第7話 傍にいるために
翌朝の街には、昨夜まで降っていた雨の名残がまだ残っていた。
石畳の隙間には細い水の筋が走り、軒先から落ちる雫が、ときおり小さな音を立てている。雲の切れ間から差し込む朝日はまだ弱く、濡れた屋根や窓硝子を淡く照らしていた。
ライカは宿を出ると、いつものように通りを歩き始めた。ただし、今日の目的は買い出しではない。
昨夜、ライアンの上着の袖が裂けているのを見つけたため、宿の主人から教えてもらった仕立て屋へ持っていくところだった。
本人は「これくらい平気っスよ」と笑っていたが、洗うたびに裂け目が広がる服を平気と言われても困る。
「まったく……自分の服くらい、もう少し大切にしやがってください」
小さく呟き、布袋を抱え直す。何十年、何百年と繰り返してきたことだ。文句を言うのも、その後始末をするのも、今さら本気で嫌だとは思っていない。
仕立て屋までは歩いて十五分ほどだった。店主へ上着を預け、夕方には直ると聞いて店を出たところで、ライカは足を止めた。
「おはよう」
通りの向こうに、見覚えのある男が立っている。ロイだった。
昨日までなら、見つけた瞬間に呆れた声の一つでも返していただろう。けれど今日は、ほんの僅かに言葉が遅れた。
「……本当に来たんですね」
「昨日、また来るって言っただろ」
「言っていましたけど、朝から探し回るとは思いませんでしたよ」
「探した」
「暇なんですか?」
「今はな」
ロイが、いつもの力の抜けた歩き方で通りを渡ってくる。昨日、自分たちの前で正体を明かした男と同じ人物には見えないほど普段通りで、だからこそライカの方が困ってしまう。
目の前の男を見るだけで、昨日知った事実まで一緒についてくるのだ。
ロイも、その僅かな間に気付いたらしい。
「やっぱり、昨日までと同じにはいかないか」
「当たり前でしょう。何も知らなかった頃と同じように接しろと言われても、さすがに無理ですよ」
「言わないよ。俺だって、そこまで都合よく考えてない」
ライカは少しだけロイを見た。言い訳をしないところだけは、昨日から変わっていない。
「少し歩きませんか?」
「俺から誘おうと思ってた」
「では、ちょうどよかったですね。私もあなたとは一度、きちんと話しておきたかったですから」
ライカは宿とは違う方向へ足を向けた。
ロイも黙って隣へ並ぶ。
大通りを離れるにつれて人通りは減っていった。昨夜の雨で水量を増した水路が住宅の間を流れ、その音が朝の静かな空気によく響いている。
街を囲む外壁近くまで来ると、小さな広場が見えた。
木製の長椅子がいくつか置かれ、その向こうには雨に濡れた低木が並んでいる。朝早いこともあり、人影はない。
「ここでいいでしょう」
「ああ」
二人は長椅子へ腰を下ろした。
隣ではあるが、少しだけ間が空いている。
ライカは膝の上で両手を組み、水路へ目を向けた。
どこから話すべきか考えたが、昨日知ったことを一つずつ確かめる必要はなかった。既にロイはすべて話しており、今さら同じやり取りを繰り返しても何も変わらない。
ならば、伝えるべきことは一つだった。
「私から話してもいいですか?」
「もちろん」
「では、最初にはっきりさせておきます」
ライカは一度だけ息を整えた。
「私は、あなたに好意があります」
隣の気配が止まった。
あまりに分かりやすい反応に、ライカは横目で見る。
ロイが珍しく目を見開いていた。
「……随分真っ直ぐ来たな」
「曖昧にしたくありませんから。今さら遠回しに話したところで、余計に面倒になるだけでしょう」
「それは、まあ……そうだけど」
「何ですか。昨日はあれだけ堂々としていたくせに、こういう話には弱いんですか?」
「頭を撃ったって告白するより緊張するとは思わなかった」
「比較がおかしいですよ」
思わず返すと、ロイが小さく笑った。
その笑い方を見て、ライカの肩から少しだけ力が抜ける。
けれど。
肩の力は少し抜けたが、ここからが大切だった。
「ただし、勘違いしやがらないでください」
声の調子を戻す。
ロイも笑みを消し、ライカを見た。
「私はあなたに好意があります。でも、お姫ちゃんを傷つけるなら、私は迷わずあなたの敵になります」
ロイは何も言わない。
「お姫ちゃんは私の家族です。にーちゃんも、セバスも同じです。誰か一人を選べと言われても困りますけど、少なくともあなたのために家族を捨てるようなことは絶対にしません」
言葉に迷いはなかった。ロイへの気持ちに気付いたからこそ、ここだけは曖昧にしてはいけない。
「だから、もしあなたがもう一度お姫ちゃんを狙うなら、今度は私もあなたを止めます。勝てるかどうかなんて関係ありません」
「分かってる」
ロイの返事は静かだった。
ライカが僅かに眉を寄せる。
「随分簡単に言いますね」
「だって、そこを曲げられた方が困るからな」
「困る?」
「ああ」
ロイは長椅子の背へ身体を預け、濡れた木々の向こうへ目を向けた。
「俺とグレイのどっちを選ぶ、なんて聞くつもりはないよ。そんなこと聞いたら、たぶん俺が自分で嫌になる」
ライカは黙って続きを待った。
「最初に気になったのは見た目だった。そこは否定しない。綺麗な女だと思ったし、茶に誘われた時も嬉しかった」
「……随分正直ですね」
「今さら格好つけても仕方ないだろ」
「まあ、それはそうですけど」
「でも、何度か話してるうちに、それだけじゃなくなった」
ロイはライカを見る。
「弟の服を直しに朝から歩いて、グレイの好きな食い物を覚えて、セバスのことまで何だかんだ気にしてる。そういうの見てたら、いいなと思った」
「別に、普通のことでしょう」
「ライカにはな」
そこでロイは少しだけ笑った。
「昨日だってそうだ。グレイが無事だったからって、俺がやったことを簡単に流さなかっただろ」
「流せるわけないでしょう」
「だからだよ」
ライカの視線がロイへ戻る。
「大切な奴をちゃんと大切にできる。そこを曲げない。たぶん俺は、そういうライカだから好きになったんだと思う」
一瞬、水路の音だけが耳に残った。ライカは正面へ顔を戻したが、頬に少しずつ熱が集まっていく。
「……そういうことを急に言いやがらないでください」
「先に好意があるって言ったのはライカだろ」
「私はちゃんと心の準備をしてから言いました」
「俺の準備は?」
「知りませんよ」
「ひどいな」
「お互い様です」
返しながら、ライカは僅かに口元を緩めた。
昨日知った事実だけで、目の前の男をすべて嫌いになれなかった自分を、もう否定する必要はなさそうだった。
好きだから許すわけではない。許せないものは許せないまま、それでも好きだと思った部分まで消えるわけではなかった。
「それで」
ライカはロイを見る。
「あなたはこれからどうするつもりなんです?」
ロイの表情から、少しだけ笑みが消えた。
「もうグレイを狙うつもりはない」
その答えには迷いがなかった。
「昨日あいつと話して決めた。俺自身が、もうやりたくない」
「……そうですか」
「ライカがいるからってだけじゃないぞ」
「分かっていますよ」
ライカは静かに答えた。
昨日、グレイの前に立ったロイを見ている。あの時点で既に、彼の中では何かが変わっていたのだろう。
「ただ」
ロイが続ける。
「それで全部終わりにはしたくない」
「どういう意味です?」
「俺は一度、あいつを本気で殺そうとした。それを、今日からやめましたで終わらせるのは違うと思う」
ライカは少しだけ目を細める。
「思っていたより真面目なんですね」
「俺も驚いてる」
「自分で言います?」
「こんな面倒なこと考える性格じゃなかったからな」
ロイは、自分でも可笑しそうに苦笑した。
「でも、ライカと会い続けたいなら、そこを曖昧にしたくない。あんたと会うために、グレイとのことまで無かったことにするのは違うだろ」
「それで?」
「グレイとの問題は、俺がグレイと片付ける」
その言葉に、ライカは少し嫌な予感を覚えた。
「具体的には?」
「決闘を申し込む」
「……はい?」
今度はライカの方が固まった。
ロイの顔は真剣で、冗談を言っている様子はなかった。
「あなた、自分でお姫ちゃんより弱いと言っていましたよね?」
「言った」
「正面から戦えば勝てないとも言っていましたよね?」
「それも言った」
「それで、どうして決闘になるんですか?」
「他に思いつかなかった」
「馬鹿なんですか?」
「そこまで言う?」
「言いますよ」
ライカは額へ指を当てた。
昨日までなら、ロイがグレイへ挑むと聞けば迷わず敵として考えただろう。しかし今は、どちらが傷ついても困る。その事実が思っていた以上に厄介だった。
「止めても行くんでしょうね」
「ああ」
「……でしょうね」
ライカは小さく息を吐いた。
「なら止めません。ただし、私のために命を捨てるような真似だけはしやがらないでください」
ロイが僅かに目を見開く。
「心配してくれるのか?」
「好意があると言ったばかりでしょう。何を聞いていたんですか」
「いや、聞いてたけど……実際言われると結構嬉しいな」
「今は喜ぶところではありません」
「俺には大事だよ」
ロイは少し笑ってから、今度は真面目に頷いた。
「分かってる。傍にいたくて戦うのに、死んだら意味がないからな」
「それなら結構です」
「一緒に来てくれるか?」
「当たり前でしょう。私に関係する話をするのに、本人を置いていくつもりだったんですか?」
「いや。それは怖いから聞いただけ」
「何が怖いんです?」
「一人で行ったら、ライアンに話す前に刺されそうだ」
「それは否定できませんね」
「否定してくれよ」
「事実でしょう」
ライカは立ち上がる。
「行きますよ。お姫ちゃんたちも、そろそろ朝食を終えている頃でしょうから」
「今から?」
「決めたなら早い方がいいでしょう。先延ばしにしても、あなたが逃げるとは思えませんし」
「俺、結構信用されてる?」
「逃げないことだけは、昨日分かりました」
「そこだけか」
「今は十分でしょう」
ライカが歩き始めると、少し遅れてロイが隣へ並んだ。
二人の間にあった距離は、広場へ来た時より僅かに狭くなっていた。
◇
「……また来たっスね」
宿の部屋へ入ったロイを見て、ライアンが露骨に眉を寄せた。
「来た」
「何でそんな普通なんスか」
「普通に来たからな」
「そういう意味じゃないっスよ」
ライアンは椅子に座ったまま、じっとロイを睨んでいる。
昨日ほど張り詰めてはいないものの、警戒が解けたわけでもなかった。
部屋の奥ではグレイが卓上の果物を切り、セバスは窓際で茶を飲んでいた。ロイの姿を認めると、グレイは手を止める。
「今日はライカも一緒なんだな。何か話があるなら聞くよ」
「俺からあんたにある」
「そう。じゃあ座る?」
「いや、このままでいい」
「なら好きにして。俺も食べながら聞くから」
「姫さん、もうちょっと緊張感持ってほしいっス」
ライアンが呆れたように言う。
グレイは切った果物を一つ摘まんだ。
「昨日わざわざ正体を話しに来た奴が、今日はライカと一緒に真正面から入ってきたんだぞ。今すぐ撃つつもりなら、もっと別のやり方するだろ」
「そういう問題じゃない気がするっス」
「でも、ずっと構えてても疲れるだろ。それに何かするなら、その時止めればいい」
「姫さんだから言えるんスよ、それ……」
ライアンが深く息を吐く。
ロイは思わず口元を緩めた。
グレイがそれに気付く。
「何で笑うんだよ」
「いや。本当に変わってるなと思って」
「昨日も言ってただろ。もう聞いたぞ」
「そうだったな」
「それで、話は?」
グレイが果物を置く。
赤い瞳がロイへ向いた。
ロイが一度だけライカを見ると、彼女は何も言わずに小さく頷いた。
「グレイ。もうあんたを狙うつもりはない」
部屋が静かになる。
ライアンの目が僅かに細くなった。
セバスも茶器を置く。
グレイはすぐには答えず、真意を確かめるようにロイの顔を見ていた。
「昨日はまだ決めてなかったよな?」
「ああ。でも、もう決めた。俺自身が続ける気をなくした」
「そう」
グレイは小さく頷く。
「お前が自分で決めたなら、俺から今すぐ何か言うことはないよ。ただ、まだ全部信用したわけじゃないからな。そこは分かってくれ」
「十分だ」
「なら、この話はそれでいい」
あまりにも早い結論に、ライアンが思わず口を挟む。
「姫さん、それで終わりっスか?」
「何を聞くんだよ」
「本当にもう狙わないのか、とかあるじゃないっスか」
「本人がそう言ったんだから、今はそれでいいだろ。嘘だったら、その時に考える」
「……姫さんらしいっスけど」
「それに」
グレイはロイを見る。
「それだけなら、ライカまで連れて来る必要ないだろ。まだ何かあるんじゃない?」
ロイが僅かに目を細めた。
「よく分かったな」
「ライカの顔見れば何となく分かるよ。ちょっと困ってる」
「お姫ちゃん」
「違う?」
「……違いませんけど」
ライカは小さく息を吐いた。
グレイは少しだけ笑う。
「じゃあ続けて。今度は何?」
ロイはグレイへ向き直った。
「俺と決闘してほしい」
グレイの手が止まった。
ライアンが目を閉じる。
セバスは僅かに眉間へ皺を寄せた。
ライカだけは反応しない。
「決闘?」
「ああ」
「何のために?」
グレイはすぐに飛びつかなかった。
赤い瞳が僅かに明るくなったのを、長く付き合っている三人は見逃さなかった。それでもグレイはすぐに飛びつかず、先に理由を尋ねた。
「一度あんたを殺そうとした俺が、何もせずライカの傍にいるのは違うと思った」
「ライカの傍?」
グレイの視線が隣へ移る。
ライカが僅かに目を伏せた。
ロイは続ける。
「俺はライカが好きだ。これからも会いたいし、できるなら傍にいたい」
「……そうなんだ」
グレイはライカを見る。
「ライカは?」
「私もロイに好意があります」
「やっぱりそうだったんだな」
グレイが納得したように頷く。
その横で、ライアンが低く呟く。
「……ねーちゃん、本気なんスね」
ライアンが低く呟いた。
「こういうことで冗談を言うほど暇ではありませんよ」
「いや、分かってるっスけど……」
ライアンはロイを見る。
眉間の皺が深くなる。
それでも、姉へ何かを言うことはなかった。
セバスも口を挟まない。グレイは二人を交互に見たあと、ロイへ視線を戻した。
「それなら、俺が決めることじゃなくない?」
「そう言うと思った」
「だって、ライカが誰と一緒にいるかはライカが決めることだろ。俺の従者だからって、そこまで俺が決めるつもりはないよ」
「分かってる」
「じゃあ、何で俺と決闘するんだ?」
ロイは少しだけ息を吐いた。
「俺自身が納得したいからだ」
「お前が?」
「ああ。ライカがいいと言ってくれても、俺が何もしないままじゃ駄目なんだ。あんたを一度殺そうとしたことは消えない。その相手の家族の傍にいたいなら、少なくとも俺はあんたと向き合っておきたい」
グレイは黙って聞いていた。
「だから決闘する。俺が負けたら、その後はあんたの判断に従う。追い出すでも、信用できるまで見張るでも、好きにすればいい」
「お前が勝ったら?」
「俺がライカの傍にいることを、否定しないでほしい」
グレイは少し考えた。
それから、すぐに首を横へ振る。
「その条件は少し違う」
ロイの眉が上がる。
「何がだ?」
「俺が認めても、ライカが嫌なら駄目だろ。逆にライカがいいって言うなら、お前が俺に負けても、それだけで会うなとは言わない」
「……」
「勝ったらライカをもらう、とかそういう話なら俺は受けないぞ」
「違う」
ロイは即答した。
「ライカの気持ちを決闘で決めるつもりはない。ライカが嫌だと言ったら、俺があんたに勝っても終わりだ」
「ならいい」
グレイはライカへ視線を向ける。
「ライカはどうしたい?」
「私は、ロイが傍にいたいと言っていること自体は嫌ではありません。ただし、お姫ちゃんとの問題まで私への好意で誤魔化すのは嫌です」
「だから二人で片付けろってこと?」
「そういうことです」
「分かった」
グレイはもう一度ロイを見る。
少しの間、部屋には通りから届く人々の声だけが流れ込んでいた。ロイもライカも何も言わずに答えを待つ。
やがて、グレイの口元が僅かに緩んだ。
「いいぞ。やろう」
ライアンが額へ手を当てた。
「やっぱり受けるんスね……」
「理由はちゃんと聞いただろ」
「聞いたっスけど、姫さんちょっと楽しそうじゃないっスか」
「それは仕方ないだろ。俺を撃った本人とちゃんと戦えるんだから、どういう戦い方するのか気になる」
グレイはロイを見る。
「侯爵級悪魔がどのくらい強いのかも知りたいし、ライカが好きだって言う奴なら、俺自身でも少しくらい知っておきたい。だから受ける」
ロイが笑う。
「話が早くて助かる」
「ただし、ライカの気持ちは勝敗とは別だからな。そこを勘違いするなら、今からでも受けるのをやめるぞ」
「分かってる。これは俺とあんたの問題だ」
「ならいい」
グレイは椅子へ座り直す。
そこで少しだけ考えた。
「決闘なら、殺し合いはなしでいいんだよな?」
「ああ。俺もそのつもりだ」
「それなら、場所を決めないとな。街の中は駄目だし、お前は狙撃手だから広い方がいいだろ」
ロイの目が僅かに細くなる。
「俺に距離を取らせるのか?」
「当たり前だろ。最初から俺の目の前に立たせたら、お前の得意な戦い方にならないじゃないか」
「姫さん」
ライアンが嫌そうな顔をする。
「わざわざ相手が有利になる条件にしなくてもいいんじゃないっスか?」
「でも、それじゃ俺がロイと戦う意味が薄くなるだろ。こいつは狙撃手なんだから、一番得意なところから始めた方がいい」
「勝負なんスよ?」
「俺も勝つつもりだぞ。その上で、ちゃんとロイの戦い方を見たいんだよ」
グレイはロイへ視線を戻した。
「距離はお前が決めていい。その代わり、始まったら俺も最初から探す。前みたいに何も知らない状態じゃないからな」
「いいのか?」
「何度も聞くなよ。一回頭を撃たれてるんだから危ないのは知ってる。それでも受けるって言ってるんだ」
そこに挑発の意図はなく、ただ純粋な興味があるだけだった。ロイにもそれが分かったらしく、僅かに口元を上げる。
「分かった。なら遠慮しない」
「その方がいい」
「グレイ様」
それまで黙っていたセバスが口を開いた。
「何?」
「決闘を止めるつもりはございません。しかし、私も立ち会います」
「もちろんいいよ。ライカも見るだろうし、ライアンも来るんだろ?」
「当たり前っスよ。姫さんを一回撃った奴との決闘を宿で待ってるなんて無理っス」
「だと思った」
セバスはロイを見る。
「一つだけ申し上げておく」
「何だ?」
「勝敗が決した後は、どちらであろうと私が止める。これは殺し合いではないのでしょう?」
「ああ」
「ならば、それだけは守っていただく」
「分かった」
グレイも頷く。
「俺もそれでいい。ロイを殺したいわけじゃないし、決着がついたら終わりにするよ」
ライカは四人を見回す。
「それなら私からは何もありません。ただし二人とも、勝つことと殺すことを一緒にしやがらないでくださいね」
「分かってるって。俺もそこまで熱くならないよ」
「グレイ様の場合、楽しみ始めると少々怪しいのですが」
「セバスまで何なんだよ。俺だって加減くらいできるぞ」
「承知しております。念のためです」
「信用してるのかしてないのか分からないな……」
グレイが不満そうに呟く。
ロイが笑う。
「いい家族だな」
何気なく出た言葉だった。
けれど。
四人の視線が一度に集まった。
「何だよ」
ロイが少し困った顔をする。
グレイが先に口元を緩めた。
「別に。お前がそういうこと言うの、ちょっと意外だっただけ」
「悪魔が家族って言ったら変か?」
「全然。種族なんて関係ないだろ。一緒にいて家族だと思ってるなら、それでいいと俺は思うぞ」
あまりにも自然に返されて。
今度はロイが黙った。
グレイ本人は、何か特別なことを言ったつもりもないらしい。
「それより、いつやる?」
「姫さん、切り替え早いっスね」
「決闘するって決まったんだから、次はそこだろ」
グレイはセバスを見る。
「街の外で、広くて人が来ない場所ってあった?」
「北へ外れた場所に岩場がありましたな。人家もなく、街道からも離れております。距離を取るのであれば十分でしょう」
「じゃあ、そこにしよう」
ロイも頷く。
「俺も見ておきたい。明日の朝でいいか?」
「いいぞ。朝に北門で会って、一緒に岩場まで行こう。そこからお前だけ先に離れればいい」
「分かった」
グレイの赤い瞳が、少しだけ楽しそうに細くなる。
「今度は撃たれる前に見つけるからな」
「俺は見つかる前に撃つ」
「それでいい。最初からお互い分かってる方が、前とは違う勝負になるだろ」
ライカは二人を見比べ、小さく息を吐いた。
心配が消えたわけではない。むしろ、決闘が本当に決まったことで、胸の奥には別の重さが生まれている。
それでも止めようとは思わなかった。ロイが自分で決め、グレイも自分の意思で受けたのなら、ライカはその結末を見届ける。それでいい。
◇
夕暮れ。
街の北門を抜けたロイは、一人で草地を歩いていた。
空にはまだ雨雲の名残が薄く残っていたが、西の地平へ近づいた太陽が、その端を赤く染めている。
街道から外れてしばらく進むと、セバスが話していた岩場が見えてきた。
低い草地。
点在する灰色の岩。
奥へ行くほど地面には緩やかな高低差が生まれ、大きな岩塊も増えている。
人家はなく、街道からも十分に離れている。
ロイは歩きながら周囲を見る。
遮蔽物、高低差、射線、逃げ道。
足元の土へ意識を沈めると、含まれている鉱物の感覚まで伝わってくる。鉄を作るにも困らない。
「……悪くないな」
大きな岩へ片手を置くと、冷たい感触とともに、雨を吸った石の匂いが僅かに鼻へ届いた。
ロイはそのまま岩の陰へ入り、遠くを見る。
明日、グレイはここへ来る。正面から戦えば勝てないという認識は変わっていない。
だからといって、正面から殴り合う必要もない。
自分は拳士でも剣士でもなく、狙撃手だ。見つかる前に撃ち、近づかれるなら離れ、相手の得意な距離へは入らない。それが自分の戦い方だった。
グレイも、それを理解した上で距離を許した。
「……変な奴だな、本当に」
ロイは小さく笑う。普通なら、自分を撃った狙撃手をわざわざ遠くへ置こうとは思わない。それでもグレイは、お前の得意なところから始めた方がいいと言った。
あれは自信なのか、興味なのか。おそらく、どちらもあるのだろう。
ロイは岩から手を離す。
掌を上へ向けた。
土色の魔力が指先へ集まり、地面から拾い上げたものを組み替えながら形を整えていく。やがて掌の上に生まれた小さな鉄塊を摘まむと、指先へ冷たい感触が伝わった。
あの日も同じように鉄を作り、圧縮し、狙いを定めて撃った。明日もやること自体は変わらない。
ただし、目的は違う。殺す必要はなく、グレイを倒して自分の意思を通せばいい。
ロイは鉄塊を指先で転がした。
その時。
朝のライカの声が蘇る。
――私のために命を捨てるような真似だけはしやがらないでください。
「……分かってるよ」
誰もいない岩場で答える。
傍にいたいから戦うのに、そのために死んだら何の意味もない。必要なのは命を捨てる覚悟ではなく、勝つための手段だった。
ロイは遠くの岩へ目を向けた。
どこから撃ち、どこへ移動するか。グレイが空間魔法を使う以上、距離だけでは安全を確保できず、一ヶ所に留まることもできない。
一発撃つごとに動き、見つかる前に次の場所へ移る。
細かな攻防を今から決める必要はない。
相手は、こちらの予想通りに動くような存在ではない。ならば、自分が得意な形だけ用意しておけばいい。
「さて……」
ロイは鉄塊を握り込んだ。
「どうやって倒すかな」
夕方の風が草を揺らす。
遠くでは、街の鐘が鳴っていた。
以前のロイは、グレイの名前しか知らなかった。顔すら遠くから見ただけで、狙う理由にも大した興味はない。
だが、明日は違う。今は互いに名前も顔も知り、戦う理由まで分かっている。
ロイは手を開く。
鉄塊が細かな粒へ崩れ、指の間から零れ落ちた。
明日もまた同じように鉄を作り、遠くからグレイを狙う。けれど、次に放つ一発は誰かを奪うためのものではない。
ロイは夕暮れの岩場を見渡し、僅かに口元を上げた。
「今度は、ちゃんと勝つか」
誰かの傍にいるための決闘が、翌朝に迫っていた。




