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白銀の旅路  作者: 人形遣い
第五章  愛の在り方

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第1話 吸血鬼の街


 街道の先に城壁が見え始めたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 緩やかな丘を越えた先、薄く霞んだ地平を横切るように灰色の壁が伸びている。近づくにつれてその高さが分かり、やがて街道を行き交う荷馬車や旅人が、その足元ではひどく小さく見えるようになった。


 秋の入り口とはいえ、日差しはまだ少し強い。


 乾いた風が街道脇の草を揺らし、車輪に踏まれた土から細かな砂埃を巻き上げていた。


「思ったよりでかいな」


 先頭を歩いていたグレイは片手を額にかざし、遠くの城壁を見上げた。


 壁の上には一定の間隔で見張り台が設けられている。正面の門へ続く街道には荷馬車が列を作り、徒歩の旅人も少なくない。遠目に見えるだけでも、かなり人の出入りがある街らしい。


 その様子を眺めていたライアンが、背負った荷物を軽く揺らした。


「もっとこう、薄暗くて人通りも少ない場所を想像してたっス。聞いた話だと、ここを治めてるのって吸血鬼なんスよね?」


「そうらしいな。何人かに聞いたけど、みんな同じこと言ってた」


 グレイは歩きながら答える。


 この街の話を最初に聞いたのは、二日前に立ち寄った小さな宿場だった。


 次に大きな街はないかと尋ねただけだったのだが、店主は道を教えたあと、少し面白そうに笑って付け加えた。


 ――領主様を見ても驚くなよ。


 理由を尋ねれば、返ってきた答えは単純だった。


 吸血鬼だから。


 それも最近になって住み着いたような者ではない。


 数百年もの間、この土地を治め続けているという。


 人々はその吸血鬼を、本名ではなく一つの呼び名で呼んでいた。


 《夜の王》。


「ただ、妙なんだよな」


 グレイが呟くと、隣を歩いていたロイが視線だけを向けた。


「何がだ?」


「話してた奴らが誰も怖がってなかった。吸血鬼が領主だって言えば、普通はもう少し嫌そうな顔くらいするだろ」


「主がそれを言うのか?」


「俺は別だろ」


「同じ吸血鬼だと思うが」


「真祖だぞ」


「もっと悪いな」


 間を置かず返され、グレイはロイを見る。


 ロイは何事もなかったように前を向いていた。


 少し後ろから、ライアンの笑いを噛み殺すような音が聞こえる。


「ロイ、お前最近ちょっと遠慮なくなってきてないか?」


「従者になったんだから、これでも遠慮してるつもりだ」


「それで?」


「ああ」


「そうか」


 グレイは納得できなかったが、それ以上追及するほどでもない。


 そのやり取りを見ていたライカが、小さく息を吐いた。


「お姫ちゃんもロイも、もう少し緊張感を持ってください。街へ入る前なんですから、せめて周囲くらいは確認しておいた方がいいですよ」


「見てるぞ」


「でしたら、前も見てください」


 言われて視線を戻す。


 いつの間にか城門はかなり近くなっていた。


 門の前には十数台の荷馬車が並んでいる。商人らしい男たちが衛兵へ書類を渡し、その横を小さな荷物だけを持った旅人が順番に通されていた。


 物々しい検査をしている様子はない。


 むしろ、他の大きな街と比べても流れは早かった。


「少なくとも、閉じた街には見えませんな」


 最後尾を歩いていたセバスが静かに口を開いた。


 グレイも同じことを考えていた。


 吸血鬼が治める街。


 その言葉から想像していたものとは、随分違う。


 もっと人の出入りを制限しているのかと思っていた。


 ところが、目の前を見れば商人が出入りし、旅人もいる。門の外には出発を待つ乗合馬車まで停まっていた。


 壁の高さを除けば、ごく普通の交易都市に見える。


「入れば分かるだろ」


 グレイがそう言って歩みを進めると、ライカがわずかに眉を寄せた。


「お姫ちゃん。その考え方で何度面倒事に近づいたか、一度数えてみますか?」


「覚えてない」


「でしょうね」


「でも今回は俺から何かするつもりないぞ。ただ街を見るだけだ」


「その言葉は信用しています。ただ、お姫ちゃんの場合は何もしなくても向こうから面倒事が来るんですよ」


「それは俺のせいじゃないだろ」


「そこは否定しませんけど」


 ライカの耳が小さく揺れる。


 完全に呆れているわけではないらしい。


 グレイは少しだけ口元を緩め、そのまま城門へ向かった。


     ◇


 入街の手続きは驚くほど簡単だった。


 滞在目的と人数を尋ねられ、簡単な身分確認を受ける。それだけで終わった。


 種族についても特に問題にはならない。


 グレイたちの中には獣人であるライアンとライカがいるが、衛兵は一度確認しただけだった。ロイについても外見上は人間とほとんど変わらず、セバスも同様だ。


 そしてグレイ自身も、わざわざ真祖であることを告げてはいない。


 聞かれていないことを自分から話す必要もなかった。


 門を抜けた瞬間、空気が変わった。


「おお……」


 ライアンが思わず声を漏らす。


 広い大通りの左右には、石造りと木造の建物が隙間なく並んでいた。


 軒先から吊るされた色鮮やかな布が風に揺れ、その下では野菜や果物、干した肉、香辛料、布地、陶器といった様々な品が売られている。


 焼いた肉の香ばしい匂いに、焼きたてのパンの甘い香り。


 少し離れたところからは金属を叩く規則的な音まで聞こえてくる。


 大通りを行き交う人の数も多い。


 商人、職人、冒険者らしい装備をした者。荷物を抱えて急ぐ女性の横を、子供たちが笑いながら走り抜けていった。


 グレイはしばらくその光景を眺めた。


「普通だな」


「普通っスね」


 隣でライアンも同じ顔をしている。


「何を期待していたんですか、二人とも」


 ライカが呆れたように言った。


「いや、別に悪いもの期待してたわけじゃないっスよ。ただ吸血鬼の王が治める街って聞いたら、もうちょっと何かあると思うじゃないっスか」


「何かって?」


「……夜しか店が開いてないとか?」


「困るな。腹減ってるし」


「姫さんの心配そこっスか?」


「大事だろ」


 街へ入って最初に目についたのが食べ物の屋台だったのだから仕方がない。


 串に刺した肉が炭火の上で焼かれている。


 脂が落ちるたびに火が小さく跳ね、香辛料の匂いが風に乗って流れてきた。


 グレイの視線がそちらへ向いていることに気づいたのか、セバスが小さく咳払いをする。


「まずは宿を確保してからにいたしましょう。日が暮れてから探す必要もございませんので」


「分かってる。見るくらいいいだろ」


「見るだけで済むのでしたら」


「済むぞ」


 言い切った直後、店主が焼き上がった串をひっくり返した。


 香ばしい匂いが一段強くなる。


 グレイは足を止めた。


 セバスも止まった。


 数秒の沈黙。


「……一本だけならいいだろ」


「宿を取ってからです」


「冷めるぞ」


「次も焼いております」


「今のがうまそうなんだけど」


「同じ肉でございます」


 後ろからロイが肩を震わせた。


 グレイは振り返る。


「何だよ」


「いや。主もそういう顔するんだなと思っただけだ」


「どういう顔?」


「飯を取られそうな子供みたいな顔だ」


「してない」


「してたっスね」


「していましたね」


 ライアンとライカまで加わる。


 グレイは最後にセバスを見た。


 セバスは穏やかに目を細めた。


「宿を確保した後であれば、何本でもお召し上がりくださいませ」


「……分かった」


 誰も否定してくれなかった。


 少し納得できないまま、グレイは再び歩き出した。


 大通りを進むにつれて、街の規模がさらに分かってきた。


 外から見た城壁だけでも大きかったが、内部は想像以上に広い。


 通りは綺麗に整備されており、排水用の溝にも目立ったゴミがない。衛兵の姿も多いが、住民を威圧するような雰囲気ではなく、道を尋ねられれば普通に答えている。


 途中では、転んだ子供を衛兵の一人が起こしていた。


 泣きそうになっていた子供の膝についた土を払い、そのまま母親らしい女性のところまで連れていく。


 女性は笑って頭を下げた。


 それだけの光景だった。


 だが、グレイは少し足を緩める。


「治安、良さそうだな」


「そうですな。衛兵の数だけで保っているようにも見えません」


 セバスの視線は通り全体へ向いている。


 確かに、妙な緊張感がない。


 支配者を恐れて規律を守っている街なら、もっと空気に硬さが残るものだ。


 ここにはそれがなかった。


 店主と客が値段を巡って言い争い、酒場の前では昼間から酔った男が友人に肩を貸されている。路地では老人たちが椅子を並べ、どうでもよさそうな話をして笑っていた。


 統制された静けさではない。


 人が普通に暮らしている街の騒がしさだった。


「数百年治めてるって話だったな」


 ロイが呟く。


「らしい」


「なら、少なくとも統治者として無能ではないんだろうな。これだけ人が集まってるなら、商人にとっても悪い土地じゃない」


「吸血鬼だからって、政治できないわけじゃないだろ」


「主を見てると説得力があるのかないのか分からんな」


「俺、王女だったぞ」


「王じゃないだろ」


「王女だって勉強くらいする」


「そうなのか」


「お前、俺のこと何だと思ってるんだ?」


 グレイが横目を向けると、ロイは少し考えた。


「強くて、飯の匂いに弱くて、面倒事に首を突っ込む主」


「最後の二ついらないだろ」


「事実っスよ、姫さん」


「にーちゃんまで余計なこと言わないでください。お姫ちゃんが拗ねますよ」


「拗ねない」


 即座に返したところで、ライカが小さく笑った。


 グレイは何となく面白くなくなり、少しだけ歩く速度を上げる。


 その背後から四人の足音が変わらずついてきた。


     ◇


 宿は大通りから一本入った場所で見つかった。


 三階建ての石造りで、一階が食堂、上階が客室になっている。


 旅人向けとしては少し上等な部類だったが、長く滞在するかどうかも決まっていないため、まずは数日分だけ部屋を取ることにした。


 荷物を置いた後、グレイたちは再び街へ出た。


 もちろん、先ほどの串焼きも買った。


「うまい」


 歩きながら肉を一つ噛み取り、グレイは満足そうに頷いた。


 少し濃い塩味に、香草と辛みの弱い香辛料。肉そのものは珍しいものではないが、焼き加減がいい。


「宿より先に買っても結果は同じだっただろ」


「行儀の問題でございます」


「歩きながら食ってるけど」


「……グレイ様」


「分かった。座る」


 声の調子が一段低くなったセバスに気づき、グレイは近くの広場へ向かった。


 噴水を囲むように石造りの長椅子が並んでいる。


 空いている場所へ腰を下ろすと、ライアンも隣に座った。


「姫さん、一本くれないっスか?」


「自分で買えよ」


「味見っスよ」


「同じ店で買えば同じ味だろ」


「そういう問題じゃないっス」


「じゃあどういう問題だよ」


 言いながらも、グレイは一本差し出した。


「さすが姫さん」


「次は自分で買え」


 ライアンが受け取った串へ齧りつく。


 ライカはその様子を見ながら、持っていた布で長椅子の端を一度拭いてから腰を下ろした。


 ロイがそれを見る。


「そこ、汚れてたか?」


「少し埃がありましたから」


「なるほど」


「何ですか?」


「いや、相変わらずだなと思っただけだ」


「悪いですか?」


「悪くない。分かりやすくていい」


 ライカが少しだけ目を細める。


 それ以上は何も言わず、ロイも少し離れた場所へ腰を下ろした。


 グレイは二人を一度見たが、特に口を挟まなかった。


 以前より自然に話している。


 それでいいのだろう。


 噴水から落ちる水の音を聞きながら、残った肉を口へ運ぶ。


 広場にも人は多かった。


 買い物帰りの者が休み、子供たちは噴水の周囲を走り回っている。


 少し離れたところでは楽器を持った若い男が演奏しており、その前に小さな人だかりができていた。


 吸血鬼の街。


 そう言われなければ、気づく者はいないかもしれない。


 グレイ自身も、ここまで歩いて一人も吸血鬼を見つけていなかった。


 少なくとも、気配で分かる範囲にはいない。


「夜になったら増えるのかな」


 何気なく呟くと、ライアンが串を持ったまま振り返った。


「吸血鬼っスか?」


「ああ。ここまで一人も見てない」


「姫さんがいるじゃないっスか」


「俺以外だよ」


「夜の王って奴以外にもいるんスかね?」


「知らない。そこも聞いてみたい」


「会うつもりなんですか?」


 ライカが尋ねる。


 グレイは少し考えた。


「会えるなら。数百年も人間の街を治めてる吸血鬼なんて、俺は会ったことないし」


「向こうが会ってくれるとは限りませんよ」


「その時は諦める」


 別に押しかけてまで会いたいわけではない。


 ただ、気にはなる。


 同じ吸血鬼だから、という理由だけではなかった。


 数百年。


 人間にとっては何世代も入れ替わる時間だ。


 それだけの間、一つの街を治め続けている。


 そして、その街で暮らす人々は笑っている。


 それが少し不思議だった。


「まずは話を聞いてみるか」


 グレイは最後の肉を食べ終え、串を紙へ包んだ。


「夜の王について?」


「ああ。せっかく来たんだし、この街のことも知りたい」


「でしたら、宿の主人にでも聞くのが無難でしょうな。旅人を多く相手にしている者ならば、我々のような外から来た者が何を疑問に思うかも心得ているでしょう」


 セバスの提案に、グレイは頷いた。


「それがいいな」


 ただし、宿へ戻るにはまだ早い。


 空を見上げれば、太陽はようやく西へ傾き始めたところだった。


 グレイは立ち上がる。


「もう少し見て回ろう。まだ外側しか歩いてない」


「俺は賛成っス。市場も途中までしか見てないっスからね」


「にーちゃんは買い食いしたいだけでしょう」


「姫さんに言ってほしいっス」


「俺はもう食ったぞ」


「そういう意味じゃないです」


 ライカがため息をつく。


 いつもの調子だった。


 知らない街でも、五人で歩いている限り、そこだけは変わらない。


 グレイは小さく笑い、大通りとは別の道へ足を向けた。


     ◇


 街を歩き始めて一刻ほど経った頃。


 最初に違和感へ気づいたのは、ロイだった。


「主」


「ん?」


「あれ、見えるか」


 ロイが顎で示した先を、グレイは目で追った。


 建物の隙間。


 大通りからでは角度のせいで見えにくかったが、街の中央近くにもう一つ巨大な壁が立っている。


 外周の城壁よりは低い。


 それでも、街中に設けるものとしては明らかに大きすぎた。


「壁?」


「みたいだな」


 グレイたちは自然とそちらへ歩いていった。


 近づくほど、その異様さが分かる。


 外側の城壁と同じく、灰色の石を積み上げて造られている。高さは建物の三階を優に超え、左右へ長く伸びているため、向こう側を見ることはできない。


 街の中に、もう一つ街を囲う壁がある。


 そんな造りだった。


「何でしょうね、あれ」


 ライカが見上げる。


「貴族街か何かじゃないっスか? でかい街なら区画が分かれてること自体は珍しくないっスよ」


「それにしては随分と立派ですな」


 セバスの言う通りだった。


 ただの区画分けなら、ここまで高い壁は必要ない。


 グレイは壁沿いへ視線を向ける。


 少し先に門があった。


 外から入ってきた城門よりは小さいものの、馬車が二台並んで通れるほどの幅がある。


 門扉は閉ざされていた。


 その前には衛兵が四人。


 装備も、外門にいた兵士たちより少し良い。


「行ってみるか」


「入るんスか?」


「いや。何なのか見るだけ」


 近づいていくと、衛兵の一人がこちらへ気づいた。


 警戒して武器へ手をかけるようなことはしない。


 ただ、グレイたちが門へ向かっていると分かると、一歩前へ出た。


「旅の方ですか?」


「ああ。今日来た」


 グレイが答える。


「この先って何があるんだ?」


 兵士は質問そのものには慣れているらしい。


 特に怪しむこともなく答えた。


「内門です」


「内門?」


「ええ。この街は外門と内門に分かれています。旅人や商人の方々が利用できるのは、基本的にこちら側の外門だけです」


 兵士は背後の門へ一度視線を向けた。


「内門へ入るには許可が必要です。申し訳ありませんが、観光目的ではお通しできません」


「別に入りたいわけじゃない。何があるのか気になっただけ」


「そうでしたか」


 兵士の表情が少し緩む。


 グレイは改めて門を見る。


 閉じた門扉には、見慣れない紋章が刻まれていた。


 三日月と、その中心に一滴の雫。


 装飾としては簡素だ。


 だが、何となく目に残る。


「王の城でもあるのか?」


「はい。夜の王がお住まいになっている城も、内門の中にございます」


「へえ」


 やはり、そこにいるらしい。


「他には?」


 グレイが尋ねると、兵士はほんの少し間を置いた。


「王に仕える方々の居住区などがございます。外部の方が立ち入る必要のない区画、と考えていただければ」


「そうか」


 それ以上は聞かなかった。


 答えたくないことまで無理に聞くつもりはない。


 グレイが踵を返すと、四人も続いた。


 門からある程度離れたところで、ライアンが振り返る。


「ずいぶん厳重っスね」


「そうだな」


「気になりますか、グレイ様」


 セバスに尋ねられ、グレイは少し考える。


「少し。でも、入るなって言われた場所に勝手に入るほどじゃない」


「それがよろしいでしょう」


「何だよ、その安心した顔」


「これまでの経験から申し上げております」


「俺、そんなに勝手に入らないぞ」


 返事がなかった。


 ライアンは空を見ている。


 ライカは通りの店へ視線を逸らした。


 ロイまで壁の石組みを眺め始める。


「だから何で全員黙るんだよ。誰か一人くらい否定しろよ」


「主。そろそろ宿に戻らないか?」


「話逸らしただろ」


「日が暮れる」


「まだ明るい」


「腹も減った」


「お前さっき食ってただろ」


「俺じゃなくて主が」


「……減ってるけど」


「では戻りましょうか、お姫ちゃん」


 ライカが笑いを堪えるように口元へ手を添える。


 結局、誰も否定しなかった。


 グレイは内門をもう一度だけ振り返った。


 巨大な壁。


 閉ざされた門。


 その向こう側からは、何の音も聞こえてこない。


 外門がこれほど賑やかなだけに、その静けさだけが妙に目についた。


     ◇


 宿の食堂が賑わい始めたのは、日が沈んで間もなくのことだった。


 窓の外には街灯が灯り、大通りにはまだ多くの人が行き交っている。


 吸血鬼が治める街だから夜になると様子が変わるのかと思っていたが、少なくとも今のところ大きな変化はない。


 酒場が賑わい、仕事を終えた職人たちが食事を取り始めただけだ。


 グレイたちも食堂の隅にある大きな卓を囲んでいた。


 焼いた魚に野菜の煮込み、パン。それから香草を使った鶏肉料理が並んでいる。


「普通にうまいな」


 魚を食べながらグレイが言う。


「姫さん、それ今日何回目っスか?」


「何が?」


「普通って言うの」


「だって普通なんだから仕方ないだろ」


「お姫ちゃんは、もう少し別の感想を覚えてください」


「じゃあ、魚がうまい」


「食事の感想ではなく街の話です」


 グレイはパンをちぎりながら考えた。


「人が多い。治安がいい。飯もうまい」


「最後、結局食事じゃないっスか」


「大事だろ」


 向かい側でロイが笑う。


 セバスは既に諦めたのか、何も言わず紅茶へ口をつけていた。


 そこへ、料理を運んできた宿の主人が皿を置く。


 四十代ほどの大柄な男だった。


「どうだい、うちの飯は?」


「うまい」


「そりゃよかった。旅人にそう言ってもらえるのが一番だ」


 男が豪快に笑う。


 ちょうどいい。


 グレイは手にしていたパンを皿へ戻した。


「少し聞いていいか?」


「街のことか?」


「分かるの?」


「旅人が俺に聞くことなんて、大体決まってるからな」


 主人は空いていた椅子の背へ片手を置いた。


 忙しくはあるようだが、今は料理が一段落したらしい。


「夜の王について聞きたい」


 グレイが言うと、主人は「ああ」と頷いた。


 驚きはしない。


「やっぱりそこか。この街に初めて来た奴は、大体気にするよ」


「怖くないのか?」


 グレイは遠回しにせず尋ねた。


「吸血鬼なんだろ?」


「そうだよ」


「人間の血を飲む種族だぞ」


「知ってるさ」


 主人はあっさり答えた。


 それから少し考え、グレイたちの卓を見回す。


「外じゃ、やっぱり怖がられてるのか?」


「場所による。でも、好かれてる方が珍しいと思う」


「まあ、そうだろうな」


 主人は苦笑した。


「俺もこの街で生まれてなかったら、同じだったかもしれん。ただ、ここじゃ王様は王様だ。俺の爺さんが生まれるよりずっと前から、この街を守ってる」


 ライアンが食事の手を止める。


「何百年も、ずっとっスか?」


「ああ。詳しい年数までは知らんけどな」


 主人は当たり前のことのように言った。


「この辺りは昔、今ほど安全じゃなかったらしい。魔物も多かったし、盗賊もいた。小さな領主同士の争いも珍しくなかったって話だ。それを王様がまとめて、道を整えて、商人を呼んだ。今じゃこの辺りで一番大きな街だよ」


「税は?」


 ロイが尋ねた。


「普通だと思うぞ。他所を全部知ってるわけじゃないが、商人連中が文句を言いながら毎年来るくらいにはな」


「商人はどこでも税に文句言うっスからね」


「違いない」


 主人とライアンが笑う。


 グレイは黙って聞いていた。


 少なくとも、この男は夜の王を恐れているようには見えない。


 褒めるよう命じられている様子もなかった。


 もっと単純だ。


 長くこの街を治めてきた王。


 この男にとっては、それだけなのだろう。


「吸血鬼だから困ることはないのか?」


「俺はないな」


「血を要求されたりは?」


 その問いに、主人は首を横へ振った。


「外門で暮らしてる俺たちにはない。王様を見ること自体、滅多にないからな」


 グレイの手が止まった。


「外門?」


「ああ」


「内門とは違うのか?」


 昼間に見た巨大な壁が頭に浮かぶ。


 主人は一瞬だけ視線を上げ、それから普通に頷いた。


「そりゃ違うさ。あっちは王様のお膝元だからな。俺たちが勝手に入る場所じゃない」


「中に誰がいる?」


「王様に仕えてる連中だよ。あとは……まあ、昔から内門で暮らしてる奴らもいるらしい」


「人間?」


「いるんじゃないか?」


 妙な答えだった。


 グレイは主人を見る。


 男自身も詳しく知らないらしい。


「会ったことないの?」


「ないな。内門の奴らがこっちへ出てくることはほとんどないし、俺たちが入ることもない。必要な物は決まった商人が納めてるって聞いたことはあるが、それ以上は知らんよ」


「気にならないのか?」


 主人は少しだけ考えた。


「子供の頃はな。でも、壁なんて昔からあるし、入るなって場所にわざわざ入りたいとも思わなくなった。それに――」


 男は窓の外へ目を向けた。


 夜の通りを、二人の子供が駆けていく。


 少し遅れて母親らしい女性が追いかけ、その向こうを巡回中の衛兵が歩いていた。


「ここは安全だからな」


 主人は穏やかに笑った。


「夜でも子供が歩ける。商売もできる。魔物が出れば兵が動くし、盗賊が近くに根城を作ればすぐ潰される。俺たちからすれば、それで十分だよ」


 グレイは何も言わなかった。


 主人の言葉に嘘はない。


 少なくとも、今日一日歩いて見た街の姿とは一致している。


 王が人間か。


 吸血鬼か。


 ここで暮らす者にとって、それより大切なものがあるのだろう。


「王様のおかげで、この辺りじゃ一番安全だよ」


 主人はそう付け加えると、厨房から呼ばれて振り返った。


「悪い、仕事に戻る。また何か聞きたきゃ声かけてくれ」


「ああ。ありがとう」


「いいってことよ」


 主人が厨房へ戻っていく。


 卓にはしばらく、食器の触れ合う小さな音だけが残った。


 最初に口を開いたのはライアンだった。


「……いい王様みたいっスね」


「外から見る限りはな」


 ロイが答える。


「何か引っかかるんスか?」


「別に。今ある情報だけなら、街を長く安定させてる統治者だ。吸血鬼ってことを除けば珍しくもない」


「その吸血鬼ってところが一番珍しいんですけどね」


 ライカはそう言いながら、グレイを見る。


「お姫ちゃんはどう思います?」


「まだ分からない」


 グレイは少し冷めた魚を口へ運んだ。


「街はいいところだと思う。住んでる奴も王を嫌ってない。それなら、俺が吸血鬼だからって理由だけで悪く言うのも変だろ」


 そこで一度言葉を切る。


「ただ、内門は気になる」


 ライカもわずかに視線を伏せた。


「そうですね」


「でも勝手には入らないぞ」


「まだ何も言ってません」


「昼間、全員俺が入ると思ってただろ」


「日頃の行いというものです」


「ライカまでセバスみたいなこと言うようになったな」


「昔からです」


「そうだったか?」


「そうです」


 グレイはセバスを見る。


 セバスは静かに紅茶を飲んでいる。


「何か言ってくれ」


「ライカ殿の仰る通りかと」


「聞く相手間違えた」


 ライアンが吹き出した。


 ロイまで笑っている。


 グレイは少しだけ眉を寄せたが、すぐに残った食事へ手を伸ばした。


     ◇


 食事を終えて部屋へ戻る前、グレイは一人で宿の外へ出た。


 別に何か目的があったわけではない。


 昼間とは違う街を少し見たくなっただけだった。


 夜風は思ったより冷たい。


 昼間の熱を残していた石畳もすっかり冷え、街灯の淡い光が通りを照らしている。


 店じまいを始めた露店がある一方、酒場からは笑い声が漏れていた。


 吸血鬼の街だからといって、夜になった瞬間に何かが変わるわけではない。


 酔った男が歌い。


 宿へ戻る旅人が歩き。


 家の窓には灯りがある。


 グレイはしばらく歩いた後、通りの先で足を止めた。


 建物の屋根越しに、内門の壁が見えていた。


 昼間よりも輪郭が黒い。


 そのさらに向こう。


 壁に遮られ、上部しか見えないが、大きな城らしき建物が夜空へ突き出している。


 あそこに《夜の王》がいる。


 数百年、人間の街を治めている吸血鬼。


 人間に恐れられるどころか、感謝されている王。


「変なの」


 小さく呟く。


 悪い意味ではない。


 ただ、グレイの知っている吸血鬼とは少し違った。


 血を求める者。


 人間を襲う者。


 力を誇る者。


 もちろん、それだけが吸血鬼ではないことくらい分かっている。


 自分自身がそうなのだから。


 それでも、数百年にわたって人間の街を治め、その人間たちから慕われている存在には興味が湧いた。


「何見てるんだ?」


 背後から声がした。


 振り返らなくても分かる。


「内門」


 グレイが答えると、ロイが隣まで歩いてきた。


「勝手に行くなってライカが言ってたぞ」


「行ってないだろ」


「一人で外に出てる」


「宿の前だぞ」


 振り返れば、宿の入口はまだ見える。


 ロイも確認し、肩をすくめた。


「それならいい」


「お前、最近ライカに似てきたな」


「それは褒め言葉として受け取っておく」


「褒めてない」


「そうか?」


 ロイはグレイの横に立ち、同じように遠くの壁を見る。


「気になるのか?」


「少し」


「吸血鬼だから?」


「それもある」


 グレイは壁の向こうへ視線を戻した。


「人間に好かれてる吸血鬼って、あんまり見ないから」


「主も嫌われてはいないだろ」


「俺は街を治めてない」


「それもそうだな」


 風が通り抜ける。


 どこかの店から酒と焼いた肉の匂いが漂ってきた。


 グレイはそちらへ一瞬だけ視線を向けたが、今度は動かなかった。


「数百年か」


「長いか?」


「人間にはな」


「主には?」


「そこそこ」


 ロイが小さく笑った。


「便利な感覚だな」


「別に便利じゃない」


 グレイは壁を見上げる。


 昼間に見た門。


 その前に立つ衛兵。


 内側で暮らしているという者たち。


 それ以上のことは、まだ何も知らない。


 だから考えても仕方がない。


「会えるなら話してみたい」


「夜の王と?」


「ああ。どうやってこの街を作ったのか聞いてみたい。それと――」


 グレイは少しだけ考える。


「同じ吸血鬼だしな」


「話が合うかもしれない?」


「それは会わないと分からないだろ」


「違いない」


 ロイはそれ以上尋ねなかった。


 二人で少しだけ壁を眺める。


 やがて宿の二階、その窓の一つが開いた。


「お姫ちゃん」


 聞き慣れた声が降ってくる。


 グレイが顔を上げると、ライカが窓からこちらを見下ろしていた。


「何してるんですか?」


「散歩」


「ロイは?」


「主を回収しに来た」


「俺は荷物かよ」


「でしたら、回収される前に戻ってきてください。明日も街を見るんでしょう?」


「分かった」


 グレイは素直に宿へ向かう。


 ロイもその横を歩き始めた。


 数歩進んだところで、もう一度だけ振り返る。


 街灯に照らされた外門の街。


 その向こうで、巨大な壁だけが夜の中へ沈んでいる。


 外側ではまだ笑い声が聞こえていた。


 酒場から漏れる音楽も、荷馬車の車輪が石畳を転がる音もある。


 けれど、壁の向こうからは何も聞こえない。


 ただ一つ。


 閉ざされた内門の上に刻まれた三日月と雫だけが、月明かりを受けて白く浮かんでいた。

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