
「……駄目だった」
「え?」
「行っちゃ駄目だって」
エナの笑顔が消える。
「どうして?」
ミナは答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
「ミナ?」
「ごめん。今日は帰る」
「ちょっと待って。何かあった?」
「……明日、話す」
ミナはそれだけ言って歩き出した。
エナは追おうとして、一歩だけ動く。
けれどミナの背中を見て止まった。
グレイも何を言えばいいか分からなかった。
だから、そのままミナの隣を歩いた。
しばらくして、ミナが小さく口を開く。
「グレイさん」
「何だ?」
「私、知らなかったです」
グレイは答えを急がなかった。
「海に行けないこと?」
「それもですけど……」
ミナは首を振る。
「夜の王様が、私たちのことをそう思ってたってこと」
足元の石畳を見ながら歩く。
「ずっと優しかったんです」
「今もたぶん、優しくしてるつもりだぞ。あいつは途中から急に態度を変えたわけじゃないからな」
「……はい」
「だから、余計に分からないんだと思う」
ミナがグレイを見る。
グレイは少し考えてから続けた。
「俺もまだ分からない。あいつはお前を嫌ってないし、傷つけたいわけでもない。本当に大切にしてる。でも俺が言う大切と、あいつの大切は同じじゃなかった」
ミナは何も返さなかった。
それでいい。
今すぐ何かを決める必要はない。
「私、夜の王様のこと嫌いになった方がいいんでしょうか」
その問いに、グレイは足を止めた。
ミナも止まる。
「それは俺が決めることじゃないぞ。今日聞いたことが嫌だったなら嫌だと思っていいし、それでも今まで優しくしてもらったことまで消したくないなら、消さなくていい」
「両方でも、いいんですか?」
「いいだろ。今まで大切にされたことと、今日言われたことはどっちも本当なんだから、無理に片方だけにしなくてもいいと思う」
ミナはしばらくグレイを見ていた。
やがて視線を落とす。
「……分かりません」
「今はそれでいい。俺だって全部分かったわけじゃないから、一日で決めなくてもいいだろ」
ミナは小さく頷いた。
再び歩き始める。
その後ろを、ライアンたちが少し距離を空けてついてくる。
誰も余計なことを言わなかった。
ミナの家が見えてきた。
玄関の前には母親が立っている。
帰りが遅いことを心配していたのか、ミナを見つけるとすぐに表情を緩めた。
「おかえり。どうだった?」
昨日と同じ声。
ミナは立ち止まる。
「母さん」
「何?」
「母さんは……知ってた?」
母親の表情が止まった。
グレイは、その変化を見逃さなかった。
ミナも見た。
「……何を?」
「私たちが、夜の王様の家畜だってこと」
母親の顔から血の気が引いた。
否定は返ってこなかった。
ミナの目がわずかに見開かれる。
「知ってたんだ」
「ミナ、それは――」
「今日はいい」
ミナは母親の横を通り過ぎる。
「ごめん。ちょっと一人になりたい」
「ミナ」
呼び止める声にも振り返らず、家の中へ入っていった。
扉が閉まる。
母親はその場に立ち尽くしていた。
グレイは何も聞かなかった。
今ここで問い詰めても、ミナのためにはならない。
「今日は帰る。また来るから、ミナが話したくなったらその時に聞く」
母親はしばらく黙っていたが、やがて小さく頭を下げた。
「……お願いします」
グレイたちは家を離れた。
◇
宿へ戻る道で、最初に口を開いたのはライアンだった。
「姫さん」
「分かってる。俺も同じこと考えてると思うぞ。でも今は、あいつのところへ戻って何かするつもりはない」
「……了解っス」
ライアンはそれ以上言わなかった。
ライカが隣を歩きながら、静かに息を吐く。
「腹が立たないと言えば嘘になります。でも、あの方は最初から何も隠していなかったんですね」
「ああ。採血の話をした時も、育ててるって普通に言ってた。俺たちが勝手に、人間として大切にしてるんだと思ってただけだな」
「人間として大切にしていないわけでもないでしょう」
ロイが言った。
グレイがそちらを見る。
「どういう意味?」
「言葉通りだ。あいつはミナを人間だと認識してる。その上で家畜だとも思ってる。どっちか片方じゃない」
グレイは少し黙った。
「……そうだな。だから面倒なんだ」
「ええ」
セバスが静かに頷く。
「単純に虐げているのであれば、話はもっと容易だったでしょう。しかし、あの方が彼らを慈しんでいることも事実に見えます」
「俺は、あいつが嘘をついてるとは思わないぞ。ミナが体調悪そうにしてた時、本気で心配してた」
「それでも自由にはしない」
ロイが短く続ける。
「そこだけは最初から線を引いてるんだろうな」
グレイは歩きながら、内門の街を見た。
灯りが一つずつ増えていく。
家へ帰る者。
食事を作る者。
笑っている子供。
昨日までと何も変わらない。
「俺には、やっぱり分からないな。大切だから守るところまでは分かる。でも大切だから自分で決めさせないってなると、俺が知ってるものとは違う」
「お姫ちゃんが今すぐ理解する必要はありませんよ」
ライカが言った。
「ただ、ミナは今日初めて知りました。私たちより、あの子の方がずっと混乱しているはずです」
「分かってる。明日はミナのところに行く。夜の王と話すのは、そのあとでいい」
グレイはそう決めた。
誰も反対しなかった。
夜の王は変わっていない。
ミナへの愛情も、あの街への考えも。
変わったのは、それを知った側だった。
宿へ戻る直前、グレイは一度だけ振り返る。
内門の奥には、夜の王の館が見えた。
昨日までと同じ場所に建っている。
その窓には穏やかな灯りがともっていた。
あの男はきっと今も、自分が大切にしている人間たちのことを考えている。
家畜として。
その二つが同時に成り立つことを、何一つ疑わないまま。




