第2話 夜の王
朝食を終えて部屋へ戻ろうとしたところで、宿の主人に呼び止められた。
「グレイさん、で合ってるか?」
階段へ足をかけていたグレイが振り返る。
「ああ、俺がグレイだけど。何かあったのか?」
「いや、何かやらかしたって話じゃない。あんたに客だよ。俺も驚いてるところだ」
主人が困ったように頭を掻き、入口の方へ顎を向けた。
朝の食堂にはまだ数人の客が残っている。窓から差し込む柔らかな日差しの中、その人物は入口脇に静かに立っていた。
黒を基調とした服を隙なく着込んだ男だった。
年齢は四十前後に見える。背筋を伸ばして両手を腹の前で重ね、こちらを見ても表情をほとんど動かさない。
ただ、宿の従業員ではないことだけは一目で分かった。
胸元に銀色の留め具がある。
三日月と、その中心に一滴の雫。
内門の衛兵が身につけていたものと同じ紋章だった。
「姫さん、朝から人気者っスね」
後ろから降りてきたライアンが小声で言う。
「俺、昨日は何もしてないぞ。ちゃんと門にも入らなかっただろ」
「そこは誰も疑ってませんよ。むしろ、何もしていないからこそ気になるんです」
続いて降りてきたライカが男を見る。表情はいつもと変わらないが、獣耳がわずかに立っていた。
最後にセバスとロイも階段を下りてくる。
ロイは男の顔を一度見たあと、その視線を胸元の紋章へ落とした。
「主。内門からの使いみたいだな」
「たぶんな。向こうから来るとは思ってなかったけど」
五人が揃ったところで、男が静かに歩み寄ってきた。
「グレイ様でいらっしゃいますね」
「そうだけど、俺に何か用?」
「突然の訪問をお許しください。私は内門にて夜の王にお仕えしております、使者にございます」
男は丁寧に一礼した。
その言葉を聞いた瞬間、食堂の空気がわずかに変わる。
宿の主人が口を閉じ、残っていた客の何人かがこちらを見た。
恐怖というより、珍しいものを見る反応に近い。
外門で暮らす者たちにとって、夜の王はこの街の支配者でありながら普段から直接顔を合わせる相手ではないのだろう。その使者がわざわざ一軒の宿を訪ねてきたとなれば、気になるのも無理はなかった。
「夜の王が、俺に?」
「はい。我が主より、皆様を城へお招きしたいとの言伝を預かっております」
グレイはすぐには返事をしなかった。
夜の王について調べているうちに、一度会って話してみたいとは思っていた。
しかし、自分から何か働きかけるより先に向こうから来た。
「俺たちがこの街に入ったこと、もう知ってるんだな」
「正確には、グレイ様が外門を通られたことを我が主が察知されました。お姿やお名前を知ったのは、その後でございます」
「俺が入ったこと自体に気づいたのか?」
「我が主は、この地に長く暮らす吸血鬼でございます。同族の気配には敏感でして」
使者はそこで一度言葉を切り、グレイへ視線を向けた。
「ましてや、これほど強い血の気配となれば」
グレイの目がわずかに細くなる。
隣でライアンが動く気配がした。セバスも黙っているが、先ほどまでより僅かに重心が変わっている。
「俺が真祖だってところまで分かってる?」
「我が主は、そのように考えております」
「なるほど。それで一度会ってみたいってことか」
「はい。ただし、我が主に敵意はございません。珍しい同族が街を訪れたのであれば、一度話をしてみたい。それだけでございます」
使者の声に淀みはなかった。
グレイは横を見る。
「みんなはどう思う?」
「罠の可能性は捨てられないっスね。姫さんが真祖だって向こうが考えてるなら、何を目的にしてるのかは確認した方がいいと思うっス」
ライアンがいつもの軽い調子を少し抑えて答える。
ライカも頷いた。
「私も、何も考えずについていくのは反対です。ただ、向こうがこちらの存在を把握している以上、無視して街に居続けるのも気持ちのいいものではありませんね」
「セバスは?」
「グレイ様がお会いになりたいのであれば、私は同行いたします。ですが、万が一の際には先方の許可を待たず行動いたしますので、その点だけはご了承くださいませ」
「ロイはどう思う?」
最後に尋ねる。
ロイは使者を見たまま答えた。
「俺も行った方がいいと思う。向こうが主を真祖だと見当をつけた上で使者を寄越したなら、少なくとも今は正面から接触するつもりなんだろう。話を聞く価値はある」
「俺もそう思う。会ってみたかったのは本当だしな」
グレイは使者へ向き直った。
「分かった。招待は受ける。ただ、こいつらも全員一緒でいいんだよな?」
「もちろんでございます。我が主より、同行者の皆様も客人としてお迎えするよう申しつかっております」
「それなら行くよ。時間は?」
「日が沈む頃、こちらへ馬車をお迎えに寄越します」
「夜か。分かった。その時間には戻ってる」
「ありがとうございます。それでは、我が主へお伝えしてまいります」
使者が再び頭を下げる。
グレイは階段へ戻ろうとして、途中で足を止めた。
「ああ、それと一つだけ聞いていい?」
「何なりと」
「夜の王って、どんな奴?」
使者が初めて少しだけ目を瞬いた。
「……どのような、と申されますと?」
「性格。街の奴らから話は聞いたけど、王としてどうなのかしか分からなかったから。会う前に少しくらい知っておきたい」
数秒考えたあと、使者の口元がほんのわずかに緩んだ。
「穏やかな方でございます。少々、好奇心の強いところはございますが」
「それなら、俺とは案外話が合うかもしれないな」
グレイはそう言って階段を上がった。
背後からライカのため息が聞こえる。
「まだ会ってもいないのに、何を納得しているんですか」
「俺も気になったことはすぐ聞くから。好奇心が強いなら、その辺はお互い様だろ」
「そういうところだけ意気投合しないでくださいね」
「そこは会ってみないと分からないだろ」
◇
日が沈んでからしばらくして、宿の前に一台の馬車が止まった。
黒塗りの車体には余計な装飾がなく、扉に刻まれているのは三日月と雫の紋章だけだった。
迎えに来た御者へ招待を受ける旨を伝え、グレイたち五人は馬車へ乗り込む。
車内は五人でも余裕がある。
グレイは窓側へ座ると、馬車が動き出してすぐにカーテンの隙間から外を覗いた。
外門はまだ眠っていなかった。
酒場や食堂から灯りが漏れ、仕事を終えた者たちが通りを歩いている。昼間とは違う賑わいの中を馬車は進み、やがて店の数が減っていった。
「姫さん、ずっと外見てるっスね」
「内門に入れるんだから気になるだろ。今まで外からしか見てないんだぞ」
「お姫ちゃん。招かれているのは夜の王に会うためですから、馬車を降りて勝手に歩き始めないでくださいね」
「しないよ。見たいなら後で聞けばいいだろ」
「それなら結構です」
「俺の信用、やっぱり低くないか?」
「信用しているから先に確認しているんです」
「それ、便利な言い方だな」
向かいでライアンが笑う。
ロイも口元を僅かに緩めていた。
やがて馬車の速度が落ちる。
窓の向こうに、巨大な石壁が迫っていた。
内門だ。
御者と衛兵が短く言葉を交わす。
ほどなく壁の奥から、鎖と歯車が噛み合う重い音が響き始めた。
グレイが少し身を乗り出す。
「開くところは初めて見るな」
「お姫ちゃん」
「分かってる。窓からは出ないよ」
巨大な門扉がゆっくりと開く。
しかし馬車はそこで止まらなかった。
確認を終えると、そのまま門の下へ進んでいく。
分厚い壁に囲まれた一瞬だけ、車輪の音が大きく反響した。
そして内側へ抜ける。
グレイは窓の外へ目を向けた。
夜の街が、わずかに見えた。
道沿いに灯りが並んでいる。
その奥には建物らしい影が続き、遠くを誰かが歩いているのも見えた。
閉ざされた場所という言葉から想像していたほど、暗くはない。
だが、馬車はそのまま進んでいく。
細かな様子を確かめる前に、見えていた景色は後ろへ流れていった。
「思ってたより、普通に街があるんだな」
「姫さん、もう少し見たそうな顔してるっスよ」
「そりゃ気になるよ。でも今日は夜の王に会いに来たんだから、勝手に降りるわけにもいかないだろ」
グレイは素直に窓から離れた。
向かいのロイが腕を組んだままこちらを見る。
「主にしては聞き分けがいいな」
「俺だって招かれた先で好き勝手するほど子供じゃないぞ。見たいなら、ちゃんと許可を取ればいい」
「その判断を毎回してくだされば、私も安心できるのですが」
「ライカまで何なんだよ。今日は何もしてないだろ」
小さな笑いが車内に広がる。
グレイはもう一度だけ窓へ視線を向けたが、今度はカーテンには触れなかった。
何があるのかは、まだ分からない。
だからこそ気になる。
しばらくして前方に大きな建物の影が現れ、馬車がゆっくりと速度を落とした。
夜の王の城だった。
◇
城内は、外観から受ける印象ほど暗くなかった。
磨かれた石の床には深い赤色の絨毯が敷かれ、壁には風景画や古い武具が飾られている。夜なので窓の外は暗いが、廊下には十分な灯りがあり、足元に困ることもない。
使者に案内されて進み、やがて一つの扉の前で止まる。
「こちらでございます」
扉の左右には衛兵が立っていた。
だが、武器を向けられることも、同行者を外に残すよう求められることもない。
扉が開かれる。
その向こうにあったのは、玉座の間ではなかった。
大きな応接室だった。
壁際には本棚が並び、中央には長い卓と椅子が置かれている。窓のそばには小さな丸卓があり、その上にはティーセットが用意されていた。
そして、その窓辺に一人の男が立っている。
見た目だけなら三十歳ほど。
細身だが弱々しさはなく、背はロイより少し高い。
黒に近い濃紺の髪を肩にかからない程度に整え、服装も装飾の少ない落ち着いたものだった。
王冠はない。
腰に剣も下げていない。
窓の外を眺めていた男が振り返る。
その瞳がグレイを捉えた。
深い赤。
視線が重なった瞬間、グレイには分かった。
同族だ。
同時に、向こうも同じことを感じ取ったらしい。
夜の王の視線がほんのわずかに細くなる。
そこに敵意はなかった。
珍しいものを前にして、確かめるような目だった。
「初めまして」
男は穏やかに笑った。
「遠いところをよく来てくれた。私が、この街で《夜の王》と呼ばれている者だ」
思っていたより普通の声だった。
威圧するような響きも、王であることを誇示するような態度もない。
グレイは男を見たまま答える。
「俺はグレイ。呼ばれたから来たけど、俺もちょうどあんたには会ってみたかったんだ」
「それは嬉しいね。突然使者を向かわせたから、警戒されて断られるかもしれないと思っていたよ」
「少しは警戒した。でも、俺が真祖だと考えた上で招待してきたなら、直接話してみた方が早いと思った」
男はそこで少しだけ目を見開き、すぐに笑みを深めた。
「やはり、真祖で間違いなかったか」
「使者から聞いたけど、確信まではしてなかったんだな」
「君ほど濃い気配を持つ吸血鬼は、私もそう多く知らない。だが、本人に確認する前から決めつけるのも失礼だろう?」
「それはそうだな。勝手に決めつけられるより、俺もその方がいい」
グレイは素直に頷いた。
少し意外だった。
真祖と分かった途端、態度を変える者は珍しくない。
恐れる者もいる。
敵意を向ける者もいる。
血統や力だけを見て、必要以上に敬う者もいた。
目の前の男には、そのどれもない。
ただ、珍しい同族としてグレイを見ている。
「立ったままでは話しにくいね。皆も座ってくれ。今日は公式の謁見ではないから、堅苦しい作法も必要ないよ」
夜の王が卓を示す。
グレイは一度仲間たちを見た。
セバスがわずかに頷く。
五人は用意された椅子へ腰を下ろした。
夜の王も対面へ座る。
使用人が静かに紅茶を注いでいく。
「君たちの名前も聞いて構わないかな?」
「もちろんっス。俺はライアン。姫さんの従者やってるっス」
「ライカと申します。こちらのにーちゃんとは双子です」
「セバスと申します。グレイ様にお仕えしております」
「ロイだ。俺も主の従者になったばかりだ」
夜の王は四人の顔を一人ずつ見てから、軽く頷いた。
「ライアン、ライカ、セバス、ロイだね。覚えたよ。私の招待に付き合わせてしまって申し訳ない」
「いえ。お姫ちゃんを一人で行かせる方が心配ですから」
ライカがさらりと答える。
夜の王がグレイを見る。
「心配されているんだね」
「こいつらは昔からこうなんだよ。俺だって一人で出歩くくらい普通にできるぞ」
「なるほど」
夜の王が楽しそうに笑った。
「ずいぶん親しい従者たちだ」
「従者ではあるけど、家族でもあるからな。俺はそっちの方が大事だと思ってる」
グレイが何気なく言う。
夜の王の視線が四人へ向いた。
ほんの少しだけ、興味が強くなったように見えた。
「家族か。それはいいね」
それ以上は踏み込まない。
紅茶を一口飲んでから、夜の王はカップを置いた。
「さて。こちらから招いておいて、まだ理由をきちんと説明していなかったね」
「俺もそこは聞いておきたい。使者からは同族だから興味を持ったと聞いたけど、それだけなのか?」
「それだけだよ。君が街へ入った時に強い同族の気配を感じた。調べてみれば、旅人として普通に宿を取っているという。それなら一度話してみたいと思ったんだ」
あまりに簡単な答えだった。
グレイは夜の王の顔を見る。
少なくとも、嘘をついているようには見えない。
「真祖がいきなり自分の街に入ってきたら、普通はもう少し警戒するものじゃないのか?」
「もちろん、何をしに来たのかは確認したよ。けれど君たちは門で騒ぎも起こさず、街を歩いて食事をして、宿を取った。内門にも勝手に入ろうとしなかったそうじゃないか」
「俺だって、そのくらいはちゃんと守るぞ」
「その点については、皆様の評価と少々食い違いがございますね」
セバスが静かに挟む。
「セバス、それは今言わなくていいだろ」
夜の王が声を上げて笑った。
「失礼。どうやら、私が想像していた真祖とは随分違うようだ」
「どんなのを想像してたのか知らないけど、俺は別に真祖だからって偉いとは思ってないぞ」
「もっと尊大な人物かもしれないとは考えていたよ。真祖には、自らの血統や力を重く見る者もいるからね」
「俺はそういうのにあんまり興味ないな。なりたくて真祖になったわけでもないし、強いから偉いっていうのも違うと思う」
「なるほど」
夜の王は納得したように頷いた。
「それなら、君が彼らを従者より家族と呼ぶのも分かる気がするよ」
「そっちは違うの?」
「私かい?」
「ああ。あんたも長くこの街にいるんだろ。ずっと一人ってわけじゃないだろうし、大切な奴くらいいるんじゃないの?」
夜の王は少しだけ考えた。
「私にも大切な者たちはいるよ。長く生きていれば、守りたいと思うものも増える。君とは形が違うかもしれないけれどね」
穏やかな声だった。
グレイはそれ以上聞かなかった。
初対面で無理に踏み込む話でもない。
「そういえば、私からも一つ聞いていいかな?」
「答えられることならいいぞ。俺ばっかり聞いてるのも変だしな」
「ありがとう。君は普段、どうやって血を得ているんだい?」
吸血鬼らしい質問だった。
ライアンたちは黙っている。
グレイにとっては、今さら隠すようなことでもない。
「人間の血はほとんど飲まない。俺の場合は血に含まれる魔力を取り込めればいいから、普段は魔力の多い魔物の血で補ってる」
夜の王の眉がわずかに上がった。
「魔物の血を主にしているのか。それだけで不足はない?」
「ちゃんと選べば足りるぞ。強い魔物ほど魔力も多いし、狩った時に保存しておけば困らない。ただ、種類によって味はかなり違う。臭いが強かったり、毒の処理が面倒だったりする奴は避けてるけどな」
「なるほど。必要な魔力だけでなく、口にするものとして選んでいるわけだね」
「まずいものを無理して飲む理由もないだろ」
夜の王は小さく笑い、それから興味深そうにグレイを見た。
「面白い方法を考えたものだね。私はそこまで人間の血を避けようと思ったことがなかったよ」
「じゃあ、そっちは普通に人間から飲むんだな」
「ああ。ただ、誰でもいいわけではないよ。血にも味の違いがあるからね。魔力の量や質、体調や食事でも変わる。私にとっては、酒の銘柄や熟成の違いを楽しむ感覚に近いかな」
「酒か。それなら好みがあるのは分かる。俺が魔物を選ぶのと、そんなに遠くないのかもしれないな」
二人にとっては、ごく自然な会話だった。
しかし向かいでは、ライアンが紅茶のカップを持ったまま何とも言えない顔をしている。
グレイがそれに気づいた。
「ライアン、さっきから変な顔してるけど、血の話が気になるのか?」
「いや……姫さんたちが話してると普通に聞こえるっスけど、人間の血を酒に例える話をこんな落ち着いて聞く日が来るとは思わなかったっスね」
「俺たちにとっては食事の話だからな。でも、飯食ってる時にわざわざ血の味を語ったりはしないぞ」
「それは今後も守ってくださいね」
ライカがすぐに釘を刺した。
「分かってるって。俺だって普通の飯も好きなんだから、食事中まで血の話をするつもりはないよ」
夜の王はそんな五人のやり取りを眺め、楽しそうに目を細めた。
「その様子だと、グレイは随分と人間の暮らしに馴染んでいるようだね」
「長く一緒にいれば慣れるよ。それに、うまいものまで血だけに絞る必要もないだろ。昨日この街で食べた串焼きも結構うまかったぞ」
「外門の市場かな?」
「ああ。大通りの入口近くにあった店。香辛料が少しかかってたやつ」
「あの店か。長く続いているよ」
「そこまで知ってるのか。王だからって、街の店まで全部見てるわけじゃないだろ?」
「もちろん全てではないよ。ただ、自分の街だからね。評判の店くらいは耳に入る」
血の話から、いつの間にか市場の食べ物へ移っていた。
グレイにとって、そのくらいの距離感がちょうどよかった。
人間の血を飲む夜の王と、それをほとんど必要としない自分。
違いはある。
だが、今は互いの方法を話しただけだ。
それ以上の意味を決める必要はなかった。
「なんか、思ってたより普通だな」
グレイが何気なく言うと、夜の王が自分を指差した。
「私が?」
「ああ。夜の王なんて呼ばれてるから、もっと偉そうなのかと思ってた。街の奴らもあんたを怖がってなかったから、実際どんな奴なのか気になってたんだ」
「それは少しひどいな」
「悪い。でも、本当にそう思ってたから仕方ないだろ」
夜の王は怒るでもなく、困ったように笑った。
「《夜の王》は、いつの間にか定着した呼び名だよ。私は自分からそう名乗った覚えはないんだ」
「二つ名なんて大体そんなものだろ。俺も《白銀の真祖》って呼ばれるけど、自分から名乗ったことなんてないし」
「《白銀の真祖》か。綺麗な名じゃないか」
「俺はグレイでいいよ。そっちは名前で呼ばれなくても平気なのか?」
「この街では夜の王で通っているからね。君もそう呼んでくれて構わない」
「じゃあそうする。俺だけ名前で呼ばれてるのは少し変な感じするけど」
「私はグレイと呼んでも?」
「好きにしていいぞ。その方が話しやすいなら、俺もその方が楽だし」
「では、そうしよう」
紅茶が減った頃、使用人が新しい菓子を運んできた。
薄く焼いた生地に果物の蜜を挟んだものだった。
グレイが一つ取る。
口に入れると、表面の軽い歯触りのあとから果実の甘酸っぱさが広がった。
「これ、結構うまいな。見た目より甘すぎないのもいい」
「気に入ったなら、帰りにいくらか持たせようか?」
「いいのか? それなら少し欲しい。ライカもこういうの好きだろ?」
急に話を振られたライカが目を瞬く。
「ええ、甘いものは好きですけど……お姫ちゃんが気に入ったのでしたら、お姫ちゃんがいただけばいいでしょう?」
「一人で全部食う必要ないだろ。みんなで食った方がいいし、宿に戻ってから食えばいい」
「では、ありがたくいただきましょうか」
ライカが微笑む。
その横で、ロイも菓子を一つ取った。
「確かにうまいな」
「ロイも甘いもの食うんだな。そういえば、まだ好みまで聞いたことなかった」
「主は俺の食い物の好みまで把握してるつもりだったのか?」
「まだ従者になったばっかりだろ。だから知らないって言ってるんだよ」
「それもそうだな」
二人のやり取りを見て、夜の王はまた少し笑った。
「本当に変わった主従だね」
「そんなに変か? 俺たちはずっとこれでやってきたから、よく分からないんだけど」
「少なくとも、私が知る真祖と従者の距離ではないよ」
グレイは四人を見る。
ライアンは菓子を二つ目に取ろうとして、ライカに手を止められている。
「にーちゃん。まだ全員に回ってませんよ」
「一個くらいいいじゃないっスか」
「全員が食べてからにしてください」
セバスはそれを止めるでもなく紅茶を飲み、ロイは菓子の中に挟まれた果物を眺めている。
いつもの光景だった。
「長く一緒にいるからな。ロイはまだ最近だけど、これからもっと馴染んでいくだろ」
「俺はもう十分馴染んでると思うが」
「今よりもっとだよ。何年かしたら、たぶん今とはまた違うだろ」
「主にしては随分先の話をするんだな」
「何年かなんてすぐだろ」
「そこは俺と主じゃ感覚が違う」
「そうだったな」
ロイが呆れたように息を吐く。
夜の王は、そのやり取りを穏やかに眺めていた。
グレイはふと気づく。
最初に部屋へ入った時から、夜の王の態度はほとんど変わっていない。
真祖だと確認しても、人間の血をほとんど飲まないと知っても、従者を家族と呼ぶのを聞いても、否定しない。
かといって、必要以上に褒めもしない。
違うものを違うまま受け取っている。
その距離感はグレイにとって楽だった。
「夜の王。この街、俺は結構好きかもしれない」
唐突な言葉に、夜の王が少し驚いた。
「まだ外門を少し歩いただけだろう?」
「だから今のところは、だよ。飯もうまかったし、夜も人が普通に歩いてる。街の奴らから聞いた話も悪くなかったからな」
「それでも嬉しい評価だよ」
「何百年も街を維持してるなら、それだけでも大変だろ。俺は途中で嫌になりそうだ」
「君は王だったことが?」
「王女だった。もうずっと昔の話だけどな」
「なるほど」
夜の王は少し納得したように頷いた。
「なら、街を見る時に衛兵や道まで気にしていた理由も分かる」
グレイが目を瞬く。
「そこまで見られてたのか?」
「ここは私の街だからね。君たちが何をしていたか、ある程度の報告は受けているよ」
「じゃあ、串焼き食ってたのも?」
「もちろん」
「それまで報告する必要あるか?」
「強い真祖が市場で串焼きを買い、同行者と分け合っていた。報告した者も、どこまで重要か判断に迷ったんじゃないかな」
ライアンが吹き出した。
「姫さん、しっかり見られてたっスね」
「別に悪いことしてないだろ。串焼きくらい普通に食うよ」
「そこを責めてる人はいませんよ、お姫ちゃん」
ライカも小さく笑っている。
グレイは少し不満だったが、夜の王まで楽しそうなので諦めた。
「それで、今日は本当に俺と話すためだけに呼んだのか?」
「基本的にはそうだよ。もう一つ、伝えておきたいことはあるけれどね」
「何かあるなら聞くぞ。今のうちに言ってくれた方が助かる」
夜の王が姿勢を少し正した。
「君たちは、しばらくこの街に滞在する予定なのだろう?」
「まだ決めてないけど、急いで出る理由もないな。何日かはいると思う」
「なら、滞在中は好きに過ごしてくれて構わない。外門で困ったことがあれば、城へ伝えてくれれば対応しよう」
「そこまでしてもらっていいのか? 俺たちはただ立ち寄っただけの旅人だぞ」
「同族の客人だからね。それに、私自身が君に興味を持って招いた。歓迎くらいはさせてほしい」
そこで夜の王は少しだけ笑った。
「もちろん、街の法は守ってもらうけれど」
「それはちゃんと守るよ。俺だって理由もなく騒ぎを起こしたりはしないから」
四人の視線が一斉に集まった。
グレイは眉を寄せる。
「……何だよ。今回は本当に何もしてないだろ」
「今回は、とご自身で仰っておりますが」
セバスが静かに指摘する。
「言葉の問題だろ。俺はこの街での話をしてるんだよ」
「まあまあ」
夜の王が笑いながら間に入った。
「グレイが意図的に問題を起こす人物ではないことは分かったよ」
「ほら、夜の王にはちゃんと分かってるじゃないか」
「ただし、問題の方から寄ってくる可能性までは否定していないけれどね」
グレイは口を閉じた。
ライアンが肩を震わせる。
「初対面なのに姫さんの扱い分かるの早すぎないっスか?」
「そこは感心するところじゃないだろ」
部屋の空気が少し緩む。
警戒が完全になくなったわけではない。
セバスは今も夜の王の手元や周囲を自然に見ているし、ライアンとライカも気を抜いてはいない。ロイも会話に参加しながら、城へ入ってからずっと周囲の魔力を探っている。
それでも、少なくとも今すぐ何かが起きるような空気ではなかった。
「夜の王。さっき馬車で内門を通ったけど、あの中って見せてもらえるのか?」
夜の王がグレイを見る。
「興味があるのかい?」
「あるよ。外からじゃ何も分からないし、さっきも馬車から少し見えただけだったからな。でも、見せたくないなら無理にとは言わない」
「いや。構わないよ」
夜の王は少し考えてから続けた。
「ただ、今夜はもう遅い。せっかくなら住民たちが起きている時間に案内した方がいいだろう。日を改めて、私が案内するよ」
「それならその方がいいな。俺も暗い中を勝手に歩くより、あんたに聞きながら見た方が分かりやすい」
「では、そうしよう」
その約束だけで、グレイは十分だった。
気になるなら、後で見ればいい。
今ここで無理に確かめる理由はない。
「賑やかでいいね」
夜の王がふと四人へ目を向けた。
「毎日こんな感じだぞ。静かな時もあるけど、誰かしら何か言ってるからな」
「退屈はしなさそうだ」
「しないよ。何もない日でも、こいつらと一緒ならそれなりに楽しいから」
それだけは迷わず答えられた。
「羨ましいよ」
夜の王が小さく言った。
グレイは顔を上げる。
だが、その表情には寂しさのようなものはなかった。
ただ、少し離れた場所にあるものを見るような穏やかな目だった。
「夜の王にも大切な奴はいるんだろ。だったら、そんなに違わないんじゃないか?」
「ああ。いるよ」
夜の王は短く答え、一瞬だけ間を置いた。
それから柔らかく笑う。
「そうかもしれないね」
その返事に妙なところはなかった。
グレイもそれ以上気にしなかった。
◇
話が終わる頃には、夜もかなり深くなっていた。
グレイたちが席を立つと、夜の王も立ち上がる。
「今日は来てくれてありがとう。久しぶりに同族とゆっくり話せて楽しかったよ」
「俺も楽しかった。思ってたより話しやすかったし、同じ吸血鬼でも違うところがあるって分かったからな」
「また時間がある時に話そう。魔物の血を主にするというのは、もう少し聞いてみたい」
「いいぞ。俺が知ってる範囲なら話せるよ。代わりに俺も聞きたいことがあったら聞くから、その時は教えてくれ」
「もちろん」
夜の王はグレイだけでなく、四人にも目を向けた。
「ライアン、ライカ、セバス、ロイ。君たちも今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
ライカが丁寧に頭を下げる。
セバスも続き、ライアンとロイもそれぞれ礼を返した。
「じゃあ、またな。内門の案内も楽しみにしてる」
「ああ。また会おう、グレイ」
扉が閉じる。
来た時と同じ廊下を歩き、城の外へ出ると馬車が待っていた。
五人が乗り込む。
帰り道、グレイは窓側に座った。
「姫さん、今度こそ内門見るつもりっスか?」
「見るって言っても、馬車から見える範囲だけだよ。今度ちゃんと案内してくれるって言ってたんだから、それまで待つ」
「本当に聞き分けがよくなったな、主」
「ロイまでそれ言うのやめろ。俺は昔から必要な時はちゃんと待てるぞ」
「必要だと思わなかった時に待たないのが問題なんですよ」
ライカが穏やかに返す。
「だから今日は待ってるだろ」
「ええ。そこは評価しています」
「何で上からなんだよ」
馬車が動き出した。
やがて城の灯りが後ろへ遠ざかる。
グレイは窓の外へ目を向けた。
夜の内門が流れていく。
道沿いの灯り。
建物の影。
時折すれ違う人影。
それ以上は分からない。
何のために壁で隔てられているのか。
そこに暮らす人々がどんな生活をしているのか。
夜の王が、彼らをどう扱っているのか。
まだ何も見ていない。
グレイは窓枠に頬杖をつきかけ、ライカの視線に気づいて手を戻した。
「何もしてないだろ」
「まだ何も言ってませんよ」
「顔が言ってた」
「気のせいです」
「絶対違う」
向かいからライアンの笑い声が聞こえた。
ほどなく馬車は巨大な門を抜ける。
分厚い壁の下で車輪の音が一度だけ大きく響き、次の瞬間には外門の灯りが窓いっぱいに広がった。
グレイは後ろを振り返らなかった。
急ぐ必要はない。
次に入る時は、あの街を自分の足で歩ける。
今夜知ったのは、夜の王という一人の吸血鬼についてだけで十分だった。




