第10話 ロイ
朝の光が、閉じられた窓の隙間から細く差し込んでいた。
宿の一室。普段なら寝台と小さな卓が置かれているだけの部屋だが、今は中央の家具が壁際へ寄せられ、床には大きな布が敷かれている。
その上に置かれているのは、人の形をした白い器だった。まだ色のない肌に、固く閉じられた瞼。呼吸はなく、胸が上下することもない。
形だけを見れば人間とほとんど変わらない。けれど、その身体を形作っているものが生身の肉ではないことは、近くで見れば分かった。
魔導白磁。
グレイが長い年月をかけて扱い続けてきた、人の魂を宿すための器だった。
「……こうして自分の身体を見るの、変な気分だな」
少し離れたところで、ロイが腕を組んでいた。
視線の先にある器は、現在の自分とほとんど同じ姿をしている。
髪の長さや顔立ち、肩幅、腕や脚の長さまで、受肉によって得ていた肉体の情報を基準にグレイが調整したものだ。
完全な複製ではなく、中身はまるで違う。それでも外から見れば、二人のロイが同じ部屋にいるようだった。
グレイは器の右手を持ち上げ、指を一本ずつ曲げながら確認している。
「俺も作ってて少し変な感じだったぞ。目の前に本人がいるのに、同じ顔の身体をもう一つ作ってるんだからな」
「顔まで同じにする必要あったか?」
「違う顔がよかったのか?」
「いや、それはそれで困る」
「だったらこれでいいだろ。受肉した身体の情報をそのまま基準にした方が調整もしやすかったし、お前も今までと同じ姿の方が楽だと思った」
ロイは自分と同じ顔を見下ろした。
「まあ、急に別人になるよりはいいか」
「ライカもその方が分かりやすいだろ」
「そこでライカを出す?」
「大事じゃないか。お前がこの身体を欲しがった理由の一つだろ?」
「……そうなんだけどな」
ロイが頬を掻く。
部屋の壁際には、ライアンとライカ、セバスもいる。
ライアンは腕を組んで扉の近くへ背を預け、いつもの軽い表情を浮かべていた。ただし、ロイを見る目には警戒が残っており、それを隠すつもりもないらしい。セバスも同様に、グレイの作業とロイの様子を静かに見守っている。
ライカだけは窓の近くに立ち、何度か床の器を見ては、その隣にいるロイへ目を戻していた。今の身体でいる彼を見るのは、これが最後になる。そう考えているのかもしれない。
「ライカ」
不意にロイから呼ばれ、ライカが顔を上げた。
「何です?」
「そんなに見られると、ちょっとやりにくい」
「これから自分の身体を捨てる人が何を言ってやがるんですか。気になるくらいは仕方ないでしょう」
「心配してる?」
「調子に乗るなら、今すぐ心配するのをやめますよ」
「してたんだな」
「……ロイ」
「悪い。もう言わない」
ロイがすぐに引くと、ライカは小さく息を吐いて窓の外へ顔を向けた。けれど数秒もしないうちに、また彼を見ていた。
そのやり取りを聞いていたライアンの耳がぴくりと動く。
「一応言っとくっスけど、身体が変わったからって俺が急に信用すると思わないでほしいっス」
「分かってるよ。昨日も聞いた」
「ならいいっス。ねーちゃんが止めないなら俺も止めないっスけど、それとこれは別っスから」
「それも分かってる」
ロイは苦笑する。
「何回確認するんだ?」
「何回でもっスよ。姫さんはこういう時、決めたら妙に早いっスからね」
「聞こえてるぞ、ライアン」
「聞こえるように言ったっス」
「俺だってちゃんと考えてるからな。昨日も確認してからって言っただろ」
「姫さん基準の『ちゃんと』が怖いんスよ」
「失礼だな」
グレイは不満そうに眉を寄せたものの、手は止めなかった。
器の胸元へ掌を置いて魔力を流し、白磁の内部へ張り巡らせた経路を確かめていく。
ロイの魔法は、単純に大きな魔力を放出するものではない。土を操って鉄を作り、それを圧縮し、重力を細かく変化させながら、複数の工程を同時に扱う。
ただ頑丈なだけでは足りず、本人の判断へ遅れることなく応える器でなければならない。
「グレイ様」
セバスが声を掛けた。
「何か気になるところがあった?」
「いえ。ただ、以前より随分細かく調整されているように見えましたので」
「そこは少し変えたぞ。ロイは身体の反応が遅いことを気にしてたから、魔力を通してから動くまでの遅れをできるだけ減らしてある」
グレイは器の指を軽く動かす。
「力を出せるだけじゃ駄目なんだ。ロイの場合は、考えた通りに動けることの方が大事だと思う」
「なるほど」
セバスが僅かに目を細めた。
「決闘をしたからこそ分かった部分ですな」
「うん。戦わなかったら、ここまで細かくは分からなかったと思う」
ロイが横から覗き込む。
「俺、結構いい身体を作ってもらってる?」
「かなりちゃんと作ってるぞ。せっかく今の器を捨てるのに、次も合わなかったら意味ないだろ」
「それもそうだな」
「ただし、最初から全力で動くなよ。定着してすぐは感覚が違うはずだから、まず普通に立って歩くところからだ」
「分かってる」
「本当に?」
「何で疑うんだよ」
「お前、試したくなったらすぐ動きそうだからな」
「それ、お前に言われると納得しづらいな」
グレイが首を傾げる。
「俺はちゃんと様子を見るぞ」
その場にいた三人の視線が、同時にグレイへ向いた。
「……何だよ」
「何でもないっス」
「何でもありませんよ」
「私も何も申しておりません」
揃って目を逸らす三人に、グレイは納得していない顔をしたが、追及せず器へ意識を戻した。ロイだけが肩を揺らして笑っている。
最後に額へ指を当てる。
魔力が淡く流れる。
しばらくして、グレイは手を離した。
「……よし。俺が今できる調整は終わったぞ」
その一言で部屋の空気が少しだけ変わり、ロイの笑みが薄れる。
床に横たわる新しい器と自分の手を見比べ、右手を開いてから握る。今まで何度も繰り返し、決闘のあとには嫌になるほど確かめた動作だった。
「もうやるのか?」
ライアンが聞いた。
ロイは自分の腕を見たまま答える。
「先延ばしにする理由もないだろ」
「怖くないんスか?」
「どうだろうな」
少し考えてから答える。
「怖くないって言ったら嘘になるかもしれない。でも、今さらやめたいとは思ってない」
ロイは精神体の悪魔であり、今ある肉体は生まれた時から持っていたものではない。第三王子の召喚と、その対価によって得た受肉の器。必要がなくなれば、自ら受肉を解くことができる。
知識としてはそれだけのことだが、この身体で過ごした時間まで消えるわけではなかった。
最初は仕事を果たすためだけの器だった。グレイを狙って街を移り、偶然ライカと出会ってから、果実を食べ、茶を飲み、何度も同じ街を歩いた。食堂で向かい合い、グレイと拳を交え、昨日は五人で食事もした。
短い時間ではあったが、ただの器と呼んで手放すには、少しだけ惜しくなっていた。
「ロイ」
ライカの声だった。
「何だ?」
「……本当に大丈夫なんでしょうね」
言葉遣いはいつもと変わらない。
けれど声は少しだけ低かった。
ロイはライカを見る。
「精神体に戻るだけだ。俺自身が消えるわけじゃない」
「それは聞いています。ですが、もし何か違和感があったら、意地を張らずにすぐ言いやがってください」
「分かった」
「本当に分かっています?」
「今度は本当に分かってるよ」
ライカはまだ何か言いたそうだったが、それ以上は続けず、代わりに一歩だけ下がった。
ロイはグレイへ向き直った。
「俺が精神体へ戻ったら、あとは頼む」
「ああ。お前が安定したのを確認してから定着させる。急がないから、お前も無理に形を保とうとしなくていいぞ」
「了解」
ロイが目を閉じる。すぐには何も起こらず、静かな部屋へ外を行き交う人々の声と、遠くで馬車の車輪が石畳を叩く音だけが届いた。
やがて、ロイの身体からゆっくりと魔力が漏れ始める。普段なら体内へ収まっているはずの力が、薄い靄のように肩から浮かび、腕を離れ、足元へ流れていった。
グレイの表情が変わる。
「……始まった」
ライアンが壁から背を離し、セバスも一歩だけ前へ出る。ライカはその場を動かず、ただロイから目を離さなかった。
ロイの輪郭が揺れる。
最初は光の加減にも見えたが、やがて指先が透け始め、肌の向こうに床の色が僅かに見えた。
肉体が壊れているわけではない。
受肉という状態そのものが解かれている。
物質として固定されていた器が、役目を終えていく。
「……変な感じだな」
ロイが目を開いた。
「痛い?」
「痛くはない。身体の境目が分からなくなっていく感じがする」
「無理に動くなよ。そのままでいいからな」
「分かってる」
声にも少しずつ変化が現れた。
耳で聞く音と、魔力を通して感じる響きが重なっている。
ロイの胸元が淡く透ける。
胸元から腕、脚、顔へと透過が広がり、身体の輪郭が崩れるほどに、その内側から別の形が見え始める。
人の姿に近いが、物質ではない。魔力と精神によって存在する、本来の悪魔としての姿だった。
やがて、受肉していた身体が完全に光へ溶ける。
衣服だけが床へ落ちることはなかった。
それも含めて受肉によって構成されていたものだったのだろう。
そこに残ったのは、淡く揺らめくロイの精神体だけだった。
ライアンが目を細める。
「……本当に悪魔だったんスね」
『今さら?』
ロイの声が直接響いた。
口が動いたようにも見えたが、空気を震わせる声とは少し違っていた。
「いや、分かってたっスけど。こうして見ると、改めてって意味っスよ」
『俺も久しぶりだから、少し変な感じだな』
精神体のロイが自分の手を見る。
正確には、手の形をしているもの。それを握り、開く動きは、受肉していた時とはまるで違った。遅れがなく、動こうと思った瞬間に形が変わる。
『……ああ』
小さな声が漏れた。
グレイが気付く。
「どうした?」
『いや。これだと思って』
「何が?」
『身体を持つ前は当たり前だったから忘れてた。動こうと思ったら、そのまま動くんだよ』
ロイの腕が僅かに揺れる。
一瞬だけ輪郭が伸び、元へ戻った。
『受肉してから、ずっと一拍遅れてたんだな』
グレイはしばらくロイを見た。
昨日は何度も攻撃を読みながら防げず、判断だけが先へ行って身体が置いていかれていた。今のロイには、そのずれがない。
「……やっぱり全然違うな」
『だろ?』
「うん。でも、そのままだとライカと一緒に飯食えないぞ」
『だから今から入るんだろ』
「そうだったな」
グレイは床へ置いた魔導白磁の器へ向き直る。
ここからがグレイの役目だった。
通常の人形化とは違い、死者の魂を読み取って、失われる前に魔導白磁へ宿すのではない。ロイは死んだのではなく、本来の姿へ戻っただけだ。
必要なのは、目の前に存在する精神体を新しい器へ定着させることだった。
「ロイ。今から始めるぞ」
『頼む』
グレイは器の胸へ右手を置いた。
左手を精神体のロイへ伸ばす。
目を閉じる。
魔力が静かに広がった。
床が揺れることも、光が部屋を満たすこともない。ただ、グレイの周囲だけ空気が少し冷えたように感じられた。
魔導白磁の内部に作った経路を確かめ、ロイの精神体を受け入れる場所を開く。彼の形を無理に変え、器へ合わせて削るのではない。器の方をロイへ合わせていく。
「そのまま俺の魔力に触れてくれ。引っ張るけど、嫌な感じがしたらすぐ止めるからな」
『分かった』
精神体のロイが手を伸ばす。
グレイの左手へ重なる。
物質的な感触はなく、代わりに魔力同士が触れ合う。その瞬間、グレイの髪が僅かに揺れた。
「……重いな」
『悪口?』
「違う。精神体の密度が思ってたより高いんだ。さすが侯爵級ってことなのかな」
『知らないよ。自分以外を入れたことないからな』
「俺だって悪魔を入れるのは初めてだぞ」
『大丈夫か、それ』
「今さら不安になるなよ。ちゃんと慎重にやってるから黙って任せてくれ」
『はいはい』
ロイの輪郭が少しずつ薄くなる。
消えているのではなく、グレイの魔力を経由して器へ移っているのだ。
白磁の胸元に淡い光が灯った。
ライカの指が僅かに動く。
ライアンも黙って見ていた。
セバスだけが、グレイの呼吸を見ている。
グレイは急がず、一度に押し込むこともしない。ロイの精神体が器へ馴染むたびに少し待ち、それから次へ進む。
窓から差していた光の位置が、時間とともに床の上をゆっくり移動していった。
やがて精神体のロイは、胸から上だけを残すほど薄くなっていた。
『グレイ』
「何だ? 変なところある?」
『いや。思ったより普通だなと思って』
「普通ならいいだろ。俺は失敗したくないんだから、最後まで普通でいてくれ」
『分かったよ』
ロイが笑ったように見えた。
最後に残っていた輪郭も、ゆっくりと器へ吸い込まれていく。
グレイの左手から感触が消えた。
同時に。
床に横たわっていた魔導白磁の身体の指が、僅かに動いた。
グレイはすぐに右手を離さない。
「まだ動くなよ」
返事はない。
グレイは目を閉じたまま、内部の状態を確認する。
精神体は消えておらず、魔導白磁の中で定着を始めていた。魔力経路との接続から四肢の感覚、視覚、聴覚へと結びつき、少しずつ器がロイ自身のものへ変わっていく。
長い沈黙のあと。
グレイがゆっくり息を吐いた。
「……ロイ。目、開けられるか?」
白磁の瞼が動いた。
一度震え、それからゆっくりと開いた。
瞳が天井を映した。
「……見える」
先ほどまでの精神体として直接響くものではなく、空気を震わせて届く人の声だった。
ライカが小さく息を吐いた。
ロイの目が動く。
天井から窓、グレイ、ライアン、セバスへと移り、最後にライカで止まった。
「おかえり」
ライカが言った。
声は普段と変わらず、大げさな表情もない。ただ、先ほどまで僅かに強張っていた肩からは力が抜けていた。
ロイは数秒、ライカを見た。
「……ただいま、でいいのか?」
「好きにしてください。無事なら、それで十分です」
「じゃあ、ただいま」
グレイがロイの肩を押さえる。
「まだ起きるなよ。感覚を確認してからにしてくれ」
「もう動けそうだけど」
「そう言うと思ったから押さえてるんだぞ。昨日、自分の身体に散々文句言ってたんだから、今度はちゃんと確かめろ」
「分かったって」
ロイは仕方なく横になったまま右手を持ち上げる。
指を曲げ、開き、もう一度握ったところで、その動きが止まった。
「……どうした?」
「いや」
もう一度、今度は速く、さらに速く握って開く。指の一本一本が思った通りに動き、以前の肉体にあった僅かな遅れがない。
「これ……」
ロイの口元が上がった。
「気持ちいいな」
「だからまだ動きすぎるなって」
「指だけだろ」
「そう言って次は腕を動かすだろ」
「よく分かってるな」
「昨日一日で結構分かったぞ」
グレイはようやく肩から手を離した。
「ゆっくり起きていい。でも、本当にゆっくりだぞ」
ロイが上半身を起こす。
身体は軽いが、軽すぎるわけではなく、自分が思った分だけ動く。それだけのことが妙に新鮮だった。
足を床へ下ろして立ち上がり、すぐ横で見守るグレイの前を一歩、二歩、三歩と進む。身体の軸はぶれず、違和感もない。
「……すごいな」
「違和感ない?」
「今のところはない。むしろ前より自然だ」
ロイが肩を回し、腕を上げ、腰を捻ってから、足を一度だけ上げて下ろす。
そこでセバスの目が細くなった。
「グレイ様」
「何?」
「先ほどの身体とは別物ですな」
ロイがセバスを見る。
「もう分かるのか?」
「立ち上がった時点で分かる。重心を移してから足が出るまでの間がない。以前は僅かだが、頭で決めた動きに肉体が遅れていた」
セバスが一歩近づく。
「今は違う。動こうとした時には、すでに身体が動いている」
「拳聖のお墨付きか」
「まだ動きを見ただけだ。実戦で使えるかは別の話だ」
「厳しいな」
「当然だろう」
ロイは笑いながら右手を握った。
ほんの少し魔力を流して足元へ重力を掛ける。以前なら身体を魔法で無理に引っ張る感覚があったが、今は重力の変化へ自然についてくる。
むしろ、出力を抑える必要がありそうだった。
「……これ、前と同じつもりで使うと危ないな」
グレイの目が輝いた。
「どのくらい違う?」
「重力で無理に身体を引っ張らなくても、普通に動く。それに、魔力を通した時の反応も速い」
「ちょっと動いてみてくれ。俺も見たい」
「さっき動くなって言ってなかったか?」
「もう立って歩けただろ。少しくらいならいいと思う」
「姫さん」
ライアンが呆れた声を出す。
「何だよ」
「自分が一番試したがってるじゃないっスか」
「だって気になるだろ。昨日あれだけ身体が遅れてたんだから、直ったらどこまで変わるのか見たいじゃないか」
「お姫ちゃん、ロイを作ったばかりのおもちゃみたいに扱わないでください」
「扱ってないぞ。本人も試したそうだろ」
全員の視線がロイへ向く。
ロイは少しだけ目を逸らした。
「……まあ、試したい」
「ほら」
「そこで得意げになるのは違うと思いますよ」
ライカが小さく息を吐く。
「ただし、本当に軽くにしてください。身体が変わったばかりなんですから、いきなり昨日みたいなことをしたら怒りますよ」
「俺に言ってる?」
「二人に言っています」
「俺も?」
「お姫ちゃんが一番危ないんですよ」
「信用ないな……」
ロイが吹き出した。
「じゃあ外に出るか?」
「宿の部屋で試すのはやめてくれ。壁壊したら怒られるからな」
「それは俺も嫌だ」
◇
宿の裏手には、荷車を一時的に置くための小さな空き地があった。朝の今は誰も使っておらず、固く踏み締められた地面の端には薪が積まれている。
グレイたちは人が来ないことを確認してから、空き地の中央へ出た。
「本当に軽くな」
グレイが念を押す。
「お前が言うと説得力ないな」
「俺は今日は見てるだけだぞ」
「今日は?」
「言葉のあやだ」
ロイは数歩前へ出て、軽く膝を曲げた。構えるほどではなく、まずは右、左、前、後ろへ歩くように身体を動かし、少しずつ速度を上げていく。
足を出せば身体がついてくる。そこで重力を軽くし、一歩踏み込んだ。
次の瞬間。
ロイの姿が数メートル先へ移っていた。
「……お?」
本人が一番驚き、慌てて重力を戻して足を止める。
以前なら制動のために強く地面を踏み、さらに重力を増して身体を押さえ込む必要があった。
今は一歩で止まった。
「止まれる」
ロイが自分の足を見る。
もう一度、今度は斜めへ踏み込む。走り出した身体に合わせて途中で重力の向きを変えると、進路が急角度に曲がった。
土煙が細く上がる。
さらに一歩を重ねると、ロイの姿が左右へ揺れる。
昨日とは明らかに違った。
変わったのは速さだけではなく、動きの間にあった僅かな引っ掛かりまで消えていた。
セバスが腕を組む。
「なるほど。これは大きいですな」
「そんなに違うっスか?」
ライアンが尋ねる。
「ああ。昨日は重力で肉体を引っ張っていた。今は身体の動きに重力を重ねている」
「何が違うんス?」
「順番が逆だ」
セバスはロイを見る。
「以前は遅い身体を魔法で補っていた。今は本来の動きへ魔法を加えている。これなら無駄な負荷も減るだろう」
ライアンも目を細める。
「……確かに昨日より速いっスね」
実力の変化は認めても、ライアンの表情から警戒が消えたわけではない。
ロイがこちらへ戻ってくる。
「どうだった?」
「かなり違うぞ」
グレイは楽しそうだった。
「昨日よりずっといい。重力を使った時も身体が遅れてないし、止まる時も無理してる感じがしなかった」
「俺もそう思う」
「近接も変わってそうだな。昨日は防御が間に合わないところが何回かあったけど、今ならたぶん――」
グレイは一度言葉を止め、ロイの右手から足元へ視線を動かすと、少しだけ口元を上げた。
「……もう一回やるか? 今なら昨日よりずっと面白そうだぞ」
「やらない」
即答だった。
グレイが目を瞬く。
「何でだよ。身体の確認にもなるだろ」
「なったよ。今ので十分だ」
「近接はまだ確認してないぞ」
「昨日負けたばっかりなんだぞ。新しい身体になった初日に、また真祖と殴り合う奴がどこにいるんだよ」
「ここにいるかもしれないだろ」
「いないよ」
「やってみないと分からないぞ」
「分かる」
「一回だけでも――」
「お姫ちゃん」
ライカの声が飛んだ。
グレイの肩が僅かに下がる。
「……冗談だぞ」
「今のは絶対に本気でしたよね?」
「半分くらいだ」
「ほとんど本気じゃないですか」
「半分だぞ?」
「数字の問題ではありません」
ライカは呆れたように額を押さえた。
ロイが肩を揺らして笑う。
「従者になった初日に主から決闘を申し込まれるとは思わなかったな」
「まだ申し込んでないぞ。聞いただけだ」
「同じようなものだろ」
「違うと思うけどな」
グレイはまだ少し残念そうだった。
セバスがそんなグレイへ小さく笑う。
「グレイ様。いずれ機会はあるでしょう」
「セバスもそう思う?」
「身体が馴染んでからであれば、私も一度手合わせしてみたいものです」
「お前もそっち側かよ」
ロイが呆れた顔をする。
「技を見れば試したくなるのは当然だ」
「拳聖までこれなら、俺の方が普通だよな?」
「そこは俺に聞くなよ」
ライアンが小さく鼻を鳴らした。
「まあ、姫さんとセバスはそういうところあるっスから。ロイもそのうち慣れるしかないっスよ」
「助言?」
「別に。まだ仲良くするつもりはないっス」
「……徹底してるな」
「当然っスよ」
言葉は軽いが、ライアンの目は笑っていなかった。身体が変わり、グレイの従者になったからといって、昨日までのことが消えるわけではない。ロイもそれには気付いている。
「分かってるよ」
ロイはそれだけ答えた。
ライアンも、それ以上は何も言わなかった。
◇
昼を過ぎる頃には、旅立ちの準備が始まっていた。
この街へ長く留まる理由はもうない。
第三王子から始まった一連の出来事も、グレイたちにとっては一区切りついている。
宿の部屋には荷物が並べられ、ライカが一つずつ中身を確認していた。
「にーちゃん、その袋は食料ですから勝手に開けないでください」
「まだ何もしてないっスよ」
「手を伸ばしてたでしょう」
「確認しようとしただけっス」
「何を確認する必要があるんです?」
「肉が入ってるかどうかっス」
「それを開けようとしてたって言うんですよ」
ライカが袋を取り上げる。
ライアンが残念そうに手を引っ込めた。
少し離れたところでは、セバスが道具類をまとめている。
グレイは寝台の端に座り、地図を広げていた。
「次はこのまま西でいいと思う。大きい街があるみたいだし、途中に村もいくつかあるから食料も困らないだろ」
「姫さん、ちゃんと道分かってるんスか?」
「地図があるんだから分かるぞ」
「前もそう言って違う道行ったっスよね」
「あれは道が地図と違ったんだ」
「本当に?」
「たぶん」
「もう怪しいっス」
「ならライアンが先頭歩けよ」
「それはそれで不安ですね」
「ねーちゃんまで!?」
ロイは窓際の椅子に座りながら、そのやり取りを眺めていた。
新しい身体にも少しずつ慣れてきた。
椅子へ座る。
立つ。
物を持つ。
茶を飲む。
どれも問題ない。
むしろ感覚の違いが少ないことに驚いた。
指先へ触れた木の硬さ。
茶の温度。
窓から入る風の冷たさ。
魔導白磁だからといって、世界から切り離されたような感覚はなかった。
「……よくできてるな」
ロイが自分の掌を見る。
グレイが地図から顔を上げた。
「身体?」
「ああ。もっと人形っぽいと思ってた」
「それ、ライアンたちの前で言うのか?」
「悪い意味じゃないよ」
ロイは指先で窓枠をなぞる。
「ちゃんと触った感じが分かる。温度も分かる。受肉してた時とそんなに変わらない」
「俺が一番気を使ってるところだからな」
グレイは地図を畳みながら言った。
「身体が残るだけじゃ意味ないだろ。生きてた時にできたことが全部できなくなったら、本人が困るからな」
ロイは少しだけ目を細めた。
「そういうところは細かいんだな」
「何だよ、その言い方」
「褒めてる」
「ならいいけど」
グレイはあっさり納得した。
ロイはそんなグレイを見ながら、自分の胸へ手を当てる。
心臓の鼓動はない。
生身の肉体ではない。
それでも、自分がここにいる感覚はある。
精神体の時とも違う。
受肉していた時とも違う。
新しい器。
自分で選んだ身体。
「ところで」
グレイがロイを見る。
「何だ?」
「従者になったなら、ロイにも何か役割があった方がいいと思うんだけど、何か得意なことある?」
「戦闘以外で?」
「戦闘だけでも困らないけど、普段ずっと戦ってるわけじゃないだろ。ライアンとセバスは執事の仕事もするし、ライカは色々まとめてくれてるからな」
「それで、何かある?」
ロイは少し考えた。
「別に仕事へこだわりはないな。必要なことをやれって言われたらやる」
「それだと広すぎるな」
「掃除でも荷物持ちでも構わないぞ」
「料理は?」
「普通」
「裁縫は?」
「期待しない方がいい」
「ライアンと同じくらいか」
「何で俺が基準なんスか?」
「じゃあ、他に何かないのか? 意外と好きなこととか」
「ロイが戦う以外に何をしてるのか、まだあんまり知らないからな」
ロイは腕を組んだ。
しばらく考える。
「……植物なら、多少分かる」
グレイが瞬きをする。
ライカの手も止まった。
「植物?」
「ああ。土を扱うからな。土質を見れば育ちやすいものくらいは分かるし、昔から植物を触るのは嫌いじゃない」
「意外だな。遠くから鉄を撃ってくる奴が、花を育てられるとは思わなかった」
「偏見がひどいな」
「花も育てるのか?」
「必要なら」
グレイの目が少し明るくなる。
「それ、結構いいな」
「何が?」
「俺たち、長く滞在する場所だと庭や畑を放っておくことがあるんだ。ロイが見てくれるなら助かる」
ライカが横から口を挟む。
「お姫ちゃんが自分で世話をすると言っても、途中で別のことへ興味を移しますからね」
「ちゃんとやってる時もあるだろ」
「最初の数日だけでしょう」
「水はやってたぞ」
「加減が分からず、私が止めるほど与えていたでしょう」
ロイがグレイを見る。
「お前、植物育てるの下手なのか?」
「下手じゃない。慣れてないだけだ」
「それを下手って言うんじゃないか?」
「……たぶん違うぞ」
グレイは少し不満そうに頬を膨らませた。
「じゃあロイに任せればいいだろ。得意な奴がやった方が植物だって困らない」
「俺の初仕事が植物の世話になるのか?」
「嫌?」
「別に嫌じゃない」
「じゃあ決まりだな」
「軽いな」
「役割なんて、やりながら決めればいいだろ。お前が嫌になったら別のこともやればいいし、植物が好きならそれを続ければいい」
グレイは本当に、それ以上の意味を持たせていないようだった。
ロイは少し考えたあと、肩を竦めた。
「……まあ、庭があるなら見るよ」
「頼む。俺は枯らしたくないからな」
「その言い方だと、お前が触らない方がいい気がしてきた」
「失礼だな」
ライカが静かに頷く。
「そこだけは、ロイの判断が正しいと思います」
「ライカまで言うのかよ」
部屋に小さな笑いが広がり、ライアンもつられるように口元を緩めた。ただ、ロイと目が合うと、その表情はすぐに戻る。
会話は交わし、技量を認め、同じ旅へ加わることも受け入れた。それでも、背中を無条件に預けるほど信用しているわけではない。セバスも同じであり、今はそれでよかった。
信用は頼んで与えてもらうものではない。これからの行動を見て、二人に決めてもらえばいい。
「ロイ」
セバスが荷物を一つ差し出した。
「持てるか?」
「身体の確認?」
「それもある。だが、お前も従者になったのなら自分の荷物くらい持て」
「急に扱いが普通になったな」
「嫌か?」
「いや」
ロイは受け取る。
「この方が楽だよ」
「なら持て」
「重いな、これ」
「グレイ様の本が入っている」
「何冊持ち歩いてるんだ?」
「そんなに多くないぞ」
グレイが横から答える。
ロイが袋を少し持ち上げた。
「十分重いけど」
「新しい身体なら持てるだろ」
「そういう問題か?」
「身体の確認にもなるぞ」
「お前、まだ試したいだけじゃないか?」
グレイが目を逸らした。
「……少しだけ」
「素直だな」
「嘘ついても仕方ないだろ」
ロイは呆れながらも、袋を肩へ掛けた。
確かな重さはあるが身体はぶれず、受肉していた頃より力の伝わり方も自然だった。ロイの口元が無意識に緩む。
それをセバスが見ていた。
「悪くないようだな」
「ああ。かなりいい」
「ならば、まずその身体に慣れろ。力が増した時ほど、自分がどこまで動けるのかを勘違いしやすい」
「経験談?」
「好きに受け取れ」
「分かったよ」
ロイは素直に頷いた。
セバスはそれ以上言わなかった。少し離れたところで、ライアンが自分の荷物を持ち上げる。
「一応言っとくっスけど、俺はまだ見てるっスからね」
「何を?」
「ロイをっスよ」
「知ってる」
「姫さんが従者にしたからって、全部終わったとは思わないでほしいっス」
ロイはライアンを見る。
「思ってないよ」
「ならいいっス」
「でも」
「何スか?」
「そのうち信用してもらうつもりではいる」
ライアンが僅かに目を細めた。
ロイは続ける。
「ずっと疑われながら旅するのも面倒だからな」
「……そういうとこっスよ」
「何が?」
「別に」
ライアンは荷物を背負った。その口元は僅かに緩んでいたが、ロイが見直した時には、もういつもの顔へ戻っている。
グレイは何も言わなかった。
今は、それで十分だった。
◇
昼前。
五人は宿を出た。
数日を過ごした街は、いつもと変わらない賑わいを見せていた。
露店から焼いた肉の匂いが漂い、商人たちの声が通りを行き交う。荷車の車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、乾いた音が響いた。
外套の裾を風に揺らしながらグレイが先頭を歩き、その少し後ろをライアンとセバスが続く。ライカは荷物を確認しながら歩き、ロイは自然とその隣へ並んだ。
「身体は大丈夫ですか?」
「問題ないよ。さっきから歩いてるけど、違和感もない」
「だからといって、調子に乗って走ったりしないでください」
「しないって」
「さっき宿の裏で走っていましたよね?」
「あれは確認」
「お姫ちゃんと同じことを言い始めないでください」
「それはちょっと嫌だな」
少し前を歩いていたグレイが振り返る。
「聞こえてるぞ。俺と同じで何が嫌なんだよ」
「そういうところだよ」
「だから、そういうところってどこだよ。ちゃんと説明してくれないと分からないだろ」
「お姫ちゃん、前を向いて歩いてください。人にぶつかりますよ」
「ぶつからないぞ」
言った直後、通りの脇から子供が飛び出してきた。
グレイが半歩だけ横へずれる。
子供はそのまま走り去っていく。
グレイが得意そうに振り返った。
「ほら、ぶつからなかっただろ」
「そういう問題ではありません」
「何でだよ」
ロイが笑う。
ライカは呆れたように息を吐いた。
けれど歩幅は変わらず、ロイも同じ速度で歩く。
以前の肉体でも、歩くだけで不自由を感じることはほとんどなかった。それでも今は、一歩ごとに違いが分かる。進もうと思った通りに足が出て、僅かな遅れもなく、身体を意識して動かす必要もない。
当たり前に動けることが、これほど楽だったのかと思う。
やがて街の門へ着き、門番に必要な手続きを済ませて外へ出ると、一気に視界が開けた。街道は遠くまで続き、その両側には草原、さらに向こうには低い丘が見える。吹き抜ける風には土と草の匂いが混じっていた。
グレイが立ち止まり、地図を開く。
「西だから、こっちだな」
「姫さん、本当に合ってるっスか?」
「合ってるぞ。太陽の位置も見たから間違いない」
「昨日のうちにセバスへ確認した道と同じですから、今回は大丈夫ですよ」
「今回はって何だよ」
「そのままの意味です」
セバスが小さく笑う。
「グレイ様。日が落ちる前に次の村へ着くのであれば、そろそろ進んだ方がよろしいかと」
「分かった。じゃあ行こう」
グレイが地図を畳んで歩き出し、ライアンもその後を追った。
「姫さん、次の村にうまい肉あるっスかね?」
「知らないぞ。着いてから探せばいいだろ」
「にーちゃんは、食べ物のことばかり考えていないでください」
「旅の楽しみっスよ、ねーちゃん」
「昨日も同じことを言っていましたよ」
「昨日と今日は違う日っス」
「何の理屈ですか、それ」
セバスが二人の後ろを歩く。
ロイは少し遅れて街道へ足を踏み出した。
その横にはライカがいる。
「ロイ」
「何だ?」
「荷物、重くないんですか?」
「大丈夫。むしろこのくらいなら軽いよ」
「ならいいです。ですが、身体が変わったばかりなのは忘れないでください」
「分かってる」
「なら、ちゃんと分かっている顔をしてください」
「どんな顔だよ」
「少なくとも今みたいな、試しに走ってみたいって顔ではありません」
ロイは黙った。
ライカが横目で見る。
「図星ですね?」
「……少しだけ」
「走ったら怒りますよ」
「はいはい」
「返事は一回で十分です」
「はい」
「よろしい」
ロイが苦笑する。
少し前ではライアンが振り返ってこちらを見ていたが、目が合うとすぐに前を向いた。警戒はまだ消えておらず、セバスも時折こちらの動きを見ている。
それでも、誰もロイへついてくるなとは言わなかった。
グレイが少し先で足を止める。
四人が追いつくのを待っていた。
「ロイ、遅いぞ。新しい身体なのにライカより後ろじゃないか」
「ライカに走るなって言われたんだよ」
「歩くのはいいだろ」
「お前まで急かすな」
「別に急かしてないぞ。置いていかないように待ってただけだ」
ロイは一瞬だけ言葉を止めた。グレイは既に前を向いており、何か特別な意味を込めた様子もない。
「……そうか」
ロイも歩く。
五人の歩調が揃う。
街は少しずつ遠ざかっていった。
石造りの門が小さくなり、人々の声も届かなくなると、風に揺れる草の音と土を踏む足音だけが残った。
グレイが前を歩く。
その隣でライアンが何かを話し、グレイが返す。
ライカは少し後ろから二人へ呆れた声を掛ける。
セバスはいつものように周囲へ目を配りながら進んでいた。
その道の上には、もう一つ新しい足音が増えていた。
ロイは肩に掛けた荷物を持ち直した。
新しい指が革の紐を掴む。
思った通りに動く。
隣ではライカの髪が風に揺れていた。
少し先でグレイが振り返る。
「ロイ。次の村に着いたら、その辺に生えてる植物のこと教えてくれ。俺、見たことないのがあったら知りたいからな」
「もう仕事?」
「仕事じゃなくてもいいだろ。お前が知ってるなら教えてほしいだけだ」
「それなら構わないよ」
「じゃあ決まりだな。面白いのがあったら一緒に見よう」
グレイは満足そうに前へ向き直る。
「お姫ちゃん、道から外れすぎないでくださいよ。植物を見つけるたびに寄り道されたら、いつまで経っても村へ着きませんからね」
「まだ何もしてないだろ」
「先に言ってるんです」
「信用ないな」
「今までの積み重ねです」
「俺よりグレイの方が信用されてないんじゃないか?」
ロイが言うと。
ライアンが少しだけ笑った。
「そこは否定できないっスね」
「ライアンまで言うのかよ」
グレイの声が街道へ響く。
セバスが静かに息を吐き、ライカは肩を竦めた。
ロイも笑い、五人はそのまま西へ続く街道を歩いていく。
白い雲がゆっくりと流れ、その影が草原を横切っていった。
前を行く四つの背中を追い、その少し後ろにいたロイが自然に歩幅を広げる。一歩、もう一歩と距離を縮め、やがてその足音が四人のものへ重なった。
誰も振り返らない。
誰も立ち止まらない。
ただ五人で、同じ道を進んでいった。




