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白銀の旅路  作者: 人形遣い
第五章  愛の在り方

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第7話 家畜

午後の内門には、薄い雲を通した柔らかな陽が差していた。


 夜の王の館へ続く道を、ミナはいつもより少しだけ速く歩いている。


 隣にはグレイ。その後ろをライアン、ライカ、セバス、ロイが続いていた。


 昨日までと同じ街だった。


 通りでは店主が客と笑いながら話し、軒先では洗った布が風に揺れている。小さな子供が母親の手を引き、菓子を売る露店を指差していた。


 グレイは、その横を通り過ぎるミナを見る。


 今日は朝から落ち着かない。


 何度か口を開きかけては閉じ、館が近づくほど歩調が速くなっている。


「そんなに急がなくても夜の王は逃げないだろ。昨日から決めてたんだから、着いてからゆっくり話せばいい」


「分かってるんですけど……ちょっと緊張してるんです」


「怒られるようなことを頼むわけじゃないだろ。海を見たいって言うだけなんだから、そのまま話せばいいと思うぞ」


「はい」


 ミナは頷いた。


 それでも、しばらくすると胸元で両手を組む。


「一人だったら、たぶんもう少し先にしてたと思います。でも皆さんがいるうちなら、海のことも説明してもらえるし……今が一番お願いしやすいかなって」


「それで私たちも一緒に来たんですから、途中で怖くなっても気にしなくていいですよ。ミナが自分で話せるところまで話してください」


 ライカの声に、ミナの肩から少し力が抜けた。


「ありがとうございます」


「それに、断られたとしても理由を聞けばいいっスよ。何か準備が必要とか、時期が悪いとかなら、それが分かってから考えればいいんスから」


「そうですね」


 ミナは今度こそ笑った。


 グレイも同じように考えていた。


 内門の人間が外門へ行くこと自体はある。


 ならば完全に外出が禁じられているわけではない。


 海までとなれば距離もある。安全の問題や、仕事の都合もあるだろう。


 そのあたりで条件を出される可能性はあると思っていた。


 ミナもそれを考えていたのか、昨日の夜に母親へ相談したらしい。


 海へ行ってみたい。


 一度だけでいい。


 母親は驚いたものの、最後には「夜の王様へ自分で聞いてみなさい」と言ったという。


 だから今日、ミナはここにいる。


「海までどれくらいかかるんでしょうね」


「この辺りの道を俺は詳しく知らないから、そこは夜の王に聞いた方がいいな。近くまで空間で移動することもできるけど、最初からそれを当てにしない方がいいだろ」


「グレイさんの魔法で行けるんですか?」


「行ったことがある場所ならな。でもミナが普通に旅してみたいなら、途中まで歩くのも悪くないと思うぞ」


 その言葉に、ミナの目が明るくなる。


「旅もしてみたいです」


「なら、そのことも言えばいい」


「はい」


 館の門が見えてくる。


 ミナは一度だけ深く息を吸った。


 グレイはそれ以上何も言わなかった。


 頼みたいことは決まっている。


 あとは、ミナ自身が口にすればいい。


          ◇


 夜の王がいたのは、館の奥にある広い居間だった。


 高い窓から午後の光が入り、磨かれた床へ長い形を作っている。壁際には本棚が並び、中央には低い卓と椅子が置かれていた。


 夜の王は窓辺で本を読んでいた。


 グレイたちが入ってくると、栞を挟んで本を閉じる。


「随分と大勢で来たね。今日は何か面白い話でもあるのかな?」


 声は穏やかだった。


 昨日、採血について話した時と変わらない。


「俺じゃなくてミナに用があるみたいだぞ。俺たちは一緒に来ただけだから、まずこいつの話を聞いてやってくれ」


「ミナが?」


 夜の王の視線がミナへ向く。


 それだけで、表情が少し柔らかくなった。


「珍しいね。君がわざわざ私のところへお願いに来るなんて。どうしたんだい?」


「えっと……」


 ミナがグレイを見る。


 グレイは頷くだけに留めた。


 ミナは胸の前で指を組み、一度息を整える。


「お願いがあるんです」


「もちろん。私にできることなら聞こう」


「海を……見に行きたいんです」


 夜の王が瞬きをした。


 怒る様子はない。


 むしろ意外なものを聞いたように、わずかに眉を上げた。


「海か」


「はい」


「急にどうしたんだい?」


「前から本では読んでたんです。でも、昨日グレイさんたちに実際の海の話を聞いて……もっと見てみたくなりました」


「なるほど」


 夜の王は納得したように頷いた。


「本で読むのと、実際に見るのとでは違うだろうね。海はとても広い。初めて見るなら、驚くと思うよ」


 ミナの表情が明るくなる。


「夜の王様も見たことがあるんですか?」


「もちろん。昔は海沿いの街へ行くこともあったからね。穏やかな日は綺麗だよ。特に朝はいい。水平線から光が広がって、水面の色が少しずつ変わっていく」


「朝……」


「港も面白い。早い時間から船が入り、魚や荷物が次々と下ろされる。君なら、海だけでなくそちらも楽しめるんじゃないかな」


「私も港を見たいと思ってたんです!」


 ミナが一歩前へ出る。


 夜の王は楽しそうに笑った。


「それなら早起きしないといけないね。港は昼からでも見られるけれど、朝の方が活気がある。魚を見るなら、なおさらだ」


「大丈夫です。早起きできます」


「君は朝が苦手だったと思うけれど?」


「海に行く日なら起きます」


「そうか。それは楽しみだね」


 二人の会話を聞きながら、グレイは椅子へ身体を預けた。


 どうやら心配する必要はなかったらしい。


 夜の王は海の話を知っている。


 ミナが興味を持ったことも嬉しそうに聞いている。


 隣ではライアンも口元を緩めていた。


「話早そうっスね」


 小さな声だった。


 ライカも何も言わない。


 ミナはすっかり緊張が解けたらしく、続けて尋ねた。


「この街からだと、海までどのくらいかかりますか?」


「そうだね。普通に街道を使うなら、かなりかかるよ。途中で何度か宿を取る必要もある」


「そんなに遠いんですね」


「海は逃げないさ。急ぐ必要はないよ」


「はい。でも、グレイさんたちと一緒なら大丈夫だと思います」


 そこで夜の王が少しだけ首を傾げた。


 ミナは気づかずに続ける。


「皆さん、これからも旅をするんですよね?」


「ああ。この街にずっといるつもりはないから、そのうち出るぞ」


 グレイが答える。


「だから、その時に途中まで一緒に行けたらって思ったんです。海までずっとじゃなくても、近くまで連れていってもらえたら、私も安心だし」


「俺たちは別に構わないぞ。行く方向が多少変わるくらいなら、それも旅のうちだからな」


「本当ですか?」


「ミナが行けるならな。そこは先に夜の王へ聞く話だろ」


「はい」


 ミナは再び夜の王を見る。


 さっきまでよりずっと自然な笑顔だった。


「一度だけでいいんです。海を見て、港を歩いて、それから帰ってきます。絶対に帰ってきますから」


 夜の王は黙ってミナを見た。


 笑みは消えていない。


 怒ってもいない。


 ただ、何かを考えているようだった。


 やがて、穏やかな声で答えた。


「それはできないよ」


 ミナの笑顔が止まった。


「……え?」


「海へ行くことは認められない」


 声色は変わっていない。


 だからこそ、ミナはすぐに意味を受け取れなかったようだった。


「どうしてですか?」


「外へ出すことはできないからだよ」


「でも……外門に行く人はいますよね?」


「いるよ。必要な仕事がある者には外門へ出てもらうこともある」


「だったら、私も――」


「それとは違う」


 夜の王は優しく遮った。


「外門へ出る者は、必要があって出しているんだ。行く場所も、戻る時間も決まっている。海まで旅に出るのとは違うよ」


 ミナの指が胸元で絡む。


 グレイは黙って二人を見る。


 ここまでは、まだ理解できた。


 外門への仕事と、長い旅を同じものとして扱えないという話なら分かる。


「それなら、ちゃんと決めます」


 ミナが言った。


「行く場所も、帰ってくる日も。勝手にどこかへ行ったりしません。グレイさんたちと一緒なら危なくないと思うし、迷惑もかけません」


「君が迷惑をかけるとは思っていないよ」


「じゃあ……」


「それでも駄目なんだ」


 夜の王は静かに首を振った。


 ミナの表情から、少しずつ笑みが消えていく。


「何でですか?」


「何で、と言われてもね」


 夜の王は困ったように笑った。


 それは、子供から思いがけない質問をされた大人のような顔だった。


「海が危ないからですか?」


「危険はあるね。海だけじゃない。街道にも魔物は出るし、悪意のある人間もいる」


「でも、皆さんが一緒です」


 ミナはグレイたちを見る。


「グレイさんたちは強いです。セバスさんも、ライアンさんも、ライカさんも、ロイさんも。私一人で行くわけじゃありません」


「そうだね。彼らと一緒なら、そこらの護衛を何十人つけるより安全だろう」


「だったら!」


 ミナの声が少しだけ大きくなる。


 夜の王はそれを咎めなかった。


 むしろ落ち着かせるように、ゆっくりと言葉を続ける。


「安全かどうかが問題ではないんだよ」


「じゃあ、何が駄目なんですか?」


「ミナ」


「私、ちゃんと帰ってきます」


 夜の王が言葉を挟む前に、ミナが続けた。


「海を見たいだけなんです。ずっと外で暮らしたいなんて言ってません。母さんもエナもいるし、ここが嫌いなわけでもありません」


「分かっているよ」


「だったら、一回だけ行かせてください」


 これまでグレイが見てきたミナとは違った。


 普段なら、少し困った顔をして引いていたかもしれない。


 けれど今日は引かない。


 昨日、何度も読んだ本を抱えながら海の話を聞いていた顔を思い出す。


 朝の港。


 船。


 魚。


 夜の海。


 あの時、ミナの中で初めて本の外側に形を持ったものがある。


 だから、諦められないのだろう。


「お願いします」


 ミナは頭を下げた。


「一度だけでいいんです。ちゃんと帰ってきます。約束します」


 室内が静かになる。


 窓の外から、庭で鳴く鳥の声が聞こえた。


 夜の王はしばらくミナを見つめていた。


 その目は優しい。


 困らせられて苛立っているわけでもない。


 むしろ、どう説明すればミナが納得するのか、本気で考えているように見えた。


「ミナ」


「はい」


「君が海を見たい気持ちは分かったよ。そこまで興味を持てるものが見つかったことも、私は嬉しく思っている」


 ミナが顔を上げる。


「だったら――」


「けれど、外へは出せない」


 同じ答えだった。


 ミナの唇がわずかに震えた。


「……どうして?」


 今度の声は小さかった。


 夜の王は首を傾げる。


 本当に、その問いの意味が分からないようだった。


「どうしてと言われても、君は内門で暮らす子だからね」


「それだけじゃ、分かりません」


 ミナが初めて夜の王の言葉をはっきり否定した。


「私はここで暮らしてます。でも、ずっとここから出ちゃいけないなんて聞いたことありません」


「わざわざ言う必要がなかったからね」


「どうして必要がないんですか?」


「ミナ」


「私、もう子供じゃありません」


 声が強くなる。


 ライカがわずかに身体を動かしたが、口は挟まなかった。


 ミナ自身が話している。


 今は止める場面ではない。


「自分で行きたい場所を決めるくらいできます。危ないなら準備します。帰る日を決めろって言われたら決めます。それでも駄目なら、ちゃんと理由を教えてください」


 夜の王は黙った。


 ミナは一歩も引かない。


「私が帰らないと思ってるんですか?」


「そういうことではないよ」


「じゃあ、信じてもらえないんですか?」


「君を疑っているわけでもない」


「なら、どうして?」


 夜の王の目に、ほんのわずかな困惑が浮かんだ。


 ミナが何を理解できていないのか。


 それ自体が分からない。


 グレイには、そんなふうに見えた。


 夜の王は椅子の背へ身体を預け、少し考える。


 やがて、本当に分かりやすく説明するような口調で言った。


「大切に育てた家畜を自由に放して、帰ってくることを期待する飼い主はいないだろう?」


 音が消えた。


 少なくとも、グレイにはそう感じられた。


 窓から入っていた風も。


 庭の鳥も。


 誰かの呼吸さえ、一瞬だけ遠くなった。


 ミナは動かなかった。


 目を開いたまま、夜の王を見ている。


 言葉の意味が分からないのではない。


 理解したからこそ、何も返せないように見えた。


 グレイの隣で、椅子が小さく軋んだ。


 ライアンの指が背もたれを掴んでいる。


 さっきまで浮かんでいた笑みは消えていた。


 ライカはミナを見ている。


 表情はほとんど変わっていないが、閉じた鉄扇を持つ指に力が入っていた。


 セバスは動かない。


 ただ、夜の王へ向けられた視線だけが鋭くなっている。


 ロイは目を細めていた。


 誰も口を開かない。


 夜の王だけが、変わらない。


「……家畜?」


 ようやく、ミナの口から声が漏れた。


「そうだよ」


 夜の王は優しく答えた。


「君たちは私にとって、とても大切な存在だ。だからこそ、危険な場所へ自由に出すようなことはしない」


 グレイの中で、昨日聞いた言葉がつながった。


 育てている。


 守っている。


 健康を管理する。


 病気になれば治療する。


 血を取れなくなった老人も見捨てない。


 子供からは取らない。


 妊婦からも取らない。


 無理な結婚もさせない。


 大切だから。


 そのすべてに嘘はなかった。


 ただ、その大切という言葉が、グレイの考えていた場所に置かれていなかった。


 グレイは夜の王を見た。


「……お前、こいつらを何だと思ってる?」


 自分でも、声が低くなったのが分かった。


 夜の王がこちらを見る。


 怒気に反応した様子はない。


 むしろ質問そのものを測るように、少しだけ首を傾げた。


「何だと思っている、とは?」


「そのままの意味だ。ミナも、この街で暮らしてる他の人間も、お前にとって何なんだって聞いてる」


「先ほど答えたつもりだけれど」


 夜の王は少し考えた。


 そして、グレイが何を確認したいのか理解できないまま、それでも答えを探したように口を開く。


「私の家畜だが?」


 何も変わらなかった。


 声も。


 表情も。


 ミナを見る目も。


 夜の王は笑っていた。


 いつもと同じ、穏やかな笑みだった。


「……人間だぞ」


「もちろん知っているよ」


 夜の王はすぐに答えた。


「人間であることと、私の家畜であることは別に矛盾しないだろう?」


 グレイは言葉を失った。


 夜の王は本気だった。


 侮辱するために言っているのではない。


 ミナを傷つけようともしていない。


 相手を下に置いて、自分の優位を見せつけたいわけでもない。


 ただ事実を説明している。


「お姫ちゃん」


 ライカの声がした。


 グレイは視線だけを向ける。


 ライカは夜の王ではなく、ミナを見ていた。


 それで、グレイも気づいた。


 今、問い詰めるべきなのは自分ではない。


 ミナがいる。


「ミナ」


 夜の王が呼ぶ。


 少女の肩がわずかに揺れた。


「怖がらなくていい。君に何かをするつもりはないよ。海へ行かせられないというだけで、今までの生活が変わるわけではない」


「……家畜って」


 ミナは夜の王を見ない。


 床へ視線を落としたまま、ゆっくり口を動かす。


「私も、ですか?」


「もちろん」


 迷いのない答えだった。


 ミナの指先が震えた。


「母さんも?」


「そうだよ」


「エナも?」


「ああ。彼女も大切な子だ」


「みんな?」


「内門で私が育てている人間たちは、皆そうだよ」


 夜の王はそこで微笑んだ。


「君たちは、私にとって大切な人間たちだからね」


 昨日なら、その言葉は別の意味に聞こえただろう。


 今は違う。


 大切な人間。


 大切な家畜。


 夜の王の中では、最初から同じ場所にあった。


 ミナがゆっくり顔を上げる。


「じゃあ……私がここを出たいって言ったら?」


「海の話ではなく?」


「はい」


「外で暮らしたいという意味かな?」


 ミナはしばらく黙った。


「……そうです」


 夜の王は少し困ったように笑った。


「それも認められないよ」


「どうして?」


「同じ理由だ。君はここで暮らすために育てられている。外へ出て暮らすことを前提にはしていない」


「私が決めても?」


「それは君が決めることではないんだ」


 ミナの呼吸が止まった。


 グレイの中でも、何かが静かに引っかかった。


「待て。それはどういう意味だ?」


「難しい話ではないよ、グレイ」


 夜の王は穏やかに答える。


「私は彼らが健康に暮らせる場所を用意し、食事を与え、病を治し、危険から守っている。彼らが安心して世代を重ねられるようにもしている。その代わり、必要な範囲で血を分けてもらう。それがこの街の形だ」


「それは聞いた。でも今は、ミナが自分で外へ行きたいって言った時の話をしてる」


「だから、それを許可することはできないと言っている」


「本人が望んでも?」


「本人が望んでもだよ」


 夜の王の声には、苛立ちがなかった。


 グレイは逆に、そのことが気になった。


 話せば話すほど分かってくる。


 これは誤解ではない。


 夜の王はミナを大切にしている。


 大切だから守る。


 大切だから病気にさせない。


 大切だから飢えさせない。


 大切だから、勝手に出ていくことも認めない。


 全部が一つにつながっている。


「俺には分からないな。大切だって言うなら、こいつが自分で決めたことくらい聞いてやればいいだろ」


「聞いているよ」


「聞くのと、最初から選べないようにするのは違うだろ」


「そうかな?」


 夜の王が不思議そうに首を傾げる。


「私はミナの希望を聞いた。海を見たい理由も理解した。それでも許可できないと判断した。それだけだよ」


「それを決めるのがお前なのか?」


「そうだよ」


 即答だった。


 グレイの眉がわずかに寄る。


 夜の王はそれに気づいても、表情を変えなかった。


「君も、自分の大切なものを守るだろう?」


「守る。でも、俺が大切にしてる奴らは俺の持ち物じゃない。そいつが何をするかまで、俺が全部決めるつもりはないぞ」


「なるほど」


 夜の王は素直に頷いた。


「君はそう考えるんだね」


 反論ではなかった。


 否定もしない。


 ただ、自分とは違う考えとして受け取っただけだった。


 その反応に、グレイは続く言葉を止めた。


 怒鳴れば伝わる相手ではない。


 そもそも夜の王は、自分が何か酷いことを言っているという認識すらない。


「主」


 ロイの声が低く入る。


 グレイが振り返ると、ロイはミナへ目を向けていた。


「今はそっちだ」


「ああ」


 グレイは息を吐いた。


 また同じことをしていた。


 ライカに止められ、今度はロイにも戻された。


 ミナはまだ立ったままだ。


「ミナ。座った方がいいんじゃないか? 無理に立って話す必要はないぞ」


「……大丈夫です」


 答えは返ってきた。


 けれど声は弱い。


 夜の王が心配そうにミナを見る。


「顔色が悪いね。少し休んだ方がいい」


 その言葉にも嘘はない。


 ミナの体調を、本気で心配している。


「水を持ってこさせようか?」


「いりません」


 初めてだった。


 ミナが夜の王の言葉を、ほとんど間を置かず拒んだ。


 夜の王は驚いたように瞬きをする。


 それでも怒らない。


「そうか。必要になったら言いなさい」


 優しい。


 どこまでも優しい。


 ミナは唇を噛んだ。


「夜の王様」


「何だい?」


「私のこと……好きですか?」


 夜の王の表情が柔らかくなる。


「もちろんだよ」


 迷いはなかった。


「君が小さい頃から知っている。熱を出した時も、初めて採血を受けた時も覚えているよ。最近は随分と大人びたと思っていたけれど、こうして見るとまだ子供らしいところもあるね」


 ミナの目が揺れた。


「じゃあ、母さんのことも?」


「大切に思っているよ。君の母親が幼い頃から知っているからね」


「エナも?」


「もちろん。君と一緒に走り回って、よく服を汚していた子だろう?」


 ミナが何も言えなくなる。


 夜の王は覚えている。


 誰が誰なのか。


 どんな子供だったのか。


 病気をしたことも、成長したことも。


 家畜という言葉で一括りにしているだけではない。


 一人一人を見ている。


 その事実が、かえってミナから言葉を奪っているようだった。


「だったら……」


 やがて、掠れた声が落ちた。


「どうして、家畜なんですか?」


 夜の王が少し考える。


「どうして、と言われると難しいね」


「私たち、人間ですよ」


「そうだね」


「名前もあります」


「知っているよ」


「家族も、友達もいます」


「もちろん」


「自分で考えられます」


「ああ」


 すべて認める。


 それでも夜の王の答えは変わらない。


「その上で、君たちは私が育てている人間だ。私は君たちを守り、君たちは私へ血を与える。それを家畜と呼ぶことに、私は何もおかしいとは思わないよ」


 ミナの顔から、完全に表情が消えた。


 ライアンが目を伏せる。


 ライカはもう鉄扇を握っていなかった。両手を身体の前で重ね、ただミナを見ている。


 セバスも口を挟まない。


 誰かが代わりに怒ってしまえば、ミナが今受け止めようとしているものを奪う。


 グレイにも、それくらいは分かった。


「……帰ります」


 ミナが言った。


 夜の王が頷く。


「そうした方がいい。今日は疲れただろう」


「はい」


「母親には私からも――」


「言わなくて大丈夫です」


 ミナは小さく頭を下げた。


「自分で話します」


 夜の王は少しだけ目を細めた。


「分かった。ゆっくり休みなさい」


 その声は、最後まで優しかった。


          ◇


 館を出ても、ミナはほとんど喋らなかった。


 来た時と同じ道を歩く。


 けれど足取りは遅い。


 グレイたちも急かさなかった。


 内門の街は変わらず動いている。


 子供たちが遊び、店先では夕食の材料が売られている。洗濯物が風に揺れ、家々の窓から生活の音が漏れてくる。


 昨日と同じだ。


 何も変わっていない。


 変わったのは、ミナがその街を見る目だけだった。


 通りの先から、見覚えのある少女が走ってきた。


「ミナ!」


 エナだった。


 こちらに気づくと、嬉しそうに手を上げる。


「どうだった? 海、行っていいって?」


 ミナが止まった。


「……駄目だった」


「え?」


「行っちゃ駄目だって」


 エナの笑顔が消える。


「どうして?」


 ミナは答えなかった。


 答えられなかったのかもしれない。


「ミナ?」


「ごめん。今日は帰る」


「ちょっと待って。何かあった?」


「……明日、話す」


 ミナはそれだけ言って歩き出した。


 エナは追おうとして、一歩だけ動く。


 けれどミナの背中を見て止まった。


 グレイも何を言えばいいか分からなかった。


 だから、そのままミナの隣を歩いた。


 しばらくして、ミナが小さく口を開く。


「グレイさん」


「何だ?」


「私、知らなかったです」


 グレイは答えを急がなかった。


「海に行けないこと?」


「それもですけど……」


 ミナは首を振る。


「夜の王様が、私たちのことをそう思ってたってこと」


 足元の石畳を見ながら歩く。


「ずっと優しかったんです」


「今もたぶん、優しくしてるつもりだぞ。あいつは途中から急に態度を変えたわけじゃないからな」


「……はい」


「だから、余計に分からないんだと思う」


 ミナがグレイを見る。


 グレイは少し考えてから続けた。


「俺もまだ分からない。あいつはお前を嫌ってないし、傷つけたいわけでもない。本当に大切にしてる。でも俺が言う大切と、あいつの大切は同じじゃなかった」


 ミナは何も返さなかった。


 それでいい。


 今すぐ何かを決める必要はない。


「私、夜の王様のこと嫌いになった方がいいんでしょうか」


 その問いに、グレイは足を止めた。


 ミナも止まる。


「それは俺が決めることじゃないぞ。今日聞いたことが嫌だったなら嫌だと思っていいし、それでも今まで優しくしてもらったことまで消したくないなら、消さなくていい」


「両方でも、いいんですか?」


「いいだろ。今まで大切にされたことと、今日言われたことはどっちも本当なんだから、無理に片方だけにしなくてもいいと思う」


 ミナはしばらくグレイを見ていた。


 やがて視線を落とす。


「……分かりません」


「今はそれでいい。俺だって全部分かったわけじゃないから、一日で決めなくてもいいだろ」


 ミナは小さく頷いた。


 再び歩き始める。


 その後ろを、ライアンたちが少し距離を空けてついてくる。


 誰も余計なことを言わなかった。


 ミナの家が見えてきた。


 玄関の前には母親が立っている。


 帰りが遅いことを心配していたのか、ミナを見つけるとすぐに表情を緩めた。


「おかえり。どうだった?」


 昨日と同じ声。


 ミナは立ち止まる。


「母さん」


「何?」


「母さんは……知ってた?」


 母親の表情が止まった。


 グレイは、その変化を見逃さなかった。


 ミナも見た。


「……何を?」


「私たちが、夜の王様の家畜だってこと」


 母親の顔から血の気が引いた。


 否定は返ってこなかった。


 ミナの目がわずかに見開かれる。


「知ってたんだ」


「ミナ、それは――」


「今日はいい」


 ミナは母親の横を通り過ぎる。


「ごめん。ちょっと一人になりたい」


「ミナ」


 呼び止める声にも振り返らず、家の中へ入っていった。


 扉が閉まる。


 母親はその場に立ち尽くしていた。


 グレイは何も聞かなかった。


 今ここで問い詰めても、ミナのためにはならない。


「今日は帰る。また来るから、ミナが話したくなったらその時に聞く」


 母親はしばらく黙っていたが、やがて小さく頭を下げた。


「……お願いします」


 グレイたちは家を離れた。


          ◇


 宿へ戻る道で、最初に口を開いたのはライアンだった。


「姫さん」


「分かってる。俺も同じこと考えてると思うぞ。でも今は、あいつのところへ戻って何かするつもりはない」


「……了解っス」


 ライアンはそれ以上言わなかった。


 ライカが隣を歩きながら、静かに息を吐く。


「腹が立たないと言えば嘘になります。でも、あの方は最初から何も隠していなかったんですね」


「ああ。採血の話をした時も、育ててるって普通に言ってた。俺たちが勝手に、人間として大切にしてるんだと思ってただけだな」


「人間として大切にしていないわけでもないでしょう」


 ロイが言った。


 グレイがそちらを見る。


「どういう意味?」


「言葉通りだ。あいつはミナを人間だと認識してる。その上で家畜だとも思ってる。どっちか片方じゃない」


 グレイは少し黙った。


「……そうだな。だから面倒なんだ」


「ええ」


 セバスが静かに頷く。


「単純に虐げているのであれば、話はもっと容易だったでしょう。しかし、あの方が彼らを慈しんでいることも事実に見えます」


「俺は、あいつが嘘をついてるとは思わないぞ。ミナが体調悪そうにしてた時、本気で心配してた」


「それでも自由にはしない」


 ロイが短く続ける。


「そこだけは最初から線を引いてるんだろうな」


 グレイは歩きながら、内門の街を見た。


 灯りが一つずつ増えていく。


 家へ帰る者。


 食事を作る者。


 笑っている子供。


 昨日までと何も変わらない。


「俺には、やっぱり分からないな。大切だから守るところまでは分かる。でも大切だから自分で決めさせないってなると、俺が知ってるものとは違う」


「お姫ちゃんが今すぐ理解する必要はありませんよ」


 ライカが言った。


「ただ、ミナは今日初めて知りました。私たちより、あの子の方がずっと混乱しているはずです」


「分かってる。明日はミナのところに行く。夜の王と話すのは、そのあとでいい」


 グレイはそう決めた。


 誰も反対しなかった。


 夜の王は変わっていない。


 ミナへの愛情も、あの街への考えも。


 変わったのは、それを知った側だった。


 宿へ戻る直前、グレイは一度だけ振り返る。


 内門の奥には、夜の王の館が見えた。


 昨日までと同じ場所に建っている。


 その窓には穏やかな灯りがともっていた。


 あの男はきっと今も、自分が大切にしている人間たちのことを考えている。


 家畜として。


 その二つが同時に成り立つことを、何一つ疑わないまま。

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