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白銀の旅路  作者: 人形遣い
第一章「二頭の金獅子と亡国の姫」

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第5話 金獅子の王子と姫


 山へ向かう街道は、朝から薄い霧に包まれていた。


 昨日までの乾いた平原とは違い、辺りには背の高い木々が増えている。夜の間に降った雨が葉の先へ残り、ときおり雫となって落ちていた。


 土の匂いも濃い。


 遠くに見える山肌には白い霧がまとわりつき、そのさらに奥から、規則正しく何かを叩く音が響いている。


 金属。


 一定の間隔を置いて、硬い音が朝の空気を震わせていた。


「聞こえるな」


 グレイが足を止める。


「鉱山の町が近いっスね」


 ライアンが答えた。


「まだ見えないぞ」


「この辺は音が結構遠くまで響くんスよ。山に囲まれてるから余計に」


「へえ」


 グレイは耳を澄ませる。


 金属を叩く音だけではない。


 もっと低い音もある。


 何かを削る音。


 荷車の車輪。


 獣の鳴き声。


 人の声。


 まだ姿すら見えない町の気配が、山の向こうから届いていた。


「お姫ちゃん」


「ん?」


「歩きながら聞いてください。放っておくと、そのまま一時間くらい立っていそうです」


「そんなに立たない」


「昨日、川で魚を見て十分くらい止まってたっスよ」


「あれは魚が珍しかったからだ」


「魚くらいどこにでもいるっス」


「俺の故郷には、あんな川なかったんだよ」


 言い返しながら歩き出す。


 ライアンとライカも続いた。


 三人で旅を始めてから、いくつかの街や村を通った。


 野営もした。


 魔物とも戦った。


 知らない食べ物を食べ、知らない植物を教えてもらい、グレイは初めて舟にも乗った。


 気付けば、朝起きて二人の声が聞こえることにも慣れていた。


 右からライアン。


 左からライカ。


 道幅が狭くなれば誰かが前へ出るが、広い街道へ戻ると自然に三人が並ぶ。


 最初に誰がそうしたのかは分からない。


「そういえば」


 グレイが前を見たまま口を開く。


「お前ら、鉱山の町にも来たことあるんだよな?」


「ありますよ」


「何回?」


「俺は三回くらいっスかね」


「私も同じです」


「いつ?」


「旅に出てから二回。それより前に一度ですね」


「へえ」


 グレイは少し考える。


「じゃあ、お前ら結構色んなところに行ってるのか?」


「国の中ならそれなりに」


 ライカが答えた。


「まだ行ったことのない場所も多いですが」


「国の外は?」


「ありません」


「ないのか」


「今回の修行は国内を知ることが目的ですので」


「ふうん」


 グレイは横目で二人を見る。


 以前から少し気になっていた。


 二人は旅慣れている。


 野営もできる。


 土地にも詳しい。


 魔物との戦いにも慣れている。


 それ自体は修行の旅をしているなら不思議ではない。


 だが、ときどき妙なところがある。


 宿へ入れば、主人が二人の顔を見て一瞬だけ態度を変えることがある。


 街によっては、門兵が二人を見るなり姿勢を正した。


 ライアンは気にせず話し、ライカは何事もなかったように通り過ぎる。


 それに。


「なあ」


「なんスか?」


「前から思ってたんだけど」


「はい」


「お前らって、結局何者なんだ?」


 ライアンの耳が動いた。


 ライカの尾も一度だけ揺れる。


「急っスね」


「俺は自分が姫だったって言っただろ」


「半分くらい信じてるっス」


「まだ半分なのかよ」


「俺は今七割くらいまで上がったっスよ」


「何を基準に上がってるんだ」


「お姫ちゃん」


 ライカが横から口を挟む。


「私は八割くらいです」


「お前らの中で俺の王女判定どうなってるんだよ」


「だってお姫ちゃん、昨日も宿の窓から屋根に登ろうとしていたでしょう」


「あれは景色が見たかったからだ」


「普通の王女は窓から屋根に登らないと思います」


「王女だって屋根くらい登るだろ」


「登らないっスよ」


「お前ら王女を何だと思ってるんだ」


 言ってから、ふと気付く。


 二人が妙な顔をしている。


 ライアンは少し笑いを堪えているような。


 ライカはいつもの澄ました顔だが、金色の尾が動いている。


「……なんだ?」


「いやぁ」


「言え」


「姫さんが王女について語ってるの、ちょっと面白いなと思って」


「俺は王女だったんだから詳しくて当然だろ」


「そうっスね」


「絶対信じてないだろ」


「七割信じてるっス」


「残り三割を今すぐ埋めろ」


「無茶言わないでほしいっス」


 ライアンが笑う。


 グレイは少し頬を膨らませた。


「で、お前らは?」


「俺たち?」


「ああ。人の上に立つ立場になるって言ってただろ」


 初めて三人で朝食を取った日。


 二人はそう話していた。


 城の中から国を眺めるだけでは駄目だから、自分たちの足で国を見る。


 それが修行なのだと。


「貴族か?」


「まあ、近いっスね」


「近いって何だよ」


「貴族より少し上です」


 ライカがさらりと言った。


 グレイが歩みを止める。


 二人は数歩進んでから振り返った。


「……上?」


「はい」


「貴族より?」


「そうです」


 グレイは二人を見る。


 金色の髪。


 金色の獅子耳。


 尾。


 この国へ入ってから、金獅子の獣人そのものをほとんど見ていない。


 珍しい種族なのだろうとは思っていた。


 そこへ、いずれ人の上に立つという話。


 城の中から国を見るなと教えられた。


 そして、貴族より上。


「…………」


「姫さん?」


「お前ら」


「はい」


「もしかして王族か?」


 ライアンとライカが顔を見合わせる。


 ほんの一瞬。


 それからライアンが頭を掻いた。


「まあ、そうっスね」


「…………」


「何です、その顔」


 ライカが首を傾げる。


「いや」


 グレイは二人を交互に見る。


「本当に?」


「姫さん、自分が疑われた時あんなに怒ってたじゃないっスか!」


「だってお前ら全然それっぽくないだろ!」


「姫さんに言われたくないっス!」


「俺は一応それなりに王女してたぞ!」


「屋根に登る王女が?」


「それは今の話だ!」


「お姫ちゃん」


 ライカが静かに手を上げる。


「何だ?」


「私たちも、同じことを思っています」


「何を?」


「お姫ちゃんが王女らしくないと」


「お前まで!」


 三人の声が朝の山道へ響いた。


 近くの木に止まっていた鳥が飛んでいく。


 グレイは少しだけ息を吐く。


「……で?」


「何がっスか?」


「どっちが?」


「どっち?」


「王になるんだ?」


 双子。


 姉と弟。


 二人とも王族なら、後継者の問題がある。


 グレイ自身も王族として育った。


 それくらいは分かる。


 だが、ライアンは首を傾げた。


「まだ決まってないっスよ」


「だから二人で修行しています」


「そうなのか」


「俺が弟なんで、普通ならねーちゃんの方が先っスけどね」


「それだけでは決めないということです」


 ライカの声音が少しだけ真面目になる。


「王になる者に必要なのは、生まれた順番だけではありませんから」


 グレイはライカを見る。


 昨日までと変わらない顔。


 それでも、その言葉だけは少し違って聞こえた。


「だから国を見るのか」


「はい」


「町も村も?」


「そうです」


「困ってる奴を手伝ってたのも?」


「それだけが理由ではありませんけどね」


 ライアンが笑う。


「困ってる奴いたら、普通に放っとけないじゃないっスか」


「……そうだな」


 グレイは小さく頷いた。


 少し納得した。


 二人が旅をしている理由。


 町を見る理由。


 村人と話す理由。


 魔物退治を手伝う理由。


 全部が繋がった気がした。


「金獅子の王族、か」


「そうっス」


「ライカがお姫様」


「はい」


「ライアンが王子」


「そうっスよ」


 グレイはライアンを見る。


「……王子」


「なんで俺だけ疑うんスか!?」


「軽いから」


「姫さんに言われたくない!」


「俺は軽くない」


「昨日、屋根から飛び降りてたじゃないっスか!」


「あれは空間魔法で着地できるからだ」


「そういう問題じゃないっス!」


「にーちゃん」


 ライカが横から言う。


「諦めやがってください。お姫ちゃんの中では、にーちゃんと王子という言葉がまだ結びついていないのでしょう」


「ねーちゃんまで酷くない!?」


 グレイは思わず笑った。


「王子様」


「やめてほしいっス!」


「なんでだよ。王子なんだろ?」


「姫さんに言われると馬鹿にされてる感じするっス!」


「してる」


「やっぱり!」


 ライアンの金色の耳が伏せる。


 その姿を見れば見るほど、王子には見えない。


 だが。


 不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、少し安心した。


 身分を明かしたからといって、二人は変わらない。


 ライアンはライアン。


 ライカはライカ。


 昨日までと同じだ。


「じゃあ俺も呼び方変えた方がいいか?」


 グレイが尋ねる。


「何に?」


「王子様」


「絶対嫌っス」


「ライカ姫」


「やめやがってください」


「二人とも嫌なのかよ」


「今まで通りでいいっスよ」


「私もライカで構いません」


「そうか」


 グレイは前を向く。


「じゃあ今まで通りで」


「姫さんも今まで通りっスね」


「お姫ちゃんも」


「ああ」


 それで話は終わった。


 王子だからといって、ライアンの歩き方が変わるわけではない。


 姫だからといって、ライカが急に畏まるわけでもない。


 三人はまた同じ道を歩き始めた。


     ◇


 鉱山の町へ着いたのは昼前だった。


 山の斜面に沿って造られた町だった。


 石造りの建物が多く、至るところから煙が上がっている。


 街へ入った瞬間、熱気が肌を撫でた。


 炉。


 いくつもの工房で火が焚かれている。


 金属を打つ音があちこちから響き、荷車には鉱山から運び出された鉱石が積まれていた。


「すごいな」


 グレイの視線が動く。


「姫さん、前見て歩くっスよ」


「見てる」


「今、横しか見てなかったっス」


「前も見えてる」


「どうやって?」


「気配」


「便利っスね、その身体」


 ライアンが何気なく言った。


 グレイの足がほんの少しだけ止まりかける。


 その身体。


 悪意のない言葉。


 だからこそ。


 胸の奥に引っかかった。


「姫さん?」


「……何でもない」


 歩き出す。


 ライアンは気付かなかったらしい。


 ライカだけが一度こちらを見た。


 だが、何も言わなかった。


 町の中を歩く。


 グレイは初めて見る鉱石や道具へ何度も足を止めた。


 魔石を扱う店にも入った。


 小さな魔石。


 属性を帯びたもの。


 魔導具へ組み込むために加工されたもの。


「これで魔導具を作るのか?」


「ものによりますね」


 店主の説明を聞きながら、グレイは一つずつ眺める。


 故郷にも魔導具はあった。


 王宮には優秀な魔導士もいた。


 けれど、国が違えば技術の発展の仕方も違う。


 面白かった。


 もっと知りたい。


 何に使うのか。


 どう加工するのか。


 聞きたいことはいくらでも出てくる。


「姫さん」


「なんだ?」


「もう一時間っス」


「まだそれだけ?」


「俺たち腹減ったっス」


「先に食ってていいぞ」


「お姫ちゃんを置いていけません」


「なんで?」


「放っておいたら夕方までいるでしょう?」


「……いるかも」


「ほら」


 ライカに腕を掴まれる。


「待て。あっちまだ見てない」


「昼食後にしやがってください」


「逃げないだろ」


「鉱石は逃げませんが、にーちゃんの腹が限界です」


「ねーちゃん、俺を理由にしないでほしいっス!」


 グレイは引っ張られながら店を出た。


     ◇


 昼食を終えた後。


 三人は町の奥にある展望台へ向かった。


 鉱山全体が見える場所らしい。


 石造りの階段を登る。


 町を見下ろせる高さまで来ると、風が強くなった。


「おお……」


 グレイは手すりへ近づく。


 山肌に大きな穴が開いている。


 鉱山の入口。


 そこから何本もの道が伸び、荷車が行き交っていた。


 反対側には町。


 さらに遠くには、ここまで三人で歩いてきた道が見える。


「随分来たな」


「何がっスか?」


「最初の街から」


「そうっスね」


 ライアンが隣へ立つ。


 ライカも少し離れたところから景色を見ていた。


「姫さん」


「ん?」


「この後どうするんスか?」


「この後?」


「鉱山の町を出た後っス」


「川」


「釣りの話じゃなくて!」


「じゃあ何だよ」


「その後っスよ」


 グレイは遠くを見る。


「決めてない」


「やっぱり?」


「ああ」


 旅の目的地はない。


 自分を知る。


 世界を見る。


 それだけ。


「お前らは?」


「もう少し北へ行く予定っス」


「北?」


「山沿いにいくつか町があります」


 ライカが地図を取り出した。


「その後、一度西側へ回る予定です」


「結構遠いな」


「時間はありますから」


「そうか」


 グレイは地図を見る。


 自分には関係のない道。


 そう考えればいい。


 自分は好きな場所へ行けばいいのだから。


「姫さんも来るっスか?」


 ライアンが尋ねる。


 グレイは顔を上げる。


「俺も?」


「別に行き先決まってないんでしょ?」


「まあ」


「じゃあ一緒でいいじゃないっスか」


「軽いな」


「今さらっスよ」


 ライアンは笑う。


「ねーちゃんもいいっスよね?」


「私は最初から構いませんよ」


「……そうか」


 断る理由はない。


 むしろ。


 一人で行く理由もなかった。


「じゃあ行く」


「決まりっスね」


 あまりにも簡単に決まった。


 少し前なら、もっと考えたかもしれない。


 いつまで一緒にいるのか。


 なぜ一緒にいるのか。


 そんなことを。


 今は考えなかった。


 その時。


 風向きが変わった。


 グレイの銀髪が大きく揺れる。


 同時に。


 匂いが届いた。


 血。


「…………」


 反射的に息を止める。


 下。


 鉱山の入口付近。


 人が集まっている。


「事故っスかね」


 ライアンの声から軽さが消える。


 三人はすぐに階段を下りた。


     ◇


 坑道の入口近く。


 作業員らしい獣人が担架へ乗せられていた。


 腕から血が流れている。


 落石で負傷したらしい。


 命に関わるほどではない。


 周囲の声を聞けば分かる。


 だが。


 グレイには、血の匂いがあまりにも鮮明だった。


「…………」


 喉が焼ける。


 身体の奥が反応する。


 飲め。


 そう訴えてくる。


 久しぶりだった。


 ここ数日、血の匂いには少しずつ慣れてきたと思っていた。


 違った。


 街を歩く者たちの身体から感じるものと、目の前で流れている新鮮な血ではまるで違う。


 心臓の音まで聞こえる。


 どくん。


 どくん。


 どくん。


「姫さん?」


 ライアンが振り返る。


 グレイは一歩下がった。


「……先に戻る」


「え?」


「宿」


「どうしたんスか?」


「何でもない」


 声が少し低くなった。


 自分でも分かる。


 まずい。


「お姫ちゃん」


「来るな」


 ライカが一歩近づいた瞬間、グレイは強く言った。


 二人が止まる。


「……悪い」


 それだけ残し、グレイはその場を離れた。


 走らない。


 走れば怪しまれる。


 けれど、できる限り早く。


 血の匂いから離れる。


 角を曲がる。


 人の少ない道へ入る。


「っ……」


 喉を押さえた。


 渇く。


 飲みたい。


 嫌だ。


 人の血は飲まない。


 そう決めている。


 誰かを襲うくらいなら。


「……大丈夫だ」


 自分へ言い聞かせる。


 何度か呼吸を整える。


 血の匂いが薄くなる。


 少しずつ。


 身体の奥の衝動も弱まっていった。


「大丈夫」


 もう一度。


 今度は少しだけ落ち着いた声で言えた。


     ◇


 宿へ戻ったグレイは、一人で部屋へ入った。


 扉を閉める。


 鍵を掛ける。


 窓も閉めた。


 ベッドへ座る。


「……まだ駄目か」


 両手を見る。


 震えてはいない。


 意識も正常だ。


 だが、あの瞬間。


 確かに血を欲した。


 真祖になってから、この渇きだけは消えない。


 魔物の血なら多少は違う。


 それでも、人間や獣人の血に身体が強く反応する。


 これから先も。


 ずっと。


「…………」


 ノックの音がした。


「姫さん」


 ライアン。


「お姫ちゃん。入ってもいいですか?」


 ライカもいる。


「……少し待て」


「分かったっス」


 それ以上、扉は叩かれなかった。


 グレイは顔を伏せる。


 話す。


 いつか。


 そう思っていた。


 だが。


 今なのか。


 怖かった。


 自分が王女だったことを話すのとは違う。


 国が滅びたことを話すのとも。


 自分は吸血鬼だ。


 それも、真祖。


 人の血を欲する怪物。


 そう思われても仕方がない。


 故郷で、そう呼ばれた。


 化け物。


 人ではないもの。


 救ったはずの者たちが、自分を見る目を変えた。


 その光景だけは、まだ鮮明に残っている。


 扉の向こうは静かだった。


 二人は急かさない。


「……入れ」


 鍵を開ける。


 扉が開いた。


 ライアンとライカが入る。


 二人とも、いつものような軽い顔ではなかった。


「座れ」


 グレイは窓際の椅子を指差す。


 椅子は一つしかない。


 ライカが座り、ライアンは壁へ背を預けた。


「どうしたんスか?」


「さっきのこと」


 グレイは自分の膝を見る。


「驚くと思う」


 二人は黙っている。


「……いや」


 違う。


「たぶん、怖がる」


 ライアンの耳が少し動いた。


 ライカは何も言わない。


「それでも聞くか?」


「姫さんが話したいなら」


 ライアンが答えた。


「聞きますよ」


 ライカも続く。


 グレイは少しだけ息を吐いた。


「俺は」


 一度止まる。


 それから。


「人間じゃない」


 部屋が静かになる。


「今は、だけどな」


 グレイは顔を上げた。


 二人を見る。


「吸血鬼だ」


 ライアンの目が僅かに開く。


 ライカの表情も変わった。


 それでも。


 立ち上がらない。


 武器にも触れない。


「……吸血鬼?」


「ああ」


「姫さんが?」


「そうだ」


 ライアンはグレイを見る。


 銀髪。


 小さな身体。


 顔。


「牙は?」


「そこ?」


「いや、だって」


「ある」


 グレイは少し口を開く。


 意識すれば分かる程度の牙。


 ライアンが覗き込もうとした。


「近い」


「本当にあるっスね」


「だから近い」


 額を押す。


 ライアンが戻る。


「にーちゃん」


「何?」


「普通、最初に聞くことがそれですか?」


「だって気になるじゃないっスか」


「……お前ら」


 グレイが呆然と二人を見る。


「怖くないのか?」


 二人が顔を見合わせた。


「怖い?」


 ライアンが首を傾げる。


「吸血鬼だぞ」


「聞いたっス」


「血を飲む」


「まあ、吸血鬼ならそうっスよね」


「人間だった俺を、化け物にした種族だ」


 少し強く言った。


 ライアンの笑みが消える。


 ライカもグレイを見る。


 ようやく。


 グレイは続きを話した。


「俺の国を滅ぼしたのは、吸血鬼だ」


 窓の外から町の音が聞こえる。


 遠くで金属を叩く音。


 人の声。


「真祖と呼ばれる吸血鬼が来た」


 あの夜。


 雨。


 血。


 崩れる城。


 父。


「俺はそいつに噛まれた。血を入れられて、眷属にされた」


 全部を細かく話す必要はない。


 話せないこともある。


 それでも、二人には知ってほしかった。


「父上を失った。国も滅びた」


 ライアンは黙っていた。


 いつもの軽口はない。


 ライカも。


「俺は……死ななかった」


 グレイは自分の胸へ手を置く。


「吸血鬼になったから」


 十歳の身体。


 止まった時間。


「そいつを倒した」


「真祖を?」


 ライカが初めて口を挟んだ。


「ああ」


「お姫ちゃんが?」


「ああ」


「一人で?」


 グレイは首を横へ振る。


「一人じゃない」


 あの時。


 自分の周りには、みんながいた。


「家族がいた」


 ライアンの目が少し動く。


 以前。


 家族はいる。


 そう話したことがある。


「でも……みんな死んだ」


 言葉にすると、今でも胸の奥が重くなる。


「父上以外は、俺が人形にした」


 今度こそ。


 二人が完全に黙った。


「……人形?」


 ライアンが聞き返す。


「ああ」


 グレイは右手を上げる。


「俺のユニークスキルだ」


 《愛おしく狂おしい人形劇》。


 その名まで伝える必要はない。


 少なくとも今は。


「死んだ者を、人形へ変えられる」


「…………」


「母上も。家臣も。騎士も。侍女も。国にいた者たちも」


 グレイは手を下ろす。


「身体は人形だ。でも、俺にとっては家族だ」


 ライアンとライカは何も言わない。


「砂漠で作った《ドールハウス》には、みんながいる」


 ここまで話せば、今までの疑問も繋がるはずだ。


 少なすぎる荷物。


 家族がいると言ったのに、一人で歩いていたこと。


 ときどき夜に一人になること。


「生きている奴は入れない。俺が人形にした者だけが入れる異空間だ」


「だから荷物が少なかったんスか?」


「まあ、それもある」


「砂漠も?」


「ああ。人形を何百、何千と連れて歩くわけにはいかないだろ」


「……そんなに?」


「国の奴らだからな」


 グレイは目を伏せた。


「最初は」


 言葉が止まる。


 人形へ変えた時。


 何を思っていたのか。


 失いたくなかった。


 それだけだった。


「もう誰も失いたくなかった」


 声が少しだけ低くなる。


「俺が勝手に決めた」


 ライアンの耳が伏せた。


「死んだなら、それで終わりだったのかもしれない」


 グレイは続ける。


「それを俺が終わらせなかった」


 母は受け入れてくれた。


 みんなも。


 それでも。


「正しかったかは分からない」


 今でも分からない。


 家族を人形にしたこと。


 朽ちない身体を与えたこと。


 それは救いだったのか。


 自分の我儘だったのか。


「真祖を倒した後、俺はそいつの力を取り込んだ」


 ライカの目が僅かに細くなる。


「それで?」


「ああ」


 グレイは二人を見る。


「今の俺は、真祖だ」


 静寂。


 外の音だけが聞こえる。


「白銀の真祖」


 自分でその名を口にする。


「それが今の俺だ」


 全部ではない。


 まだ話していないこともある。


 父のこと。


 あの夜の細かな出来事。


 自分がどれほどの力を得たのか。


 だが。


 隠していた一番大きなものは話した。


「さっき」


 グレイは喉へ触れる。


「血の匂いがした」


 二人の表情を見る。


「飲みたくなった」


 誤魔化さない。


「だから離れた」


「……そうだったんスね」


「もし、俺が抑えられなくなったら」


 言葉を続けようとする。


「姫さん」


 ライアンが遮った。


「何だ?」


「今まで、俺たちの血を飲もうとしたことあるっスか?」


「ない」


「襲おうとしたことは?」


「ない」


「じゃあ、今はそれでいいんじゃないっスか?」


 グレイが黙る。


「でも」


「飲みたくなったんでしょ?」


「ああ」


「でも飲まなかった」


「…………」


「それが姫さんじゃないっスか」


 あまりにも普通に言う。


 グレイは言葉を失った。


「ライアン」


「なんスか?」


「俺、吸血鬼だぞ」


「さっきから三回くらい聞いてるっス」


「真祖だ」


「それも聞いたっス」


「怖くないのか?」


「姫さん」


 ライアンは少し困ったように笑った。


「俺、姫さんが強いの知ってるっスよ」


「ああ」


「空間魔法で俺なんか簡単にどうにかできるのも、なんとなく分かってるっス」


「……まあ」


「だったら吸血鬼って聞いたところで、今さらじゃないっスか?」


 グレイは目を瞬いた。


「そういう問題か?」


「俺の中では」


「雑だな」


「よく言われるっス」


「主に私が言っています」


 ライカが口を挟んだ。


 少しだけ。


 いつもの空気が戻る。


 だが、ライカはすぐにグレイへ向き直った。


「お姫ちゃん」


「何だ?」


「私も、にーちゃんと同じです」


「お前も?」


「少し違いますが」


 ライカは膝の上で手を組む。


「私は吸血鬼について詳しくありません。真祖という存在についても、知識として聞いた程度です」


「ああ」


「ですから、それだけでお姫ちゃんを判断できません」


 グレイは黙って聞く。


「私が知っているのは、一緒に旅をしたお姫ちゃんです」


 初めて会った街。


 朝食。


 街道。


 野営。


 魔物との戦い。


 いくつもの小さな出来事。


「知らないものを見るたびに足を止めて、食べられるか聞いて」


「それは言わなくていいだろ」


「火を起こせただけで得意そうな顔をして」


「それも言わなくていい」


「焼き菓子が美味しかったから、家族へ持って帰ろうとして」


 グレイが止まる。


「そういうお姫ちゃんを見てきました」


 ライカの声は穏やかだった。


「それを全部なかったことにして、今日聞いた『吸血鬼』という一言だけで怖がれと言われても、難しいですね」


「…………」


「むしろ」


 ライカの目が少しだけ柔らかくなる。


「やっと色々納得しました」


「何が?」


「妙に強いことです」


「そこ?」


「十歳の王女が空間魔法で魔物を空へ飛ばした時点で、十分おかしかったです」


「お前、そんなこと思ってたのか」


「思いますよ」


「俺も思ってたっス」


「言えよ」


「言ったら姫さん怒るじゃないっスか」


「今も少し腹立ってる」


「ほら!」


 ライアンが笑う。


 グレイは二人を見る。


 変わらない。


 あまりにも。


「……本当に?」


 自分でも驚くほど、小さな声だった。


「何がっスか?」


「気持ち悪くないのか?」


 その言葉だけは。


 口に出すのが少し怖かった。


「死んだ奴を人形にしてるんだぞ」


 自分でも分かっている。


 普通ではない。


「しかも、俺が勝手に」


 グレイは手を握る。


「母上たちを失いたくなかったから」


 誰にも奪われたくなかった。


 もう二度と。


「だから――」


「姫さん」


 ライアンが壁から離れた。


 グレイの前へ来る。


 しゃがむ。


 視線の高さが近くなる。


「俺、その人形たちに会ってないっス」


「……ああ」


「話してもない」


「ああ」


「だったら、それがいいことだったのか悪いことだったのか、俺には分かんないっス」


 グレイが顔を上げる。


「でも」


 ライアンは続けた。


「姫さんが大事にしてるのは分かるっスよ」


「…………」


「家族なんでしょ?」


「ああ」


「なら、俺は人形って呼ぶより、姫さんの家族って覚えとくっス」


 胸の奥で。


 何かが僅かに動いた。


「……変な奴」


「姫さんに言われたくないっス」


 ライアンが立ち上がる。


 ライカも静かに頷いた。


「いつか」


「ん?」


「会わせてもらえますか?」


 グレイはライカを見る。


「母上たちに?」


「はい」


「生きてる奴は《ドールハウス》に入れないぞ」


「なら外で」


「…………」


「無理なら構いません」


「いや」


 グレイは首を横へ振った。


「無理じゃない」


 母を呼び出すことはできる。


 他のみんなも。


「そのうち」


「はい」


「母上にも聞いてから」


「分かりました」


 ライカはそれ以上求めなかった。


 グレイは俯く。


 膝の上の自分の手を見る。


 何も変わっていない。


 吸血鬼の手。


 人間だった頃より白い。


 温度も低い。


 それでも。


 さっきまでとは少しだけ違って見えた。


「……俺」


 声が漏れる。


「故郷で、化け物って言われた」


 二人が黙る。


「真祖を倒した後」


 思い出したくない。


 それでも、今は言えた。


「助けた奴らにも怖がられた」


 父を失った。


 国を失った。


 人間の身体を失った。


 それでも残った者たちを守ろうとした。


 最後に返ってきたのは。


 恐怖だった。


「だから」


 グレイは少しだけ笑った。


 上手く笑えているかは分からない。


「お前らも、そうなると思ってた」


 ライアンは何も言わなかった。


 ライカも。


 しばらくして。


「姫さん」


「何だ?」


「俺、そんな先のことまで考えてないっス」


「……は?」


「今まで一緒に旅してて、姫さんが姫さんだった。それだけっス」


「お前、本当に単純だな」


「褒め言葉として受け取っとくっス」


「褒めてない」


「でも」


 ライアンが笑う。


「明日になっても姫さんは姫さんでしょ?」


 グレイは答えなかった。


 答えられなかった。


「明日も釣りするんスよね?」


「……ああ」


「じゃあ問題ないっス」


「何がどう問題ないんだよ」


「明日の予定が変わってないんで」


 グレイは呆れた。


 本当に。


 こいつは。


「お姫ちゃん」


 ライカが立ち上がる。


「私からも一つ」


「何だ?」


「次に血の匂いで苦しくなった時は、一人で逃げやがらないでください」


 グレイが目を見開く。


「でも」


「私たちでは何もできないかもしれません」


「ああ」


「それでも、突然いなくなられる方が困ります」


「…………」


「少なくとも事情を知った今なら、離れたいと言われれば理由も分かります」


 グレイは少し考える。


「分かった」


「約束ですよ」


「ああ」


「姫さん」


 ライアンが手を上げる。


「俺からも一個いいっスか?」


「何だ?」


「血って、魔物のでもいいんスか?」


「……ものによるけどな」


「じゃあ今度狩るっスか?」


「軽いな、お前」


「だって人の血飲みたくないんでしょ?」


「ああ」


「だったら代わり探せばいいじゃないっスか」


 グレイは少し目を見開いた。


 それは。


 自分でも考えていた。


 旅へ出てから何度か試している。


 魔物の血でどこまで補えるのか。


 魔力で代替できないのか。


 まだ答えは出ていない。


「……試してる」


「やっぱり」


「でも完全には分からない」


「じゃあ一緒に試せばいいっス」


「にーちゃん。お姫ちゃんを実験動物みたいに言いやがらないでください」


「そんなつもりないっスよ!」


「言い方です」


「じゃあ、手伝う?」


「それも軽いです」


「難しいっスね!」


 また二人が言い合う。


 グレイはそれを見ていた。


 吸血鬼だと話した。


 真祖だと話した。


 国が滅びたことも。


 人形のことも。


 血を欲することも。


 全部を聞いた後なのに。


 二人は変わらない。


 昨日と同じ。


「……はは」


 小さく声が漏れた。


 二人が止まる。


「姫さん?」


「お姫ちゃん?」


「いや」


 グレイは口元を押さえる。


「お前ら、本当に変だな」


「姫さんにだけは言われたくないっス」


「同感です」


「なんでだよ」


 三人の声が重なる。


 窓の外では、鉱山の町の音が続いていた。


     ◇


 翌日。


 鉱山の町を出た三人は、予定通り川へ向かった。


「姫さん」


「なんだ?」


「そこ、引いてるっス!」


「どこ!?」


「竿!」


「分かってる!」


「上げるっス!」


「今やってる!」


 グレイが竿を引く。


 糸が張る。


 水面が大きく揺れた。


「おお!」


「強く引きすぎです、お姫ちゃん!」


「じゃあどうすればいい!」


「少し緩めやがってください!」


「どっちだよ!」


「姫さん、右! 右っス!」


「魚相手に右とかあるのか!?」


「あるっス!」


 三人の声が川辺に響く。


 少し離れた場所で鳥が飛び立った。


 グレイは必死に竿を握る。


 空間魔法を使えば一瞬だ。


 魚だけこちらへ飛ばせばいい。


 だが、それでは釣りではないと二人に言われた。


「今っス!」


「分かった!」


 竿を上げる。


 銀色の魚が水面から飛び出した。


「釣れた!」


 グレイの声が、思った以上に大きくなる。


 魚が草の上へ落ちた。


 跳ねる。


「姫さん、早く!」


「どうする!?」


「掴むっス!」


「滑る!」


「魚なんだから当たり前っス!」


「にーちゃん、笑ってないで手伝いやがってください!」


 三人で魚を追いかける。


 結局、ライカが布で包んで捕まえた。


 グレイはしゃがみ込み、魚を見る。


「……釣れた」


「釣れたっスね」


「私が捕まえましたけどね」


「釣ったのは俺だ」


「はいはい」


 グレイは満足した。


 その隣で。


 ライアンの竿はまだ一度も動いていない。


「……なあ」


「なんスか?」


「お前、釣り得意って言ってなかった?」


「今日は魚の機嫌が悪いっスね」


「俺は釣れたぞ」


「初心者は運がいいんスよ」


「負け惜しみ?」


「違うっス」


「にーちゃん」


 ライカが冷たい目を向ける。


「素直に負けを認めやがってください」


「まだ終わってないっス!」


「勝負だったのか?」


「姫さんが言い出したんでしょ!」


「そうだった」


 グレイは笑う。


 昨日。


 自分が吸血鬼だと話した。


 今日。


 三人で釣りをしている。


 ライアンは昨日までと同じように姫さんと呼ぶ。


 ライカもお姫ちゃんと呼ぶ。


 何も変わらない。


 いや。


 少しだけ変わった。


「姫さん」


「ん?」


「腹減ったっス」


「魚焼く?」


「一匹しかないっスよ」


「お前が釣れ」


「今やってるっス!」


「早くしろ、王子様」


「それやめてほしいっス!」


 グレイが笑う。


「ライカ姫も釣れよ」


「お姫ちゃん」


「何だ?」


「その呼び方を続けるなら、私もグレイ姫と呼びますよ」


「それは嫌だ」


「ならやめやがってください」


「分かったよ」


 金獅子の王子。


 金獅子の姫。


 そして。


 白銀の真祖。


 立場だけを並べれば、随分と大げさだった。


 だが今ここにいるのは。


 魚を一匹釣っただけで得意になっているグレイと。


 未だに一匹も釣れず、魚のせいにしているライアンと。


 そんな二人を呆れた顔で眺めているライカ。


 それだけだった。


「……なあ」


 グレイが二人を呼ぶ。


「なんスか?」


「何です?」


「昨日のこと」


 二人が見る。


「ありがとう」


 短く言った。


 ライアンが少し目を丸くする。


 ライカも。


「それだけ」


 グレイは川へ向き直る。


「姫さん」


「何だよ」


「もう一回言ってほしいっス」


「嫌だ」


「聞き逃したっス」


「絶対聞いてただろ」


「ねーちゃん聞いた?」


「聞いていませんね」


「お前ら!」


「もう一回お願いするっス、姫さん」


「言わない!」


 グレイが釣り竿を置いて立ち上がる。


 ライアンが笑いながら逃げた。


「待て!」


「嫌っス!」


「昨日までと何も変わってないとか思って損した!」


「姫さんが勝手に思っただけっス!」


「止まれ!」


「にーちゃん、竿を放置しやがらないでください!」


 川辺をライアンが走る。


 グレイが追う。


 その後ろでライカが二本の竿を回収していた。


 やがて。


 ライカも呆れたように笑った。


 三人の旅は続いていく。


 隠していたものを一つずつ知って。


 それでも。


 姫さんは姫さんで。


 お姫ちゃんはお姫ちゃんのままだった。


 グレイにとって、それはきっと。


 どんな言葉よりも、ありがたいことだった。

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