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白銀の旅路  作者: 人形遣い
第五章  愛の在り方

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第4話 内門


 内門の前には、朝から二台の荷車が止まっていた。


 片方には大きな木箱がいくつも積まれ、もう片方には麻袋が隙間なく並んでいる。荷台から漂ってくるのは穀物と乾いた草、それに熟した果物の甘い匂いだった。


 昨日まで閉ざされていた巨大な門を見上げながら、グレイは荷車の脇を通り過ぎる。


「今日は随分と荷物が多いな。昨日見た時は、ここまで運び込んでなかっただろ」


「朝の搬入時間と重なったんでしょうね。外門から内門へ運ばれる量として考えれば、かなりのものですが」


 ライカは答えながら、荷台へ目を向けた。


 食料だけではない。布地、薪、石鹸らしき包みまである。


 門の前では衛兵が帳面を確認し、荷物を一つずつ通していた。


 それ自体は普通の光景だった。


 ただ、壁の向こうに暮らしている者たちのことを知ってしまった今では、見え方が少し違う。


 グレイは閉ざされた門へ視線を戻した。


 あの向こうには、夜の王が人間を集めて暮らさせている。


 魔力の高い人間ほど血が美味いから。


 そして、その血を得るために。


 昨日までに分かったことを繋げれば、そういうことになる。


「主、どうした?」


 隣にいたロイに呼ばれ、グレイは顔を向けた。


「中がどんな場所なのか考えてた。話だけ聞くと、あんまりいい場所は想像できないだろ」


「まあな」


 ロイも門を見上げる。


「人間を外に出さず、壁の中で暮らさせてる。理由まで考えれば、普通はろくな光景を想像しない」


「俺もそう思う。だから自分で見た方が早い」


 昨日、夜の王から内門を案内すると告げられた。


 それを断る理由はなかった。


 知りたいと思っていた場所を、その支配者自身が見せると言っている。


 門の脇に立っていた衛兵が五人へ気づき、軽く頭を下げた。


「お待ちしておりました。王はすでに内側でお待ちです」


「分かった。今日はよろしく頼む」


 グレイが答えると、衛兵は詰所へ合図を送った。


 太い鎖が動き、壁の内部から重い歯車の音が響き始める。


 やがて巨大な門扉がゆっくりと開いていった。


 朝の光が、その隙間へ差し込む。


 グレイは無意識に目を細めた。


 閉ざされた区画。


 外から隔離された人間。


 血を得るために管理されている住民。


 もっと狭く、暗い場所だと思っていた。


 建物が密集し、人々が最低限の食事だけを与えられて暮らしているような場所。あるいは逃げ出さないよう衛兵が巡回し、住民が外から来た者を怯えた目で見る場所。


 門が開ききる。


 最初に聞こえてきたのは、子供の笑い声だった。


「……ん?」


 グレイの口から小さな声が漏れる。


 目の前には、広い通りが伸びていた。


 石畳は綺麗に整えられ、両側には白や淡い茶色の壁を持つ家々が並んでいる。建物の間隔は外門より広く、窓辺には花が飾られていた。


 道の脇には一定の間隔で木が植えられ、その下を人々が歩いている。


 朝の洗濯物を籠に入れて運ぶ女性。


 パンを抱えて家へ戻る男。


 杖をついた老人。


 揃いの鞄を持って走っていく子供たち。


 服はどれも清潔だった。


 痩せ細った者も見当たらない。


 それどころか、外門より街全体に余裕がある。


「姫さん。俺、場所間違えたかと思ったんスけど」


 ライアンが珍しく声を落としている。


「俺も同じこと考えてた。昨日通った場所とは違う方から入ったのかと思ったぞ」


「門は同じです」


 ライカが答えながらも、視線は街の奥へ向いていた。


「ですが……これは少し、想像と違いますね」


「少しどころじゃないだろ」


 グレイは門を抜けた。


 四人も続く。


 門の内側で待っていた夜の王が、五人の反応を見て穏やかに笑った。


「おはよう、グレイ。随分と驚いているね」


「おはよう。驚いてるよ。俺、もっと暗くて狭い場所だと思ってたから」


「そう思うのも無理はないかな。外から見れば、高い壁で囲われた区画だからね」


「それだけじゃないけどな」


 グレイは率直に返した。


 夜の王も理由を理解しているのだろう。否定もせず、歩き出す。


「せっかく来てもらったんだ。今日は私が案内しよう。見たい場所があれば遠慮なく言ってくれていいよ」


「じゃあ、なるべく普段の暮らしが分かるところを見たい。綺麗な場所だけ見せられても、俺には判断できないから」


「構わないよ。それなら、まずはこのまま歩こうか」


 夜の王が先へ進む。


 護衛らしい者はいなかった。


 少し離れた場所に衛兵の姿はあるが、王の周囲を固めているわけではない。


 グレイたちは夜の王と並ぶようにして通りを歩いた。


 間もなく、前方から数人の子供が走ってくる。


 十歳にも満たないだろう。


 先頭を走っていた少年が夜の王に気づくと、ぱっと顔を明るくした。


「王様!」


 そのまま勢いよく近づいてくる。


 衛兵が止める様子はない。


「おはよう。今日は随分と急いでいるね」


「先生が鐘が鳴る前に来いって! 昨日、寝るの遅くなったから!」


「それなら私と話している場合ではないんじゃないかな。急がないと、また先生に注意されるよ」


「あっ!」


 少年が慌てて道の先を見る。


 後ろの子供たちが笑った。


「王様のせいで遅れたって言う!」


「それは困るな。私は君を呼び止めていないから、自分で説明してくれ」


「けち!」


 少年は笑いながら再び走り出した。


 他の子供たちも夜の王へ手を振り、その後を追っていく。


 グレイは遠ざかっていく背中を見送った。


「……普通に話しかけるんだな」


「何かおかしいかい?」


「いや。王が歩いてたら、もっと道を空けたり頭を下げたりするものだと思ってた」


「必要な時にはそうしてもらうよ。けれど、普段の散歩まで毎回畏まられていたら疲れるだろう?」


「それは分かる。俺もずっと姫扱いされるのは嫌だったし」


「姫さんは今も姫さんっスけどね」


 ライアンが横から挟む。


 グレイがそちらを見る。


「それはお前が勝手に呼んでるだけだろ。もう王女でもないのに、何百年その呼び方続けるんだよ」


「今さら変える方が気持ち悪いっスよ」


「私も、お姫ちゃん以外で呼ぶ方が違和感がありますね」


「二人とも変える気ないだろ」


 夜の王が小さく笑った。


「愛称というのは、身分が変わっても残るものらしいね」


「そういうことにしておくよ。もう諦めてるから」


 話しているうちに、通りの先から鐘の音が響いた。


 澄んだ音が三度。


 先ほどの子供たちがさらに速度を上げる。


 グレイが鐘の方向を見ると、二階建ての大きな建物があった。


 広い庭を囲う低い柵。


 門から次々と子供が入っていく。


「学校?」


「ああ。読み書きや計算、歴史、それから生活に必要な知識を教えている」


「全員通うのか?」


「年齢に応じてね。本人に向いているものがあれば、そこから専門的な教育へ進むこともあるよ」


 グレイは柵越しに中を見る。


 教師らしい女性が遅れてきた子供を呼び止めていた。


 先ほどの少年が何か言い訳をしている。


 こちらを指差した。


 教師が夜の王を見る。


 夜の王は笑顔のまま首を横に振った。


 少年の肩が落ちる。


「本当に王様のせいにしやがりましたね、あの子」


 ライカが呆れたように言った。


「子供なんてそんなものだろ。俺でもたぶん言うぞ」


「お姫ちゃんは子供の頃から余計なところで正直でしたよ」


「ライカは俺の子供の頃知らないだろ」


「今を見ていれば何となく想像できます」


「それは想像だろ」


 言い返しながらも、グレイの視線は学校へ戻っていた。


 窓は大きく、教室の中まで朝の光が入っている。


 壁際には本棚が見えた。


 机も人数分ある。


 子供たちの顔にも、無理に連れてこられているような様子はない。


 夜の王が歩き出したため、グレイも後を追った。


「学校まであるとは思ってなかった」


「子供がいるなら必要だろう?」


「必要だけど、俺が勝手にもっと最低限の生活を想像してたんだよ。ここまでちゃんと街になってるとは思わなかった」


「最低限で済ませる理由がないからね」


 夜の王はそれだけ答えた。


 その言葉に特別な力は込められていない。


 本当に当然だと思っている声だった。


 学校を過ぎると、小さな広場へ出た。


 中央には噴水があり、その周囲に木製の長椅子が並んでいる。木陰では老人たちが談笑し、少し離れた芝生では幼い子供たちが遊んでいた。


 転がってきた木の球を、ロイが足元で止める。


「あ」


 五歳ほどの少女が立ち止まった。


 ロイは球を拾い上げると、軽く放る。


「ほら」


「ありがとう!」


 少女は両手で受け取り、友達のところへ戻っていく。


 グレイが横目で見る。


「子供の相手、普通にできるんだな」


「球を返しただけだろ」


「もっと面倒そうな顔するかと思ってた」


「主は俺を何だと思ってるんだ?」


「面倒ごとを避ける奴」


「間違ってないが、子供に球を返すくらいはする」


「じゃあ覚えておく」


「何に使うんだ、その情報」


「別に使わない。知らなかったことを知っただけだよ」


 ロイが小さく息を吐いた。


 そのやり取りの間に、夜の王が広場の端へ向かっていた。


 一人の老人が長椅子から立とうとしている。


「座ったままでいいよ、ハルト」


「王様にそんなわけにもいかんだろう」


「先月まで寝込んでいた人が無理に立つ方が困る。今日は顔色がいいね」


 ハルトと呼ばれた老人は、諦めたように腰を戻した。


「もう大丈夫だ。診療所の先生にも、少しずつ歩けって言われてる」


「食事は?」


「食っとるよ。孫がうるさいくらい持ってくる」


「それなら安心した。急に動きすぎないようにね」


「分かっとる。王様も相変わらず心配性だな」


 老人はそう言って笑った。


 夜の王も笑い返し、再び歩き出す。


 グレイは少し遅れて隣へ並んだ。


「名前、覚えてるんだな」


「ハルトのことかい?」


「ああ。あの感じだと、病気だったことも知ってるんだろ」


「長く暮らしているからね。全員のことを何もかも知っているわけではないけれど、顔と名前くらいはなるべく覚えるようにしているよ」


「何人くらい住んでる?」


 夜の王が人数を答える。


 グレイは思っていたより多い数字に眉を上げた。


「それを全部覚えるのは大変じゃないか?」


「長く生きていると、覚える時間だけはたくさんあるからね」


「それはちょっと分かる。でも俺、興味ない名前は普通に忘れるぞ」


「グレイ様、それは胸を張って仰ることではございません」


 セバスが後ろから静かに言う。


「胸張ってないだろ。覚えてないものは仕方ないって言ってるだけだよ」


 広場を抜けると、通りの先に低い建物が見えてきた。


 窓が多く、入口の上には葉を模した印が掲げられている。


「さっきの爺さんが言ってた診療所って、あれ?」


「ああ。医師と治癒術師が常駐している。大きな怪我や病気でなければ、ほとんどはそこで診てもらえるよ」


「治療費は?」


「基本的には取っていない」


 ライカが夜の王を見る。


「無料なのですか?」


「必要な費用は街の側で負担しているよ。病気を我慢される方が困るからね」


「随分と手厚いですね」


「健康でいてもらいたいから」


 夜の王は自然に答え、そのまま診療所の前を通り過ぎた。


 グレイは建物を振り返った。


 健康でいてもらいたい。


 その言葉だけを聞けば、良い王の言葉にしか聞こえない。


 実際、先ほどの老人への態度を見ても、形式だけの気遣いには見えなかった。


 グレイは前へ向き直る。


 まだ見始めたばかりだ。


 今の段階で答えを決める必要もない。


 道は緩やかな坂へ続いていた。


 上った先には、低い石壁に囲まれた果樹園が広がっている。


 枝には赤や黄色の実がいくつもなり、数人が籠を持って収穫していた。少し離れた畑では葉物野菜が列を作り、水路を流れる水が陽光を反射している。


「外からあれだけ食料運んでるのに、中でも作ってるんだな」


「全てを外に頼る必要もないだろう? 果物や野菜はここでもかなり作っているよ」


「土地の使い方が贅沢っスね」


 ライアンが果樹園の向こうまで眺める。


「外門なら、この広さがあれば家を何軒建てるかって話になりそうっス」


「ここでは住民の数を急に増やす必要がないからね。空間には余裕を持たせている」


 夜の王が答える。


 果樹園の入口で働いていた女性がこちらへ気づき、手を振った。


「王様、ちょうどいいところに!」


「どうしたんだい?」


「今年の早生、もう食べられますよ。昨日から収穫始めたんです」


 女性は籠から赤い果実を一つ取り出した。


 夜の王は受け取らず、グレイを見る。


「食べてみるかい?」


「俺がいいの?」


「私は後でも食べられるからね」


 グレイが女性を見ると、彼女も笑って果実を差し出した。


「どうぞ。旅の人でしょう?」


「ありがとう。じゃあ、もらう」


 受け取った果実を袖で軽く拭こうとして、横からライカの手が伸びた。


「お姫ちゃん。そのまま食べないでください」


「今拭こうとしてただろ」


「水場がありますから、洗えば済みます」


「採ったばっかりなんだから平気だと思うけど」


「洗ってください」


「……分かったよ」


 近くの水場で果実を洗い、一口かじる。


 薄い皮の内側から甘い果汁が溢れた。酸味も少しある。


「うまい。昨日外門で買ったやつより甘いかも」


「本当ですか?」


 女性が嬉しそうに笑う。


「ああ。ちゃんと甘いけど酸っぱさも残ってるから、俺はこっちの方が好きだな」


「じゃあ、今年は出来がいいんですね。王様にも後で持っていきますから!」


「ありがとう。楽しみにしているよ」


 夜の王は女性の名前を呼び、今年の収穫量について二、三言尋ねた。


 その間にグレイは残りの果実を食べる。


 種だけになったところで、ライカが小さな布を差し出した。


「手、汚れてますよ」


「ありがと」


「まったく。お姫ちゃんは食べ物があると警戒心が少し下がるんですから」


「下がってないよ。食べながらでも周りは見てる」


「そういう問題ではありません」


 その後も、内門を歩いた。


 大きな共同浴場には朝から湯気が立ち、入口では老人たちが順番を待ちながら話していた。


 住宅街の一角には小さな公園があり、木製の遊具で子供が遊んでいる。


 共同の食堂では昼の準備が始まり、煮込んだ野菜と肉の匂いが通りまで流れていた。


 家の前で繕い物をする女性。


 屋根を修理する男。


 洗濯物を取り込む老人。


 誰もが夜の王を見るたびに、何かしら声をかけた。


「王様、昨日の雨で裏の水路が少し崩れてましたよ」


「報告は受けているよ。午後には人を向かわせる」


「王様! 今度学校で試験あるんだ!」


「それなら勉強しないとね。前回みたいに前日だけで何とかしようとしない方がいいよ」


「なんで知ってるの!」


「先生から聞いたからだよ」


 少年が絶望したような顔をし、周囲の大人たちが笑う。


 少し先では、赤ん坊を抱いた女性が夜の王へ頭を下げた。


「この子、昨日から熱が下がりました」


「それは良かった。念のため、あと二、三日は診療所で診てもらうといい」


「はい。先生にもそう言われました」


 夜の王は赤ん坊の額へ触れることもなく、少し離れたところから顔を覗き込んだ。


「元気になったら、また散歩に連れてきてあげて」


「もちろんです」


 女性が笑って去っていく。


 グレイはその背中を見送りながら歩いた。


 何かがおかしい。


 そう思っているわけではない。


 むしろ、逆だった。


 おかしいところが見つからない。


 それが、想像していたものとの違いを際立たせていた。


 食事は足りている。


 住居も整っている。


 子供は教育を受けている。


 病人は治療される。


 老人も見捨てられていない。


 住民が夜の王を恐れている様子もない。


「お姫ちゃん」


 ライカが隣へ来た。


「何か気になりますか?」


「気になるっていうか、俺が考えてたのと全然違った。もっと嫌な場所なら、嫌だって言えば済んだんだけどな」


 ライカは少しだけ視線を伏せた。


「ええ。私も同じです。少なくとも、ここで暮らしている方々が不幸そうには見えません」


「だよな」


 それ以上は話さなかった。


 今見えているものを、無理に別のものとして解釈する必要はない。


 楽しそうなら楽しそうでいい。


 豊かなら豊かでいい。


 ただ、それが昨日までに知ったこととどう繋がっているのか。


 グレイにはまだ分からなかった。


「王様ー!」


 前方から声がした。


 振り向いた夜の王の表情が、少しだけ柔らかくなる。


 一人の少女がこちらへ走ってきていた。


 十歳を少し過ぎたくらいだろうか。


 淡い茶色の髪を肩の辺りで揃え、薄い青色の服を着ている。手には小さな布袋を抱えていた。


「ミナ。走ると転ぶよ」


「大丈夫!」


 言った直後、石畳の僅かな段差に足を引っかけた。


 身体が前へ傾く。


 グレイが手を伸ばすより早く、少女はどうにか片足を踏み出して持ち直した。


「ほら」


「……今のは転んでないもん」


「転びかけていたね」


「転んでないからいいの!」


 ミナと呼ばれた少女は頬を膨らませた。


 夜の王は叱るでもなく笑っている。


「学校はどうしたんだい?」


「今日は午前で終わり。先生が午後から会議だって」


「そうだったね。それで、どこへ行くところだったのかな?」


「お母さんにこれ届けるの。診療所」


 少女が抱えていた布袋を少し持ち上げる。


「着替え?」


「うん。あと、お昼に食べるパン」


「なら、あまり道草をしてはいけないね」


「王様と話すのは道草じゃないよ」


「それは嬉しいけれど、お母さんを待たせる方が良くないよ」


 少女は少し考え、それから納得したように頷いた。


 そこでようやく、夜の王の隣にいる五人へ興味を向ける。


「この人たち誰?」


「旅の客人だよ。こちらはグレイ。それから、ライアン、ライカ、セバス、ロイ」


 一度聞いただけで全員を紹介する。


 ミナは順番に顔を見ていき、最後にグレイへ戻った。


「グレイ、髪きれい」


「そう? ありがと。ミナもその髪留め似合ってるぞ」


 少女の髪には、小さな赤い花を模した留め具がついていた。


 褒められたミナが嬉しそうに触れる。


「これ、王様にもらったの!」


「そうなのか。じゃあ大事にしないとな」


「うん!」


 迷いのない返事だった。


 夜の王への親しさを隠そうともしていない。


 ミナは今度はライアンの獣耳へ目を向け、それからライカへ移す。


「二人、同じ耳!」


「俺ら双子なんスよ」


「どっちがお兄ちゃん?」


「俺は弟っス」


「にーちゃんは私の弟ですよ」


「お姉ちゃんの方が丁寧にしゃべるんだね」


「よく言われます」


 ライカが微笑む。


 ミナは満足したのか、最後に夜の王を見た。


「じゃあ行ってくる!」


「ああ。お母さんによろしく伝えておいて」


「分かった!」


 今度こそ転ばないようにしたのか、先ほどより少しだけ速度を落として走っていく。


 グレイはその背中を見る。


「随分懐かれてるな」


「ミナは小さい頃からよく話しかけてくるからね」


「髪留めまで贈ってるし」


「あれは去年の誕生日だよ。店先でずっと見ていたから、欲しいのかと思ってね」


「覚えてたんだ」


「誕生日くらいはね」


 夜の王は何でもないことのように答えた。


 グレイは少しだけ口元を緩める。


「優しいんだな」


「そう見えるかい?」


「少なくとも、あの子はそう思ってるだろ。あんな顔で走ってくるなら、嫌われてはいないよ」


「それなら良かった」


 夜の王はミナが消えていった通りを一度だけ見てから、歩き出した。


 その横顔にも不自然なものはなかった。


     ◇


 昼を少し過ぎた頃、五人は再び診療所の前へ戻ってきた。


 朝より人の出入りが多い。


 入口の近くには長椅子が置かれ、腕を包帯で吊った男や、母親に抱かれた子供が順番を待っている。


「せっかくだから、中も見ていくかい?」


 夜の王に尋ねられ、グレイは頷いた。


「見たい。さっきから何度も話に出てたし、どんなところなのか気になってた」


 扉を開けると、薬草の匂いが鼻をくすぐった。


 外から見たより内部は広い。


 受付の奥から左右へ廊下が伸び、いくつもの診察室が並んでいる。白い服を着た者たちが忙しそうに行き来していた。


 夜の王が入ってきても、仕事を止めて一斉に頭を下げるようなことはない。


 受付の女性が顔を上げた。


「王様、見学ですか?」


「ああ。邪魔にならない範囲で案内したいんだ」


「でしたら、今は東側の診察室が空いてます。奥は採取中なので、少し人が多いですけど」


「ありがとう」


 グレイは聞き慣れない言葉に反応した。


「採取?」


「定期的なものだよ」


 夜の王はそれだけ答え、先へ進む。


 診察室には簡素な寝台と机があり、棚には薬瓶や包帯が整然と並んでいた。


 隣の部屋では治癒術師が子供の擦り傷を診ている。


 さらに奥へ歩いた時だった。


 微かな匂いがした。


 グレイの足が止まる。


 鉄に似た匂い。


 人間なら気づかないほど薄い。


 だが、グレイには分かった。


 血だ。


「主?」


 ロイが振り返る。


「いや……血の匂いがする」


 グレイは廊下の奥を見た。


 夜の王も立ち止まる。


「ああ。ちょうど今日は採取の日だったようだね」


「血を?」


「そうだよ」


 夜の王の声は、朝から何一つ変わらなかった。


 グレイは匂いのする方へ歩く。


 廊下の先に開いた扉があった。


 中には十台ほどの椅子が並んでいる。


 そのうち半分ほどが使われていた。


 一人の女性が椅子に腰掛け、袖を肘まで捲っている。


 白衣の男が腕を布で縛り、細い針を刺していた。


 透明な管を通って、赤い液体がゆっくりと瓶へ流れていく。


 別の椅子では若い男が同じように腕を出し、隣の職員と世間話をしていた。


 苦しんでいる者はいない。


 拘束されている者もいない。


 むしろ採取を終えたらしい老人が、渡された飲み物を飲みながら笑っている。


「今日は少なめにしてくれよ。夕方、孫と風呂行くんだから」


「前回も同じこと言ってましたよ。規定以上は採りませんから安心してください」


「分かっとるけど、一応な」


 職員が慣れた様子で答える。


 その隣では、採取した瓶に札が付けられていた。


 名前。


 日付。


 いくつかの数字。


 そして、グレイには分からない記号。


 ライアンが口を閉じる。


 ライカも何も言わなかった。


 セバスの目だけが静かに細くなり、ロイは並べられている瓶を見ている。


 グレイは一歩だけ部屋へ近づいた。


「これ、全員から採ってるのか?」


「体調に問題がない者から、決められた間隔でね。子供や病人、身体の弱っている者からは採らないよ」


 夜の王が答える。


「さっきの爺さんみたいに病気した奴も?」


「回復してすぐには行わない。医師が問題ないと判断するまでは休ませるよ」


 朝、老人へ体調を尋ねていた夜の王の姿が浮かぶ。


 病気を治す。


 食事を与える。


 健康を気遣う。


 その先にあるものが、初めて一つの形になった。


 グレイは瓶へ流れていく赤い血を見つめる。


「これを、あんたが飲むんだな」


「ああ」


 夜の王は隠さなかった。


 声にも後ろめたさはない。


 それはグレイにとって、意外な返事ではなかった。


 そもそも本人の口から、人間の血を飲むと聞いている。


 ただ、言葉で聞くことと、その仕組みを目の前で見ることは同じではない。


「痛くないですか?」


 採取を受けていた女性へ、職員が尋ねる。


「大丈夫。いつも通り」


「気分が悪くなったらすぐ言ってくださいね」


「分かってるわ」


 女性は穏やかに答えた。


 その顔に怯えはない。


 グレイたちが見ていることに気づくと、むしろ不思議そうに首を傾げた。


「見学の人?」


「ああ。旅の客人だよ」


 夜の王が答える。


「へえ。珍しいね」


 女性はそれだけ言って笑った。


 まるで、特別なことなど何もしていないように。


 グレイは返す言葉を探さなかった。


 今はまだ、聞くより見る方がいい。


 隣の台では新しい瓶が用意される。


 栓が外される小さな音。


 布が締められ、針が肌へ入る。


 血が管を通り、透明だった瓶の底へ少しずつ溜まっていく。


 窓の外から子供たちの声が聞こえた。


 診療所の前を走っているのだろう。


 朝から何度も耳にした、明るい笑い声だった。


 グレイは窓へ目を向け、それからもう一度、赤く満ちていく瓶を見る。


 どちらも、この街の日常だった。

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