第9話 俺のもの
翌朝。
宿の食堂には、焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
通りに面した窓から差し込む朝の光が、使い込まれた木の卓を斜めに照らしている。まだ朝食の時間には少し早いのか、客の姿はまばらだった。
グレイは卓の端に座り、湯気の立つ茶を両手で包んでいた。
向かいにはロイが座っており、その右手はもう目立って震えてはいない。
昨日の決闘で受けた傷も、一晩休んだことで多少は落ち着いたらしい。ただ、身体の奥に残った疲労までは抜けていないのだろう。椅子へ座る動作には、普段よりわずかな硬さがあった。
ロイの隣にはライカ、グレイの隣にはライアンが座り、少し離れたところにセバスが立っている。
朝食のために集まった時とは、座る位置も空気も少し違った。
理由は全員が分かっていた。昨日の決闘はグレイの勝利で終わり、交わした条件に従えば、ロイをどうするか決めるのは彼女だ。
「……で」
最初に口を開いたのはロイだった。
卓の上に片腕を置き、グレイを見る。
「昨日は考えるって言ってたけど、そろそろ決まったか?」
「一応な。まだ少し考えてるところはあるけど、だいたいは決めたぞ」
「だったら聞かせてくれ。負けた以上、こっちは約束を守る」
ロイは一度だけ息を吐き、迷いなく続ける。
「好きにしろ」
ライアンの耳が僅かに動いた。ライカもセバスも表情を変えなかったが、三人の視線は揃ってグレイへ向けられていた。
グレイはすぐには答えず、茶を一口飲んだ。
温かく、少し渋い茶を口に含みながら、昨日から考えていたことをもう一度確かめる。
ロイは自分を殺そうとした。そこだけを見れば近くへ置く理由などないが、召喚した第三王子の遺した命令に従っただけで、本人がグレイへ恨みを抱いていたわけではないことも知っている。もちろん、それで撃たれた事実が消えるわけではなかった。
それでもグレイは、ロイを気に入っていた。
姿も見せず、気配すら掴ませず、遠く離れた場所から放たれた最初の狙撃。昨日はその仕組みを実際に見て、土から鉄を作り出し、圧縮したうえで重力まで利用して撃ち出していると分かった。
遠距離だけでなく近接でも戦え、重力の扱いが上手く、戦況を見る目もある。そして何より、話していて嫌ではなく、むしろ面白い。ライカが惹かれた理由も、少しくらいなら分かる気がした。
グレイは茶器を卓へ戻す。
「決めた」
「聞こうか」
「その前に一つ確認したいんだけど、お前はまだライカの傍にいたいんだよな?」
ロイは隣へ目を向けた。
ライカもロイを見る。
ほんの短い間だけ視線を交わし、それからロイはグレイへ向き直った。
「ああ。そこは負けても変わらない」
「そうか。それならちょうどいいな」
「何が?」
グレイは少し考えた。
昨日から何度か言葉を選んだが、結局は回りくどく言っても仕方がない。
「じゃあ、俺の従者にならないか?」
食堂の音が一瞬だけ遠くなった。厨房からは食器の触れ合う音が聞こえ、外を荷車が通り過ぎていく。
ロイは何も言わず、ライカも固まっている。ライアンに至っては、手にしたパンを口元まで運んだ姿勢のまま止まっていた。
最初に動いたのは、ロイだった。
「……今、何て言った?」
「俺の従者にならないかって言った。聞こえなかったのか?」
「聞こえたから確認したんだよ」
「だったら二回言わせるなよ」
「いや、普通は確認するだろ」
ロイが額を押さえる。
「俺、お前を殺そうとしたんだけど」
「知ってるぞ」
「昨日まで決闘してたんだけど」
「俺が勝ったな」
「その勝った相手を従者にするのか?」
「そう言ってるだろ。何回説明すればいいんだ?」
「お姫ちゃん」
低い声が割り込んだ。
グレイがそちらを見る。
ライカだった。
「本気で言ってやがりますか?」
「本気だぞ。昨日から考えて決めたんだから、思いつきで言ってるわけじゃない」
ライカはグレイの顔をじっと見た。冗談を言っているようには見えず、そもそもグレイがこういう場面でふざけることは少ない。
「……理由を聞いても?」
「いくつかあるぞ」
グレイは指を一本立てる。
「まず、俺はロイのことを結構気に入った。最初は俺を撃った奴ってだけだったけど、実際に話してみたら思ってたより面白いし、昨日戦ってみて戦い方も好きになった」
二本目。
「それから、あの狙撃は欲しい。俺たちには遠くから一方的に狙える奴がいないだろ。ロイなら近づく前に相手を止められるし、土魔法と重力も色々使える」
三本目。
「あと、お前が俺の従者になればライカの傍にもいられる。俺が旅を続けても、ライカは基本的に俺と一緒にいるからな」
そこでグレイは指を下ろした。
「だから、俺にとっては結構都合がいい。ロイ自身も嫌いじゃないし、欲しい能力も持ってる。それなら従者になってもらえばいいと思った」
しばらく誰も口を開かず、ロイは何とも言えない顔でグレイを見た。
「……最後の理由、だいぶ雑じゃないか?」
「どこが?」
「俺がライカの傍にいられるから、お前の従者にすればいいってところ」
「でも間違ってないだろ。お前はライカの傍にいたい。俺はお前を気に入った。だったら一緒にいればいいじゃないか」
「お姫ちゃんらしいと言えば、お姫ちゃんらしいですが……」
ライカが額へ手を当てる。
隣でライアンがようやく止まっていたパンを皿へ戻した。
「姫さん」
「何だ?」
「俺は反対っス」
声に冗談めいた響きはなく、グレイもすぐに本気だと気付いた。ライアンの視線はロイへ向けられている。
「姫さんがこいつを許すのは、姫さんが決めることっス。ねーちゃんがこいつをどう思うかも、ねーちゃんが決めればいい。でも、俺までこいつを信用できるかって言われたら話は別っスよ」
ロイは黙って聞いている。
ライアンは続けた。
「俺は忘れてないっス。こいつは姫さんの頭を撃ち抜いた。姫さんが真祖じゃなかったら、あそこで終わってたんスよ」
「分かってる」
「なら、姫さんが従者にするって決めても、俺はすぐに仲間扱いできないっス。それだけは言っとくっスよ」
グレイは少しだけ目を伏せた。怒りはなく、むしろ当然の反応だと思っている。
「うん。それでいいぞ」
ライアンが眉を上げる。
「いいんスか?」
「俺が従者にしたいからって、お前まで今すぐロイを信用する必要はないだろ。俺が決められるのは俺のことだけだ」
グレイはライアンを真っ直ぐ見る。
「俺が許したことと、お前が許すことは別だ。だから無理に仲良くしろとは言わない。ただ、もしロイが俺の従者になるなら、理由もなく喧嘩するのはやめてくれ。それくらいでいい」
ライアンは黙り、それから椅子の背へ身体を預けた。
「……それなら、分かったっス」
納得したのではなく、グレイの判断を受け入れただけだ。その違いは彼女にも分かった。
次に口を開いたのはセバスだった。
「私も、ライアンと大きくは変わりません」
グレイがセバスを見る。
「セバスも反対?」
「グレイ様が決められたこと自体には反対いたしません。ですが、ロイを信用するかどうかは別です」
セバスの視線がロイへ向く。
「お前の技量は認めている。昨日の決闘を見て、それは十分に分かった」
「拳聖に褒められるのは悪い気分じゃないな」
「だが、強いことと信用できることは同じではない」
ロイの笑みが薄くなる。
セバスは続ける。
「お前は一度、グレイ様の命を狙った。事情があったことも理解している。だが、理解したからといって警戒を解く理由にはならん」
「正しいと思うよ」
「なら話は早い。お前が従者になるなら止めはしない。だが、私がお前を仲間として信用するのは、お前自身を見てからだ」
「分かった」
ロイは軽く流さず、正面からセバスを見た。
「それでいい。むしろ、いきなり信用される方が困る」
ライアンが鼻を鳴らす。
「そこだけは話が合うっスね」
「嬉しくないな」
「こっちもっスよ」
空気は少しだけ緩んだが、互いの距離は残っている。
グレイはそれでいいと思った。昨日まで敵だった男を、今日から家族だと言って全員で笑える方がおかしい。時間が必要なら、少しずつ積み重ねていけばいい。
「ライカは?」
グレイが尋ねる。
ライカは少し困ったように眉を寄せた。
「私に聞きやがりますか?」
「聞くだろ。お前のことでもあるんだから」
ライカはロイを見る。
ロイも何も言わずに視線を返した。
「……私は、お姫ちゃんが決めたなら反対はしません」
「それだけ?」
「それ以上、今ここで何を言えっていうんでしやがりますか」
グレイは少し考える。
「嬉しいとか?」
「お姫ちゃん」
「冗談だぞ」
「今の間で言われても信用できません」
横でライアンが笑いを堪え、ライカがすぐに睨む。
「にーちゃんも笑ってないで黙ってやがってください」
「何も言ってないっスよ」
「顔がうるさいんですよ」
ロイが小さく笑った。
ライカの視線がすぐにそちらへ移る。
「ロイも笑ってやがりますね?」
「俺まで怒られるのか?」
「原因の一部でしょう」
「それは否定できないな」
グレイはそのやり取りを眺めながら、やはり悪くないと思った。少なくとも、ロイがここにいることを不自然だとは感じない。
「それで?」
ロイが改めてグレイへ向き直る。
「俺に従者になれっていう話だったな」
「そうだぞ。嫌なら断っていい。決闘では好きにしていいって約束だったけど、従者になるのまで無理やりやらせるつもりはないからな」
「勝者の権利は?」
「無理やり従わせても面倒だろ。俺は命令を聞くだけの奴が欲しいわけじゃない」
ライアンとライカが僅かに表情を緩め、セバスも何も言わなかった。その言葉は、三人にとって今さら確認するまでもないものだ。グレイにとって従者とは、命令だけを聞く存在ではない。
ロイはライアン、ライカ、セバスの順に見て、最後にグレイへ視線を戻した。
「……一つ聞いていいか?」
「何でも聞いてくれ。答えられることなら答えるぞ」
「こいつらは、お前にとって何なんだ?」
グレイは目を瞬いた。
「従者だぞ?」
「それは知ってる」
「じゃあ何を聞きたいんだ?」
「従者って言葉の意味だよ。主従なら、もっと違う距離になるだろ」
ロイはライアンを見る。
「こいつは普通にお前へ文句を言う」
「言うっスよ」
「セバスも、必要なら止めるだろ」
「当然だ」
「ライカなんて、お前を叱ってる」
「お姫ちゃんが叱られることをしやがりますからね」
「おい。俺だってそんなに怒られてないぞ」
「昨日、服を破って帰ってきたのは誰でしやがります?」
「それは戦ったから仕方ないだろ」
「話を逸らすなよ」
ロイに言われ、グレイは口を閉じた。
グレイは少し考える。従者という言葉だけなら、自分に仕える者という簡単な意味になる。けれど、それだけでは足りない。
「……家族だな」
グレイが言った。
ロイの表情が止まる。
「俺にとっては、従者だからって命令を聞くだけの奴じゃない。ライアンもライカもセバスも、俺が間違ってたら止めるし、嫌なら嫌って言う」
グレイは三人を見る。
「それでいいと思ってる。俺は一人で全部正しく決められるわけじゃないし、こいつらに何も考えず俺へ従ってほしいとも思ってない」
茶器へ指を添える。
少し冷めた茶の表面が、小さく揺れた。
「だから俺にとっては、従者って呼び方をしてるだけで、家族なのは変わらない。俺が守りたい奴らだし、俺のことも守ろうとしてくれる。たぶん、それで十分だろ」
ロイは返事をせず、三人へ視線を移した。ライアンは少し気まずそうに頬を掻き、ライカは静かにグレイを見ている。セバスは目を伏せ、僅かに笑っていた。
「……なるほどな」
ロイが呟く。
「だから俺を入れようと思えるのか」
「そういうことになるのかな。俺はお前を気に入ったし、一緒にいてもいいと思った。だったら誘う理由としては十分だろ」
「俺はお前を殺そうとした」
「それ、何回目だ?」
「大事なところだろ」
「大事なのは分かってる。でも、同じことを何回言われても答えは変わらないぞ」
グレイはロイを見る。
「俺は生きてる。お前がどうして撃ったのかも知ってる。それでも信用できないと思ったなら誘わない。俺は考えた上で、お前を近くに置いてもいいって決めたんだ」
「ずいぶん簡単に言うな」
「簡単じゃないぞ。昨日からちゃんと考えた」
「一晩じゃないか」
「俺には十分だった」
ロイが額へ手を当てた。
「強引だな」
「嫌なら断っていいって言ってるだろ」
「そこなんだよな……」
ロイは椅子へ深く座り直し、昨日の戦いを思い返した。
思うように動かない身体と震える指。グレイの拳が見えていたのに、防げなかった瞬間。そのあとに歩いた帰り道では、隣にいたライカが自分へ歩幅を合わせていた。
この身体を捨てれば本来の自分へ戻れるが、精神体になれば、今のように人として彼女の隣を歩けなくなる。その迷いが、昨日からずっと胸に引っ掛かっている。
そんな自分へ、グレイは別の道を差し出してきた。従者として迎え、家族になり、ライカの傍にいていいと言う。あまりにも都合が良すぎて、疑いたくなるほどだった。
「……ライカ」
「何です?」
「お前は、本当にいいのか?」
ライカは少しだけ目を細めた。
「何がでしやがります?」
「俺がこいつらと一緒にいても」
今度はライカがすぐには答えず、卓の上で両手を重ねた。
「私は昨日言ったことを変えるつもりはありません」
ロイは黙って聞く。
「お姫ちゃんたちは私の家族です。それは、これからも変わりやがりません」
「ああ」
「その上で、あなたが一緒にいたいと思っていることまで否定するつもりもありません」
ライカはほんの僅かな間だけ視線を伏せた。
「だから、あなたが自分で決めやがってください」
ロイの口元が僅かに緩んだ。
「そう言うと思ったよ」
「だったら最初から聞かないでくだせぇ」
「聞きたかったんだよ」
「面倒な人ですね」
「よく言われる」
「それは納得でしやがります」
ライアンが何とも言えない顔で二人を見る。
グレイは口を挟まず、ロイが決めるまで待った。
しばらくして、ロイが椅子の背から身体を起こす。
「分かった」
グレイを見る。
「その話、受けるよ」
ライアンの耳が動き、セバスの目が僅かに細くなる。ライカは何も言わなかったが、卓の下で重ねていた指から少しだけ力が抜けた。
「俺はお前の従者になる」
グレイの顔が明るくなる。
「そうか。それなら――」
「ただし」
ロイが遮った。
グレイが止まる。
「何だ? 条件があるなら聞くぞ」
「条件ってほどじゃない。頼みが一つある」
「言ってみてくれ。できることなら考えるから」
ロイは一度、自分の右手を見た。
握ってから開く。昨日より震えは少ないが、違和感は消えていない。むしろ一度気付いたせいで、指を曲げる僅かな遅れも、思った通りに力が入らない感覚も、以前よりはっきり分かった。
「昨日、お前に言われたことを考えてた」
「器のこと?」
「ああ」
ロイは自分の腕を見つめる。
「この身体は俺に合ってない。前から分かってはいた。でも、それなりに動くし、重力で補えば戦える。だから今までは、それでいいと思ってた」
右手を握る。
「昨日、お前と戦うまではな」
食堂の空気が少しだけ静かになる。
「見えてるのに防げない。次に何をすればいいか分かってるのに、身体が遅れる。あれは思ってたより気分が悪かった」
グレイは何も挟まない。
「今までは相手が遅かったから誤魔化せてたんだろうな。自分がこの身体に合わせて動いてることにも慣れてた。でも一回気付いたら、もう駄目だ」
ロイが苦笑する。
「このまま使い続ける気にはなれない」
「だったらどうする?」
「それなんだけどな」
ロイの視線が、ライアンからライカ、そしてセバスへ向かう。三人とも人間だった頃と変わらないように見えるが、その身体が生身ではないことをロイは知っている。
グレイによって作られた魔導白磁。魂を宿し、本人として生き続けるための人形の身体だ。
昨夜、ライカの隣を歩きながら考えた。今の肉体を捨てれば本来の精神体へ戻れるが、それでは彼女の隣へ同じ姿で立てなくなる。
ならば、肉体を捨てたあとに別の器を得られればいい。
ロイはグレイを見る。
「だったら俺も、あいつらと同じ身体にしてくれないか」
今度は。
グレイが固まった。
「……同じ身体?」
「魔導白磁だったか?」
ライアンの表情から軽さが消える。
ライカも目を見開いた。
セバスは黙ったまま、ロイを見ている。
ロイは続ける。
「俺は元々、肉体を持って生まれたわけじゃない。悪魔は精神体だ。この身体も召喚で受肉した時に得たものに過ぎない」
ロイは自分の胸へ手を当てる。
「だから、俺の意思で受肉を解けば捨てられる。本来の精神体へ戻れる」
「……戻ったあと、お前はどうなる?」
「俺は俺のままだ。死ぬわけじゃない。ただ、肉体がなくなる」
グレイの表情から、先ほどまでの明るさが消える。
「それで俺に、人形の身体へ入れてほしいって言ってるのか?」
「ああ」
グレイは答えない。
ロイは少しだけ笑う。
「そんな顔すると思わなかったな」
「当たり前だろ。簡単に返事できることじゃない」
「できないのか?」
「そういう意味じゃない」
グレイの声が少し低くなる。
「ライアンたちとお前じゃ、同じじゃないからな」
ライアンとライカが黙る。
セバスも口を挟まない。
グレイは三人を見なかった。
「こいつらは死んだあとだった。俺は、その魂を魔導白磁へ定着させた」
ロイを見る。
「お前は今、生きてるだろ」
「この肉体を捨てても、精神体の俺は消えない」
「それは分かる。でも、だから簡単にやっていいとは思わない」
グレイは自分の手を見た。
魔導白磁の身体を作り、そこへ魂を定着させる。それはグレイにとって、便利な器を作るための技術ではなく、家族を失わないために選んできたものだ。
「俺は、お前が強くなるためだけに今の身体を捨てるなら賛成しないぞ」
ロイが僅かに眉を上げる。
「意外だな。昨日は器が違えばもっと面白いって言ってただろ」
「言った。でも、それは戦った感想だ。だからって、強くなるために身体を捨てろって意味じゃない」
グレイは真っ直ぐロイを見る。
「俺は従者になってほしいって言った。壊れにくくて強い身体になれって言ったわけじゃない」
食堂の窓から光が差し込む。
ロイはしばらくグレイを見ていた。
それから、少し困ったように笑った。
「それだけじゃないよ」
「じゃあ、理由を聞かせてくれ」
ロイは隣を見る。
ライカがいる。
目が合う。
少しだけ迷ってから、ロイは口を開いた。
「俺はライカの傍にいたい」
ライカの指が僅かに動いた。
「今の身体を捨てれば、本来の俺には戻れる。でも精神体のままじゃ、今までみたいにはいかない」
ロイは卓上のパンと茶器、それから窓の向こうを歩く人々へ目を向けた。
「こうして同じ卓に座ることも、街を歩くことも、物に触れることも難しくなる。何より、こいつの隣に今まで通り立てなくなる」
「それは嫌なんだ」
ロイは静かに言った。
「昨日、お前に負けて初めて、この身体を捨てたいと思った。でも同時に、捨てたくないとも思った」
グレイが目を細める。
「強さを取れば、今の生活を失う。今の生活を取れば、自分に合わない身体を使い続ける。どっちも気に入らない」
「欲張りだな」
「ああ。だから、両方欲しい」
ロイは黙っている三人を見る。
「こいつらを見て思った。別の器でも、自分のまま生きられるなら、それでいいんじゃないかって」
そして、グレイへ視線を戻す。
「お前の従者になるなら、俺もあいつらと同じところから始めたい」
グレイは何も言わない。
ロイは続けた。
「強くなりたいだけじゃない。ライカの傍にいたい。それに――」
一度だけ言葉を止めてから、グレイを真っ直ぐ見た。
「お前が家族だって言った場所に入るなら、借り物の身体のままより、自分で選んだ身体で入りたい」
グレイの瞳が僅かに揺れた。
誰も口を開かなかった。先ほどまでロイを警戒していたライアンとセバスでさえ、その言葉だけは遮らない。
グレイはゆっくり椅子へ背を預けた。
「……そこまで考えてるなら、俺も適当に断るのは違うな」
「できるのか?」
「すぐにできるって意味じゃない。でも、お前が精神体へ戻ったあと、その魂を魔導白磁へ定着させられるなら可能性はある」
「身体の形は?」
「今のお前の身体を基準にできると思う。受肉した時の肉体情報が残ってるなら、それを元に魔導白磁を調整すればいい」
ロイは自分の手を見る。
この身体には不満があるが、姿そのものが嫌いなわけではない。ライカと出会い、何度も街を歩いた時も同じ姿だった。
「それで頼む」
「まだ決定じゃないぞ」
「今、できるって言っただろ」
「可能性があるって言ったんだ。ちゃんと確認してからだ」
「細かいな」
「こういうことは細かくていいんだよ」
グレイは少しだけ頬を膨らませた。
ロイが笑う。
その横で、ライカはまだ黙っていた。
「ライカ?」
グレイに呼ばれ、ようやく顔を上げる。
「……何ですか?」
「お前はどう思う?」
「私に聞くんですか」
「今度はかなり関係あるだろ」
ライカはロイを見る。
「本当に、それでいいんですね?」
「ああ」
「今の身体へ戻れなくなるかもしれませんよ」
「分かってる」
「お姫ちゃんの従者になれば、簡単にやめるなんて言わせませんからね」
「それも分かってる」
ライカは少しだけ眉を寄せた。
「……だったら、自分で決めやがってください」
「もう決めたよ」
「なら、私は止めません」
それだけだったが、ロイには十分だった。
ライアンが腕を組む。
「俺はまだ信用してないっスよ」
「分かってる」
「人形になったからって変わらないっス」
「それも分かってる」
「ねーちゃんに変なことしたら殴るっス」
「それは今もだろ?」
「今より強く殴るっス」
「怖い弟だな」
「誰のせいっスか」
セバスも静かに口を開く。
「身体が変わっても、お前自身が変わるわけではない。それは忘れるな」
「信用の話?」
「それもある。だが、もっと単純な話だ」
セバスは自分の手を見る。
「魔導白磁になったからといって、それまでの自分が消えるわけではない。強くなったから別人になるわけでもない。少なくとも、私はそうだった」
ロイは黙って聞く。
「お前が選ぶなら止めん。ただし、器を変えればすべて解決するとは思うな」
「……覚えとくよ」
「ああ。それでいい」
グレイは四人を見渡した。
まだ距離はある。ライアンはロイを信用しておらず、セバスも警戒を解いてはいない。ライカとの関係も、急に何かが変わったわけではなかった。
それでいい。今日すべてを決める必要はない。
「じゃあ、決まりだな」
グレイが言う。
ロイを見る。
「俺はお前を従者にしたい。お前はそれを受ける。それから、お前が本当に望むなら、魔導白磁の身体についても俺が考える」
「頼む」
「ただし、勝手に受肉を解除するなよ。準備する前に精神体へ戻られたら困るからな」
「そんなことしないよ」
「お前、結構その場で決めて動くところあるだろ」
「誰に言われたくないって顔していいか?」
「何で俺を見るんだよ」
「お姫ちゃん、自覚がなさすぎでしやがります」
「ライカまで?」
グレイが不満そうにする。
ロイは笑った。
昨日、グレイに負けた時には、こんな話になるとは思っていなかった。
好きにしろと告げ、何を命じられても受け入れるつもりだった。追い払われようが、別の条件を課されようが、負けたのだから仕方がないと思っていた。
まさか、家族にならないかと誘われるとは考えてもいなかった。
「それにしても」
ロイが呟く。
「何だ?」
「俺を殺そうとした悪魔を従者にする真祖なんて、お前くらいじゃないか?」
「知らないぞ。他の真祖がどうしてるかなんて」
「そういう意味じゃないんだけどな」
「じゃあどういう意味だ?」
「もういいよ」
「また説明しないのか?」
「そのうち分かる」
「みんなそればっかりだな」
グレイは不満そうに茶を飲んだ。
すでに冷めている。
顔をしかめる。
「……冷たい」
「話してるからでしょ」
「ライカ、温められない?」
「私は氷魔法が得意なんですが?」
「逆にやれば温かくならないのか?」
「なりませんよ」
「そうなのか……」
ロイが思わず笑う。
ライアンも吹き出した。
セバスは小さく息を吐きながら、新しい茶を用意しに立つ。
そんな中、ロイは自分の右手を見た。まだ借り物の器で、思うようには動かない。昨日の敗北を思い出せば、今でも腹の奥に鈍い悔しさが残っている。
けれど、この身体を捨てることは、もう何かを諦めることではなくなっていた。自分で選んだ先に、別の器がある。
顔を上げれば、隣にはライカ、正面にはグレイがいる。少し離れたところにはライアンが座り、新しい茶を運ぶセバスが戻ってくるところだった。
信用されたわけでも、家族として認められたわけでもない。それでも、ここに座ることを拒まれてはいなかった。
「ロイ」
グレイが呼ぶ。
「何だ?」
「従者になるなら、これからよろしくな」
ロイは少しだけ目を細めた。
「……ああ。よろしく頼む、グレイ」
「うん。それでいいぞ」
グレイは笑った。
主へ向ける言葉として正しいのか、ロイにはまだ分からない。けれど、ライアンが「姫さん」、ライカが「お姫ちゃん」と呼ぶのを聞いていれば、たぶんこれくらいでいいのだろう。
セバスだけは違うが、あれは本人が好きでやっているように見える。
「何だ?」
セバスが戻りながらロイを見る。
「いや。お前だけ随分ちゃんと従者してるなと思って」
「当然だ。私は執事だからな」
「元拳聖だろ?」
「今は執事だ」
「そこは譲らないんだな」
「当たり前だ」
ライアンが笑う。
「ロイもそのうち慣れるっスよ。セバス、こういうとこ頑固っスから」
「お前に言われたくない」
「ほら、俺には敬語使わないっス」
「使う理由がないからな」
「姫さん、この扱いの差どう思うっスか?」
「いつも通りじゃないか?」
「姫さんまで!」
グレイが笑う。
ライカも呆れながら口元を緩めた。
ロイはそのやり取りを眺めていた。
まだ自分がその輪の中にいるとは思わない。立っているのは少し外側で、ライアンが警戒する理由も、セバスの言葉が正しいことも分かっている。ライカとの関係だって、これからどうなるかは分からない。
それでも、外側から見ているだけだった昨日までとは違う。輪へ入るための場所が一つだけ空けられ、そこへ立つと決めたのは自分だった。
ロイは新しく置かれた茶へ手を伸ばす。
指先に温度が伝わる。
まだ、この身体だから感じられる温かさだった。
いずれ手放す器だと思えば、不思議と昨日ほど苛立ちはない。最後まで大切に使い、次は自分で選んだ身体でこの卓へ戻ってくればいい。
ロイは茶器を持ち上げた。
窓から入る朝の光が、指先を淡く照らしている。
その向こうで、グレイが新しい茶を嬉しそうに飲んでいた。
「……グレイ」
「ん?」
「身体のこと、頼んだぞ」
グレイは茶器を下ろした。
今度はふざけず、真っ直ぐロイを見る。
「ああ。お前が自分で選んだことなら、俺もちゃんと応える。だから準備ができるまでは、その身体を大事に使ってくれ」
「分かった」
短く答えたあと、ロイはもう一度茶を飲んだ。
温かかった。その温度を覚えておこうとしたわけではないが、ロイはいつもより少しだけゆっくりと茶を飲んだ。
それだけだった。




