第6話 海を知らない少女
昼を少し過ぎた頃、内門の広場には穏やかな陽射しが落ちていた。
石造りの建物の間を人々が行き交い、通りの端では子供たちが木の棒を剣に見立てて走り回っている。開け放たれた窓からは昼食の匂いが流れ、少し離れた店先では女たちが籠を片手に話し込んでいた。
昨日、夜の王から聞いた話を知ったあとでも、目の前の暮らしは何も変わっていない。
笑う者がいて、働く者がいて、家族のために食事を作る者がいる。
大切にしている。
守っている。
その言葉に嘘はないのだろう。
だからこそ、その先にある価値観をグレイはまだ上手く飲み込めずにいた。
「グレイさん!」
呼び声に顔を上げる。
広場の向こうからミナが駆けてきていた。その後ろを、同じくらいの年頃の少女が呆れた顔で歩いてくる。
「待たせちゃいましたか? 母さんに頼まれてたものを届けてたら、思ったより時間がかかっちゃって」
「そんなに待ってない。それより走らなくても俺たちは逃げないぞ。転んだ方が面倒だろ」
「大丈夫です。この道なら小さい頃から走ってますから」
「昨日転んだのに?」
後ろから追いついた少女が口を挟んだ。
ミナの表情が固まる。
「エナ、それ言わないって言ったじゃん」
「ミナが『言わないで』って言っただけで、私は約束してないよ」
「それは普通、分かったって意味でしょ」
「返事してないもん」
二人のやり取りを聞いていたライアンが吹き出した。
「いいっスねぇ。ねーちゃんも昔から、自分に都合のいいところだけ話を進めることあるっスよ」
「ありません。それと、関係のないところで私を巻き込まないでください」
「ほら、すぐ否定するところも似てるっス」
ライカが笑顔を向けた。
「にーちゃん。今日は随分と楽しそうですね。あとで私もゆっくり楽しませてもらいます」
「その言い方、絶対に楽しいやつじゃないっスよね?」
ミナと少女が揃って笑う。
昨日までの話とはまるで関係のない笑い声だった。
それを聞いていると、グレイの中に残っていた重さも少しだけ薄れる。
「あ、紹介しますね」
ミナがようやく思い出したように少女の隣へ並んだ。
「友達のエナです。家も近くて、小さい頃からずっと一緒なんです」
「エナです。ミナから皆さんのことは聞いてます。外から来た旅人なんですよね?」
「そうだぞ。俺はグレイ。こっちがライアンとライカ、それからセバスとロイ」
順に示すと、エナは一人ずつ顔を見てから頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「そんなに畏まらなくていいっスよ。俺たち、別に偉い人でもないっスから」
「にーちゃん。一応あなたは元王族でしょう」
「ねーちゃんもっスよ」
「今の話には関係ありません」
エナが目を丸くしたが、ミナはすでに聞いていたらしく、特に驚いていない。
「それで、今日は旅のお話を聞かせてもらえるんですよね?」
期待を隠さないミナへ、グレイは頷いた。
「そのつもりだけど、何を聞きたいかまでは決めてないぞ。俺たちも色々な場所へ行ったから、ミナが気になることを聞いてくれればいい」
「じゃあ、まず家に来ませんか? 母さんが皆さんも連れてきていいって言ってたんです。お昼、まだですよね?」
その言葉に一番早く反応したのはライアンだった。
「それはありがたいっス。ちょうど腹減ってたんスよ」
「朝食を一番食べていた人が何を言っているんですか」
「朝は朝、昼は昼っスよ」
ミナが笑いながら先に歩き出す。
グレイもその後を追った。
今日はこの街を調べるためではない。
そう思うだけで、昨日までとは通りの見え方が少し違っていた。
◇
ミナの家は、広場から二本ほど通りを入った場所にあった。
二階建ての石造りで、窓辺には小さな花鉢が並んでいる。扉を開ける前から、煮込んだ肉と香草の匂いが漂っていた。
「ただいま。みんな連れてきたよ」
ミナの声に、奥から母親が顔を出した。
「あら、本当に全員連れてきたのね。ちょうどできたところだから、座ってください」
食卓には大きな鍋と丸いパン、葉野菜と果物を合わせた皿が並んでいた。
「こんなにいいの?」
「ミナがお世話になってるみたいですから」
「案内してもらってるのは俺たちの方だぞ。だから、たぶん世話になってるのはこっちだな」
グレイが返すと、母親は一瞬きょとんとしてから笑った。
「それなら、お互い様ということにしましょう」
「それがいいな」
人数分の椅子を集め、食卓を囲む。
煮込みには豆と大きめに切った肉が入っていた。パンをちぎって汁につけると、肉の旨味と香草の香りが染み込む。
「美味いな。こういう煮込みは旅の途中だとなかなか食べないから、久しぶりな感じがする」
「旅では何を食べるんですか?」
ミナが尋ねる。
「街にいるなら店で食べるぞ。何もないところを歩いてる時は保存できるものが多いけど、ライアンがいると予定より早く減る」
「姫さん!? そこ俺のせいにするんスか!」
「一番食べるだろ」
「それは……まあ、否定しないっスけど」
「しないんですね」
エナが笑う。
ライアンは気にする様子もなく二つ目のパンへ手を伸ばした。
「旅って体力使うんスよ。食える時に食っとくのも大事なんス」
「にーちゃんの場合、食べられる時には常に食べているだけでしょう」
「ねーちゃんは俺を何だと思ってるんスか」
「食欲に忠実な弟です」
「間違ってないから反論しづらいっスね……」
そんなやり取りの横で、セバスが煮込みを口に運び、ミナの母親へ顔を向けた。
「肉がよく煮込まれておりますな。それでいて豆も崩れていない。随分と丁寧に火を入れておられる」
「あら、分かるんですか?」
「ええ。大変美味しゅうございます」
母親の顔が明るくなる。
「セバスさんって、料理に詳しいんですか?」
ミナが尋ねると、ライアンが先に笑った。
「詳しいっスよ。飯だけじゃなくて、家のことなら大抵できるっス」
「にーちゃんよりは、という意味でしたら否定はいたしません」
「比較対象を俺にするのやめてもらえないっスか?」
「では、もっと家事のできる方を探して比較しましょうか」
「それはそれで負ける未来しか見えないっス」
ミナが笑い、エナもつられて肩を揺らした。
食事が進むにつれて、最初にあった遠慮も消えていく。
ロイは果物の混ざった皿から赤い実を一つ取り、口へ運んだ。
「これ、外門で見たやつより甘いな」
「内門で食べる分は、熟してから採ることが多いんです。外へ運ぶものは傷まないように、少し早く採るって聞きました」
「なるほど。運ぶ距離を考えれば、その方がいい」
ロイはそれだけ言って、もう一つ取った。
何気ない会話だった。
けれど、グレイは一瞬だけ手元へ視線を落とした。
内門で食べるもの。
外へ運ぶもの。
ミナにとっては、昔からそうだったというだけの話なのだろう。
「グレイさん?」
「何でもない。それより、その果物も食べていい?」
「もちろんです」
一つ口へ入れる。
確かに甘かった。
今日は、この甘さまで疑う必要はない。
「皆さんって、最初から一緒に旅をしてたんですか?」
エナが尋ねた。
「違うぞ。出会った時期はそれぞれ違う。ライアンとライカが先で、そのあとにセバスと会って、ロイが一番最近だな」
「俺は新入りだ」
ロイが淡々と付け足す。
「そうなんですね。ずっと一緒だったのかと思ってました」
「長く一緒にいるのもいるけどな。旅してると、途中で誰かと会うこともある。最初は一緒に来ると思ってなかった奴が、今も隣にいたりするぞ」
グレイが言うと、ミナは五人の顔を順に見た。
「じゃあ、旅をしてなかったら会ってないんですね」
「たぶんな」
それだけのことなのに、ミナは少し不思議そうな顔をした。
「いいなあ」
「何が?」
「知らない場所に行ったら、知らない人にも会えるんですよね」
「変な奴にも会うっスけどね」
ライアンが言う。
「にーちゃんがそれを言いますか」
「ねーちゃん、俺のこと変な奴だと思ってるんスか?」
「少なくとも普通だとは思っていません」
「姫さん、助けてほしいっス」
「俺もライアンは普通じゃないと思うぞ。でも、一緒にいて面白いから別にいいだろ」
「味方なのか追い打ちなのか分かんないっスよ!」
また食卓に笑い声が広がった。
◇
食事が終わると、ミナは二階の自分の部屋へグレイたちを案内した。
全員が入ると少し狭い。
グレイとミナ、エナは床に敷かれた厚手の布へ座り、ロイが椅子を一つ借りる。ライアンは壁際、セバスとライカは窓の近くに立った。
部屋には本が多かった。
棚だけでは収まらないらしく、机や壁際にも何冊か重ねられている。
「本、好きなの?」
「はい。特に外のことが書いてある本は好きです」
ミナは積んであった本から一冊を抜き取った。
青い表紙には、大きな帆を張った船が描かれている。
「これ、何回も読んだんです。船で海を渡って、いろんな島を冒険する話なんですよ」
「それ、俺も読んだことある気がするっス」
ライアンが表紙を覗き込む。
「途中で嵐に遭って、船が壊れるやつじゃないっスか?」
「そうです! それから無人島に流されて――」
「にーちゃん。それ以上はやめておきなさい。まだ読んでいない人がいるかもしれません」
ライカに止められ、ミナが慌てて口を閉じた。
「グレイさん、読んだことあります?」
「ないけど、俺は先を聞いても気にしないぞ。でも今は本の中身より、ミナが何を聞きたいのかの方が気になる」
ミナは本を膝の上へ置いた。
「海です」
「海?」
「本では知ってます。絵も何度も見ました。でも、実際に見たことはなくて……」
ミナは本を開き、一枚の挿絵を見せた。
帆船の向こうに、水平線まで続く海が描かれている。
「本当に、どこまで行っても水なんですか? 向こう側が見えないくらい?」
「見えないぞ。晴れてても陸が見えなくなる。船で何日も進んで、それでも周りに水しかない日もあった」
「何日も……?」
ミナの目が丸くなる。
「川なら向こう岸が見えるじゃないですか。湖だって、高いところからなら端が見えるのに」
「俺も最初は変な感じだった。絵で見るよりずっと広いし、近くにいると水がずっと動いてる。波が来るたび形が変わるから、見てても結構飽きないぞ」
ミナは挿絵へ視線を落とした。
「グレイさん、最初に見た時どうしました?」
「しばらく甲板から見てた。船も初めて見るものが多かったから、船員に色々聞いたな。帆の張り方とか、陸が見えないのにどうやって進む方向を決めるのかとか」
「姫さん、色々どころじゃなかったっスよ」
ライアンが笑う。
「一個教えてもらうたびに別のこと聞いてたじゃないっスか。最後の方、船員の人が仕事しながら説明してくれてたっスよ」
「嫌がってなかったぞ。向こうから見せてくれたものもあったし、俺は面白かったから聞いてただけだ」
「船員の方々も姫様を面白がっておられたのでしょうな。帆の結び方まで熱心に眺める乗客は、そう多くないでしょう」
セバスが補足する。
「結び方まで覚えたんですか?」
「少しだけな。でも俺一人じゃ船は動かせないぞ。あれは何人も役割を分けて動かしてたから、見てるのと実際にやるのは全然違う」
ミナは何度も頷いた。
「船って、やっぱり揺れるんですか?」
「波が大きい日はかなり揺れるぞ。立ってるだけなら慣れれば平気だけど、食事は面倒だった」
「あれは酷かったっス……」
ライアンが遠い目をする。
「何かあったんですか?」
「スープ食ってる途中で船が傾いたんスよ。慌てて器押さえたら、今度は反対に揺れて――」
「にーちゃんが肉を取ろうとして器から手を離したのが原因でしょう」
「ねーちゃん、そこまで言わなくてもよくないっスか?」
「船のせいにしているから訂正しただけです」
「それでどうなったんですか?」
ミナが身を乗り出す。
ライアンは少し黙った。
「……半分くらい床に消えたっス」
ミナとエナが同時に吹き出した。
「そのあと果物まで転がしていましたね」
「ねーちゃん! 余計な情報増やさないでほしいっス!」
「正確な旅の話を聞きたいのでしょう?」
「俺の失敗談を正確にする必要あるっスか!?」
ミナは腹を抱えて笑っている。
グレイもその時の光景を思い出し、口元を緩めた。
「結構面白かったぞ。拾おうとしたライアンまで同じ方向に滑ってたからな」
「姫さんまで追加するんスか!」
「見たことを話しただけだろ」
「全員敵っスね、今日!」
ひとしきり笑ったあと、ミナがセバスを見る。
「セバスさんは平気だったんですか?」
「揺れそのものは問題ございませんでした。ただ、普段とは異なる足場で身体を動かすのは良い経験になりましたな」
「セバスは途中から船の揺れに合わせて鍛錬してたぞ。俺も少し付き合った」
「船の上でも鍛えるんですか?」
「セバスがやってたから面白そうだったんだ。揺れる方向が毎回同じじゃないから、地面より難しかったぞ」
「姫さんとセバスは、どこでもそういうこと始めるっスからね」
「何もすることがないなら、身体を動かすのも悪くないだろ」
「姫様は途中から船員の動きを真似しておられましたな」
「足の置き方が上手かったからな。揺れる前から少し動いてたし、どうやってるのか気になった」
ミナは目を輝かせて聞いている。
先ほどまで本の中にしかなかった海へ、少しずつ音や動きが加わっているようだった。
「海って、どんな匂いがするんですか?」
「塩っぽい匂いがする。港の近くだと魚や船の匂いも混ざるけど、風が強い日は街の中でも海が近いって分かるぞ」
「音は?」
「波の音がずっとするな。夜になると人の声が減るから、昼よりよく聞こえる」
「夜の海って暗いんですよね?」
「暗いぞ。陸から離れると明かりがほとんどない。でも月が出てる日は、水の上に光が伸びて綺麗だった。俺は昼より夜の海の方が好きだったな」
グレイ自身も、その景色を思い出す。
冷たい潮風。
暗い水面。
船体へ規則的にぶつかる波。
空と海の境目が曖昧になり、月の光だけが水の動きを拾っていた。
「綺麗なんだ……」
ミナが小さく呟く。
「海には魚もたくさんいるんですよね?」
「いるぞ。船の近くを跳ねるのもいたし、港には川じゃ見ないような魚がたくさん並んでた。変な形でも、焼いたら美味いのもいたな」
「姫さん、最後は食べ物になるんスね」
「食べたんだから味も覚えてるだろ。旅してると、その土地でしか食べないものも結構あるぞ」
「私、魚も食べてみたいです」
ミナは本を抱え直した。
「ロイさんも海を見たことあります?」
「ある。ただ、俺は海そのものより港の方が印象に残ってるな」
「港?」
「色んな場所から人と物が集まる。船乗り、商人、旅人、荷物を運ぶ奴。それぞれ着てるものも話し方も違うし、知らない食い物も売ってる。海を見るなら港も一緒に歩いてみると面白いと思うぞ」
「いいなあ……」
ミナの声が少しだけ小さくなる。
指先が、青い表紙に描かれた船をなぞった。
「私も歩いてみたいです。港」
「行けばいいだろ。見るだけじゃなくて、実際に歩いた方が覚えてるぞ」
グレイが答えると、ミナは顔を上げた。
「海も?」
「海もだ。そんなに好きなら、一度くらい自分で見た方がいい。俺が話してるのと、ミナが実際に見るのじゃたぶん全然違うからな」
「……いつか私も見てみたいな」
何気なく零れた言葉だった。
大きな決意を込めた声ではない。
いつか行ってみたい。
ただ、それだけ。
エナが隣からミナの本を覗く。
「ミナ、昔から海の本好きだもんね」
「海だけじゃないよ」
「それ何回読んだの?」
「七回くらい」
「十分好きじゃん」
「好きな本なら普通でしょ」
「七回は多いと思う」
ミナが少し頬を膨らませた。
グレイは笑いながら本の挿絵を見る。
「七回読むくらい好きなら、実物を見たらもっと面白いと思うぞ。絵じゃ分からないものも多いからな」
「触ってもいいんですよね?」
「もちろん。俺は最初に少し舐めて、本当に塩辛いのか確かめたぞ」
一瞬、部屋が静かになった。
ライカが額へ手を当てる。
「お姫ちゃん。どうして海を見て、わざわざ舐めるんですか」
「塩辛いって聞いてたから確かめたかったんだよ。手ですくって少し舐めただけだぞ」
「普通はそこまで確認しません」
「でも本当に塩辛かったぞ。飲めるような味じゃなかった」
「私もやってみたいです」
ミナが言った瞬間、ライカがそちらを向いた。
「そこは真似しなくていいです。海にはもっと普通の楽しみ方がありますから」
「少しくらいなら平気だと思うけどな」
「お姫ちゃんは余計なことを勧めないでください」
「勧めてないだろ。俺がやったって話しただけだ」
「それを聞いてミナが真似しようとしているんです」
「じゃあ、舐めるかどうかは自分で決めればいい」
「そういう問題ではありません」
ミナとエナが笑い始める。
グレイにはまだ何がそこまでおかしいのか分からなかった。
◇
午後になってから、ミナたちと街を歩いた。
今度は旅の話ではなく、二人が普段どんな場所で過ごしているのかを教えてもらう。
昔から通っているパン屋。
子供の頃に遊んだ広場。
エナと喧嘩したあと、一人で隠れていた路地。
特別な場所ではない。
けれどミナにとっては、一つ一つに思い出があるらしい。
「あそこの菓子屋、美味しいんですよ」
ミナが指差した先には、小さな店があった。
「前はもっと狭かったんですけど、去年広くなったんです」
「ミナが食べすぎたから儲かったんじゃない?」
エナが言う。
「私だけで店が広くなるほど食べてないよ」
「毎週行ってるでしょ」
「毎週じゃないよ。たぶん」
「そこで自信なくすんだ」
「それなら一回食べてみたいっスね」
ライアンが迷わず店へ向かおうとする。
「にーちゃん。先ほど昼食を食べたばかりでしょう」
「甘いものは別っス」
「あなたが言うと単なる食べすぎです」
そう言いながら、ライカも店先の焼き菓子へ視線を向けていた。
ロイがそれに気づく。
「急ぐ用もないんだ。寄っていけばいいだろ」
「私は食べたいとは言っていませんよ」
「なら俺が買う。余ったら食えばいい」
「……止めてはいません」
グレイは二人を見てから、先に店へ入ったライアンを追った。
店内には焼いた小麦と蜂蜜の甘い匂いが満ちていた。
ミナが勧めたのは、薄く焼いた生地に果実の蜜を挟んだ菓子だった。
一口齧ると、軽い食感のあとに甘酸っぱい蜜が広がる。
「これ美味いな。甘すぎないし、もう一個くらいなら普通に食べられそうだ」
「ですよね。私、これが一番好きなんです」
ミナが嬉しそうに笑う。
ライカも一つ食べ、静かに頷いた。
「確かに美味しいですね。果実の酸味が残っているので食べやすいです」
「気に入った?」
ロイが尋ねる。
「ええ。これは好きです」
「なら帰りに買っていくか」
「どうしてロイが決めるんですか」
「俺も食うからだ」
「それなら好きにしてください」
ミナが二人を交互に見た。
「ロイさん、ライカさんが甘いもの好きなの知ってるんですね」
ライカの手がわずかに止まる。
ロイは特に隠す様子もなかった。
「前に一緒に食った時に覚えた。辛いものが苦手なのもその時だな」
「好きなもの覚えてくれてるのって、いいですね」
ミナが素直に言う。
ライカは一瞬だけロイを見た。
「……記憶力だけはいいですから」
「褒められたことにしておく」
「好きにしてください」
ライアンが何か言おうとしたが、ライカがそちらを見る。
「にーちゃん」
「何も言ってないっス」
「なら、そのまま黙っていてください」
「まだ何もしてないのに怒られたっス……」
グレイは残っていた菓子を口へ入れた。
ロイとライカの間にあるものは、以前より少し形を変えている。
それでも、今すぐ何か名前をつける必要はない。
本人たちが決めればいいことだ。
「グレイさん、次行きましょう」
「ああ。今度はどこ?」
「私たちがよく本を読んでる場所です」
ミナが店の外へ駆けていく。
エナもその後を追った。
◇
街の端に近い場所に、小さな丘があった。
丘の上には大きな木が一本立ち、その下に古い長椅子が置かれている。
「ここ、よく来るんです」
ミナが木の下へ座った。
「本を読む時も?」
「はい。家でも読めますけど、天気がいい日はこっちの方が好きです」
「母さんの手伝いから逃げてくることもあるけどね」
エナが横に座る。
「ちゃんと終わってから来てるよ」
「たまに途中で思い出して戻るじゃん」
「たまにでしょ」
グレイも長椅子の端へ腰を下ろした。
丘からは内門の街並みがよく見える。
屋根が連なり、その間を細い道が走っている。さらに向こうには、街を囲む壁があった。
高く、厚い壁だ。
「海って、あの壁よりずっと先まで見えるんですよね」
ミナが遠くを見ながら言った。
「比べられないくらい先まで見えるぞ。壁みたいに途中で止まらないから、最初は距離が分かりにくかった」
「やっぱり想像できないです」
「なら見た方が早い。俺も説明されるより、実際に見た時の方が分かったからな」
ミナは膝を抱える。
風が髪を揺らし、その視線の先には変わらず壁がある。
「エナは、外に行ってみたいと思わない?」
不意にミナが尋ねた。
「外門なら行ってみたいかな。お店も多いって聞くし」
「もっと遠くは?」
「他の街とか?」
「うん。海とかも」
エナは少し考え、困ったように笑った。
「私はここでいいかも。家族もいるし、ミナもいるし。知らない場所って、ちょっと怖いから」
「そっか」
「ミナは行きたいんでしょ?」
「うん。一回くらいは」
その答えに迷いはなかった。
けれど、今の暮らしを捨てたいという響きもない。
ただ一度、自分の知らないものを見てみたい。
「だったら見に行って、戻ってくればいいっスよ」
ライアンが木の幹へ背を預けた。
「旅って、ずっと続けなきゃいけないものでもないっスからね。見たいもの見て、食いたいもの食って、満足したら家に帰る。それでも立派な旅っスよ」
「それなら、私にもできそうです」
「海を見るだけなら、別に世界中を回る必要もないぞ。どこから行くかで時間は変わるけど、着けば海は見られるからな」
グレイも続ける。
「船に乗るなら、最初は短い方がいいかもしれませんね。自分が船酔いするか分かりませんから」
ライカが現実的なことを付け足すと、ミナは真剣に頷いた。
「じゃあ、まず海を見て、船に少し乗って、それから魚を食べます」
「随分具体的になったな」
ロイが笑う。
「ロイさんが港も面白いって言ったから、港も歩きます」
「なら朝から行った方がいい。荷が入る時間なら、見られるものも多いだろうな」
「覚えておきます」
まるで本当に予定を立てているようだった。
ミナは指を折りながら、自分が海でやりたいことを数えていく。
「海を見て、触って、船に乗って、魚を食べて、港を歩いて……」
「海を舐めるのは?」
エナが笑いながら聞く。
ミナが少し考える。
「……ちょっとだけ」
「やめておきなさい」
ライカが即座に止めた。
「グレイさんはやったのに」
「お姫ちゃんを基準にしないでください」
「俺は平気だったぞ。少しなら何も起きなかったし」
「お姫ちゃんも余計な援護をしないでください」
「でも嘘は言えないだろ」
「言わなくてもいいことはあります」
グレイは納得できずに首を傾げた。
その様子を見ていたライアンが笑う。
「姫さんが普通に怒られてるの見ると、何か安心するっスね」
「何で安心するんだよ。俺は聞かれたことに答えただけだぞ」
「そういうところっスよ」
「分からない」
「分からなくていいと思います」
ライカまで言う。
グレイはロイを見る。
「ロイは海を舐めるくらいなら普通だと思わない?」
「俺に振るな。普通かどうかは知らないが、俺ならやらない」
「ほら」
「何が『ほら』なんですか」
ライカの声に、ミナとエナがまた笑った。
セバスまで口元を緩めている。
「セバスまで笑うのか?」
「申し訳ございません。しかし、姫様らしい話ではございますので」
「それ、たぶん褒めてないだろ」
「さて、どうでしょうな」
頭上で葉が揺れる。
笑い声が途切れたあとも、風だけは変わらず丘を通り抜けていた。
ミナはしばらく街を眺めていたが、やがて何かを思い出したように口を開いた。
「夜の王様にお願いしたら、行かせてもらえるかな」
その言葉は、あまりにも自然だった。
グレイはミナを見る。
本人に深刻な様子はない。
「行きたいなら聞いてみればいいんじゃないか。駄目なら、その時に理由を聞けばいいだろ」
「ですよね。たぶん大丈夫だと思います。外門に仕事で行く人もいますから」
ミナはそう言って笑った。
グレイも、それ以上は考えなかった。
外門へ出る人間がいる。
ならば、その先へ行くことも頼めば認められるのだろう。
少なくとも、その時はそう思った。
「もし行けたら、エナも一緒に行こうよ」
「船に乗らなくていいなら考える」
「海まで行って船に乗らないの?」
「私は海を見るだけでいい」
「じゃあ港で待ってて」
「それならいいよ」
二人はもう、その日が来ることを疑っていないようだった。
グレイたちも同じだった。
◇
夕方が近づき、エナが先に帰ることになった。
「また明日ね」
「うん。今日聞いた話、母さんにもしていい?」
「私が知らない場所を怖がってるって話はしなくていいからね」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「信用できない」
最後まで言い合いながら、エナは通りの向こうへ消えていった。
ミナはその背中を見送ってから、グレイたちと歩き出す。
「本当に仲いいんだな」
「小さい頃から一緒ですから。喧嘩もいっぱいしますけど、次の日には大体普通に話してます」
「それならいいな。言いたいことを言える相手が近くにいるのは、結構大事だと思うぞ」
「グレイさんたちもそうですか?」
「そうだな。遠慮しない奴ばっかりだから、俺が変なことするとすぐ言われる」
「姫さんの場合、言わないとそのままやるっスからね」
「にーちゃんも人のことを言えませんよ」
「また俺っスか」
ミナが笑う。
通りには夕食を作る匂いが漂い始めていた。
家へ帰る子供たち。
店先を片づける商人。
知り合いと立ち話をする老人。
どこにでもありそうな夕暮れだった。
ミナもその中を歩いている。
途中で知り合いに声をかけられれば足を止め、笑って返事をする。明日の約束をして、また歩き出す。
この街で生まれ、この街で育った少女。
家族がいる。
友達がいる。
好きな本があり、何度も読んだ物語の中には海がある。
「グレイさん」
少し前を歩いていたミナが振り返った。
「今日、ありがとうございました。海のこと、前よりずっと分かった気がします」
「俺が覚えてる範囲で話しただけだぞ。でも、そんなに面白かったならよかった」
「面白かったです。船が揺れることも、夜の海が綺麗なことも、港にいろんな人がいることも、本だけだとあんまり想像できなかったから」
そこでミナは少し笑った。
「ライアンさんがスープをこぼした話も」
「そこ一番覚えなくていいっスよ!」
「面白かったので」
「俺の失敗だけ妙に残るのやめてほしいっス……」
「にーちゃん自身が面白そうに話すからでしょう」
「じゃあ次からねーちゃんの失敗談にするっス」
「構いませんよ。事実であれば」
「その返しされると困るっスね」
ミナはまた笑い、それから少し先の空を見た。
夕陽が屋根の向こうへ沈み始めている。
「もし海を見に行けたら、帰ってきた時にグレイさんたちにも話しますね」
「それは聞きたいな。俺が見た海とミナが見る海は、たぶん同じにはならないだろ」
「同じ海なのに?」
「見る場所も日も違うし、面白いと思うところも違うからな。俺は船ばっかり見てたけど、ミナは魚の方が気になるかもしれないだろ」
「あ、それなら私、港のお店もいっぱい見たいです」
「ほら、もう違う」
ミナは納得したように頷いた。
「じゃあ、私の海を見てきます」
「そうしろ。帰ってきたら、どんな海だったか聞かせてくれ」
「はい」
返事は明るかった。
家の前まで着く。
「明日は雪の話も聞かせてください。こっちでは、ほとんど降らないんです」
「雪なら色々話せるぞ。初めて見た時は少し食べて――」
「お姫ちゃん」
ライカの声が飛んできた。
「何だよ。まだ何も変なこと言ってないだろ」
「今まさに言おうとしていたでしょう。次は私が説明します」
「俺だって雪の話くらい普通にできるぞ」
「最初に食べた話から始める人へ任せるのは不安です」
「少し口に入れただけだぞ。降ってきたのが本当に冷たいのか気になったんだから仕方ないだろ」
「冷たいに決まっています」
「知ってたのと触るのは違うだろ」
「また始まったっスね」
ライアンが笑い、ロイも肩をすくめる。
ミナは玄関の前で楽しそうにそのやり取りを眺めていた。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日な」
グレイが手を上げる。
ミナも大きく手を振り、家の中へ入っていった。
二階の窓に明かりが灯る。
少しして、その窓辺に人影が見えた。
ミナだった。
手には、昼間見せてもらった青い表紙の本がある。
グレイはそれを一度だけ見上げ、仲間たちと歩き出した。
夕暮れの街の向こうには、高い壁がある。
そのさらに先に、ミナがまだ知らない海がある。
今日のグレイには、それはただ遠いだけの場所に思えた。




