第5話 大切な人間たち
診療所の一室には、薬草とは違う匂いが残っていた。
鉄に似た、微かな匂い。
グレイにとって、それは嗅ぎ慣れたものだった。
部屋の中央には椅子がいくつか並び、その一つに若い男が腰掛けている。捲った袖から伸びる腕には細い管が繋がれ、その先に置かれた透明な瓶へ、赤い液体が少しずつ溜まっていた。
血だ。
男の隣には白衣を着た女性が立ち、腕の状態と小さな砂時計を交互に確認している。
拘束具はない。
見張りもいない。
男は反対側の椅子に座った知人らしい女性と、夕食をどこで食べるかという話をしていた。
その日常から外れない光景が、かえってグレイの足を止めた。
人間から血を得ている。
夜の王本人から、それ自体はすでに聞いていた。人間の血を飲むことも、血にはそれぞれ違いがあることも知っている。
だから驚くことではない。
それでも、聞いていた話が目の前で形を持つと、受け取り方は少し変わった。
「終わりましたよ。今日はここまでです」
白衣の女性が管を外し、男の腕へ清潔な布を当てる。
男は瓶を見て首を傾げた。
「前より少なくないか?」
「少なくしています。前回から少し体重が落ちていますから」
「別に体調は悪くないんだけどな」
「悪くなってから減らしても遅いんです。次までにきちんと食べて、ちゃんと寝てください」
「分かったよ」
男は素直に頷いた。
採られた血の瓶が別の台へ移される。
側面には名前と日付、それからいくつかの数字が記された札が貼られていた。
その隣には、似た札のついた瓶が数本並んでいる。
グレイには数字の意味までは分からなかった。
ただ、一人から同じ量を機械的に抜いているわけではないらしい。
夜の王は何も言わず、少し離れた場所に立っていた。
内門へ招かれてから、いくつもの場所を見た。
整えられた家々。
夜には閉まっていた学校。
湯気の上がる浴場。
暗がりの中に続いていた果樹園。
そして、この診療所。
壁の外から想像していた閉ざされた場所とは、何もかもが違った。
最後に見たのが、この採血だった。
「夜の王。少し聞きたいことがあるんだけど、この血はあんたたちが飲むために採ってるんだよな?」
グレイが尋ねる。
夜の王は迷わず頷いた。
「ああ。私たちが口にする人間の血は、基本的にここで用意しているよ」
「私たちってことは、あんた以外にも吸血鬼がいるのか?」
「数は多くないけれどね。私の眷属や、長くここに仕えている者がいる」
グレイはもう一度、採血を終えた男を見る。
男は立ち上がると、白衣の女性から飲み物を受け取った。すぐには帰らず、壁際の椅子へ移動して休んでいる。
代わって呼ばれたのは三十代ほどの女性だった。
慣れた様子で椅子へ腰掛け、自分から袖を捲る。
「みんな自分から来てるみたいだけど、採血するかどうかも本人が決めてるのか?」
グレイが尋ねると、夜の王は少しだけ首を傾けた。
「そこは少し違うね。健康な成人には、基本的に血を提供してもらっている」
「じゃあ、完全に自由ってわけじゃないんだな」
「ああ。ただし、いつ、どれだけ採るかを私が決めることはないよ。それは医師の仕事だ」
グレイの視線が白衣の女性へ移る。
ちょうど次の男が腕を差し出したところだった。
白衣の女性はその顔を見て眉を寄せる。
「今日はやめておきましょう。少し顔色が悪いです」
「昨日寝るのが遅かっただけだって。これくらいなら平気だよ」
「平気かどうかを決めるのは診察してからです。今日は延期します」
「次はいつ?」
「数日後にもう一度診ます。その時に決めましょう」
「分かった」
男は少し残念そうに袖を戻した。
夜の王は口を挟まない。
採れとも、少しくらいなら構わないとも言わなかった。
そのまま男が部屋から出ていく。
グレイは夜の王へ視線を戻した。
「本当に医者が止めたら終わりなんだな。あんたが欲しくても、そこで増やしたりはしないのか?」
「しないよ。医師が採れないと判断した人間から血を得る必要はないからね」
「それで足りなくなったら?」
「普段から余裕を持って保存している。それでも不足するなら、私たちが我慢すればいい」
あまりに普通に返され、グレイは少し目を細めた。
「人間の方に無理をさせるって考えにはならないんだな」
「一度身体を壊せば、元に戻す方が大変だろう? 何十年も健康に暮らしてもらう方がいい」
夜の王は当然のことを話すように続ける。
「それに、大勢から少しずつ提供してもらえば、一人へ大きな負担をかける必要もないよ」
理屈は通っていた。
グレイは並んだ瓶へ目を向ける。
一つ一つは、それほど大きくない。
「子供も対象になるのか? さっき学校にいたくらいの子供からまで採ってるなら、その辺も知っておきたい」
「身体が十分に育つまでは対象にしないよ。成長の途中で余計な負担をかける理由がないからね」
「それ以外にも採らない奴はいる?」
「妊娠中の女性、産後で身体が戻っていない者、病人、怪我人、栄養状態が良くない者。ほかにも医師が不適切と判断すれば、その間は外れるよ」
「老人はどうなんだ?」
「年齢だけでは決めないけれど、負担が大きくなれば止める。慢性的な病気などで難しくなった者も同じだね」
「一度外れたら、生活も変わるのか?」
「どうして?」
夜の王が本当に分からないという顔をした。
「いや、血を出せなくなったら、あんたたちにとって役目がなくなるのかと思ったんだ」
「そんなことはないよ」
返事は早かった。
「生まれた時から知っている者を、歳を取ったから追い出す理由がないだろう? 血を提供できなくなったとしても、ここで暮らす人間であることに変わりはない」
グレイは答えず、診療所の窓へ視線を移した。
外はすっかり暗い。
道沿いの魔導灯が並び、向かいの家の窓から暖かな光が漏れている。
少し前に見た老人を思い出した。
夜の王が名前を呼び、病み上がりなのだから無理をするなと声をかけていた男。
血を提供できるかどうかとは関係なく、夜の王はあの老人の体調を覚えていた。
その事実だけが静かに残った。
「グレイ様」
セバスの声がした。
振り返ると、四人も少し離れたところで様子を見ていた。
「どうした?」
「そろそろ場所を移されてはいかがでしょう。こちらは本来、診療を受ける方々のための場所でございます」
「ああ、そうだな。夜の王、もう少し聞きたいことがあるから、どこか落ち着いて話せるところに移らないか?」
「もちろん。私もここで長話を続けるつもりはないよ」
夜の王が職員へ軽く手を上げる。
白衣の女性が一礼した。
グレイたちは部屋を出た。
廊下には薬草の匂いが漂っている。
待合室には数人が残っていた。採血のためだけではないらしく、腕に包帯を巻いた少年や、母親に抱かれた幼い子供の姿もある。
その横を通り、外へ出る。
夜風が頬を撫でた。
診療所の前には小さな広場があり、端にいくつか長椅子が置かれている。
夜の王がそこを示した。
「少し座ろうか。まだ聞きたいことがあるんだろう?」
「助かるよ。俺も聞きたいことが増えてきたから、少し落ち着いて整理したい」
グレイが腰を下ろす。
夜の王も向かいの長椅子へ座った。
ライアンたちは立ったままだったが、グレイが横を見る。
「みんなも座ればいいだろ。今さら立ったまま警戒してなくても、急に何か起きたりはしないよ」
「じゃあ遠慮なく座るっス」
ライアンが隣へ腰を下ろす。
ライカもその横へ座り、ロイは反対側の端へ。セバスも周囲を一度確認してから近くの長椅子へ腰を下ろした。
夜の街は静かだった。
けれど、人の暮らしが止まっているわけではない。
遠くで浴場の戸が閉まる音がする。
家路を急ぐ足音。
どこかの家から漏れる食器の触れ合う音。
窓越しに家族らしい影が動く。
そのどれもが、ごく普通の夜の景色だった。
グレイは膝の上で手を組んだ。
「夜の王。採血の仕組みは大体分かった。でも、それだけなら外門の人間から血を集めることもできるだろ。わざわざ内門で暮らしてる人間から採るのは、何か理由があるんだよな?」
「あるよ」
夜の王はあっさり認めた。
「以前、血の味が人によって違うという話をしたね。その中でも魔力の量や質は大きいんだ」
「そこは覚えてるよ。だから魔力の高い魔物の血も、俺には使いやすいからな」
「人間でも同じだよ。一般には、魔力量が多く質の高い人間ほど、吸血鬼にとって好ましい血になる傾向がある。もちろん、最後は個人の好みだけれどね」
夜の王はそこで内門の街へ目を向けた。
「ここには、そういう人間が多い」
「それって、最初から魔力の高い人間を集めたってことか?」
「始まりはそうだね。ただ、今暮らしている者の大半はここで生まれているよ。親がここで育ち、その子供もここで育つ。私がこの場所を作ってから、もう何世代も続いている」
グレイの視線が僅かに下がった。
何世代。
人が暮らす場所なら、不思議なことではない。
親が子を育て、その子が大人になり、誰かと家庭を作る。
また子供が生まれる。
それだけなら、どこにでもある。
だが、ここではその人間たちから吸血鬼が血を受け取っている。
「魔力の高い血を残すために、結婚相手まで決めてるのか?」
「それはしないよ」
夜の王はすぐに否定した。
「誰を好きになるか、誰と結婚するかは本人たちが決める。子供を持つかどうかも同じだよ」
「でも、それだと狙って血統を残せないだろ?」
「狙って残す必要はないんだ。魔力量の高い者が多い集団なら、世代を重ねてもその傾向は残りやすい。それで十分だよ」
「もっと効率よくしようとは思わないのか?」
「好きでもない者との間に子供を作らせれば、彼らの暮らしを壊してしまうだろう?」
夜の王は不思議そうに言った。
「血は欲しいけれど、そのために彼らを不幸にするつもりはないよ。好きな相手がいるなら一緒になればいい。結婚したくないならしなくてもいいし、子供を望まないなら持たなくていい」
グレイは夜の王の顔を見る。
嘘を言っているようには見えない。
今日見てきた街とも矛盾していなかった。
子供がいた。
夫婦がいた。
一人で暮らす老人もいた。
夜の王は、その一人一人を当たり前のように覚えていた。
「それなら、魔力の高い人間が減ることもあるんじゃないか?」
「あるよ。だから時々、外から新しい人間を迎えている」
「外門の奴を選んで連れてくるのか?」
「外門の住民を無理に移すことはしない。基本的には、もっと外からだね」
「どんな人間を連れてくるんだ?」
「奴隷、罪人、戦争で行き場を失った捕虜。その中でも、魔力量の高い者を迎えることが多いよ」
ライアンの獣耳が僅かに動いた。
ライカの視線も夜の王へ向く。
グレイは眉を寄せた。
「奴隷や罪人を、ここへ入れてるのか?」
「ああ。閉じた集団だけで何世代も続ければ、血の偏りが大きくなるからね。外から新しい人間が入ること自体は必要なんだ」
「買ってくる奴もいる?」
「奴隷ならそういう場合もあるよ」
「そいつらには、ここがどういう場所なのか説明するのか?」
「説明する。内門で暮らすこと、生活はこちらで保障すること、健康な成人には血を提供してもらうこと、それから一度ここで暮らし始めれば自由に外へ出ることはできないこともね」
グレイの眉間に僅かな皺が寄った。
「それを聞いた上で、ここへ来る奴がいるのか?」
「いるよ」
「奴隷なら、断ったところで自由になれるわけじゃないだろ」
「そうだね」
夜の王は否定しなかった。
「私が買わなければ別の主人に買われる者もいる。罪人や捕虜も、元々置かれている立場によって選べるものは違う。だから、全員が何の制約もない状態でここを選んでいるとは言わないよ」
グレイは少し意外そうに夜の王を見た。
「そこまで分かってるんだな」
「もちろん。彼らが置かれている立場まで無視して、全員が喜んで来たと言うつもりはないよ」
「それでも連れてくる?」
「ああ」
穏やかな返事だった。
「ここへ迎えた後は、以前の立場のまま扱うことはほとんどない。奴隷だった者を誰か個人の奴隷として働かせることもないし、罪人だったという理由だけで一生罰を与え続けることもしない」
「じゃあ、ここへ来たら何をするんだ?」
「まず身体を診る。怪我や病気があれば治療する。住む場所を決めて、仕事ができる者には何ができるかを聞く。読み書きが必要なら学んでもらうよ」
「前よりいい暮らしになる奴もいそうだな」
「実際にいるよ。食事にも困っていた者、怪我を放置されていた者、長く酷使されていた者もいるからね」
夜の王の声には、自分の行いを誇る響きはなかった。
ただ事実を並べている。
だからこそ、グレイは返す言葉を探した。
「ここへ来たことを後悔する奴はいないのか?」
「いるよ。特に最初の頃はね」
「外へ出たいって言ったら?」
「それは認めていない」
答えは変わらず穏やかだった。
グレイの視線が止まる。
「本人がどれだけ出たがっても、駄目なのか?」
「ああ。内門で暮らすと決めた以上はね」
「外から来た奴には最初に説明する。でも、ここで生まれた奴は自分で決めてないだろ?」
「その通りだよ」
「それでも出さない?」
「ああ」
夜の王は一度も目を逸らさなかった。
グレイは少し黙る。
近くを二人の若者が歩いていった。
楽しそうに何かを話している。
片方が笑い、もう片方が肩を軽く叩いた。
そのまま二人は路地へ曲がっていく。
「どうしてそこだけは変えないんだ?」
グレイが尋ねる。
「ここで暮らす人間たちは、私が守る人間だからだよ」
「守るために外へ出さないのか?」
「それもあるね。外へ出れば、私の手が届かなくなる」
「でも、外に出たいって思う奴もいるだろ?」
「いるよ。特に若い頃には珍しくない」
「その時はどうするんだ?」
「話をする。外がどんな場所なのかを隠してはいないよ。本も読めるし、外門から来る者と話す機会もある。それでも出ること自体は認めていない」
グレイは夜の王を見たまま、しばらく動かなかった。
外を知らないから満足しているわけではない。
知ることは許されている。
外に別の暮らしがあることも分かっている。
それでも、壁を越えることだけはできない。
「それで、あんたを嫌う奴はいないのか?」
「いるよ」
夜の王が小さく笑う。
「若い頃には、私と口を利かなくなる子もいる。顔を見るだけで怒る子もいるね」
「それでも、そのままにする?」
「怒ることまで止めるつもりはないからね。私を嫌うのも自由だよ」
「でも、出ていく自由はないんだな」
「ああ。そこは認めていない」
また胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
夜の王は矛盾しているようで、本人の中では何も矛盾していない。
恋愛は自由。
結婚も自由。
子供を持つかも自由。
仕事も選べる。
夜の王を嫌うことすら許されている。
ただし、内門を出ることはできない。
そして健康な成人である限り、血を提供する。
その二つだけが、最初から選択肢の外に置かれている。
「難しい顔してるっスね、姫さん」
ライアンの声に、グレイは少しだけ肩の力を抜いた。
「難しいんだから仕方ないだろ。悪いことしてるって言い切れたら簡単なのに、見たものがそうじゃないから余計に分からないんだよ」
ライアンは何も返さなかった。
夜の王も急かさない。
グレイは少し考えてから、もう一つ尋ねる。
「夜の王。さっき保存してるって言ったけど、血が足りなくなることはよくあるのか?」
「滅多にないよ」
「じゃあ、かなり余裕を持って採ってるのか?」
「逆だね。一人から多く採らないために、採血できる人間の数に余裕を持たせているんだ」
夜の王は診療所の方を見る。
「採った血の一部は保存している。病気が流行ったり、採血できない者が一時的に増えたりした時のためにね。普段から限界まで採っていたら、何か起きた時に対応できないだろう?」
「それでも足りなくなったら、さっき言ったみたいにあんたたちが我慢するのか?」
「ああ。血を得るために彼らの身体を壊す方が困るからね」
「困るっていうのは、また血を採れなくなるから?」
グレイが尋ねる。
夜の王は少し考えた。
「それもあるよ」
否定しなかった。
「でも、それだけではない。長く見てきた人間が病気になれば心配するし、死ねば悲しい。私にとっては、どちらも本当だよ」
グレイの指先が僅かに動いた。
血が欲しい。
だから健康でいてほしい。
長く生きてほしい。
同時に。
病気になれば心配する。
死ねば悲しい。
利用価値だけを見ているなら、老人まで養う理由はない。
まだ一滴も血を提供していない子供の誕生日を覚える必要もない。
グレイの脳裏に、赤い花の髪飾りをつけたミナの姿が浮かんだ。
夜の王からもらったものだと嬉しそうに話していた少女。
あの笑顔まで、血を得るための演技だったとは思えない。
「夜の王」
「何だい?」
「血を出せなくなった人間も大切だっていうのは、本当なんだな?」
「もちろんだよ」
「まだ一度も血を出してない子供も?」
「大切だよ」
「病気で、この先ずっと採血できない奴でも?」
「変わらないね」
迷いがない。
グレイは視線を落とした。
そこでようやく、自分が何を確かめようとしていたのか少し分かった。
血が目的なら。
血を出せなくなった人間の価値は下がるはずだ。
けれど、夜の王はそうではない。
血を求めている。
人間を何世代にもわたって囲っている。
その一方で、役に立たなくなっても捨てない。
それどころか、最初から血を提供できない者まで同じように守っている。
どちらかが建前なのではない。
両方が本心だった。
「……そこまでして、大事にするのか?」
気づけば、言葉が漏れていた。
夜の王がグレイを見る。
「もちろん。私の物だからね」
穏やかな声だった。
その瞬間。
胸の奥で引っかかっていたものが、僅かに形を持った。
私の物。
夜の王は笑っているわけでもない。
自慢でもない。
支配者であることを誇っている様子もなかった。
子供を大切にすること。
老人を見捨てないこと。
病人を治すこと。
好きな相手と一緒に暮らさせること。
血を採りすぎないこと。
その全てと同じ場所に、その言葉があった。
グレイは口を開きかけて、閉じた。
人間は物じゃない。
そう返すのは簡単だった。
けれど、それだけでは何かを取り落とす気がした。
夜の王は人間を粗末に扱っていない。
所有しているから何をしてもいい、とも考えていない。
むしろ逆だった。
自分のものだから。
健康でいてほしい。
自分のものだから。
穏やかに暮らしてほしい。
自分のものだから。
老いても、病んでも、最後まで守る。
そこにある愛情は、本物だった。
それなのに。
相手が自分から離れていくことだけは、認めない。
グレイは膝の上で重ねた指を見た。
胸の内側に残った感覚は、怒りとは違った。
嫌悪と呼ぶには、目の前の男が穏やかすぎる。
悲しみとも違う。
綺麗に整えられた器を手に取った時、指先にだけ分かる小さな歪みを見つけたような感覚だった。
目を離せば気にならない。
けれど、一度触れてしまえば、そこにあることを忘れられない。
「グレイは違うのかい?」
夜の王が尋ねた。
グレイは顔を上げる。
「俺のこと?」
「ああ。君も大切な者たちを守っているだろう?」
反射的に四人を見る。
ライアン。
ライカ。
セバス。
ロイ。
そして、今はここにいない家族たち。
グレイは少し考えた。
「俺は、こいつらを俺の物だとは思ってないよ。従者って立場ではあるけど、それより先に自分で考えて、自分で選ぶ奴らだからな」
「なるほど」
夜の王は否定しなかった。
「なら、そこは私と君で違うんだろうね」
「たぶん、そうなんだと思う。でも、だからって今すぐあんたが間違ってるとも言えないよ。ここの人間が不幸そうなら簡単だったけど、俺が今日見たものは違ったからな」
「それでいいんじゃないかな」
「そんなに普通に受け入れるんだな。もっと自分のやり方を説明するのかと思ってたよ」
「説明して理解してもらわなければならないことでもないだろう?」
夜の王は穏やかに笑った。
「私が彼らを大切に思っていることと、君がその形を理解できないことは、同時にあってもおかしくないよ」
グレイは少しだけ眉を下げた。
「そう言われると、余計に何て返せばいいのか分からなくなるな。まだ俺自身、どこまで嫌なのかも整理できてないんだ」
「なら、今日は考えるだけでいいよ」
「そうさせてもらう。分からないまま無理に答えを出しても、たぶんろくなことにならないからな」
夜の王が頷く。
それで話は終わった。
夜の王は答えを求めなかった。
グレイも、相手の考えを変えようとはしなかった。
広場を夜風が抜ける。
遠くを、一組の親子が歩いていった。
幼い子供が母親の手を引き、何かを指差している。
母親が笑う。
その姿は、どこにでもある親子と何も変わらなかった。
◇
夜の王と別れたあと、五人を乗せた馬車は内門を進んでいた。
窓の外を、先ほどまで歩いていた街の灯りがゆっくりと流れていく。
グレイは窓側に座り、外を眺めていた。
向かいにはライアンとライカ。
隣にはロイ。
セバスは斜め向かいに座っている。
普段なら、誰かが何かを話している。
今日見た食べ物。
街で見つけた珍しいもの。
宿へ戻った後の予定。
今夜は、しばらく誰も口を開かなかった。
車輪が石畳の継ぎ目を越え、小さく車体が揺れる。
「姫さん」
最初に声を出したのはライアンだった。
「さっきからずっと黙ってるっスけど、やっぱり夜の王の話が引っかかってるんスか?」
グレイは窓から視線を戻した。
「引っかかってるよ。でも、何が嫌なのかって聞かれると、まだ全部はちゃんと説明できないんだ」
「俺も似たような感じっスね」
ライアンは後頭部を掻く。
「中の人たち、不幸そうじゃなかったっスから。飯も食えて、病気なら診てもらえて、家族で普通に暮らしてる。あれ見て可哀想だって決めるのも違う気がするっス」
「俺もそう思う。外から来た俺たちが、本人たちより先に不幸だって決めるのは違うよな」
グレイはライカを見る。
「ライカはどう思った? 俺と同じところが気になったのか?」
ライカはすぐには答えなかった。
膝の上で指を組み、少し考えてから口を開く。
「夜の王が住民の方々を大切にしていることは、本当だと思います。少なくとも、私には演技には見えませんでした」
「そこは俺も同じだよ。だから余計に分からなくなってる」
「ですが、大切だから外へ出さないという考え方は、私には理解しにくいです。本人が幸せに暮らしていたとしても、最初から選択肢そのものを持たせないことまで正しいとは思えません」
ライカは一度窓の外へ目を向けた。
「ただ、私たちが外から来て、その生活を間違っていると決めつけるのも違うのでしょうね」
「そこなんだよな。出られないから不幸だって決めるのも違う。実際、今日見た笑顔まで嘘になるわけじゃないからな」
セバスが静かに口を開いた。
「幸福であることと、自由であることは、必ずしも同じではございませんからな」
グレイがそちらを見る。
「セバスは、あの場所をどう見た?」
「私自身の価値観に照らせば、受け入れ難い部分はございます」
セバスの声は穏やかだった。
「しかし、住民が虐げられているとも申せません。夜の王は彼らを消耗品として扱っておらず、血を提供できなくなった者まで守っている。それもまた事実でございましょう」
「それでも気になる?」
「はい」
セバスは迷わなかった。
「大切にすることと、所有すること。その二つを夜の王は分けて考えておられないように見えました」
グレイはその言葉を聞き、視線を落とした。
所有。
それが一番近いのかもしれない。
自分のものだから大切にする。
大切だから守る。
守るから、離れることを認めない。
夜の王の中では、それが一つに繋がっている。
グレイには、その繋がり方が分からない。
「ロイはどう思った? あんたはさっきからずっと黙ってただろ」
隣を見る。
ロイは窓枠へ軽く肩を預けていた。
「俺は、夜の王の中では筋が通ってると思う」
「人間を囲って血をもらうことが?」
「ああ。血が欲しいなら健康な人間を多く維持した方がいい。一人から大量に採らず、大勢から少しずつ採る。病気なら治す。血が偏るなら外から人を入れる。そこまでは全部合理的だ」
ロイは一度言葉を切る。
「でも、あいつがやってることは、それだけじゃない」
「どういう意味?」
「効率だけなら、一人一人の名前を覚える必要はない。誕生日に髪飾りを贈る必要もないし、もう血を出せない老人まで最後まで養う理由もない」
グレイの脳裏に、赤い花の髪飾りをつけたミナの姿が浮かぶ。
夜の王を見つけ、嬉しそうに駆け寄った少女。
「あいつが人間を大切にしてるのは本当だと思う。ただ、その大切って感覚が俺たちとは違う。それだけだろ」
「違うものを、同じ言葉で呼んでるのか」
「たぶんな」
グレイは背もたれへ身体を預けた。
「それなら、俺がずっと引っかかってたのも少し分かる気がするよ。俺たちと夜の王の『大切』が同じものだと思ってたから、どこかで噛み合わなかったんだな」
馬車の速度が落ちる。
内門の出口が近づいていた。
重い門が開き、馬車が分厚い壁の下へ入る。
車輪の音が一度だけ大きく反響した。
そして壁を抜ける。
外門の夜が広がった。
酒場の灯り。
通りを歩く人々。
食堂から漂う料理の匂い。
グレイは後ろを振り返った。
巨大な門がゆっくり閉じていく。
あの向こうにいる人々は、明日も同じように暮らすのだろう。
朝になれば起きる。
仕事へ行く。
学校へ行く。
誰かと食事をする。
病気になれば診療所へ行く。
歳を取れば仕事を減らす。
健康な成人は、決められた時期に診療所へ行き、身体に無理のない範囲で血を提供する。
その暮らしを不幸と呼ぶには、今日見た人々は穏やかすぎた。
けれど、自分があそこに生まれたいかと問われたなら。
答えは迷わない。
「俺は、あそこじゃ暮らせないと思う」
四人の視線が集まった。
グレイは閉じていく門を見たまま続ける。
「飯が足りないからでも、扱いが悪いからでもないよ。あそこで暮らしてる奴らを不幸だとも思わない。でも、俺自身が一生あの中にいろって言われたら、たぶん耐えられない」
ライアンが僅かに口元を緩めた。
「姫さんなら、一日もしないうちに壁を越えそうっスね」
「一日どころか、その日のうちに出ようとすると思う。でも、今は俺ならどうするかだけで決めちゃ駄目なんだろうな」
グレイは窓から離れた。
「あそこで生まれて、家族も友達も仕事も全部あそこにある奴に、外へ出る方が幸せだって俺が決めることもできない。逆に、出たい奴を閉じ込めていいとも思えないよ」
答えは出ない。
だから今は、それでよかった。
夜の王を倒せば終わるような話ではない。
そもそも、何から救うのかさえ定まっていない。
笑って暮らしている者を壁の外へ連れ出すことが、必ずしも救いになるとは限らない。
けれど。
『もちろん。私の物だからね』
あの穏やかな声だけは、胸に残っている。
夜の王に悪意はない。
むしろ、そこにあるのは間違いなく愛情だった。
だからこそ、グレイには分からなかった。
誰かを心から大切にすることと。
その誰かを、自分のものだと思うこと。
夜の王の中では、その二つの間に境目がない。
馬車が宿の前で止まった。
扉が開き、外門の賑やかな夜の音が近づく。
グレイは先に降りた。
続いて四人も馬車から降りる。
宿の入口へ向かいかけ、グレイは一度だけ振り返った。
遠くに内門の壁が見える。
その向こうにも、同じ夜がある。
同じように人が眠り、明日の朝を待っている。
グレイはしばらく壁を眺めていたが、やがて何も言わずに踵を返した。
答えを出すには、まだ少し早かった。




