第5話 金獅子の王子と姫
山へ向かう街道は、朝から薄い霧に包まれていた。
昨日までの乾いた平原とは違い、辺りには背の高い木々が増えている。夜の間に降った雨が葉の先へ残り、ときおり雫となって落ちていた。
土の匂いも濃い。
遠くに見える山肌には白い霧がまとわりつき、そのさらに奥から、規則正しく何かを叩く音が響いている。
金属。
一定の間隔を置いて、硬い音が朝の空気を震わせていた。
「聞こえるな」
グレイが足を止める。
「鉱山の町が近いっスね」
ライアンが答えた。
「まだ見えないぞ」
「この辺は音が結構遠くまで響くんスよ。山に囲まれてるから余計に」
「へえ」
グレイは耳を澄ませる。
金属を叩く音だけではない。
もっと低い音もある。
何かを削る音。
荷車の車輪。
獣の鳴き声。
人の声。
まだ姿すら見えない町の気配が、山の向こうから届いていた。
「お姫ちゃん」
「ん?」
「歩きながら聞いてください。放っておくと、そのまま一時間くらい立っていそうです」
「そんなに立たない」
「昨日、川で魚を見て十分くらい止まってたっスよ」
「あれは魚が珍しかったからだ」
「魚くらいどこにでもいるっス」
「俺の故郷には、あんな川なかったんだよ」
言い返しながら歩き出す。
ライアンとライカも続いた。
三人で旅を始めてから、いくつかの街や村を通った。
野営もした。
魔物とも戦った。
知らない食べ物を食べ、知らない植物を教えてもらい、グレイは初めて舟にも乗った。
気付けば、朝起きて二人の声が聞こえることにも慣れていた。
右からライアン。
左からライカ。
道幅が狭くなれば誰かが前へ出るが、広い街道へ戻ると自然に三人が並ぶ。
最初に誰がそうしたのかは分からない。
「そういえば」
グレイが前を見たまま口を開く。
「お前ら、鉱山の町にも来たことあるんだよな?」
「ありますよ」
「何回?」
「俺は三回くらいっスかね」
「私も同じです」
「いつ?」
「旅に出てから二回。それより前に一度ですね」
「へえ」
グレイは少し考える。
「じゃあ、お前ら結構色んなところに行ってるのか?」
「国の中ならそれなりに」
ライカが答えた。
「まだ行ったことのない場所も多いですが」
「国の外は?」
「ありません」
「ないのか」
「今回の修行は国内を知ることが目的ですので」
「ふうん」
グレイは横目で二人を見る。
以前から少し気になっていた。
二人は旅慣れている。
野営もできる。
土地にも詳しい。
魔物との戦いにも慣れている。
それ自体は修行の旅をしているなら不思議ではない。
だが、ときどき妙なところがある。
宿へ入れば、主人が二人の顔を見て一瞬だけ態度を変えることがある。
街によっては、門兵が二人を見るなり姿勢を正した。
ライアンは気にせず話し、ライカは何事もなかったように通り過ぎる。
それに。
「なあ」
「なんスか?」
「前から思ってたんだけど」
「はい」
「お前らって、結局何者なんだ?」
ライアンの耳が動いた。
ライカの尾も一度だけ揺れる。
「急っスね」
「俺は自分が姫だったって言っただろ」
「半分くらい信じてるっス」
「まだ半分なのかよ」
「俺は今七割くらいまで上がったっスよ」
「何を基準に上がってるんだ」
「お姫ちゃん」
ライカが横から口を挟む。
「私は八割くらいです」
「お前らの中で俺の王女判定どうなってるんだよ」
「だってお姫ちゃん、昨日も宿の窓から屋根に登ろうとしていたでしょう」
「あれは景色が見たかったからだ」
「普通の王女は窓から屋根に登らないと思います」
「王女だって屋根くらい登るだろ」
「登らないっスよ」
「お前ら王女を何だと思ってるんだ」
言ってから、ふと気付く。
二人が妙な顔をしている。
ライアンは少し笑いを堪えているような。
ライカはいつもの澄ました顔だが、金色の尾が動いている。
「……なんだ?」
「いやぁ」
「言え」
「姫さんが王女について語ってるの、ちょっと面白いなと思って」
「俺は王女だったんだから詳しくて当然だろ」
「そうっスね」
「絶対信じてないだろ」
「七割信じてるっス」
「残り三割を今すぐ埋めろ」
「無茶言わないでほしいっス」
ライアンが笑う。
グレイは少し頬を膨らませた。
「で、お前らは?」
「俺たち?」
「ああ。人の上に立つ立場になるって言ってただろ」
初めて三人で朝食を取った日。
二人はそう話していた。
城の中から国を眺めるだけでは駄目だから、自分たちの足で国を見る。
それが修行なのだと。
「貴族か?」
「まあ、近いっスね」
「近いって何だよ」
「貴族より少し上です」
ライカがさらりと言った。
グレイが歩みを止める。
二人は数歩進んでから振り返った。
「……上?」
「はい」
「貴族より?」
「そうです」
グレイは二人を見る。
金色の髪。
金色の獅子耳。
尾。
この国へ入ってから、金獅子の獣人そのものをほとんど見ていない。
珍しい種族なのだろうとは思っていた。
そこへ、いずれ人の上に立つという話。
城の中から国を見るなと教えられた。
そして、貴族より上。
「…………」
「姫さん?」
「お前ら」
「はい」
「もしかして王族か?」
ライアンとライカが顔を見合わせる。
ほんの一瞬。
それからライアンが頭を掻いた。
「まあ、そうっスね」
「…………」
「何です、その顔」
ライカが首を傾げる。
「いや」
グレイは二人を交互に見る。
「本当に?」
「姫さん、自分が疑われた時あんなに怒ってたじゃないっスか!」
「だってお前ら全然それっぽくないだろ!」
「姫さんに言われたくないっス!」
「俺は一応それなりに王女してたぞ!」
「屋根に登る王女が?」
「それは今の話だ!」
「お姫ちゃん」
ライカが静かに手を上げる。
「何だ?」
「私たちも、同じことを思っています」
「何を?」
「お姫ちゃんが王女らしくないと」
「お前まで!」
三人の声が朝の山道へ響いた。
近くの木に止まっていた鳥が飛んでいく。
グレイは少しだけ息を吐く。
「……で?」
「何がっスか?」
「どっちが?」
「どっち?」
「王になるんだ?」
双子。
姉と弟。
二人とも王族なら、後継者の問題がある。
グレイ自身も王族として育った。
それくらいは分かる。
だが、ライアンは首を傾げた。
「まだ決まってないっスよ」
「だから二人で修行しています」
「そうなのか」
「俺が弟なんで、普通ならねーちゃんの方が先っスけどね」
「それだけでは決めないということです」
ライカの声音が少しだけ真面目になる。
「王になる者に必要なのは、生まれた順番だけではありませんから」
グレイはライカを見る。
昨日までと変わらない顔。
それでも、その言葉だけは少し違って聞こえた。
「だから国を見るのか」
「はい」
「町も村も?」
「そうです」
「困ってる奴を手伝ってたのも?」
「それだけが理由ではありませんけどね」
ライアンが笑う。
「困ってる奴いたら、普通に放っとけないじゃないっスか」
「……そうだな」
グレイは小さく頷いた。
少し納得した。
二人が旅をしている理由。
町を見る理由。
村人と話す理由。
魔物退治を手伝う理由。
全部が繋がった気がした。
「金獅子の王族、か」
「そうっス」
「ライカがお姫様」
「はい」
「ライアンが王子」
「そうっスよ」
グレイはライアンを見る。
「……王子」
「なんで俺だけ疑うんスか!?」
「軽いから」
「姫さんに言われたくない!」
「俺は軽くない」
「昨日、屋根から飛び降りてたじゃないっスか!」
「あれは空間魔法で着地できるからだ」
「そういう問題じゃないっス!」
「にーちゃん」
ライカが横から言う。
「諦めやがってください。お姫ちゃんの中では、にーちゃんと王子という言葉がまだ結びついていないのでしょう」
「ねーちゃんまで酷くない!?」
グレイは思わず笑った。
「王子様」
「やめてほしいっス!」
「なんでだよ。王子なんだろ?」
「姫さんに言われると馬鹿にされてる感じするっス!」
「してる」
「やっぱり!」
ライアンの金色の耳が伏せる。
その姿を見れば見るほど、王子には見えない。
だが。
不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少し安心した。
身分を明かしたからといって、二人は変わらない。
ライアンはライアン。
ライカはライカ。
昨日までと同じだ。
「じゃあ俺も呼び方変えた方がいいか?」
グレイが尋ねる。
「何に?」
「王子様」
「絶対嫌っス」
「ライカ姫」
「やめやがってください」
「二人とも嫌なのかよ」
「今まで通りでいいっスよ」
「私もライカで構いません」
「そうか」
グレイは前を向く。
「じゃあ今まで通りで」
「姫さんも今まで通りっスね」
「お姫ちゃんも」
「ああ」
それで話は終わった。
王子だからといって、ライアンの歩き方が変わるわけではない。
姫だからといって、ライカが急に畏まるわけでもない。
三人はまた同じ道を歩き始めた。
◇
鉱山の町へ着いたのは昼前だった。
山の斜面に沿って造られた町だった。
石造りの建物が多く、至るところから煙が上がっている。
街へ入った瞬間、熱気が肌を撫でた。
炉。
いくつもの工房で火が焚かれている。
金属を打つ音があちこちから響き、荷車には鉱山から運び出された鉱石が積まれていた。
「すごいな」
グレイの視線が動く。
「姫さん、前見て歩くっスよ」
「見てる」
「今、横しか見てなかったっス」
「前も見えてる」
「どうやって?」
「気配」
「便利っスね、その身体」
ライアンが何気なく言った。
グレイの足がほんの少しだけ止まりかける。
その身体。
悪意のない言葉。
だからこそ。
胸の奥に引っかかった。
「姫さん?」
「……何でもない」
歩き出す。
ライアンは気付かなかったらしい。
ライカだけが一度こちらを見た。
だが、何も言わなかった。
町の中を歩く。
グレイは初めて見る鉱石や道具へ何度も足を止めた。
魔石を扱う店にも入った。
小さな魔石。
属性を帯びたもの。
魔導具へ組み込むために加工されたもの。
「これで魔導具を作るのか?」
「ものによりますね」
店主の説明を聞きながら、グレイは一つずつ眺める。
故郷にも魔導具はあった。
王宮には優秀な魔導士もいた。
けれど、国が違えば技術の発展の仕方も違う。
面白かった。
もっと知りたい。
何に使うのか。
どう加工するのか。
聞きたいことはいくらでも出てくる。
「姫さん」
「なんだ?」
「もう一時間っス」
「まだそれだけ?」
「俺たち腹減ったっス」
「先に食ってていいぞ」
「お姫ちゃんを置いていけません」
「なんで?」
「放っておいたら夕方までいるでしょう?」
「……いるかも」
「ほら」
ライカに腕を掴まれる。
「待て。あっちまだ見てない」
「昼食後にしやがってください」
「逃げないだろ」
「鉱石は逃げませんが、にーちゃんの腹が限界です」
「ねーちゃん、俺を理由にしないでほしいっス!」
グレイは引っ張られながら店を出た。
◇
昼食を終えた後。
三人は町の奥にある展望台へ向かった。
鉱山全体が見える場所らしい。
石造りの階段を登る。
町を見下ろせる高さまで来ると、風が強くなった。
「おお……」
グレイは手すりへ近づく。
山肌に大きな穴が開いている。
鉱山の入口。
そこから何本もの道が伸び、荷車が行き交っていた。
反対側には町。
さらに遠くには、ここまで三人で歩いてきた道が見える。
「随分来たな」
「何がっスか?」
「最初の街から」
「そうっスね」
ライアンが隣へ立つ。
ライカも少し離れたところから景色を見ていた。
「姫さん」
「ん?」
「この後どうするんスか?」
「この後?」
「鉱山の町を出た後っス」
「川」
「釣りの話じゃなくて!」
「じゃあ何だよ」
「その後っスよ」
グレイは遠くを見る。
「決めてない」
「やっぱり?」
「ああ」
旅の目的地はない。
自分を知る。
世界を見る。
それだけ。
「お前らは?」
「もう少し北へ行く予定っス」
「北?」
「山沿いにいくつか町があります」
ライカが地図を取り出した。
「その後、一度西側へ回る予定です」
「結構遠いな」
「時間はありますから」
「そうか」
グレイは地図を見る。
自分には関係のない道。
そう考えればいい。
自分は好きな場所へ行けばいいのだから。
「姫さんも来るっスか?」
ライアンが尋ねる。
グレイは顔を上げる。
「俺も?」
「別に行き先決まってないんでしょ?」
「まあ」
「じゃあ一緒でいいじゃないっスか」
「軽いな」
「今さらっスよ」
ライアンは笑う。
「ねーちゃんもいいっスよね?」
「私は最初から構いませんよ」
「……そうか」
断る理由はない。
むしろ。
一人で行く理由もなかった。
「じゃあ行く」
「決まりっスね」
あまりにも簡単に決まった。
少し前なら、もっと考えたかもしれない。
いつまで一緒にいるのか。
なぜ一緒にいるのか。
そんなことを。
今は考えなかった。
その時。
風向きが変わった。
グレイの銀髪が大きく揺れる。
同時に。
匂いが届いた。
血。
「…………」
反射的に息を止める。
下。
鉱山の入口付近。
人が集まっている。
「事故っスかね」
ライアンの声から軽さが消える。
三人はすぐに階段を下りた。
◇
坑道の入口近く。
作業員らしい獣人が担架へ乗せられていた。
腕から血が流れている。
落石で負傷したらしい。
命に関わるほどではない。
周囲の声を聞けば分かる。
だが。
グレイには、血の匂いがあまりにも鮮明だった。
「…………」
喉が焼ける。
身体の奥が反応する。
飲め。
そう訴えてくる。
久しぶりだった。
ここ数日、血の匂いには少しずつ慣れてきたと思っていた。
違った。
街を歩く者たちの身体から感じるものと、目の前で流れている新鮮な血ではまるで違う。
心臓の音まで聞こえる。
どくん。
どくん。
どくん。
「姫さん?」
ライアンが振り返る。
グレイは一歩下がった。
「……先に戻る」
「え?」
「宿」
「どうしたんスか?」
「何でもない」
声が少し低くなった。
自分でも分かる。
まずい。
「お姫ちゃん」
「来るな」
ライカが一歩近づいた瞬間、グレイは強く言った。
二人が止まる。
「……悪い」
それだけ残し、グレイはその場を離れた。
走らない。
走れば怪しまれる。
けれど、できる限り早く。
血の匂いから離れる。
角を曲がる。
人の少ない道へ入る。
「っ……」
喉を押さえた。
渇く。
飲みたい。
嫌だ。
人の血は飲まない。
そう決めている。
誰かを襲うくらいなら。
「……大丈夫だ」
自分へ言い聞かせる。
何度か呼吸を整える。
血の匂いが薄くなる。
少しずつ。
身体の奥の衝動も弱まっていった。
「大丈夫」
もう一度。
今度は少しだけ落ち着いた声で言えた。
◇
宿へ戻ったグレイは、一人で部屋へ入った。
扉を閉める。
鍵を掛ける。
窓も閉めた。
ベッドへ座る。
「……まだ駄目か」
両手を見る。
震えてはいない。
意識も正常だ。
だが、あの瞬間。
確かに血を欲した。
真祖になってから、この渇きだけは消えない。
魔物の血なら多少は違う。
それでも、人間や獣人の血に身体が強く反応する。
これから先も。
ずっと。
「…………」
ノックの音がした。
「姫さん」
ライアン。
「お姫ちゃん。入ってもいいですか?」
ライカもいる。
「……少し待て」
「分かったっス」
それ以上、扉は叩かれなかった。
グレイは顔を伏せる。
話す。
いつか。
そう思っていた。
だが。
今なのか。
怖かった。
自分が王女だったことを話すのとは違う。
国が滅びたことを話すのとも。
自分は吸血鬼だ。
それも、真祖。
人の血を欲する怪物。
そう思われても仕方がない。
故郷で、そう呼ばれた。
化け物。
人ではないもの。
救ったはずの者たちが、自分を見る目を変えた。
その光景だけは、まだ鮮明に残っている。
扉の向こうは静かだった。
二人は急かさない。
「……入れ」
鍵を開ける。
扉が開いた。
ライアンとライカが入る。
二人とも、いつものような軽い顔ではなかった。
「座れ」
グレイは窓際の椅子を指差す。
椅子は一つしかない。
ライカが座り、ライアンは壁へ背を預けた。
「どうしたんスか?」
「さっきのこと」
グレイは自分の膝を見る。
「驚くと思う」
二人は黙っている。
「……いや」
違う。
「たぶん、怖がる」
ライアンの耳が少し動いた。
ライカは何も言わない。
「それでも聞くか?」
「姫さんが話したいなら」
ライアンが答えた。
「聞きますよ」
ライカも続く。
グレイは少しだけ息を吐いた。
「俺は」
一度止まる。
それから。
「人間じゃない」
部屋が静かになる。
「今は、だけどな」
グレイは顔を上げた。
二人を見る。
「吸血鬼だ」
ライアンの目が僅かに開く。
ライカの表情も変わった。
それでも。
立ち上がらない。
武器にも触れない。
「……吸血鬼?」
「ああ」
「姫さんが?」
「そうだ」
ライアンはグレイを見る。
銀髪。
小さな身体。
顔。
「牙は?」
「そこ?」
「いや、だって」
「ある」
グレイは少し口を開く。
意識すれば分かる程度の牙。
ライアンが覗き込もうとした。
「近い」
「本当にあるっスね」
「だから近い」
額を押す。
ライアンが戻る。
「にーちゃん」
「何?」
「普通、最初に聞くことがそれですか?」
「だって気になるじゃないっスか」
「……お前ら」
グレイが呆然と二人を見る。
「怖くないのか?」
二人が顔を見合わせた。
「怖い?」
ライアンが首を傾げる。
「吸血鬼だぞ」
「聞いたっス」
「血を飲む」
「まあ、吸血鬼ならそうっスよね」
「人間だった俺を、化け物にした種族だ」
少し強く言った。
ライアンの笑みが消える。
ライカもグレイを見る。
ようやく。
グレイは続きを話した。
「俺の国を滅ぼしたのは、吸血鬼だ」
窓の外から町の音が聞こえる。
遠くで金属を叩く音。
人の声。
「真祖と呼ばれる吸血鬼が来た」
あの夜。
雨。
血。
崩れる城。
父。
「俺はそいつに噛まれた。血を入れられて、眷属にされた」
全部を細かく話す必要はない。
話せないこともある。
それでも、二人には知ってほしかった。
「父上を失った。国も滅びた」
ライアンは黙っていた。
いつもの軽口はない。
ライカも。
「俺は……死ななかった」
グレイは自分の胸へ手を置く。
「吸血鬼になったから」
十歳の身体。
止まった時間。
「そいつを倒した」
「真祖を?」
ライカが初めて口を挟んだ。
「ああ」
「お姫ちゃんが?」
「ああ」
「一人で?」
グレイは首を横へ振る。
「一人じゃない」
あの時。
自分の周りには、みんながいた。
「家族がいた」
ライアンの目が少し動く。
以前。
家族はいる。
そう話したことがある。
「でも……みんな死んだ」
言葉にすると、今でも胸の奥が重くなる。
「父上以外は、俺が人形にした」
今度こそ。
二人が完全に黙った。
「……人形?」
ライアンが聞き返す。
「ああ」
グレイは右手を上げる。
「俺のユニークスキルだ」
《愛おしく狂おしい人形劇》。
その名まで伝える必要はない。
少なくとも今は。
「死んだ者を、人形へ変えられる」
「…………」
「母上も。家臣も。騎士も。侍女も。国にいた者たちも」
グレイは手を下ろす。
「身体は人形だ。でも、俺にとっては家族だ」
ライアンとライカは何も言わない。
「砂漠で作った《ドールハウス》には、みんながいる」
ここまで話せば、今までの疑問も繋がるはずだ。
少なすぎる荷物。
家族がいると言ったのに、一人で歩いていたこと。
ときどき夜に一人になること。
「生きている奴は入れない。俺が人形にした者だけが入れる異空間だ」
「だから荷物が少なかったんスか?」
「まあ、それもある」
「砂漠も?」
「ああ。人形を何百、何千と連れて歩くわけにはいかないだろ」
「……そんなに?」
「国の奴らだからな」
グレイは目を伏せた。
「最初は」
言葉が止まる。
人形へ変えた時。
何を思っていたのか。
失いたくなかった。
それだけだった。
「もう誰も失いたくなかった」
声が少しだけ低くなる。
「俺が勝手に決めた」
ライアンの耳が伏せた。
「死んだなら、それで終わりだったのかもしれない」
グレイは続ける。
「それを俺が終わらせなかった」
母は受け入れてくれた。
みんなも。
それでも。
「正しかったかは分からない」
今でも分からない。
家族を人形にしたこと。
朽ちない身体を与えたこと。
それは救いだったのか。
自分の我儘だったのか。
「真祖を倒した後、俺はそいつの力を取り込んだ」
ライカの目が僅かに細くなる。
「それで?」
「ああ」
グレイは二人を見る。
「今の俺は、真祖だ」
静寂。
外の音だけが聞こえる。
「白銀の真祖」
自分でその名を口にする。
「それが今の俺だ」
全部ではない。
まだ話していないこともある。
父のこと。
あの夜の細かな出来事。
自分がどれほどの力を得たのか。
だが。
隠していた一番大きなものは話した。
「さっき」
グレイは喉へ触れる。
「血の匂いがした」
二人の表情を見る。
「飲みたくなった」
誤魔化さない。
「だから離れた」
「……そうだったんスね」
「もし、俺が抑えられなくなったら」
言葉を続けようとする。
「姫さん」
ライアンが遮った。
「何だ?」
「今まで、俺たちの血を飲もうとしたことあるっスか?」
「ない」
「襲おうとしたことは?」
「ない」
「じゃあ、今はそれでいいんじゃないっスか?」
グレイが黙る。
「でも」
「飲みたくなったんでしょ?」
「ああ」
「でも飲まなかった」
「…………」
「それが姫さんじゃないっスか」
あまりにも普通に言う。
グレイは言葉を失った。
「ライアン」
「なんスか?」
「俺、吸血鬼だぞ」
「さっきから三回くらい聞いてるっス」
「真祖だ」
「それも聞いたっス」
「怖くないのか?」
「姫さん」
ライアンは少し困ったように笑った。
「俺、姫さんが強いの知ってるっスよ」
「ああ」
「空間魔法で俺なんか簡単にどうにかできるのも、なんとなく分かってるっス」
「……まあ」
「だったら吸血鬼って聞いたところで、今さらじゃないっスか?」
グレイは目を瞬いた。
「そういう問題か?」
「俺の中では」
「雑だな」
「よく言われるっス」
「主に私が言っています」
ライカが口を挟んだ。
少しだけ。
いつもの空気が戻る。
だが、ライカはすぐにグレイへ向き直った。
「お姫ちゃん」
「何だ?」
「私も、にーちゃんと同じです」
「お前も?」
「少し違いますが」
ライカは膝の上で手を組む。
「私は吸血鬼について詳しくありません。真祖という存在についても、知識として聞いた程度です」
「ああ」
「ですから、それだけでお姫ちゃんを判断できません」
グレイは黙って聞く。
「私が知っているのは、一緒に旅をしたお姫ちゃんです」
初めて会った街。
朝食。
街道。
野営。
魔物との戦い。
いくつもの小さな出来事。
「知らないものを見るたびに足を止めて、食べられるか聞いて」
「それは言わなくていいだろ」
「火を起こせただけで得意そうな顔をして」
「それも言わなくていい」
「焼き菓子が美味しかったから、家族へ持って帰ろうとして」
グレイが止まる。
「そういうお姫ちゃんを見てきました」
ライカの声は穏やかだった。
「それを全部なかったことにして、今日聞いた『吸血鬼』という一言だけで怖がれと言われても、難しいですね」
「…………」
「むしろ」
ライカの目が少しだけ柔らかくなる。
「やっと色々納得しました」
「何が?」
「妙に強いことです」
「そこ?」
「十歳の王女が空間魔法で魔物を空へ飛ばした時点で、十分おかしかったです」
「お前、そんなこと思ってたのか」
「思いますよ」
「俺も思ってたっス」
「言えよ」
「言ったら姫さん怒るじゃないっスか」
「今も少し腹立ってる」
「ほら!」
ライアンが笑う。
グレイは二人を見る。
変わらない。
あまりにも。
「……本当に?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「何がっスか?」
「気持ち悪くないのか?」
その言葉だけは。
口に出すのが少し怖かった。
「死んだ奴を人形にしてるんだぞ」
自分でも分かっている。
普通ではない。
「しかも、俺が勝手に」
グレイは手を握る。
「母上たちを失いたくなかったから」
誰にも奪われたくなかった。
もう二度と。
「だから――」
「姫さん」
ライアンが壁から離れた。
グレイの前へ来る。
しゃがむ。
視線の高さが近くなる。
「俺、その人形たちに会ってないっス」
「……ああ」
「話してもない」
「ああ」
「だったら、それがいいことだったのか悪いことだったのか、俺には分かんないっス」
グレイが顔を上げる。
「でも」
ライアンは続けた。
「姫さんが大事にしてるのは分かるっスよ」
「…………」
「家族なんでしょ?」
「ああ」
「なら、俺は人形って呼ぶより、姫さんの家族って覚えとくっス」
胸の奥で。
何かが僅かに動いた。
「……変な奴」
「姫さんに言われたくないっス」
ライアンが立ち上がる。
ライカも静かに頷いた。
「いつか」
「ん?」
「会わせてもらえますか?」
グレイはライカを見る。
「母上たちに?」
「はい」
「生きてる奴は《ドールハウス》に入れないぞ」
「なら外で」
「…………」
「無理なら構いません」
「いや」
グレイは首を横へ振った。
「無理じゃない」
母を呼び出すことはできる。
他のみんなも。
「そのうち」
「はい」
「母上にも聞いてから」
「分かりました」
ライカはそれ以上求めなかった。
グレイは俯く。
膝の上の自分の手を見る。
何も変わっていない。
吸血鬼の手。
人間だった頃より白い。
温度も低い。
それでも。
さっきまでとは少しだけ違って見えた。
「……俺」
声が漏れる。
「故郷で、化け物って言われた」
二人が黙る。
「真祖を倒した後」
思い出したくない。
それでも、今は言えた。
「助けた奴らにも怖がられた」
父を失った。
国を失った。
人間の身体を失った。
それでも残った者たちを守ろうとした。
最後に返ってきたのは。
恐怖だった。
「だから」
グレイは少しだけ笑った。
上手く笑えているかは分からない。
「お前らも、そうなると思ってた」
ライアンは何も言わなかった。
ライカも。
しばらくして。
「姫さん」
「何だ?」
「俺、そんな先のことまで考えてないっス」
「……は?」
「今まで一緒に旅してて、姫さんが姫さんだった。それだけっス」
「お前、本当に単純だな」
「褒め言葉として受け取っとくっス」
「褒めてない」
「でも」
ライアンが笑う。
「明日になっても姫さんは姫さんでしょ?」
グレイは答えなかった。
答えられなかった。
「明日も釣りするんスよね?」
「……ああ」
「じゃあ問題ないっス」
「何がどう問題ないんだよ」
「明日の予定が変わってないんで」
グレイは呆れた。
本当に。
こいつは。
「お姫ちゃん」
ライカが立ち上がる。
「私からも一つ」
「何だ?」
「次に血の匂いで苦しくなった時は、一人で逃げやがらないでください」
グレイが目を見開く。
「でも」
「私たちでは何もできないかもしれません」
「ああ」
「それでも、突然いなくなられる方が困ります」
「…………」
「少なくとも事情を知った今なら、離れたいと言われれば理由も分かります」
グレイは少し考える。
「分かった」
「約束ですよ」
「ああ」
「姫さん」
ライアンが手を上げる。
「俺からも一個いいっスか?」
「何だ?」
「血って、魔物のでもいいんスか?」
「……ものによるけどな」
「じゃあ今度狩るっスか?」
「軽いな、お前」
「だって人の血飲みたくないんでしょ?」
「ああ」
「だったら代わり探せばいいじゃないっスか」
グレイは少し目を見開いた。
それは。
自分でも考えていた。
旅へ出てから何度か試している。
魔物の血でどこまで補えるのか。
魔力で代替できないのか。
まだ答えは出ていない。
「……試してる」
「やっぱり」
「でも完全には分からない」
「じゃあ一緒に試せばいいっス」
「にーちゃん。お姫ちゃんを実験動物みたいに言いやがらないでください」
「そんなつもりないっスよ!」
「言い方です」
「じゃあ、手伝う?」
「それも軽いです」
「難しいっスね!」
また二人が言い合う。
グレイはそれを見ていた。
吸血鬼だと話した。
真祖だと話した。
国が滅びたことも。
人形のことも。
血を欲することも。
全部を聞いた後なのに。
二人は変わらない。
昨日と同じ。
「……はは」
小さく声が漏れた。
二人が止まる。
「姫さん?」
「お姫ちゃん?」
「いや」
グレイは口元を押さえる。
「お前ら、本当に変だな」
「姫さんにだけは言われたくないっス」
「同感です」
「なんでだよ」
三人の声が重なる。
窓の外では、鉱山の町の音が続いていた。
◇
翌日。
鉱山の町を出た三人は、予定通り川へ向かった。
「姫さん」
「なんだ?」
「そこ、引いてるっス!」
「どこ!?」
「竿!」
「分かってる!」
「上げるっス!」
「今やってる!」
グレイが竿を引く。
糸が張る。
水面が大きく揺れた。
「おお!」
「強く引きすぎです、お姫ちゃん!」
「じゃあどうすればいい!」
「少し緩めやがってください!」
「どっちだよ!」
「姫さん、右! 右っス!」
「魚相手に右とかあるのか!?」
「あるっス!」
三人の声が川辺に響く。
少し離れた場所で鳥が飛び立った。
グレイは必死に竿を握る。
空間魔法を使えば一瞬だ。
魚だけこちらへ飛ばせばいい。
だが、それでは釣りではないと二人に言われた。
「今っス!」
「分かった!」
竿を上げる。
銀色の魚が水面から飛び出した。
「釣れた!」
グレイの声が、思った以上に大きくなる。
魚が草の上へ落ちた。
跳ねる。
「姫さん、早く!」
「どうする!?」
「掴むっス!」
「滑る!」
「魚なんだから当たり前っス!」
「にーちゃん、笑ってないで手伝いやがってください!」
三人で魚を追いかける。
結局、ライカが布で包んで捕まえた。
グレイはしゃがみ込み、魚を見る。
「……釣れた」
「釣れたっスね」
「私が捕まえましたけどね」
「釣ったのは俺だ」
「はいはい」
グレイは満足した。
その隣で。
ライアンの竿はまだ一度も動いていない。
「……なあ」
「なんスか?」
「お前、釣り得意って言ってなかった?」
「今日は魚の機嫌が悪いっスね」
「俺は釣れたぞ」
「初心者は運がいいんスよ」
「負け惜しみ?」
「違うっス」
「にーちゃん」
ライカが冷たい目を向ける。
「素直に負けを認めやがってください」
「まだ終わってないっス!」
「勝負だったのか?」
「姫さんが言い出したんでしょ!」
「そうだった」
グレイは笑う。
昨日。
自分が吸血鬼だと話した。
今日。
三人で釣りをしている。
ライアンは昨日までと同じように姫さんと呼ぶ。
ライカもお姫ちゃんと呼ぶ。
何も変わらない。
いや。
少しだけ変わった。
「姫さん」
「ん?」
「腹減ったっス」
「魚焼く?」
「一匹しかないっスよ」
「お前が釣れ」
「今やってるっス!」
「早くしろ、王子様」
「それやめてほしいっス!」
グレイが笑う。
「ライカ姫も釣れよ」
「お姫ちゃん」
「何だ?」
「その呼び方を続けるなら、私もグレイ姫と呼びますよ」
「それは嫌だ」
「ならやめやがってください」
「分かったよ」
金獅子の王子。
金獅子の姫。
そして。
白銀の真祖。
立場だけを並べれば、随分と大げさだった。
だが今ここにいるのは。
魚を一匹釣っただけで得意になっているグレイと。
未だに一匹も釣れず、魚のせいにしているライアンと。
そんな二人を呆れた顔で眺めているライカ。
それだけだった。
「……なあ」
グレイが二人を呼ぶ。
「なんスか?」
「何です?」
「昨日のこと」
二人が見る。
「ありがとう」
短く言った。
ライアンが少し目を丸くする。
ライカも。
「それだけ」
グレイは川へ向き直る。
「姫さん」
「何だよ」
「もう一回言ってほしいっス」
「嫌だ」
「聞き逃したっス」
「絶対聞いてただろ」
「ねーちゃん聞いた?」
「聞いていませんね」
「お前ら!」
「もう一回お願いするっス、姫さん」
「言わない!」
グレイが釣り竿を置いて立ち上がる。
ライアンが笑いながら逃げた。
「待て!」
「嫌っス!」
「昨日までと何も変わってないとか思って損した!」
「姫さんが勝手に思っただけっス!」
「止まれ!」
「にーちゃん、竿を放置しやがらないでください!」
川辺をライアンが走る。
グレイが追う。
その後ろでライカが二本の竿を回収していた。
やがて。
ライカも呆れたように笑った。
三人の旅は続いていく。
隠していたものを一つずつ知って。
それでも。
姫さんは姫さんで。
お姫ちゃんはお姫ちゃんのままだった。
グレイにとって、それはきっと。
どんな言葉よりも、ありがたいことだった。




