第4話 三人旅
旅というものには、もっと特別な何かがあると思っていた。
見たことのない景色を眺め、知らない土地を歩き、ときには危険な魔物と戦う。
故郷を出る前に思い描いていたものは、だいたいそんなところだ。
実際、間違ってはいなかった。
砂漠の向こうには知らない国があり、そこにはグレイが見たこともない獣人たちが暮らしている。食べ物も違えば、建物の造りも違う。道端に生えている草木ですら、故郷とは少しずつ違っていた。
ただ。
「姫さん、それ食わないんスか?」
「食う」
「さっきからずっと持ってるだけじゃないっスか」
「今食おうと思ってた」
「じゃあ俺が――」
「やらない」
「まだ何も言ってないっスよ?」
「顔に書いてある」
旅というものが、こんなにも騒がしいとは思っていなかった。
昼を少し過ぎた頃。
三人は街道から少し離れた木陰で休んでいた。
朝に立ち寄った村で買ったパンと、薄く切った燻製肉。そこに干した果物を添えただけの簡単な昼食だったが、歩き続けた後なら十分らしい。
少なくともライアンにとっては。
「にーちゃん。自分の分はもう食べたでしょう」
「食べたっスよ」
「なら、お姫ちゃんの昼食を狙いやがらないでください」
「狙ってないっス。ただ、いらないなら勿体ないと思っただけで」
「いる」
グレイは手に持っていたパンを一口齧った。
少し硬い。
噛むたびに、小麦の香ばしい匂いが鼻へ抜ける。
味は悪くなかった。
もっとも、腹が満たされている感覚はほとんどない。
人間だった頃なら、この程度でも空腹は多少紛れたはずだ。
今は違う。
いくら食べても、身体の奥にある別の渇きとは結びつかない。
それでも食事をする。
味が分かるから。
そして何より、二人と旅をしていると食べない方が面倒だった。
「姫さんって小食っスよね」
「そうか?」
「昨日の夕飯もあんまり食ってなかったじゃないっスか」
「身体が小さいからじゃないですか?」
ライカが干した果物を口へ運びながら言った。
「十歳なら、にーちゃんほど食べなくても不思議ではありません」
「十歳をなんだと思ってる」
「十歳は十歳でしょう?」
「……まあ、そうだけど」
反論しようとして、やめる。
今の見た目は十歳のままだ。
正確には、身体そのものが十歳の時からほとんど変化していない。
真祖となった自分がこれから成長するのか。
それとも、この姿のままなのか。
それすらグレイには分からない。
分からないことばかりだった。
だから旅に出た。
その答えを探すために。
「姫さん?」
「ん?」
「また考え事っスか?」
ライアンが覗き込んでいた。
近い。
グレイはその額を手のひらで押し返した。
「近い」
「痛いっス」
「押しただけだ」
「姫さん、見た目の割に力強くないっスか?」
「昨日見ただろ」
「あれ魔法じゃないんスか?」
「身体もそれなりに強い」
「それなり……」
ライアンの視線が怪しくなる。
「何だよ」
「腕相撲してみるっスか?」
「嫌だ」
「なんで!?」
「やる意味がない」
「どっちが強いか分かるじゃないっスか」
「昨日の戦いで分かっただろ」
「腕力は別っスよ」
「にーちゃん」
ライカが呆れたように息を吐く。
「十歳の女の子に腕相撲を挑みやがらないでください」
「でも姫さん普通じゃないっスよ」
「それでもです」
「じゃあ、ねーちゃんがやる?」
「どうしてそうなるんです?」
二人の会話を聞きながら、グレイは残ったパンを食べる。
数日前までなら考えられない時間だった。
砂漠を越えていた頃は、立ち止まれば《ドールハウス》から誰かを呼び出していた。
母。
侍女。
騎士。
宮廷魔導士。
かつて城で顔を合わせていた者たち。
彼らと話す時間は嫌いではない。
むしろ、今のグレイにとって何より大切な時間だった。
だが、目の前の二人との時間は、それとは違う。
知らないことを話す。
知らないことを教えてもらう。
そして、相手も自分を知らない。
だから少しずつ知っていく。
その感覚が、グレイには新鮮だった。
「……なあ」
「なんスか?」
「お前ら、いつまで旅するんだ?」
何気なく尋ねる。
ライアンが少し考えるように空を見る。
「いつまでって言われると難しいっスね」
「決まってないのか?」
「期限はあります」
答えたのはライカだった。
「ただ、どこをどう回るかまでは決められていません。自分たちで考え、必要だと思った場所へ行く。それも修行の一つです」
「へえ」
「帰る時期だけは決まってるっスけどね」
「帰るのか」
「そりゃ帰るっスよ」
当然のようにライアンが笑う。
「俺たちの家があるんで」
「……そうだな」
当たり前のことだった。
旅へ出たなら、いつか帰る。
二人には帰る場所がある。
グレイは膝の上へ視線を落とした。
自分にも城はある。
形だけなら。
帰ろうと思えば帰れる。
だが、あの場所を帰る場所と呼んでいいのかは、まだ分からなかった。
母たちはいる。
家族もいる。
それでも、窓から見える城下町に明かりが灯ることはない。
門を守る兵士もいない。
朝になって市場が開くこともない。
誰も歳を取らない。
誰も新しく生まれない。
時間だけが止まった国。
「お姫ちゃん」
ライカの声がした。
グレイは顔を上げる。
「何だ?」
「そろそろ行きましょうか」
それだけだった。
何を考えていたのか、聞かれなかった。
「ああ」
グレイは立ち上がる。
服についた草を払った。
ライアンも荷物を背負い、ライカが食事の残りを纏める。
誰も先ほどの話へ戻らない。
それが少しありがたかった。
◇
午後の街道は、緩やかな丘陵地帯へ入っていった。
これまで広がっていた草原とは違い、道が何度も上り下りを繰り返す。
背の高い木も増えた。
葉の間から落ちる陽射しが地面へまだらな模様を作り、吹き抜ける風には草と土の匂いが混じっている。
遠くで鳥が鳴いた。
グレイはその声を聞きながら歩く。
「なあ、ライカ」
「何ですか?」
「あれは何だ?」
道の脇に生えている赤い実を指差す。
ライカが視線を向けた。
「食べられません」
「まだ食べられるか聞いてない」
「お姫ちゃん、さっきから植物を見るたびに食べられるか聞いていたでしょう」
「三回だけだ」
「十分です」
「で、何なんだ?」
「薬草の一種です。実ではなく葉を乾燥させて使います。傷口へ塗る薬の材料になりますね」
「へえ」
グレイが近づこうとすると、背後から襟を掴まれた。
「何だよ」
「採らないでください」
「見るだけだ」
「本当ですか?」
「本当だ」
「さっきもそう言って、知らない実を齧ろうとしたでしょう」
「あれは匂いを嗅いでただけだ」
「口元まで持っていってたっスよ、姫さん」
ライアンまで口を挟む。
「お前は黙ってろ」
「俺、間違ったこと言ってないっスよ?」
「うるさい」
グレイはライカの手から襟を取り返す。
まったく信用されていない。
だが、仕方がない部分もあった。
見るもののほとんどが初めてなのだ。
砂漠を越えた先。
獣人の国。
父から話を聞いたことはあった。
書物で読んだこともある。
だが、知識として知っていることと、自分の目で見ることはまるで違う。
風の匂い。
土の感触。
生えている植物。
そこに住む者たちの暮らし。
書物には書かれていないものばかりだ。
「姫さん、本当に何も知らないんスね」
ライアンが隣へ並ぶ。
「悪かったな」
「いや、馬鹿にしてるわけじゃないっスよ」
「じゃあ何だ?」
「面白いなって」
「俺が?」
「姫さんが」
ライアンが道端の草を一つ指差した。
「これ知ってるっスか?」
「知らない」
「これは?」
「知らない」
「じゃあ、あれ」
「知らない」
「本当に知らないっスね」
「喧嘩売ってるのか?」
「だから面白いって話っスよ」
ライアンは笑いながら少し先へ走った。
グレイが眉を寄せる。
「何なんだ、あいつ」
「にーちゃんは、お姫ちゃんに教えるのが楽しいのでしょう」
「教えてないだろ。知らないか確認してるだけだ」
「本人なりの準備です」
「準備?」
「自分が知っていて、お姫ちゃんが知らないものを探しているんですよ」
グレイは前を歩くライアンを見る。
確かに、あちこちを見回している。
しばらくすると一本の木の前で止まった。
「姫さん、これ!」
「今度は何だ」
「この木の実、食えるっスよ」
「本当か?」
「本当っス」
「にーちゃん」
後ろからライカの声。
ライアンの肩が僅かに跳ねた。
「……食えることは食えるっス」
「おい」
「生だとめちゃくちゃ渋いだけで」
「食わせようとしたな?」
「経験も大事かなって」
「ライアン」
「待つっス! 姫さん、空間魔法は反則!」
「まだ使ってない!」
「使おうとしたっスよね!?」
ライアンが走る。
グレイも追いかける。
二人の足音が街道を駆けていった。
後ろからライカのため息が聞こえる。
「二人とも、体力を無駄に使いやがらないでください!」
◇
夕暮れが近づいた頃。
三人はその日の宿泊場所を探していた。
予定では小さな集落へ着くはずだったが、街道の途中で崩れた橋を迂回したため、思ったより時間がかかってしまった。
次の村まではまだ遠い。
無理に進む必要もないということで、野営することになった。
「この辺りでいいっスかね」
ライアンが街道から外れた場所を見回す。
少し開けた土地だった。
背後には林。
近くには小さな川が流れている。
地面も比較的平らだ。
「水もありますし、問題ないでしょう」
ライカが荷物を下ろした。
グレイも周囲を確認する。
魔物の気配はない。
動物はいるが、こちらを警戒して近づいてくる様子もなかった。
「ここで寝るのか?」
「そうっスよ」
「外で?」
「野営なんだから当然じゃないっスか」
「……なるほど」
グレイは地面を見る。
草。
土。
石。
「姫さん」
「何だ」
「まさか野営したことないっスか?」
「砂漠ではした」
「どうやって?」
「普通に」
「普通って?」
グレイが黙る。
砂漠では《ドールハウス》から家族を呼び出していた。
テントを張るのも、食事を用意するのも、ほとんど任せてしまっている。
そもそもグレイ自身は眠らなくても困らない。
砂の上へ座って夜を越したこともあった。
「……寝なくても平気だった」
「それ野営って言わないっスよ」
「夜を外で過ごしたんだから同じだろ」
「違います」
ライカまで否定した。
「まず薪を集めます。暗くなる前に寝床も作りますよ」
「分かった」
「姫さんは薪拾いお願いしていいっスか?」
「ああ」
「遠くまで行かなくていいっスからね」
「子供扱いするな」
「十歳っスよね?」
「……行ってくる」
言い返すのが面倒になり、グレイは林へ向かった。
背後からライアンの声が飛んでくる。
「姫さーん! 生木は燃えにくいっスから、落ちて乾いてる枝っスよー!」
「分かってる!」
本当は今知った。
グレイは適当に返事をして林へ入った。
地面を見る。
枝はいくらでも落ちている。
細いもの。
太いもの。
湿っているもの。
折ってみると簡単に乾いているか分かった。
「これでいいか」
何本か拾う。
さらに奥へ進もうとして、足を止めた。
遠くまで行くなと言われた。
別に迷うことはない。
空間を把握しているから、戻ろうと思えばすぐ戻れる。
それでも。
「……まあいいか」
言われた通り、見える範囲で集める。
両腕に抱えられるだけ拾い、戻った。
「持ってきたぞ」
「お、早いっスね」
ライアンが振り返る。
その手には簡単な寝床を作るための布があった。
ライカは石を並べて火を焚く場所を作っている。
グレイは枝を置いた。
「これでいいか?」
ライカが一本取って確認する。
「ええ。ちゃんと乾いていますね」
「当然だ」
「お姫ちゃん、少し嬉しそうですね」
「気のせいだ」
「褒められて嬉しいんスね、姫さん」
「違う」
「耳があったら動いてそうっス」
「お前と一緒にするな」
「俺そんな分かりやすいっスか?」
「かなり」
ライアンが自分の耳を押さえた。
その横でライカが火を起こす。
火打石から散った火花が枯れ草へ移り、細い枝へ炎が広がっていく。
やがて小さな焚き火になった。
グレイはしゃがみ込む。
「魔法を使わないんだな」
「使えますが、毎回魔力を使う必要もないでしょう?」
「俺なら使う」
「お姫ちゃんは魔力量が多そうですからね」
「まあな」
「どれくらいあるんスか?」
「分からない」
「測ったことないんスか?」
「ない」
「姫さん、色々雑っスね」
「必要なかったからな」
実際、自分の魔力がどれほどあるのか正確には知らない。
真祖を討つ前とは比べものにならない。
《ドールハウス》を作った時も、通常ならどれほどの魔力が必要なのか見当すらつかなかった。
ただ、できると思った。
だから作った。
生前に読んだ空間魔法の理論と、今の自分が持つ膨大な魔力。
それを組み合わせた結果だ。
「姫さんって、魔法を誰に習ったんスか?」
「色んな奴に」
宮廷魔導士たち。
教師。
父が呼んでくれた研究者。
そして、書庫にあった無数の本。
「城にいた頃か?」
ライカが尋ねる。
グレイは少しだけ目を向けた。
「……ああ」
昨日、自分が姫だったことを話した。
半分しか信じていないと言っていた二人だが、少なくとも冗談として流すつもりはないらしい。
「王族なら、専属の教師とかいたんスか?」
「いたぞ。魔法だけじゃないけどな」
「剣も?」
「剣、歴史、政治、礼儀、他国の文化。色々」
「姫さん、礼儀習ってたんスか?」
「どういう意味だ」
「いや、なんか……」
ライアンがグレイを見る。
「もっとこう、姫っぽく喋ったりできるのかなって」
「できるぞ」
「やってみてほしいっス」
「嫌だ」
「即答っスね」
「今さらお前ら相手にやってどうする」
グレイは焚き火へ枝を一本足す。
火の粉が夜へ舞った。
「必要ならやる。それだけだ」
「じゃあ本当に王女だったんですね」
ライカの声は、ライアンより少し真面目だった。
「だから何回言わせるんだ」
「半分だったものが、少しずつ増えているだけです」
「まだ全部じゃないのか?」
「今は七割くらいでしょうか」
「微妙だな」
「俺は六割っス」
「なんでお前の方が低いんだよ」
「だって姫さん、姫っぽくないっスもん」
「お前にだけは言われたくない」
「俺は姫じゃないっスよ」
「そういう意味じゃない」
ライカが僅かに笑う。
グレイはその横顔を見る。
ふと思う。
この二人は、自分たちの立場をまだ明かしていない。
いずれ人の上に立つ。
そこまでは聞いた。
だが、それ以上は聞いていない。
グレイも聞くつもりはなかった。
話したくなれば話すだろう。
自分がそうだったように。
◇
夜が深くなる。
夕食は、昼と似たようなものだった。
そこへライカが持っていた干し肉と豆を使い、簡単なスープを作った。
鍋から立つ湯気に香辛料の匂いが混じる。
火を囲んで食べる。
「……美味い」
グレイが言うと、ライカが顔を上げた。
「そうですか?」
「ああ」
「よかったですね、ねーちゃん」
「なぜにーちゃんが満足そうなんです?」
「姫さん、ちゃんと美味いって言うんだなと思って」
「俺を何だと思ってる」
「何食っても無表情なタイプかと」
「美味いものは美味いって言う」
「じゃあ昨日の宿の飯は?」
「普通」
「一昨日は?」
「美味かった」
「昼のパンは?」
「硬かった」
「そこは味じゃないっス」
ライアンが笑う。
グレイもスープをもう一口飲んだ。
温かい。
吸血鬼となった身体にも、温度は分かる。
冷たい夜気の中では、温かなものを口にするだけで少し落ち着いた。
「おかわりしますか?」
「いいのか?」
「ありますよ」
「じゃあ少し」
器を差し出す。
ライカが鍋からスープをよそう。
その様子をライアンが妙な顔で見ていた。
「何だ?」
「いや」
「言え」
「ねーちゃん、姫さんに甘くないっスか?」
ライカの鉄扇が動いた。
閉じた扇がライアンの額へ飛ぶ。
「痛っ!」
「食事中に余計なことを言いやがらないでください」
「ほら! 俺にはこれっスよ!」
「普段の行いでしょう」
「俺もおかわり」
「自分でよそってください」
「差が酷くないっスか!?」
グレイは器を持ったまま笑った。
「普段の行いらしいぞ」
「姫さんまで!」
「俺は何もしてない」
「昨日追いかけ回してきたじゃないっスか」
「あれはお前が悪い」
「ねーちゃんと同じこと言ってるっス!」
焚き火がぱちりと鳴った。
笑い声が夜の林へ溶けていく。
グレイはふと黙った。
こんな夜を知っている。
城がまだ城だった頃。
家族で食卓を囲んだ。
父がいて。
母がいて。
自分がいて。
仕事の話をする父へ母が呆れ、グレイが横から口を挟む。
特別な日ではない。
豪華な宴でもない。
ただ一緒に食事をしただけ。
失ってから、そういう時間ばかり思い出す。
「姫さん?」
ライアンの声。
「……何だ?」
「スープ冷めるっスよ」
「ああ」
器へ視線を戻す。
湯気が少し弱くなっていた。
グレイは一口飲む。
まだ温かい。
今は、今の時間を見ればいい。
母なら、たぶんそう言う。
◇
食事を終え、簡単に片付けを済ませる。
夜空には無数の星が出ていた。
砂漠で見上げた夜空よりも、地平線が木々に遮られている。その代わり、枝葉の隙間から覗く星が妙に近く感じられた。
「見張りは交代っスね」
ライアンが焚き火へ薪を足す。
「見張り?」
「野営なんだから必要っスよ」
「魔物とか?」
「それもあります。盗賊なんかもいるっスからね」
「俺がやる」
「三人で交代っス」
「別に朝まで起きてられるぞ」
二人が同時にグレイを見る。
しまった。
グレイは少しだけ後悔した。
「……眠くなりにくいんだ」
「それでも駄目です」
ライカがすぐに答えた。
「なぜ?」
「子供を一人で朝まで見張りに立たせるわけにはいきません」
「俺は子供だけど――」
普通の子供ではない。
そう言いかけて止める。
まだ話していない。
「昨日の戦い見ただろ」
「強さとこれは別です」
「そうっスよ。姫さん一人だけ起きてる必要ないっス」
「でも俺は平気だぞ」
「私たちが平気ではありません」
ライカに言われ、グレイは口を閉じた。
理屈ではないらしい。
「……分かった」
「じゃあ最初は俺がやるっス」
「次は私。その次がお姫ちゃんでいいでしょう」
「俺が最後?」
「一番短くしておきます」
「子供扱いしてるだろ」
「しています」
「否定しろよ」
「十歳ですから」
またそれだ。
グレイは諦めた。
「好きにしろ」
「そうします」
ライカが寝床へ向かう。
グレイも用意された毛布を見る。
「これで寝るのか」
「嫌なら俺のもう一枚使うっスか?」
「いらない」
「夜は冷えるっスよ」
「平気だ」
「また強がってないっスか?」
「本当に平気だ」
体温そのものが以前より低い。
寒さも暑さも感じるが、人間だった頃ほど身体へ影響しない。
それを説明するわけにもいかない。
グレイは毛布へ潜り込んだ。
土の硬さが背中に伝わる。
「……寝にくい」
「聞こえてるっスよ」
焚き火の向こうからライアンが笑った。
「うるさい」
「宿のベッドが恋しくなったっスか?」
「別に」
「明日、腰痛くなるっスよ」
「十歳で腰痛は嫌だな」
「そこ気にするんスね」
「寝る」
「はいはい。おやすみっス、姫さん」
少し間が空いた。
「……おやすみ」
グレイは目を閉じる。
焚き火の音。
川の流れる音。
虫の声。
少し離れた場所から聞こえるライアンの呼吸。
その全部を意識しながら、身体の力を抜いた。
眠る必要はない。
それでも眠ろうと思えば眠れる。
不思議な身体だ。
意識がゆっくり沈んでいく。
◇
どれくらい経ったのか。
グレイは目を開けた。
辺りは暗い。
焚き火の炎が小さくなっている。
見張りはライカへ交代していた。
彼女は火の近くへ座り、鉄扇を膝の上に置いている。
ライアンは既に眠っていた。
グレイは身体を起こす。
「まだ交代には早いですよ」
こちらを見ずにライカが言った。
「分かってる」
「眠れませんか?」
「目が覚めただけ」
「そうですか」
グレイは毛布を肩へ掛けたまま、焚き火の近くへ移動した。
ライカの隣ではなく、向かい側へ座る。
「寝ていていいですよ」
「眠くない」
「そうですか」
火が小さく揺れる。
昼間とは違い、ライカは静かだった。
ライアンが起きていないからかもしれない。
グレイも無理に話さない。
しばらく二人で火を見ていた。
「お姫ちゃん」
「ん?」
「旅を始めて、どれくらいですか?」
グレイは少し考える。
「そんなに経ってない」
「砂漠を越えてきたのでしょう?」
「ああ」
「一人で?」
少し迷う。
「……一人じゃない」
ライカがこちらを見る。
「同行者が?」
「家族と一緒だった」
「では、今は?」
「いるよ」
「どこに?」
「それは秘密」
ライカは追及しなかった。
「そうですか」
それだけ。
グレイは膝を抱える。
「変だと思わないのか?」
「何がです?」
「家族がいるって言ったのに、一人で街にいた」
「事情があるのでしょう」
「聞かないんだな」
「お姫ちゃんも、私たちのことを聞かなかったでしょう?」
返す言葉がなかった。
ライカは小さく薪を動かす。
赤い火の粉が舞う。
「話したくないことを無理に聞いても、相手が困るだけです」
「……そうだな」
「話したくなったら話せばいいんですよ」
どこかで聞いたような言葉だった。
母だ。
グレイは少し笑う。
「何です?」
「いや。母上も似たようなこと言ってた」
「お母様ですか」
「ああ」
「優しい方なのですね」
「優しいよ」
迷わず答えた。
「たまに適当だけど」
「それくらいの方がいいのでは?」
「お前もそう思う?」
「ずっと完璧な母親では疲れてしまうでしょう」
「母上と同じこと言いそうだな」
ライカが少し笑った。
焚き火越しに見る横顔は、昼間より柔らかい。
「ライカの母親は?」
何気なく尋ねる。
「元気ですよ」
「そうか」
「父も元気です」
「仲いい?」
「悪くはありません」
「微妙な答えだな」
「立場がありますから」
その一言に、グレイは何かを感じた。
だが、聞かなかった。
「そっか」
「それだけですか?」
「何が?」
「もう少し聞くかと思いました」
「話したくなったら話せばいいんだろ?」
今度はライカが黙った。
やがて、口元を僅かに緩める。
「そうですね」
再び静かな時間が戻る。
川の音。
火の音。
眠っているライアンが寝返りを打つ。
「んー……ねーちゃん……肉……」
「どんな夢を見てやがるんですか、にーちゃん」
ライカが呆れた顔をする。
グレイは吹き出しそうになった。
「お前じゃなくて肉を呼んでるぞ」
「失礼な弟ですね」
「明日言ってやろう」
「お願いします」
「覚えてないって言うだろうけど」
「なら二人で証言すれば逃げられません」
「いいな、それ」
声を抑えて笑う。
眠っているライアンは何も知らず、また寝返りを打った。
その夜。
グレイは結局、自分の見張りの時間より前から起きていた。
それでもライカは交代の時間になるまで席を譲らなかった。
◇
翌朝。
「俺、そんな寝言言ってないっスよ」
「言った」
「言いやがりました」
「二人して嘘ついてるっス!」
「なんで俺たちがそんな嘘つくんだよ」
「俺をからかうため!」
「自意識過剰です、にーちゃん」
「ねーちゃん絶対楽しんでるっスよね!?」
朝から騒がしい。
グレイは昨夜の残りのスープを温めながら、二人のやり取りを眺めていた。
火の扱いにも少し慣れた。
昨日はライカがやっていたことを真似しただけだが、問題なく火を起こせた。
「姫さん」
「何だ?」
「なんでそんな得意げなんスか?」
「別に」
「火つけられたのが嬉しいんスか?」
「違う」
「お姫ちゃん、さっきから火ばかり見ていますよ」
「……ちゃんと燃えてるか確認してるだけだ」
二人が顔を見合わせる。
「何だよ」
「いえ」
「何でもないっス」
「絶対何かあるだろ」
グレイが睨むと、二人は揃って視線を逸らした。
気に入らない。
だが、少しだけ気分がいいのも事実だった。
魔法を使えば一瞬で火など起こせる。
それでも、昨日教わったやり方で火をつけた。
自分でできた。
たったそれだけのこと。
なのに悪くなかった。
「姫さん」
「今度は何だ?」
「鍋、吹いてるっス」
「え?」
慌てて鍋を見る。
縁からスープが溢れていた。
「お姫ちゃん、火を弱くしやがってください」
「どうやって!?」
「薪を減らすんスよ!」
「先に言え!」
「普通分かるっス!」
「知らないって言ってるだろ!」
朝の野営地に三人の声が響いた。
◇
旅を始めてから、何日かが過ぎた。
三人は街から街へ移動した。
ときには小さな村へ泊まり、ときには野営をした。
ライアンとライカの修行には決まった道順がない。
その土地を見て、必要だと思えば滞在する。
困っている者がいれば手を貸す。
それが二人の旅だった。
最初に立ち寄った村では、畑を荒らす小型の魔物を追い払った。
グレイが全部まとめて空間魔法で遠くへ飛ばそうとすると、ライアンに止められた。
「姫さん、それじゃ修行にならないっス」
「早く終わるだろ」
「そういう問題じゃないんスよ」
仕方なく三人で追い払った。
次の街では、荷車の車輪が壊れて困っていた商人を手伝った。
グレイが荷車そのものを空間魔法で目的地まで送ろうとすると、今度はライカに止められた。
「お姫ちゃんは何でも魔法で解決しようとしやがらないでください」
「できるんだからいいだろ」
「できることと、するべきことは別です」
結局、ライアンが車体を持ち上げ、ライカとグレイで車輪を取り付け直した。
その次の日。
川を渡るための小さな渡し舟へ乗った。
グレイは初めてだった。
「動くなよ、姫さん」
「分かってる」
「端っこ行くと落ちるっスよ」
「分かってるって」
「水覗き込まないでくださいね」
「……お前ら、俺を何歳だと思ってる?」
「十歳」
「十歳です」
「もう聞かない」
それでもグレイは船縁から水面を見た。
透明な水の中を魚が泳いでいる。
川底の石まで見えた。
「魚いるぞ」
「いますね」
「あれ食える?」
「姫さん、結局食い物基準じゃないっスか」
「気になっただけだ」
「食えるっスよ」
「本当か?」
「今度釣るっスか?」
「釣り?」
グレイが振り返る。
「やったことないっスか?」
「ない」
「じゃあ今度やるっス」
「簡単?」
「俺は上手いっスよ」
「にーちゃんは下手です」
「ねーちゃん!?」
「昔、半日やって一匹だったでしょう」
「あの日は魚が悪かったっス!」
「魚のせいにしやがらないでください」
また始まる。
グレイは二人の言い合いを聞きながら水面へ戻った。
今度、釣りをする。
その言葉を自然に受け入れていたことに、少し遅れて気付いた。
今度。
つまり、明日でも今日でもない。
これから先も一緒にいることを、いつの間にか前提にしている。
ライアンも。
ライカも。
そして自分も。
「……まあ、いいか」
小さく呟く。
川の流れる音に消えて、二人には聞こえなかった。
◇
その日の夕方。
三人は少し大きな街へ入った。
石造りの門を抜けると、真っ直ぐ伸びる大通りの両側に店が並んでいる。
獣人の姿もこれまで以上に多様だった。
犬。
猫。
狐。
兎。
牛。
鳥の特徴を持つ者までいる。
グレイの視線が忙しく動く。
「姫さん」
「何だ?」
「そんなに見てると田舎者だと思われるっスよ」
「初めてなんだから仕方ないだろ」
「一応、姫なんスよね?」
「一応じゃない」
「王女がそんなきょろきょろするんスか?」
「知らない国に来たらするだろ」
「しないと思います」
ライカにまで否定された。
「じゃあお前らは知らない国に行っても何も見ないのか?」
「見ますよ」
「ほら」
「ですが、もう少しさりげなく見ます」
「……面倒だな」
グレイは構わず周囲を見る。
この街は、砂漠を越えて最初に入った街よりずっと大きい。
露店だけでなく、石と木を組み合わせた二階建ての店もある。
道には荷車が行き交い、どこかから金属を叩く音が聞こえてきた。
香辛料。
焼いた肉。
獣人たちの匂い。
そして血。
一瞬だけ。
喉の奥が熱を持った。
「…………」
グレイは足を止めない。
意識を逸らす。
慣れたわけではない。
ただ、最初の街よりは抑え方が分かってきた。
深く吸い込まない。
血の匂いだけを拾わない。
周囲にある別の匂いへ意識を分散する。
それだけでも違う。
「姫さん?」
「何だ?」
「宿、あっちでいいっスか?」
「ああ」
気付かれていない。
グレイは少しだけ安堵した。
今はまだ。
話すつもりはない。
だが、いつかは話す。
母にそう言った。
その「いつか」がいつなのかは、自分でも分からない。
◇
宿へ荷物を置いた後、三人は街へ出た。
ライアンが夕食まで時間があるから見て回ろうと言い出したのだ。
グレイに異論はない。
むしろ、この街には興味があった。
「姫さん、あっち武器屋っスよ」
「行く」
「即答ですね」
「見るだけだ」
「昨日も聞きました、それ」
ライカが少し笑う。
武器屋へ入る。
壁一面に武器が並んでいた。
剣。
槍。
斧。
弓。
短剣。
鉄扇もある。
ライアンは短剣の棚へ。
ライカは鉄扇や魔法触媒の並ぶ場所へ向かった。
グレイは特に目的もなく店内を見る。
「嬢ちゃん、何か探してるのか?」
店主らしい熊の獣人が声をかけてきた。
「見てるだけ」
「そうか。刃物には触るなよ」
「分かってる」
子供扱いされることにも、少し慣れてきた。
グレイは棚を眺める。
その中に、小さな短剣があった。
装飾用だろうか。
刃渡りも短い。
手に取ろうとして、やめる。
父から剣を教わったことを思い出した。
正確には、父自身が教えたわけではない。
騎士団長に頼んでくれた。
けれど、ときどき訓練場へ来ては見ていた。
褒められたこともある。
もっと腰を落とせと笑われたことも。
「姫さん」
ライアンが隣へ来た。
「短剣使うんスか?」
「少しだけ」
「へえ」
「お前ほどじゃない」
「ちょっと持ってみるっスか?」
「いい」
「なんで?」
「今はいらないから」
グレイは棚から離れる。
ライアンは追及しなかった。
「俺の見ます?」
「何を?」
「短剣」
「昨日から見てるだろ」
「ちゃんと見せてないっスよ」
腰から一本抜き、柄をこちらへ向ける。
グレイは受け取った。
軽い。
思っていた以上に。
「軽いな」
「速さ優先なんで」
「二本とも同じ?」
「少し違うっス」
もう一本も渡される。
確かに僅かに重さが違う。
重心も違った。
「右でこっち。左がこっちっス」
「使い分けてるのか」
「そうっスね。右は斬る方。左は受けたり流したりする方が多いっス」
「へえ」
グレイは二本を持って軽く構えてみる。
「お」
ライアンの耳が立った。
「姫さん、構えはそれなりっスね」
「それなりって何だ」
「ちゃんと習ったことある人の持ち方っス」
「剣は習った」
「二刀は?」
「ない」
「じゃあ今度教えるっスよ」
また、今度。
グレイは二本の短剣を見る。
「……いいのか?」
「別に減るもんじゃないっスから」
「じゃあ頼む」
「了解っス」
短剣を返す。
ライアンは嬉しそうに鞘へ戻した。
少し離れたところでライカがこちらを見ている。
目が合うと、何でもないように商品へ視線を戻した。
「何だ?」
「何でもありませんよ」
「絶対何かあるだろ」
「にーちゃんが人に何かを教えたがるのが珍しいと思っただけです」
「ねーちゃん、俺だって教えることくらいあるっスよ」
「知っています」
「じゃあ何で」
「お姫ちゃん相手だと随分楽しそうなので」
「そりゃ姫さん、反応いいっスから」
「俺を玩具みたいに言うな」
「そういう意味じゃないっスよ!」
店主の熊獣人が大声で笑った。
三人揃ってそちらを見る。
「仲のいい兄妹だな」
「違うっス」
「違います」
「違う」
今度は三人の声が揃った。
少しの沈黙。
店主がさらに笑った。
「息ぴったりじゃねえか」
「違うって言ってるだろ」
グレイが言う。
「俺たちは――」
そこで止まる。
俺たちは。
何だ?
旅の途中で出会っただけ。
道が同じだっただけ。
少しの間、一緒に歩いているだけ。
そう言えばいい。
今までなら、そう答えていた。
「……旅仲間だ」
口から出た言葉は違った。
ライアンとライカがグレイを見る。
「何だよ」
「いや」
ライアンの口元が上がる。
「何でもないっス」
「お姫ちゃんがそう言うなら、そうなのでしょう」
「なんだ、その言い方」
「別に?」
「お前ら腹立つな」
グレイは先に店を出た。
背後から二人の笑い声が聞こえる。
耳が熱い気がした。
吸血鬼でも、こういう時は熱くなるのか。
確かめる気にはならなかった。
◇
街の大通りには、夕方になると露店が増えた。
昼間とは違う匂いが漂い始める。
焼いた肉。
香草。
煮込み料理。
甘い菓子。
「姫さん、あれ食うっスか?」
「何だ?」
「知らないっスか?」
「知らない」
「じゃあ食うっスね」
「なんでそうなる」
ライアンが勝手に露店へ向かう。
しばらくして戻ってきた手には、細長い焼き菓子が三本あった。
「ほら」
一本渡される。
「甘いのか?」
「甘いっス」
グレイは先端を齧る。
表面は少し硬い。
中は柔らかく、蜂蜜に似た甘さが広がった。
「……美味い」
「でしょ?」
「お前が作ったわけじゃないだろ」
「紹介したの俺っスよ」
「はいはい」
もう一口。
ライカも隣で食べている。
「お姫ちゃん、口元についていますよ」
「え?」
ライカが指先で示す。
グレイは口元を拭う。
「取れた?」
「反対です」
「こっち?」
「もう少し上」
「面倒だな」
拭っていると、ライカが小さく息を吐いた。
「じっとしていてください」
布を取り出し、グレイの口元を拭く。
「……自分でできる」
「できていなかったでしょう」
「子供じゃない」
「十歳です」
「またそれか」
「お姫ちゃんが何度言っても認めないからです」
「十歳なのは認めてる」
「ならいいでしょう」
「よくない」
「姫さん、ねーちゃんこういうところ世話焼きなんスよ」
「にーちゃん」
「俺何も悪いこと言ってないっスよ!?」
グレイはライカから少し離れる。
その拍子に、通りの向こうが目に入った。
子供がいた。
獣人の少女。
母親らしい女性と手を繋ぎ、露店を指差している。
母親が何かを買う。
少女が嬉しそうに笑う。
それだけの光景。
グレイの足が止まった。
城下町にも、ああいう親子はいた。
母と街へ出たこともある。
身分を隠して。
普通の服を着て。
母と手を繋いで。
あの日、何を買ってもらったのだったか。
甘い焼き菓子。
たぶん、そんなものだった。
「お姫ちゃん?」
ライカが呼ぶ。
グレイは手元を見る。
残っている焼き菓子。
「……これ、美味いな」
「そうですね」
「母上にも食わせたい」
自然に出た。
二人が黙る。
グレイは少しだけ目を見開いた。
言うつもりはなかった。
「姫さんの母ちゃん、甘いもの好きなんスか?」
ライアンが普通に尋ねた。
「……好きだと思う」
「じゃあ買ってくっスか?」
「持つかな」
「明日くらいなら大丈夫じゃないっスか?」
グレイは露店を見る。
母へ持っていく。
《ドールハウス》へ入れられるのは、グレイが人形へ変えた者だけだ。
物だけを直接送り込むことはできない。
だが、母を外へ呼び出せば渡せる。
「買う」
「じゃあ戻るっスか」
「ああ」
グレイは露店へ戻った。
一つ。
少し考えて、いくつか追加する。
「結構買うんスね」
「母上だけじゃないから」
「家族?」
「ああ」
ライアンはそれ以上聞かなかった。
ライカも。
包んでもらった焼き菓子を受け取り、グレイは鞄へ大切にしまった。
◇
夜。
宿の部屋へ戻った後。
グレイは窓を開けた。
外を確認する。
裏手には誰もいない。
静かだった。
部屋の明かりを落とす。
空間を繋ぐ。
「母上」
《ドールハウス》から母を呼び出す。
現れた母は、グレイを見るなり首を傾げた。
「どうしたの?」
「これ」
包みを差し出す。
「何?」
「菓子」
「それは見れば分かるわ」
「今日食べた」
「そう」
「美味かったから」
そこまで言って、少し言葉に詰まる。
「……母上にも」
母が包みを見る。
それからグレイを見る。
「ありがとう」
「別に」
「嬉しいわ」
「みんなの分もある」
「そうなの?」
「ああ。中に持っていける?」
「ええ。私が持って戻れば大丈夫でしょう?」
「たぶん」
《ドールハウス》へ物を持ち込めるか。
それも試したかった。
母は包みを抱える。
「旅は楽しい?」
グレイは窓の外を見る。
夜の街。
まだいくつかの店に明かりが残っている。
「……まあまあ」
「そう」
「何だよ」
「何も」
「絶対何か言いたいだろ」
「グレイがまあまあって言う時は、大体かなり気に入ってる時だったなと思って」
「そんなことない」
「そうだったかしら?」
「そうだ」
母は笑う。
昔から変わらない笑い方。
「二人とは?」
「一緒にいる」
「まだ道が同じだけ?」
グレイが黙る。
「……旅仲間」
母の表情が少し変わった。
「そう」
「なんだよ、その顔」
「嬉しいだけ」
「大げさだな」
「そうかしら」
母はグレイの頭へ手を置いた。
撫でる。
グレイは避けなかった。
「友達?」
「違う」
そこだけはすぐ答えた。
「じゃあ何?」
「だから旅仲間」
「そう」
「それでいいだろ」
「ええ。今はね」
「今は?」
「そのうち変わるかもしれないでしょう?」
グレイは二人の顔を思い浮かべた。
うるさいライアン。
世話焼きなライカ。
姫さん。
お姫ちゃん。
出会ってからまだ大した時間は経っていない。
「……分からない」
「分からなくていいのよ」
母はそれ以上言わなかった。
「じゃあ、これをみんなに渡してくるわね」
「ああ」
「グレイ」
「何?」
「ありがとう」
母がもう一度言った。
グレイは少しだけ視線を逸らす。
「……美味かったから買っただけだ」
「ええ」
「それだけ」
「分かってるわ」
絶対に分かっていない。
だが、訂正する前に母は《ドールハウス》へ戻った。
空間が閉じる。
部屋へ静けさが戻った。
グレイはベッドへ座る。
窓から夜風が入ってくる。
静かだ。
昨日までなら、何とも思わなかったはずなのに。
「……静かだな」
呟く。
隣の部屋から何か聞こえた。
「ねーちゃん! それ俺の枕っス!」
「知りません。先に取った方のものです」
「俺が置いたんスよ!」
「名前でも書いてあるんですか?」
「そういう問題じゃ――」
グレイは目を閉じた。
「……うるさい」
それでも。
口元は少し緩んでいた。
◇
翌朝。
「お前ら、夜中まで何やってたんだ?」
朝食の席でグレイが尋ねると、ライアンが机へ突っ伏した。
「ねーちゃんが俺の枕取ったんスよ」
「にーちゃんが二つ使おうとしていたからです」
「違うっス! 片方は背中に置こうと思ってただけで!」
「贅沢です」
「空いてたんだからいいじゃないっスか!」
「お前ら本当に双子か?」
「双子っスよ」
「残念ながら」
「ねーちゃん!?」
グレイはパンをちぎりながら二人を見る。
朝から変わらない。
宿を出れば、また歩く。
次の街へ。
その次の村へ。
知らない場所へ。
「今日はどこ行くんだ?」
グレイが尋ねる。
ライカが地図を広げた。
「このまま北東へ向かいます。少し山側へ入りますが、その先に鉱山の町があります」
「鉱山?」
「興味あるっスか?」
「ああ」
「姫さんならそう言うと思ったっス」
「なんだよ、それ」
「だって何でも見たがるじゃないっスか」
「悪いか?」
「全然」
ライアンが笑う。
「じゃあ決まりっスね」
「勝手に決めていいのか?」
「ねーちゃんは?」
「私は構いません」
「じゃあ姫さんは?」
「行く」
「決まりっス」
三人分の予定が、一つの言葉で決まる。
グレイは少し不思議に思った。
最初は、二人についていくつもりなどなかった。
道が同じだから。
それだけだった。
次の街まで。
その次まで。
そうしているうちに、いつの間にか三人で次の目的地を決めている。
「どうしたんスか、姫さん?」
「何でもない」
「また考え事ですか?」
「ああ」
「何考えてたんスか?」
「お前らといると予定が勝手に決まるなって」
「嫌っスか?」
ライアンが何気なく尋ねた。
グレイは少し考える。
嫌なら、もう離れている。
自分にはその力がある。
どこへでも行ける。
少なくとも、この国の中なら二人を置いて一人で進むことなど簡単だった。
それをしていない。
「……嫌じゃない」
ライアンが笑った。
「じゃあ問題ないっスね」
「単純だな」
「難しく考えても仕方ないっスよ」
「にーちゃんは少しくらい考えやがってください」
「ねーちゃん酷くない?」
「普段の行いです」
「最近そればっかりっス!」
グレイは二人を眺めながら、最後のパンを口へ運んだ。
窓の外は晴れている。
旅には悪くない日だ。
◇
街を出て、北東へ。
道は次第に細くなった。
平原だった景色にも岩が増え、遠くには山が見え始める。
昨日までとは違う風景だ。
グレイは先を見ながら歩く。
「鉱山の町って何があるんだ?」
「鉱石っス」
「それは分かる」
「武器とか防具の工房が多いですね」
ライカが補足する。
「この国でも大きな鉱山の一つです。金属だけでなく、魔石も少量ですが採れます」
「魔石も?」
「ええ」
「見たい」
「お姫ちゃん、本当に分かりやすいですね」
「何が?」
「興味のあるものを聞いた時だけ歩く速度が少し上がります」
グレイは足元を見る。
確かに二人より半歩前にいた。
歩調を戻す。
「気のせいだ」
「戻したっスね」
「うるさい」
ライアンが笑う。
しばらく歩くと道が二つへ分かれた。
ライカが地図を確認する。
「右です」
「左は?」
「別の村へ向かう道ですね」
「そっか」
グレイは迷わず右へ進む。
数歩歩いてから、気付いた。
以前なら、分かれ道に着けば自分がどちらへ行くかを考えていた。
今は違う。
ライカが右と言った。
だから右へ進んだ。
それだけだった。
「姫さん?」
後ろからライアンが来る。
「何だ?」
「置いてくっスよ」
「俺が先だろ」
「あ、本当だ」
「何言ってるんだ、お前」
ライカも追いつく。
三人が並ぶ。
右の道を進む。
誰も、いつまで一緒にいるのかとは聞かなかった。
もう必要なかった。
少なくとも今は。
目的地は同じ。
歩く道も同じ。
昼になれば一緒に食事をして。
夜になれば同じ火を囲む。
魔物が出れば三人で戦う。
知らないものがあれば、二人がグレイへ教える。
そして時々、グレイが二人を驚かせる。
それでよかった。
「なあ」
グレイが呼ぶ。
「なんスか?」
「何です?」
「釣り」
二人が見る。
「いつやるんだ?」
一瞬の沈黙。
ライアンの耳がぴんと立った。
「姫さん、覚えてたんスね」
「やるって言っただろ」
「鉱山の町を出た先に川がありますよ」
ライカが答える。
「じゃあ、そこでやるっスか」
「ああ」
「俺が教えるっスよ」
「一匹しか釣れなかった奴が?」
「それねーちゃんから聞いたやつ!」
「事実でしょう」
「昔の話っスよ! 今はもっと上手いっス!」
「本当か?」
「本当っス!」
「じゃあ勝負するか」
グレイが言う。
ライアンが目を丸くした。
「……姫さんから勝負って言った?」
「言った」
「ねーちゃん、聞いた?」
「聞きました」
「姫さんが自分から遊ぶ約束したっスよ」
「何だよ」
「いやぁ、成長したなと思って」
「お前に言われたくない!」
グレイがライアンの脇腹を小さく蹴る。
「痛っ! 姫さん、普通に痛いっス!」
「手加減した」
「手加減でこれ!?」
「にーちゃんが余計なことを言うからです」
「ねーちゃんも笑ってるじゃないっスか!」
三人の声が山へ向かう街道に響く。
風が吹いた。
草が揺れる。
遠くの山から流れてくる空気は少し冷たい。
グレイは顔を上げた。
まだ知らない景色が、その先にある。
どんな町なのか。
どんな者が暮らしているのか。
どんな食べ物があるのか。
どんな魔法が使われているのか。
何も知らない。
だから見てみたい。
その気持ちは、故郷を出た時から変わっていなかった。
ただ、一つだけ変わった。
知らないものを見つけた時。
隣を見るようになった。
「姫さん、早く行くっスよ!」
少し先でライアンが振り返る。
「にーちゃん、勝手に先へ行きやがらないでください」
ライカが追う。
グレイは二人を見る。
「お前らが遅いんだろ」
「姫さんが一番後ろっスよ!」
「今追いつく」
地面を蹴る。
すぐに二人へ並ぶ。
右にライアン。
左にライカ。
真ん中にグレイ。
いつからこの並びが当たり前になったのかは分からない。
たぶん、誰も決めていない。
それでも三人は、そのまま歩いていく。
姫さん。
お姫ちゃん。
最初は勝手につけられただけの呼び方だった。
今ではもう、呼ばれれば自然に振り向く。
グレイはまだ知らなかった。
この何でもない旅の時間が、自分の中へどれほど深く残ることになるのかを。
ただ今は。
次の町と。
その先にある川と。
まだ一度もやったことのない釣りのことを考えながら。
三人で同じ道を歩いていた。




