第8話 悪魔と真祖
街から離れるにつれて、人の気配は少しずつ薄くなっていった。
踏み固められた街道を外れ、さらに西へ進んだ先。低い草に覆われた平原は緩やかな起伏を描きながら遠くまで続き、その向こうにはまばらな林と、灰色がかった岩山が見えている。
風は穏やかで、膝ほどまで伸びた草が一定の方向へ倒れては戻るたび、乾いた葉の擦れる音が広がった。空には薄い雲が浮かんでいるものの雨の気配はなく、決闘をするには悪くない場所だった。
グレイは平原の中央まで歩いたところで足を止め、少し離れた位置に立つロイへ振り返った。
「ここなら街にも迷惑はかからないだろ。多少地面が壊れても、あとで直せる程度なら問題ない」
「俺に聞かれても困るんだけどな。まあ、人が巻き込まれないなら十分だろ」
ロイはそう返しながら、周囲をゆっくり見回した。
緊張している様子はない。普段と同じ、どこか面倒そうにも見える立ち方で、両腕を自然に下ろし、肩にも余計な力が入っていなかった。
けれど、視線だけは違う。グレイの立ち位置だけでなく、足元の地面や背後の林、左右にある緩やかな傾斜まで確認している。ロイが見ているのは景色ではなく、これから戦う場所だった。
そのことに気付いて、グレイはわずかに口元を緩めた。
少し離れた丘の上では、ライアンたちが戦場を見下ろしていた。
「……結局、本当にやるんスね」
ライアンが腰に手を当てる。
「昨日あれだけ話しておいて、今日になってやめる方が不自然でやがりますよ」
隣に立つライカは腕を組んだまま答えた。
表情こそ普段と大きく変わらないが、その視線はロイからほとんど離れていなかった。
さらに少し後ろでは、セバスが静かに二人を見ている。
「条件まで決めた以上、グレイ様が退く理由はない。ロイの方も同じだろう」
「いや、それは分かってるっスけど……ねーちゃん、本当に止めなくていいんスか?」
「止めませんよ。ロイが自分で決めたことでしょう。それに、お姫ちゃんも納得して受けたんですから」
ライカはそこで一度言葉を切った。
風に揺れた髪を耳へかけ、そのまま小さく息を吐く。
「だから、私は見ています」
ライアンは何か言いかけたものの、結局そのまま口を閉じた。
平原では、グレイが脱いだ外套を近くの岩へ無造作に掛けていた。腰に剣はなく、そもそも今日は武器そのものを持ってきていない。
ロイがそれを見て、片眉を上げた。
「武器なしでいいのか?」
「最初からそのつもりだぞ。お前が近くでもどのくらい戦えるのか見たいし、俺も最近は武術を使うことが多かったからな」
「空間魔法は?」
「必要なら使う。でも、最初からそれだけで終わらせるつもりはない。せっかく戦うなら、お前が何をできるのかちゃんと見たい」
グレイは両手を軽く握ってから指を開き、足を肩幅より少し狭く置いた。構えというには自然すぎる姿勢だった。
だが、丘の上からそれを見ていたセバスの目がわずかに細くなる。
「……あれ、姫さん結構やる気じゃないっスか?」
「当然だ。あの構えは、相手の初動を見てから動くつもりだろう」
「最初から攻めないんスね」
「ロイが何をするか知りたいと言っていただろう。なら、先に見せるのはあちらだ」
平原の中央で、ロイが小さく肩を竦めた。
「余裕だな」
「違うぞ。知らないから見たいだけだ。前は遠すぎて、お前がどうやって撃ったのか見えなかったからな」
「それを本人に言うか?」
「別に隠すことでもないだろ。あの時は撃たれたことしか分からなかったし、今日はちゃんと見られるからな」
グレイが首を傾ける。
ロイは数秒ほど黙っていたが、やがて諦めたように笑った。
「分かった。じゃあ、好きなだけ見てくれ」
その言葉を最後に二人の間から会話が消え、草を揺らす風と、遠くで鳴く鳥の声だけが残った。
互いの距離は二十歩ほど。近接戦闘には遠く、魔法を使うには近い。
先に変化したのは足元だった。ロイの右足が地面を踏み、土がわずかに沈んだ瞬間、その身体が一気に前へ出る。
ただ走ったのではない。踏み込みと同時に身体へ掛かる重力を変え、一歩目の加速を強引に引き上げていた。
グレイの目がわずかに開く。
「へえ……そうやって近づくのか」
次の瞬間には、ロイが目の前にいた。
顔面へ真っ直ぐ伸びてきた右拳を、グレイは頭を傾けて避けた。頬の横を拳が抜けると、間を置かずに左が迫り、今度は掌で受け止める。
グレイの掌とロイの拳がぶつかり、乾いた音が響いた。
そこからロイは止まらず、肘、膝、掌底と攻撃をつなげた。一つ一つは奇抜ではないが無駄が少なく、次の一手へ移る動きが途切れない。
グレイは数歩下がりながら受け流した。
右腕で拳を外へ逸らし、脇腹へ来た蹴りを肘で受ける。そこから踏み込もうとしたところで、ロイが先に身体を沈めた。
足払いをかわしてグレイが跳ぶ。その瞬間、ロイの左手が地面へ向き、盛り上がった土から石柱が突き上がった。
「お、それはいいな」
空中で避ける場所を失わせるための攻撃だった。
グレイは身体を捻り、石柱の側面へ片足を置いた。そのまま蹴って横へ飛ぶ。
その先へロイが追いついていた。
拳が迫る。
今度は避けず、グレイも拳を出した。
二つの拳が正面からぶつかり、鈍い衝撃が平原へ響いた。ロイの身体は後方へ滑り、靴底が土を削ったものの、重力を利用して足を強引に地面へ押しつけ、倒れることなく踏み止まる。
「近くでも結構強いんだな。もっと遠くから撃つのが得意な奴だと思ってた」
「得意なのはそっちで合ってる。ただ、近づかれたら何もできませんじゃ困るだろ」
「それはそうだな。今の重力の使い方も面白い。速くするだけじゃなくて、踏ん張る時にも変えてるのか」
「戦いながらよく見てるな」
「見たいって言っただろ。知らない使い方は、見てるだけでも結構面白いぞ」
グレイの口元には、先ほどよりはっきりと笑みがあった。
ロイはそれを見て、軽く首を回す。
「なら、もう少し見せるか」
足元の土が弾けた。
今度は真正面ではなく、ロイは斜めへ踏み込み、グレイの視界から外れるように回り込む。重力による加速へ土魔法で作った足場を組み合わせ、何もない平原で急激に進行方向を変えた。
グレイが振り返る。
迫る拳を受けた直後、背後から土の杭が伸びる。グレイが身体を横へ流した先にはロイの蹴りが待ち構えており、それを腕で防ぐと、さらに地面が隆起して踏み込もうとした足場まで崩された。
「なるほど。一つずつは普通なのに、組み合わせるとかなり面倒だな」
「褒めてる?」
「かなり褒めてるぞ。俺はそういう戦い方、嫌いじゃない」
言いながら、グレイの右足が動く。
それまでとは違い、ロイが拳を引くより先に懐へ入り、胸へ掌底を放つ。
ロイは両腕を交差させて受けた。
衝撃で身体が浮く。ロイは後ろへ飛ばされながら重力を強め、地面へ足を戻そうとしたが、その着地点にはもうグレイがいた。
「っ……!」
ロイが咄嗟に身体を捻った。
グレイの蹴りが腹部を掠める。
完全には避けられず、横へ吹き飛ばされる。地面を二度転がったところで片手をつき、すぐに立ち上がった。
グレイは追わなかった。
「今の、ちゃんと避けるんだな。最初の一発を受けた時点で、次が来るって分かってただろ」
「避けなきゃ終わるからな」
「だからだよ。判断が速い。近接を本命にしてないなら、もっと雑だと思ってた」
「それ、褒めてるようで少し失礼じゃないか?」
「そう? でも思ってたより強いぞ」
悪びれた様子もなく返すグレイに、ロイが苦笑する。
「敵に感想を言う余裕があるなら、もう少し手加減してくれないか?」
「嫌だ。それじゃお前がどこまでできるか分からないだろ。せっかくなら最後まで見たい」
「そう言うと思ったよ」
丘の上で、ライアンが顔を引きつらせた。
「姫さん、普通に楽しんでるっスね」
「お姫ちゃんにとっては、かなり珍しい戦い方なんでしょうね」
ライカの声は静かだった。
視線はグレイではなく、ロイへ向いている。
セバスも腕を組んだまま戦況を見ていた。
「ロイは上手い。近接を本命にしていない者の動きではないな」
「セバスから見ても?」
「ああ。特に重力の扱いがいい。踏み込み、制動、姿勢の修正まで細かく切り替えている。力任せに速くしているだけではない」
そこでセバスはわずかに眉を寄せた。
「だが……妙だな」
「何がっスか?」
「まだ分からん。もう少し見ればはっきりする」
平原では、ロイが再び距離を詰めていた。
今度はグレイも待たない。
二人がほぼ同時に踏み込む。
拳と拳、蹴りと肘が交錯し、土魔法が使われるたび、二人の足元だけが細かく形を変えていく。
広範囲を壊すような魔法ではない。踏み込む場所だけを柔らかくし、踵の下を数センチ沈ませ、死角から小さな石礫を飛ばして一瞬だけ視線を逸らす。どれも単独では決定打にならないからこそ、攻防の中へ重ねられると厄介だった。
グレイが拳を避けようとした瞬間、踵の下だけが沈む。
ほんのわずかに姿勢が傾いたところへ次の拳が迫り、グレイが腕で受けると、さらに身体へ重力が掛かった。全身が一瞬だけ重くなった隙を狙い、ロイの膝が腹へ向かう。
グレイは片手で受け止め、その脚を掴もうとする。
だが、触れる直前にロイの身体が軽くなり、後方へ跳んだ。
「やっぱり便利だな、それ。使い方を変えるだけで近くでもかなり動ける」
「そっちの空間魔法ほどじゃないだろ」
「比べる必要ないだろ。できることが違うんだから」
グレイも追う。
距離が縮まる。
ロイの右拳が動いた。
グレイは肩の向きから軌道を読む。
顔ではない。
途中で変わる。
拳を囮にした肘打ち。
半歩だけ内側へ入り、腕を添えて軌道を外した。
同時に左拳をロイの脇腹へ送る。
ロイも気付いている。
視線がすでにグレイの左肩へ動いていた。
防ごうとしている。
腕が下がる。
だが。
拳の方が先に届いた。
「ぐっ……!」
ロイの身体が折れる。
グレイは追撃へ入ろうとして――止めた。
数歩離れたところまでロイが下がる。
今のは偶然ではない。少し前にも似たことがあった。
判断は間に合い、攻撃の軌道も見えている。防御へ移ろうともしているのに、身体だけが一拍遅れていた。
「……ん?」
グレイの笑みが少しだけ薄れる。
ロイは何も言わず、再び構えた。
ならば確かめる。
グレイは次の踏み込みだけ、意識して速度を上げた。
ほんの少し速度を上げると、ロイの目が動いた。グレイの肩から腰、足へと移る視線は、正確に動きを捉えている。
右から迫る拳に対してロイが防御へ入ったが、腕は間に合わない。寸前で身体を後ろへ引き、直撃だけは避ける。
続く蹴りも察知していたが、やはり脚が遅れた。
グレイの足先が腿を捉え、体勢が崩れたところへ掌底が迫る。
ロイは重力を横へ掛け、強引に身体を逃がした。
地面を滑りながら距離を取る。
「……やっぱりそうか」
グレイが構えを少し緩めた。
ロイが目を細める。
「気付いた?」
「お前、頭ではもっと速く動いてるだろ。俺の攻撃が見えてないんじゃなくて、見えてるのに身体だけ遅れてる」
風が二人の間を抜けた。
ロイは何も言わない。
グレイは先ほど拳を当てた脇腹へ一度目を向ける。
「今のもそうだった。防ぐ場所は合ってたし、動き始めるのも遅くなかった。でも実際に腕が来るまでに少しずれてる」
「……そこまで分かるのか」
「何回か同じことがあったからな。最初は疲れたのかと思ったけど、それだけじゃないだろ」
ロイは小さく息を吐いた。
否定はしなかった。
「この身体は、俺が本来持ってたものじゃない。受肉できただけでも十分なんだが、最初から俺に合わせて作られた器でもないからな」
「だから重力で補ってたのか?」
「それもある。普通に動かすよりはずっとましになる。ただ、無理に速くすると今度は身体の方が壊れる」
グレイはロイの右手を見る。
指先が微かに震えていた。
先ほどまで何度も拳をぶつけ合った影響だけではない。重力による急加速と急制動で、本来なら耐えられない負荷を肉体へ何度も押しつけているのだ。
「もったいないな」
「本人の前で言うか?」
「だって本当だろ。お前の判断はもっと速いのに、身体のせいでできないことが増えてる」
グレイは少し考え、それから素直に続けた。
「器が違ったら、もっと面白そうだな。今でも強いけど、お前が考えた通りに身体まで動いたら、たぶん全然違うだろ」
一瞬、ロイが目を丸くした。
それから肩を揺らして笑う。
「俺を殺そうとした奴に言う台詞じゃないだろ、それ」
「それとこれは別だぞ。俺はお前の戦い方の話をしてる」
「そういうところ、ライカから聞いてた通りだな」
「俺の何を聞いたんだ?」
「今は教えない」
「気になるだろ。そこまで言ったなら教えてくれてもいいじゃないか」
「決闘中だぞ」
「……それもそうだな」
あっさり引き下がったグレイを見て、ロイがまた笑った。
丘の上からそのやり取りを見ていたライアンが額を押さえる。
「……姫さん、途中から普通に会話してないっスか?」
「お姫ちゃんですからね」
「それで納得していいんスかね」
「今さらでしょう」
二人の横で、セバスだけは別のところを見ていた。
「やはり身体か」
「セバスも気付いてたんスか?」
「途中からな。技術に動作が追いついていない。あれでは本人が一番苛立つだろう」
セバスはかつて、自分の身体が思うように動かなくなっていく時間を経験している。頭の中ではできる。身体の動かし方も、次に何をすべきかも分かっているのに、その通りには動かない。
それが戦う者にとって、どれほど厄介で屈辱的なことかも知っていた。
「弱くはない。むしろ相当に強い。だが、あの身体ではグレイ様との近接は長く続けられん」
ライカの指が、自分の腕をわずかに掴んだ。
「……ロイも分かっているんでしょうね」
「当然だろう。それでも挑んだ。なら、最後まで自分で決めるはずだ」
その言葉が届いたわけではない。
けれど、平原のロイは同じ頃に構えを解いていた。
「近くは無理だな」
「もうやめるのか?」
「近接をだよ。これ以上やっても、そっちに殴られ続けるだけだ」
「俺はまだやれるぞ」
「知ってる。だから嫌なんだよ」
ロイが後ろへ跳んだ。
一度。
二度。
そこから重力を切り替えて身体を軽くし、一気に距離を広げる。
グレイは追わない。
数十メートル。
さらに離れる。
百メートルを越えてもロイは止まらず、さらに得意な距離まで離れていく。
「……どこまで行くんスか?」
ライアンが目を凝らす。
「ロイの本領でしやがりますね」
ライカの表情がわずかに硬くなった。
彼女も、ロイが最初にグレイへ何をしたのか知っている。あれは姿すら見えないほど遠くから放たれた一撃だった。
やがてロイの姿が、平原の向こうに小さくなる。
グレイはその場から動かなかった。
むしろ少し楽しそうに目を細めている。
「やっと見られるな。前は何が飛んできたのかも分からなかったから、今度はちゃんと見たい」
足元の土から鉄が引き出され、ロイの掌へ集まったそれが圧縮されて、小さく細長い弾体へ変わっていく。
グレイにはまだ、その形が何を意味するのか分からない。
ただ、前に自分の頭を撃ち抜いたものと似ていることだけは分かった。
ロイが片腕を伸ばす。
土魔法で作られた射出機構が腕の前へ形成されていく。
鉄を圧縮して固定し、そこへ重力を加える。
空気がわずかに震える。
グレイの目が細くなる。
次の瞬間。
乾いた破裂音が、遅れて届いた。
音が届くより先にグレイの右手が顔の横へ動き、親指と人差し指が閉じる。
キィン、と甲高い金属音が鳴った。
グレイの腕がわずかに後ろへ流れる。
指の間には、小さな鉄の弾丸が挟まっていた。
「……は?」
丘の上でライアンの声が漏れた。
ライカも目を見開いている。
セバスだけが黙ったまま、グレイの右手を見ていた。
グレイは指先に挟んだ弾丸へ目を落とす。
弾丸は潰れかけており、指にも細い傷ができて赤い血が一滴だけ浮かんでいたが、それもすぐに閉じていく。
グレイは弾丸を見つめたまま、ゆっくり顔を上げた。
そして、満面の笑みを浮かべた。
「これ、すごいな。今の威力なら、ちゃんと俺の命まで届く可能性がある」
声が弾んでいた。
危険を感じているからではない。
自分を本当に傷つけ得るものを、ようやく目の前で確かめられたからだ。
グレイは指先の弾丸を少し持ち上げる。
「前より近いから見えたけど、こんな小さいものをあそこまで速く飛ばしてたのか。普通に受けたらかなり危ないぞ、これ」
丘の上でライアンが口を開けたまま固まる。
「……そこまで嬉しそうにするところなんスか?」
「お姫ちゃんにとっては、そうなんでしょうね」
ライカは呆れたように言ったものの、口元にはわずかな苦笑があった。
遠くでロイが片手を下ろす。
「それを指で取る奴に褒められてもな!」
「結構痛かったぞ。見えてなかったら、また普通に当たってたと思う」
「だからって取るなよ!」
「避けるより見たかったんだから仕方ないだろ!」
返しながら、グレイはもう一度弾丸を見る。
小さく細長い金属の塊が、高速で射出される。遅れて響く乾いた破裂音。
その瞬間、頭の奥に何かが引っ掛かった。
――似たものを知っている。
そんな感覚があるのに、どこで見たのか分からない。鉄の筒、手に持つ何か、指を掛ける場所、そして強い音。今とは違う景色が、ほんの一瞬だけ脳裏を掠めた。
「……銃?」
口から零れた言葉に、自分で眉を寄せる。
確かに知っているはずなのに、形ははっきりしない。どうしてその名前が出てきたのかさえ分からなかった。
記憶の奥へ手を伸ばそうとしたところで、遠くのロイが再び腕を上げる。
二発目が形成されていた。
グレイは顔を上げる。
「……まあ、あとでいいか。今はこっちの方が大事だな」
思い出せないものを追いかけて、目の前の相手から意識を外す理由はない。
指先の弾丸を地面へ落とす。
二発目は取らず、頭を傾けてかわす。
頬の横を弾丸が通過し、背後の地面を深く抉った。
続けて三発目。
ロイは同じ場所から撃たず、射撃と同時に重力で身体を軽くし、土魔法で足場を作って位置を変える。
次の弾丸が来る。
グレイは横へ踏み出した。
着地点へ、別方向からもう一発。
「二つの場所から来るのか。さっきより面倒になったな」
身体を捻って避ける。最初に撃った弾丸とは角度が違い、ロイは移動しながら複数の射出機構を土から作り、一つずつ位置をずらしていた。
狙撃手が一人なのに、射線は一つではない。
グレイが走り出す。
真っ直ぐロイへ向かう。
飛来する一発目を避け、次は肩を掠める。三発目は腕で弾いたものの、衝撃で袖が裂けた。
それでも速度を落とさない。
ロイが後退する。
距離を維持するつもりだ。
グレイが速いなら、自分も重力で移動する。
さらに地面が変わった。
進行方向に土壁が立ち塞がる。飛び越えれば射線へ入り、回れば距離を稼がれる。
「そう来るか。だったら、そのまま行く」
グレイは止まらない。
壁へ片足を掛け、そのまま上へ駆けた。
頂点から跳び上がったグレイへ、一発、二発、三発と弾丸が迫る。
グレイの身体が空中でずれる。
飛来した一発目を掌で叩き、その反動で身体を捻った。
二発目が髪を掠める。
三発目だけは腕で受ける。
血が散ったが、次の瞬間には傷が塞がり始めていた。
「姫さん、あれで空間魔法使わないんスか……」
「使わないと決めているわけではないでしょう。今はまだ、ロイの攻撃を見ているんでやがりますよ」
ライカが答える。
セバスはロイの方を見ていた。
「狙いがいいな」
「姫さん、結構避けてるっスよ?」
「だからだ。避ける方向まで考えて撃っている。最初の一発で倒すのではなく、次にどこへ動かすかまで決めている」
ライアンも改めて戦場を見る。
確かに、グレイは自由に進んでいるようで、少しずつ進路をずらされていた。
正面から最短距離でロイへ向かえない。
「……あいつ、普通に強いっスね」
「ああ。相手がグレイ様でなければ、かなり厄介だ」
セバスの評価は簡潔だった。
そして、それが答えでもあった。
グレイが着地する。
ロイまで、まだ距離がある。
射撃、土壁、地面の隆起、重力。それらを幾重にも重ねながら、ロイはグレイを近づけない。
先ほどまでの近接とは違い、こちらが本来の戦い方なのだろう。相手へ自分の間合いを押しつけ、近づかれれば応戦するが、そもそも近づかせない方が強い。
グレイの笑みが深くなる。
「やっぱりこっちの方が上手いな! 近くでも強かったけど、今の方がお前の動きに迷いがないぞ!」
「近づいてきながら言うなよ!」
ロイが撃つ。
グレイは避ける。
「俺がどこへ行くか考えてから撃ってるだろ。逃げる方向まで決められると、普通に走るだけじゃ近づきにくい!」
「そこまで分かってるなら、もう少し引っ掛かってくれ!」
「嫌だ。分かったのに当たる必要ないだろ!」
さらに一発がグレイの足元へ着弾し、土煙が上がる。
視界が塞がれる。
ロイはすぐに横へ移動した。
同時に三つの射出機構を展開する。
狙うのは土煙の中央ではなく、グレイが抜ける可能性のある三方向だった。射出とともに破裂音が重なる。
だが、一発も当たらなかった。
「……いない?」
ロイの表情が初めて変わった。
土煙の中に気配がない。上にも左右にもいないと悟った瞬間、背後から声が届いた。
「見つけるの遅いぞ。お前の遠距離がどのくらい強いかは、もう十分分かった」
声がした。
ロイが振り返る。
そこにグレイが立っていた。
「……空間魔法か」
「使わないとは言ってないだろ。普通に走って近づくなら、お前はかなり面倒だ。だったら、そこは俺の得意なもので崩す」
「相性が悪すぎるな」
「そうだな。でも戦いってそういうものだろ。相手が得意なことをずっとやらせる必要はない」
ロイが苦笑した。
「正論だ」
直後にロイが拳を振るい、グレイはそれを避けた。すぐさま重力を切り替えて距離を取ろうとするが、今度は離れられない。
グレイが追う。
一歩目で差を縮め、二歩目で並ぶ。ロイの肘へ腕を添えて逸らし、そのまま肩を押すと体勢が崩れた。
ロイは足を踏み直し、次の拳に備えて左腕を上げようとする。判断は正しい。けれど、やはり身体が追いつかない。
グレイの拳が防御より先に胸へ触れた。
そこで止まる。
「まだ続けるか? このまま近くでやるなら、たぶんもっと差が広がるぞ」
「当然。ここで終わったら、何のために挑んだのか分からないだろ」
ロイの膝が上がった。
グレイは横へ避ける。
その瞬間、足元の地面が爆ぜた。
土礫。
目くらまし。
ロイが後方へ跳ぶ。
距離を取る。
再び射出機構。
「そういうところは好きだぞ。負けそうだからって、簡単には諦めないんだな」
「ライカの傍にいる許可が掛かってるんだ。少しくらい格好つけさせてくれ」
「それなら俺を倒さないとな。俺も約束した以上、わざと負けるつもりはないぞ」
「分かってるよ」
最後の射撃は、先ほどまでとは違った。ロイの周囲から大量の土が持ち上がる。
その中から鉄だけが抽出され、一点へ集まっていく。
作られたのは同じ小さな弾丸だが、密度が違う。圧縮されるたび、周囲の空気が低く震えた。
重力も一方向へ集中する。
ロイの額から汗が落ちる。
右腕は震え、身体の限界も近い。それでもロイは魔法を止めなかった。
グレイは動かなかった。
今度は指で取ろうとはしない。
正面からロイを見る。
「それが最後か?」
「ああ。これで駄目なら、俺の負けでいい」
「分かった。じゃあ俺も、今度はちゃんと俺のやり方で受ける」
グレイの右手が上がる。
空間が歪んだ。
大規模な魔法ではなく、目の前の空間だけをほんのわずかにずらす。
ロイが撃った。
音が消えたように感じた。
先ほどまでより明らかに速い弾丸が、グレイの眉間へ一直線に迫る。そして、その目の前で消えた。
直後。
ロイの真横の地面が爆発した。
「……は?」
弾丸は空間を越え、別の場所へ抜けていた。真横で土煙が上がり、ロイがそちらへ目を向ける。ほんの一瞬だったが、グレイにはそれで十分だった。
グレイが消える。
気付いた時には、グレイが懐にいる。ロイの目は腹部へ向かう拳を捉え、左腕で受けるか、重力を横へ切り替えて直撃を避けるか、その判断まで終えていた。
しかし、身体だけがまだそこにいた。
グレイの拳が腹部へ入る。
今度は止めなかった。
鈍い衝撃とともにロイの身体が地面から浮き、数メートル後方へ飛んで草の上を転がった。
土煙が薄く舞う。
しばらく、ロイは起き上がらなかった。
風だけが平原を通り過ぎていく。
グレイは構えを解いた。
ゆっくりロイへ近づく。
「……生きてるか? 最後は少し強く入れたから、返事くらいしてくれ」
「悪魔相手にその確認いる?」
地面に仰向けになったまま、ロイが答えた。
「返事できるなら大丈夫だな」
「もう少し心配してくれてもいいだろ」
「加減はしたぞ。今ので死なないくらいには」
「そういう問題じゃないんだけどな……」
ロイは片腕を額へ乗せた。
雲の流れる空を見つめたまま、しばらく動かない。
息が乱れている。
腹にはまだ鈍い痛みが残っていた。
だが、それよりも気になるものがあった。
最後の一撃は見えていた。グレイがどこへ現れ、何を狙い、どう防げばいいのかまで分かっていた。それでも間に合わなかった。
「……負けた」
「うん。俺の勝ちだな」
「圧倒的じゃないか」
「相性もあるだろ。それに、お前は弱くないぞ」
グレイはロイの横でしゃがんだ。
「近くでもちゃんと戦えるし、遠くならもっと強い。特にあの小さい鉄を飛ばすやつは、俺じゃなかったら最初の一発で終わってる相手も多いと思う」
「慰め?」
「違う。俺が戦って思ったことを言ってるだけだ。弱いと思ったなら、わざわざ違うことは言わない」
グレイは少しだけ視線を落とした。
ロイの腕。
脚。
呼吸。
戦いの後だから疲れているだけではない。
やはり、身体への負担が大きすぎる。
「ただ、その身体は駄目だな」
「……容赦ないな」
「だって合ってないだろ。お前がやろうとしてることに、身体が追いついてない」
ロイが黙る。
グレイは続けた。
「近接でも何回か俺の攻撃を読んでた。それなのに防げなかった。最後もそうだ。俺がどこを殴るか分かってたのに、腕が間に合わなかっただろ」
「正解」
「やっぱりな」
グレイは立ち上がった。
そのままロイを見下ろす。
勝った者の顔ではなかった。
むしろ、どこか惜しそうだった。
「器が違えば、もっと面白かったのにな」
ロイが額から腕を退ける。
グレイを見る。
「そこまで戦いたいか?」
「戦ってみたいだろ。今日だって結構面白かったのに、お前が考えた通りに身体まで動いたら、もっと色々できたはずだからな」
少し考えてから、グレイは付け加える。
「だから弱かったとは思ってない。ただ、今のお前じゃ俺には届かない。それだけだ」
ロイは何も返さなかった。
目を閉じる。
その言葉が妙に残った。
――今のお前じゃ届かない。
負ける可能性は最初から考えていた。
相手は真祖。
しかも、遠距離から頭を撃ち抜かれてなお生きていた存在だ。
自分が圧倒される可能性くらい、決闘を申し込んだ時から分かっている。
グレイの方が速く、技術も経験も上だった。空間魔法との相性も悪かったが、そこへ文句をつけるつもりはない。
読み違えたなら自分の判断が悪く、技術で負けたなら力が足りなかっただけだ。それなら納得できる。
だが、今回の敗北はそれだけではなかった。
ロイは右手を持ち上げた。
指が震えている。強く握り込んでも止まらず、力を緩めれば、その震えがいっそうはっきり見えた。
頭の中には、先ほどまでの攻防が鮮明に残っている。
グレイの踏み込み、拳の軌道、重心の移動。右から来るなら左腕を上げ、懐へ入られるなら半歩下がって、次の踏み込みへ合わせて重力を切り替える。
何度も分かっていたし、頭の中では間に合っていた。それなのに腕が上がるより先に拳が届き、退くより先に踏み込まれた。
動けと命じてから、肉体が実際に動き始めるまでの僅かな遅れ。
普段なら誤魔化せる。
並の相手なら重力で無理やり埋められ、それで十分だった――今日までは。
「……面倒だな」
小さく漏れた声に、グレイが目を向けた。
「身体のこと?」
「それ以外に見えるか?」
少しだけ強い返しになった。
グレイは何も言わなかった。
ロイ自身も気付いたのだろう。
一度目を閉じてから、短く息を吐く。
「悪い。お前に怒ってるわけじゃない」
「分かってるぞ。俺に負けたことより、自分の身体に腹が立ってるんだろ」
ロイが目を開いた。
「……そこまで分かる?」
「さっきからその手ばっかり見てるからな」
グレイはロイの右手を指した。
それ以上は何も言わない。
ロイは自分の拳へ目を落とした。
「俺が間違えたなら納得できるんだ。読み違えたなら俺が悪いし、技術が足りないならそれも認める。お前の方が上手かったってだけなら、それで終わる」
指を開く。
まだ震えている。
「でも、分かってるのに動けないのは……思ってたより腹が立つな」
声を荒らげたわけでも、表情を大きく変えたわけでもない。それでも、その一言だけは普段のロイよりずっと重かった。
グレイは少し考え、自分の拳を見る。
「俺も嫌だと思う。どうすればいいか分かってるのに、身体だけ言うこと聞かないのは」
「慰めてる?」
「違う。嫌なものは嫌だろうなって思っただけだ」
ロイはグレイを見た。
しばらくして、僅かに肩の力を抜く。
「……やっぱり変な奴だな、お前」
「それ、最近よく言われるんだけど。俺には何が変なのか分からないぞ」
「たぶん分からないままでいいよ」
「みんなそう言って説明やめるんだよな」
不満そうに眉を寄せるグレイを見て、ロイの口元がほんの少し緩んだ。
だが、右手の震えは消えない。
借り物の肉体が、自分の力をすべて通せる器ではないことは、受肉した時から分かっていた。それでも、人の世界を歩き、物へ触れ、食事もできる。戦いで生じる不自由は、必要に応じて重力で補えばいい。それで十分だと思っていた。
そうしているうちに、不自由そのものへ慣れていたのだ。
けれど今日、グレイと戦って気付いた。肉体を使いこなしていたのではなく、器が許す範囲まで自分の方を狭めていただけだった。
その事実が、ひどく気に入らなかった。
グレイが右手を差し出す。
「立てるか?」
「……勝ったんだから、俺を好きにしていいんだぞ」
「覚えてる。だから、これからどうするか考える」
「怖いこと言うな」
「別に変なことはしないぞ。それに、お前の身体についても少し気になる」
ロイの指が止まった。
「俺の身体?」
「うん。お前自身はもっと動けるんだろ? だったら、そこが合ってないままなのはもったいない」
グレイはそれ以上踏み込まなかった。
方法があるとも言わず、ただ戦って感じたことを口にしただけだった。だからこそ、その言葉はロイの中に残った。
――もったいない。
ロイ自身も今日、はっきりと同じことを思ってしまった。この身体では足りない、と。
ロイは差し出された手を掴んだ。
グレイが引き上げる。
立った直後、膝から力が抜けかけた。
「っ……」
倒れるほどではない。
すぐに右足へ力を入れ、何事もなかったように踏み止まる。
けれど、その動きまでグレイには見られていた。
「やっぱり身体、かなりきついだろ」
「まあな。今日は少し使いすぎた」
「少しじゃないと思うぞ。最後の方、重力を切り替えるたびに動きが悪くなってた」
「……よく見てるな」
「戦ってたんだから見るだろ」
ロイは苦笑し、もう一度右手を開いた。
震えはまだ残っている。
強さだけを考えるなら、答えは単純だった。この肉体を捨て、本来の自分へ戻れば、少なくとも今のような不自由からは解放される。
だが。
ロイの視線が、丘の上にいるライカへ向いた。
肉体を捨てれば、今のように人の中へ紛れて歩くことはできなくなる。
物へ触れることも、同じ卓で食事をすることも、そしてライカの傍にいることも、少なくとも今と同じ形ではできなくなる。
それが一番、面倒だった。
少し前の自分なら、迷う理由などなかった。使いにくい器なら捨て、必要なら別の方法を探す。それだけのことだった。
今は違う。
今は、強さだけで決められない理由ができてしまった。
ロイは小さく息を吐く。
「……ほんと、面倒だな」
「また言ってるぞ」
「こっちの話」
「そう? 嫌なら言わなくていいぞ」
グレイはあっさり引いた。
その頃には、丘にいた三人もこちらへ向かって歩き始めていた。
グレイは近づいてくるライカを見て、それからロイへ視線を戻す。
「それと、お前がライカの傍にいたいって言ったことまで、俺が勝手になかったことにするつもりはないぞ」
「……俺は負けたんだぞ?」
「決闘で勝ったのは俺だ。でも、ライカの気持ちは俺のものじゃないからな。そこまで俺が勝手に決めるのは違うだろ」
ロイは一瞬、言葉を失った。
よりにもよって。
今、一番考えたくなかったところへ答えを置かれた。
「……お前、本当にそういうところだぞ」
「何が?」
「分からないなら、そのままでいい」
「またそれか。ちゃんと最後まで説明してくれないと分からないだろ」
「今は無理だな」
「何で?」
「俺にも色々あるんだよ」
グレイは納得していない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
やがて最初に着いたライアンが、荒れた地面とロイを交互に見る。
「いやあ、分かってたっスけど姫さん相手は無理っスよ。途中から完全に楽しんでたじゃないっスか」
「最初からちゃんとやってたぞ。ロイが思ってたより色々できるから、途中から面白くなっただけだ」
「それを楽しんでたって言うんスよ」
グレイは少し考えた。
「そうなのか?」
「そうっス」
その横をライカが通り過ぎる。
向かった先はロイだった。
ロイは少しだけ姿勢を正した。
「……負けた」
「見ていれば分かりますよ。あれだけ派手に吹き飛ばされておいて、勝った顔をされても困ります」
「もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないか?」
「自分から挑んだ決闘でしょう。最後まで立っているだけでも十分じゃねえですか」
言葉はいつも通りだった。
けれど、ライカの視線はロイの顔から肩、腕、脚へと動いていく。
大きな怪我がないか。
歩けるのか。
それを確認していた視線が、右手で止まった。
「……震えてやがりますね」
「よく見てるな」
「見れば分かりますよ」
ライカが眉を寄せる。
「無理に重力で動かしていたんでしょう。そこまでして勝てなかったなら、今日はもう諦めて休みやがってください」
ロイは返事をしなかった。
ほんの少しだけ、奥歯を噛む。
――そこまでして勝てなかった。
事実だった。
だから刺さる。
「ロイ?」
「……悪い。分かってるよ」
いつもの軽い調子に戻そうとしたが、少しだけ失敗した。
ライカはそれに気付いたらしい。
けれど、何も聞かなかった。
セバスもロイの右手を見ていた。
「技量は十分だ。重力の使い方も面白い。だが、今の身体では長く戦うほど不利になる」
「拳聖にも同じこと言われるか」
「事実だからな。身体を魔法で無理に引っ張っている。今日のような使い方を続ければ、いずれ動く前に器の方が壊れるぞ」
「……分かってる」
今度の返事には、先ほどまでの軽さがなかった。
セバスはそれ以上言わない。
戦う者ならば、本人が一番分かっている。
それを知っているからだろう。
グレイも黙ってロイを見た。
戦っている間に浮かべていた楽しそうな笑みは、もう薄れている。
その身体が本来のものではなく、本人も限界を理解している。それでもライカの傍にいるために決闘を挑み、敗れた。条件は既に決まっている。
「ロイ」
「ん?」
「俺が勝ったから、約束通りお前をどうするかは俺が決める」
「ああ。好きにしてくれ」
「分かった。じゃあ少し考える」
「今決めないのか?」
「急ぐ必要ないだろ。適当に決めてあとで困るのも嫌だし、さっき言った通り、お前の身体も気になるからな」
ロイはグレイを見た。
その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
ただ、勝ったからといって自分を追い払おうとしているわけではないらしい。
「今日は帰ろう。腹減ったし、ロイもその身体じゃもう戦えないだろ」
「最後にそれかよ」
「戦ったら腹減るだろ。普通じゃないの?」
「……いや、もうそれでいい」
ロイが小さく笑う。
ライアンも肩を揺らしながらグレイの後を追った。
「姫さん、帰ったら何食うっスか? 俺、肉がいいっス」
「お前はいつも肉だろ。俺は何でもいいけど、昨日食べた煮込みでもいいな」
「宿の近くの店でしやがりますか? あそこなら今から戻れば、夕食の混む時間より少し早く着きそうですね」
「じゃあそこにしよう。ロイも来るだろ?」
呼ばれたロイが足を止めた。
「俺も?」
「嫌なら別にいい。でも、ライカの傍にいたいんだろ。だったら俺たちと飯を食うくらいは普通じゃないのか?」
「……決闘で負けた直後なんだけどな」
「だから何だよ。もう終わっただろ。ずっとここにいるつもりなら好きにすればいいけど」
グレイは本当に分からないという顔で首を傾げている。
ロイはしばらくその顔を見た。
勝った者が自分を好きにできる。そんな条件を出したのはロイ自身なのに、グレイは決闘が終わればそれまでだと言わんばかりに、夕食へ誘っている。
「行くよ。腹も減ったしな」
「じゃあ決まりだな」
グレイは満足そうに頷いた。
そのまま外套を拾い、袖を通す。
裂けた袖口に気付いて少し眉を寄せた。
「……これ、直るかな」
「お姫ちゃん」
後ろからライカの声が飛んでくる。
「帰ったら自分で繕ってみやがってください。最近、私に渡せば全部直ると思ってやがりませんか?」
「思ってないぞ。ちょっとだけ頼もうと思ってただけだ」
「それを思ってるって言うんですよ」
「じゃあ教えてくれ。俺がやるから」
「最初からそう言ってください」
先ほどまで決闘をしていた平原に、いつものやり取りが戻ってくる。
ロイはその少し後ろを歩き始めた。
一歩目を踏み出したところで、身体が僅かに遅れた。頭では既に歩き出しているのに、脚だけがほんの少し後からついてくる。
戦っている最中なら見落としていたかもしれない。
今は、その僅かな遅れが嫌になるほど分かった。
ロイは奥歯を噛み、何も言わずに歩く。
隣にはライカがいる。
さらに前では、ライアンが夕食の肉について何か言い、セバスが呆れたように返していた。
ロイはもう一度、自分の右手を見る。
まだ微かに震えている。
拳を握り、開いてから、もう一度握る。それでも変わらない。
――この身体では足りない。
認めたくないわけではなく、グレイとの戦いで嫌というほど思い知った。問題は、その先だった。
この器を捨てれば、本来の自分へ戻れる。
少なくとも、今のように自分の判断へ身体が遅れてついてくることはなくなる。
強さだけを考えるなら、それでいい。だが肉体を手放せば、今のように人の中へ紛れて歩くことはできず、食事をすることも、物へ触れることも、こうして同じ道を歩くことも難しくなる。
ロイの視線が、隣へ向く。
ライカは何も言わずに歩いている。ただ、その歩調は普段より少し遅く、ロイの足に合わせているのだと気付くまで、それほど時間はかからなかった。
「ロイ」
「何だ?」
「歩くのが遅れてやがりますよ。その身体で無理をしたんですから、今くらいは普通に歩きやがってください」
「……普通に、か」
「何です?」
「いや。何でもない」
ライカは少し怪訝そうにしたものの、それ以上は聞かず、代わりに歩幅をもう少しだけ狭めた。ロイも何も言わず、その歩調に合わせる。
肉体を捨てれば不自由から解放される。そのはずなのに、隣を歩く一人の女の横顔を見ていると、もはやそれを単純な答えだとは思えなかった。
その事実の方が、グレイに負けたことよりずっと厄介だった。
前方ではグレイがライアンと言い合いながら、時折こちらを振り返っている。
見張っているのではなく、置いてきていないか確かめているだけの、ごく自然な動作だった。
条件通り、これから自分をどうするかはグレイが決める。負けた以上、ロイもそれを受け入れていた。
それでも、右手の震えだけは受け入れられなかった。
見えていたのに届かず、分かっていたのに動けなかった。そこへ、器が違えばもっと面白かったというグレイの言葉が、何度も頭の中へ戻ってくる。
夕方へ近づいた空から柔らかな光が差し、戦いで荒れた草原を照らしている。
地面にはいくつもの穴と土壁が残り、ところどころに弾丸の抉った跡があった。
グレイが一度だけ振り返る。
自分たちが壊した平原を眺め、少し考えた。
「……これ、やっぱり直した方がいいよな?」
「今気付いたんスか、姫さん」
「戦ってる時は気にしてなかった」
「お姫ちゃん、街に迷惑をかけないためにここまで来たんじゃなかったんでしやがりますか?」
「人には迷惑かけてないだろ」
「地面にはかけてやがります」
「地面に迷惑ってあるのか?」
「そういう話ではありません」
ロイが思わず吹き出した。
グレイが振り返る。
「何で笑うんだよ」
「いや。やっぱり、思ってたのと違うなと思って」
「だから俺を何だと思ってたんだ?」
「怖い真祖」
「それはもう聞いたぞ。別の答えにしてくれ」
「注文が多いな」
五人の声が、静かな平原へ落ちていく。
少し前まで弾丸が飛び、拳が交わされていた場所には、もう張り詰めた空気は残っていなかった。
ただ一つ。
グレイの頭の片隅には、先ほど浮かんだ言葉だけが残っている。
――銃。
どこで知り、なぜあの小さな弾丸を見てそう思ったのか。記憶を辿ろうとすると、その輪郭はまた遠ざかっていく。
けれど今は、それでよかった。
グレイは前を向く。
隣ではライアンがまだ肉の話をしている。後ろからはライカとロイの声が聞こえ、セバスはその間をいつもの歩調でついてきていた。
分からないものなら、いつか分かるかもしれない。今は、それよりも――。
「ライアン。さっきから肉ばっかり言ってるけど、俺の分まで食ったら怒るからな」
「姫さんが遅いのが悪いっスよ。早い者勝ちっス」
「それなら先に店まで転移するぞ。俺の方が先に着けるからな」
「それは反則っス!」
「勝てばいいだろ」
「食事に勝ち負け持ち込まないでくだせぇ!」
夕暮れ前の風の中へ、ライアンの声が大きく響いた。
グレイは少しだけ笑いながら歩き続ける。
その後ろで、ロイはもう一度だけ自分の右手を握った。
震えはまだ残っている。
隣には、歩幅を合わせたライカがいる。
捨てれば戻れる。残れば、このままだ。
今までは存在しなかった二つの選択が、初めて同じ重さでロイの中に残っていた。
答えは、まだ出なかった。
ただ、先ほどまでより少しだけ遅い歩調で、ロイはライカと並んで街へ向かった。




