第4話 内門
内門の前には、朝から二台の荷車が止まっていた。
片方には大きな木箱がいくつも積まれ、もう片方には麻袋が隙間なく並んでいる。荷台から漂ってくるのは穀物と乾いた草、それに熟した果物の甘い匂いだった。
昨日まで閉ざされていた巨大な門を見上げながら、グレイは荷車の脇を通り過ぎる。
「今日は随分と荷物が多いな。昨日見た時は、ここまで運び込んでなかっただろ」
「朝の搬入時間と重なったんでしょうね。外門から内門へ運ばれる量として考えれば、かなりのものですが」
ライカは答えながら、荷台へ目を向けた。
食料だけではない。布地、薪、石鹸らしき包みまである。
門の前では衛兵が帳面を確認し、荷物を一つずつ通していた。
それ自体は普通の光景だった。
ただ、壁の向こうに暮らしている者たちのことを知ってしまった今では、見え方が少し違う。
グレイは閉ざされた門へ視線を戻した。
あの向こうには、夜の王が人間を集めて暮らさせている。
魔力の高い人間ほど血が美味いから。
そして、その血を得るために。
昨日までに分かったことを繋げれば、そういうことになる。
「主、どうした?」
隣にいたロイに呼ばれ、グレイは顔を向けた。
「中がどんな場所なのか考えてた。話だけ聞くと、あんまりいい場所は想像できないだろ」
「まあな」
ロイも門を見上げる。
「人間を外に出さず、壁の中で暮らさせてる。理由まで考えれば、普通はろくな光景を想像しない」
「俺もそう思う。だから自分で見た方が早い」
昨日、夜の王から内門を案内すると告げられた。
それを断る理由はなかった。
知りたいと思っていた場所を、その支配者自身が見せると言っている。
門の脇に立っていた衛兵が五人へ気づき、軽く頭を下げた。
「お待ちしておりました。王はすでに内側でお待ちです」
「分かった。今日はよろしく頼む」
グレイが答えると、衛兵は詰所へ合図を送った。
太い鎖が動き、壁の内部から重い歯車の音が響き始める。
やがて巨大な門扉がゆっくりと開いていった。
朝の光が、その隙間へ差し込む。
グレイは無意識に目を細めた。
閉ざされた区画。
外から隔離された人間。
血を得るために管理されている住民。
もっと狭く、暗い場所だと思っていた。
建物が密集し、人々が最低限の食事だけを与えられて暮らしているような場所。あるいは逃げ出さないよう衛兵が巡回し、住民が外から来た者を怯えた目で見る場所。
門が開ききる。
最初に聞こえてきたのは、子供の笑い声だった。
「……ん?」
グレイの口から小さな声が漏れる。
目の前には、広い通りが伸びていた。
石畳は綺麗に整えられ、両側には白や淡い茶色の壁を持つ家々が並んでいる。建物の間隔は外門より広く、窓辺には花が飾られていた。
道の脇には一定の間隔で木が植えられ、その下を人々が歩いている。
朝の洗濯物を籠に入れて運ぶ女性。
パンを抱えて家へ戻る男。
杖をついた老人。
揃いの鞄を持って走っていく子供たち。
服はどれも清潔だった。
痩せ細った者も見当たらない。
それどころか、外門より街全体に余裕がある。
「姫さん。俺、場所間違えたかと思ったんスけど」
ライアンが珍しく声を落としている。
「俺も同じこと考えてた。昨日通った場所とは違う方から入ったのかと思ったぞ」
「門は同じです」
ライカが答えながらも、視線は街の奥へ向いていた。
「ですが……これは少し、想像と違いますね」
「少しどころじゃないだろ」
グレイは門を抜けた。
四人も続く。
門の内側で待っていた夜の王が、五人の反応を見て穏やかに笑った。
「おはよう、グレイ。随分と驚いているね」
「おはよう。驚いてるよ。俺、もっと暗くて狭い場所だと思ってたから」
「そう思うのも無理はないかな。外から見れば、高い壁で囲われた区画だからね」
「それだけじゃないけどな」
グレイは率直に返した。
夜の王も理由を理解しているのだろう。否定もせず、歩き出す。
「せっかく来てもらったんだ。今日は私が案内しよう。見たい場所があれば遠慮なく言ってくれていいよ」
「じゃあ、なるべく普段の暮らしが分かるところを見たい。綺麗な場所だけ見せられても、俺には判断できないから」
「構わないよ。それなら、まずはこのまま歩こうか」
夜の王が先へ進む。
護衛らしい者はいなかった。
少し離れた場所に衛兵の姿はあるが、王の周囲を固めているわけではない。
グレイたちは夜の王と並ぶようにして通りを歩いた。
間もなく、前方から数人の子供が走ってくる。
十歳にも満たないだろう。
先頭を走っていた少年が夜の王に気づくと、ぱっと顔を明るくした。
「王様!」
そのまま勢いよく近づいてくる。
衛兵が止める様子はない。
「おはよう。今日は随分と急いでいるね」
「先生が鐘が鳴る前に来いって! 昨日、寝るの遅くなったから!」
「それなら私と話している場合ではないんじゃないかな。急がないと、また先生に注意されるよ」
「あっ!」
少年が慌てて道の先を見る。
後ろの子供たちが笑った。
「王様のせいで遅れたって言う!」
「それは困るな。私は君を呼び止めていないから、自分で説明してくれ」
「けち!」
少年は笑いながら再び走り出した。
他の子供たちも夜の王へ手を振り、その後を追っていく。
グレイは遠ざかっていく背中を見送った。
「……普通に話しかけるんだな」
「何かおかしいかい?」
「いや。王が歩いてたら、もっと道を空けたり頭を下げたりするものだと思ってた」
「必要な時にはそうしてもらうよ。けれど、普段の散歩まで毎回畏まられていたら疲れるだろう?」
「それは分かる。俺もずっと姫扱いされるのは嫌だったし」
「姫さんは今も姫さんっスけどね」
ライアンが横から挟む。
グレイがそちらを見る。
「それはお前が勝手に呼んでるだけだろ。もう王女でもないのに、何百年その呼び方続けるんだよ」
「今さら変える方が気持ち悪いっスよ」
「私も、お姫ちゃん以外で呼ぶ方が違和感がありますね」
「二人とも変える気ないだろ」
夜の王が小さく笑った。
「愛称というのは、身分が変わっても残るものらしいね」
「そういうことにしておくよ。もう諦めてるから」
話しているうちに、通りの先から鐘の音が響いた。
澄んだ音が三度。
先ほどの子供たちがさらに速度を上げる。
グレイが鐘の方向を見ると、二階建ての大きな建物があった。
広い庭を囲う低い柵。
門から次々と子供が入っていく。
「学校?」
「ああ。読み書きや計算、歴史、それから生活に必要な知識を教えている」
「全員通うのか?」
「年齢に応じてね。本人に向いているものがあれば、そこから専門的な教育へ進むこともあるよ」
グレイは柵越しに中を見る。
教師らしい女性が遅れてきた子供を呼び止めていた。
先ほどの少年が何か言い訳をしている。
こちらを指差した。
教師が夜の王を見る。
夜の王は笑顔のまま首を横に振った。
少年の肩が落ちる。
「本当に王様のせいにしやがりましたね、あの子」
ライカが呆れたように言った。
「子供なんてそんなものだろ。俺でもたぶん言うぞ」
「お姫ちゃんは子供の頃から余計なところで正直でしたよ」
「ライカは俺の子供の頃知らないだろ」
「今を見ていれば何となく想像できます」
「それは想像だろ」
言い返しながらも、グレイの視線は学校へ戻っていた。
窓は大きく、教室の中まで朝の光が入っている。
壁際には本棚が見えた。
机も人数分ある。
子供たちの顔にも、無理に連れてこられているような様子はない。
夜の王が歩き出したため、グレイも後を追った。
「学校まであるとは思ってなかった」
「子供がいるなら必要だろう?」
「必要だけど、俺が勝手にもっと最低限の生活を想像してたんだよ。ここまでちゃんと街になってるとは思わなかった」
「最低限で済ませる理由がないからね」
夜の王はそれだけ答えた。
その言葉に特別な力は込められていない。
本当に当然だと思っている声だった。
学校を過ぎると、小さな広場へ出た。
中央には噴水があり、その周囲に木製の長椅子が並んでいる。木陰では老人たちが談笑し、少し離れた芝生では幼い子供たちが遊んでいた。
転がってきた木の球を、ロイが足元で止める。
「あ」
五歳ほどの少女が立ち止まった。
ロイは球を拾い上げると、軽く放る。
「ほら」
「ありがとう!」
少女は両手で受け取り、友達のところへ戻っていく。
グレイが横目で見る。
「子供の相手、普通にできるんだな」
「球を返しただけだろ」
「もっと面倒そうな顔するかと思ってた」
「主は俺を何だと思ってるんだ?」
「面倒ごとを避ける奴」
「間違ってないが、子供に球を返すくらいはする」
「じゃあ覚えておく」
「何に使うんだ、その情報」
「別に使わない。知らなかったことを知っただけだよ」
ロイが小さく息を吐いた。
そのやり取りの間に、夜の王が広場の端へ向かっていた。
一人の老人が長椅子から立とうとしている。
「座ったままでいいよ、ハルト」
「王様にそんなわけにもいかんだろう」
「先月まで寝込んでいた人が無理に立つ方が困る。今日は顔色がいいね」
ハルトと呼ばれた老人は、諦めたように腰を戻した。
「もう大丈夫だ。診療所の先生にも、少しずつ歩けって言われてる」
「食事は?」
「食っとるよ。孫がうるさいくらい持ってくる」
「それなら安心した。急に動きすぎないようにね」
「分かっとる。王様も相変わらず心配性だな」
老人はそう言って笑った。
夜の王も笑い返し、再び歩き出す。
グレイは少し遅れて隣へ並んだ。
「名前、覚えてるんだな」
「ハルトのことかい?」
「ああ。あの感じだと、病気だったことも知ってるんだろ」
「長く暮らしているからね。全員のことを何もかも知っているわけではないけれど、顔と名前くらいはなるべく覚えるようにしているよ」
「何人くらい住んでる?」
夜の王が人数を答える。
グレイは思っていたより多い数字に眉を上げた。
「それを全部覚えるのは大変じゃないか?」
「長く生きていると、覚える時間だけはたくさんあるからね」
「それはちょっと分かる。でも俺、興味ない名前は普通に忘れるぞ」
「グレイ様、それは胸を張って仰ることではございません」
セバスが後ろから静かに言う。
「胸張ってないだろ。覚えてないものは仕方ないって言ってるだけだよ」
広場を抜けると、通りの先に低い建物が見えてきた。
窓が多く、入口の上には葉を模した印が掲げられている。
「さっきの爺さんが言ってた診療所って、あれ?」
「ああ。医師と治癒術師が常駐している。大きな怪我や病気でなければ、ほとんどはそこで診てもらえるよ」
「治療費は?」
「基本的には取っていない」
ライカが夜の王を見る。
「無料なのですか?」
「必要な費用は街の側で負担しているよ。病気を我慢される方が困るからね」
「随分と手厚いですね」
「健康でいてもらいたいから」
夜の王は自然に答え、そのまま診療所の前を通り過ぎた。
グレイは建物を振り返った。
健康でいてもらいたい。
その言葉だけを聞けば、良い王の言葉にしか聞こえない。
実際、先ほどの老人への態度を見ても、形式だけの気遣いには見えなかった。
グレイは前へ向き直る。
まだ見始めたばかりだ。
今の段階で答えを決める必要もない。
道は緩やかな坂へ続いていた。
上った先には、低い石壁に囲まれた果樹園が広がっている。
枝には赤や黄色の実がいくつもなり、数人が籠を持って収穫していた。少し離れた畑では葉物野菜が列を作り、水路を流れる水が陽光を反射している。
「外からあれだけ食料運んでるのに、中でも作ってるんだな」
「全てを外に頼る必要もないだろう? 果物や野菜はここでもかなり作っているよ」
「土地の使い方が贅沢っスね」
ライアンが果樹園の向こうまで眺める。
「外門なら、この広さがあれば家を何軒建てるかって話になりそうっス」
「ここでは住民の数を急に増やす必要がないからね。空間には余裕を持たせている」
夜の王が答える。
果樹園の入口で働いていた女性がこちらへ気づき、手を振った。
「王様、ちょうどいいところに!」
「どうしたんだい?」
「今年の早生、もう食べられますよ。昨日から収穫始めたんです」
女性は籠から赤い果実を一つ取り出した。
夜の王は受け取らず、グレイを見る。
「食べてみるかい?」
「俺がいいの?」
「私は後でも食べられるからね」
グレイが女性を見ると、彼女も笑って果実を差し出した。
「どうぞ。旅の人でしょう?」
「ありがとう。じゃあ、もらう」
受け取った果実を袖で軽く拭こうとして、横からライカの手が伸びた。
「お姫ちゃん。そのまま食べないでください」
「今拭こうとしてただろ」
「水場がありますから、洗えば済みます」
「採ったばっかりなんだから平気だと思うけど」
「洗ってください」
「……分かったよ」
近くの水場で果実を洗い、一口かじる。
薄い皮の内側から甘い果汁が溢れた。酸味も少しある。
「うまい。昨日外門で買ったやつより甘いかも」
「本当ですか?」
女性が嬉しそうに笑う。
「ああ。ちゃんと甘いけど酸っぱさも残ってるから、俺はこっちの方が好きだな」
「じゃあ、今年は出来がいいんですね。王様にも後で持っていきますから!」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
夜の王は女性の名前を呼び、今年の収穫量について二、三言尋ねた。
その間にグレイは残りの果実を食べる。
種だけになったところで、ライカが小さな布を差し出した。
「手、汚れてますよ」
「ありがと」
「まったく。お姫ちゃんは食べ物があると警戒心が少し下がるんですから」
「下がってないよ。食べながらでも周りは見てる」
「そういう問題ではありません」
その後も、内門を歩いた。
大きな共同浴場には朝から湯気が立ち、入口では老人たちが順番を待ちながら話していた。
住宅街の一角には小さな公園があり、木製の遊具で子供が遊んでいる。
共同の食堂では昼の準備が始まり、煮込んだ野菜と肉の匂いが通りまで流れていた。
家の前で繕い物をする女性。
屋根を修理する男。
洗濯物を取り込む老人。
誰もが夜の王を見るたびに、何かしら声をかけた。
「王様、昨日の雨で裏の水路が少し崩れてましたよ」
「報告は受けているよ。午後には人を向かわせる」
「王様! 今度学校で試験あるんだ!」
「それなら勉強しないとね。前回みたいに前日だけで何とかしようとしない方がいいよ」
「なんで知ってるの!」
「先生から聞いたからだよ」
少年が絶望したような顔をし、周囲の大人たちが笑う。
少し先では、赤ん坊を抱いた女性が夜の王へ頭を下げた。
「この子、昨日から熱が下がりました」
「それは良かった。念のため、あと二、三日は診療所で診てもらうといい」
「はい。先生にもそう言われました」
夜の王は赤ん坊の額へ触れることもなく、少し離れたところから顔を覗き込んだ。
「元気になったら、また散歩に連れてきてあげて」
「もちろんです」
女性が笑って去っていく。
グレイはその背中を見送りながら歩いた。
何かがおかしい。
そう思っているわけではない。
むしろ、逆だった。
おかしいところが見つからない。
それが、想像していたものとの違いを際立たせていた。
食事は足りている。
住居も整っている。
子供は教育を受けている。
病人は治療される。
老人も見捨てられていない。
住民が夜の王を恐れている様子もない。
「お姫ちゃん」
ライカが隣へ来た。
「何か気になりますか?」
「気になるっていうか、俺が考えてたのと全然違った。もっと嫌な場所なら、嫌だって言えば済んだんだけどな」
ライカは少しだけ視線を伏せた。
「ええ。私も同じです。少なくとも、ここで暮らしている方々が不幸そうには見えません」
「だよな」
それ以上は話さなかった。
今見えているものを、無理に別のものとして解釈する必要はない。
楽しそうなら楽しそうでいい。
豊かなら豊かでいい。
ただ、それが昨日までに知ったこととどう繋がっているのか。
グレイにはまだ分からなかった。
「王様ー!」
前方から声がした。
振り向いた夜の王の表情が、少しだけ柔らかくなる。
一人の少女がこちらへ走ってきていた。
十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
淡い茶色の髪を肩の辺りで揃え、薄い青色の服を着ている。手には小さな布袋を抱えていた。
「ミナ。走ると転ぶよ」
「大丈夫!」
言った直後、石畳の僅かな段差に足を引っかけた。
身体が前へ傾く。
グレイが手を伸ばすより早く、少女はどうにか片足を踏み出して持ち直した。
「ほら」
「……今のは転んでないもん」
「転びかけていたね」
「転んでないからいいの!」
ミナと呼ばれた少女は頬を膨らませた。
夜の王は叱るでもなく笑っている。
「学校はどうしたんだい?」
「今日は午前で終わり。先生が午後から会議だって」
「そうだったね。それで、どこへ行くところだったのかな?」
「お母さんにこれ届けるの。診療所」
少女が抱えていた布袋を少し持ち上げる。
「着替え?」
「うん。あと、お昼に食べるパン」
「なら、あまり道草をしてはいけないね」
「王様と話すのは道草じゃないよ」
「それは嬉しいけれど、お母さんを待たせる方が良くないよ」
少女は少し考え、それから納得したように頷いた。
そこでようやく、夜の王の隣にいる五人へ興味を向ける。
「この人たち誰?」
「旅の客人だよ。こちらはグレイ。それから、ライアン、ライカ、セバス、ロイ」
一度聞いただけで全員を紹介する。
ミナは順番に顔を見ていき、最後にグレイへ戻った。
「グレイ、髪きれい」
「そう? ありがと。ミナもその髪留め似合ってるぞ」
少女の髪には、小さな赤い花を模した留め具がついていた。
褒められたミナが嬉しそうに触れる。
「これ、王様にもらったの!」
「そうなのか。じゃあ大事にしないとな」
「うん!」
迷いのない返事だった。
夜の王への親しさを隠そうともしていない。
ミナは今度はライアンの獣耳へ目を向け、それからライカへ移す。
「二人、同じ耳!」
「俺ら双子なんスよ」
「どっちがお兄ちゃん?」
「俺は弟っス」
「にーちゃんは私の弟ですよ」
「お姉ちゃんの方が丁寧にしゃべるんだね」
「よく言われます」
ライカが微笑む。
ミナは満足したのか、最後に夜の王を見た。
「じゃあ行ってくる!」
「ああ。お母さんによろしく伝えておいて」
「分かった!」
今度こそ転ばないようにしたのか、先ほどより少しだけ速度を落として走っていく。
グレイはその背中を見る。
「随分懐かれてるな」
「ミナは小さい頃からよく話しかけてくるからね」
「髪留めまで贈ってるし」
「あれは去年の誕生日だよ。店先でずっと見ていたから、欲しいのかと思ってね」
「覚えてたんだ」
「誕生日くらいはね」
夜の王は何でもないことのように答えた。
グレイは少しだけ口元を緩める。
「優しいんだな」
「そう見えるかい?」
「少なくとも、あの子はそう思ってるだろ。あんな顔で走ってくるなら、嫌われてはいないよ」
「それなら良かった」
夜の王はミナが消えていった通りを一度だけ見てから、歩き出した。
その横顔にも不自然なものはなかった。
◇
昼を少し過ぎた頃、五人は再び診療所の前へ戻ってきた。
朝より人の出入りが多い。
入口の近くには長椅子が置かれ、腕を包帯で吊った男や、母親に抱かれた子供が順番を待っている。
「せっかくだから、中も見ていくかい?」
夜の王に尋ねられ、グレイは頷いた。
「見たい。さっきから何度も話に出てたし、どんなところなのか気になってた」
扉を開けると、薬草の匂いが鼻をくすぐった。
外から見たより内部は広い。
受付の奥から左右へ廊下が伸び、いくつもの診察室が並んでいる。白い服を着た者たちが忙しそうに行き来していた。
夜の王が入ってきても、仕事を止めて一斉に頭を下げるようなことはない。
受付の女性が顔を上げた。
「王様、見学ですか?」
「ああ。邪魔にならない範囲で案内したいんだ」
「でしたら、今は東側の診察室が空いてます。奥は採取中なので、少し人が多いですけど」
「ありがとう」
グレイは聞き慣れない言葉に反応した。
「採取?」
「定期的なものだよ」
夜の王はそれだけ答え、先へ進む。
診察室には簡素な寝台と机があり、棚には薬瓶や包帯が整然と並んでいた。
隣の部屋では治癒術師が子供の擦り傷を診ている。
さらに奥へ歩いた時だった。
微かな匂いがした。
グレイの足が止まる。
鉄に似た匂い。
人間なら気づかないほど薄い。
だが、グレイには分かった。
血だ。
「主?」
ロイが振り返る。
「いや……血の匂いがする」
グレイは廊下の奥を見た。
夜の王も立ち止まる。
「ああ。ちょうど今日は採取の日だったようだね」
「血を?」
「そうだよ」
夜の王の声は、朝から何一つ変わらなかった。
グレイは匂いのする方へ歩く。
廊下の先に開いた扉があった。
中には十台ほどの椅子が並んでいる。
そのうち半分ほどが使われていた。
一人の女性が椅子に腰掛け、袖を肘まで捲っている。
白衣の男が腕を布で縛り、細い針を刺していた。
透明な管を通って、赤い液体がゆっくりと瓶へ流れていく。
別の椅子では若い男が同じように腕を出し、隣の職員と世間話をしていた。
苦しんでいる者はいない。
拘束されている者もいない。
むしろ採取を終えたらしい老人が、渡された飲み物を飲みながら笑っている。
「今日は少なめにしてくれよ。夕方、孫と風呂行くんだから」
「前回も同じこと言ってましたよ。規定以上は採りませんから安心してください」
「分かっとるけど、一応な」
職員が慣れた様子で答える。
その隣では、採取した瓶に札が付けられていた。
名前。
日付。
いくつかの数字。
そして、グレイには分からない記号。
ライアンが口を閉じる。
ライカも何も言わなかった。
セバスの目だけが静かに細くなり、ロイは並べられている瓶を見ている。
グレイは一歩だけ部屋へ近づいた。
「これ、全員から採ってるのか?」
「体調に問題がない者から、決められた間隔でね。子供や病人、身体の弱っている者からは採らないよ」
夜の王が答える。
「さっきの爺さんみたいに病気した奴も?」
「回復してすぐには行わない。医師が問題ないと判断するまでは休ませるよ」
朝、老人へ体調を尋ねていた夜の王の姿が浮かぶ。
病気を治す。
食事を与える。
健康を気遣う。
その先にあるものが、初めて一つの形になった。
グレイは瓶へ流れていく赤い血を見つめる。
「これを、あんたが飲むんだな」
「ああ」
夜の王は隠さなかった。
声にも後ろめたさはない。
それはグレイにとって、意外な返事ではなかった。
そもそも本人の口から、人間の血を飲むと聞いている。
ただ、言葉で聞くことと、その仕組みを目の前で見ることは同じではない。
「痛くないですか?」
採取を受けていた女性へ、職員が尋ねる。
「大丈夫。いつも通り」
「気分が悪くなったらすぐ言ってくださいね」
「分かってるわ」
女性は穏やかに答えた。
その顔に怯えはない。
グレイたちが見ていることに気づくと、むしろ不思議そうに首を傾げた。
「見学の人?」
「ああ。旅の客人だよ」
夜の王が答える。
「へえ。珍しいね」
女性はそれだけ言って笑った。
まるで、特別なことなど何もしていないように。
グレイは返す言葉を探さなかった。
今はまだ、聞くより見る方がいい。
隣の台では新しい瓶が用意される。
栓が外される小さな音。
布が締められ、針が肌へ入る。
血が管を通り、透明だった瓶の底へ少しずつ溜まっていく。
窓の外から子供たちの声が聞こえた。
診療所の前を走っているのだろう。
朝から何度も耳にした、明るい笑い声だった。
グレイは窓へ目を向け、それからもう一度、赤く満ちていく瓶を見る。
どちらも、この街の日常だった。




