第6話 撃ったのは俺だ
朝から降っていた細い雨は、昼を迎える頃にはほとんど止んでいた。
軒先から落ちる雫が石畳を濡らし、通りを行き交う人々の靴音を柔らかく響かせている。雲の切れ間から薄い光が差し始めても、湿った空気にはまだ雨の匂いが残っていた。
ライカは市場へ続く通りを歩きながら、腕に抱えた小さな紙袋の位置を直した。
買ったのは宿で使う茶葉と、朝のうちにライアンから頼まれた菓子。それから、グレイが昨日食べて気に入った果物をいくつか。用事はもう済んでおり、そのまま宿へ戻ってもよかった。
それなのに、ライカの足は最短の道を選ばず、昨日ロイと別れた通りへ向かっていた。
意識したつもりはない。少なくとも、自分ではそう思っていた。
「……何をしてるんでしょうね」
小さく零しながら角を曲がったところで、足が止まる。
通りの先、雨除けの軒下に一人の男が立っていた。黒を基調とした服をまとい、壁へ背を預けて行き交う人々をぼんやり眺めている姿は、最初に果物屋の前で見かけた時とあまり変わらない。
ただ、今日は向こうが先にこちらを見つけた。
「ライカ」
名前を呼ばれる。それだけのことなのに、昨日までとは少し違って聞こえた。
ライカは歩み寄りながら、ロイの顔を見る。
「今日は偶然じゃなさそうですね」
「ああ。待ってた」
「私がここを通らなかったら、どうするつもりだったんです?」
「その時は市場を探すつもりだった」
「随分と雑な待ち合わせですね。せめて昨日のうちに、場所くらい決めやがってください」
「昨日は今日会うって決めてなかったからな」
「それもそうですね」
いつものように返したが、ロイは笑わなかった。
普段はどこか気の抜けている男が、何かを決めた時だけ見せる顔。昨日、グレイの名前を出した時にも似た表情をしていた。
「何かありました?」
「少し頼みがある」
「内容によりますね」
「会わせてほしい奴がいる」
ライカは一度瞬きをした。
「誰にです?」
「……グレイに」
雨上がりの通りを荷車がゆっくりと通り過ぎる。車輪が浅い水溜まりを踏み、濁った水が小さく跳ねた。
ライカは黙ったまま、ロイを見つめた。
「昨日は話せないと言っていましたよね。一晩で気が変わったんですか?」
「変わったっていうより、決めた」
「何を?」
「会ってから話す」
ライカの眉が寄る。
「それでは、私が連れていく理由になりませんよ」
「そうだな」
ロイは壁から背を離した。いつもの軽さは残っているが、それで誤魔化そうとはしていない。
「危害を加えるつもりはない。それだけは約束する」
「昨日のお姫ちゃんの話と、私に隠していたこと。その両方に関係があるんですね?」
「ああ」
「だったら、ここで話してもらう方が早いんじゃありません?」
ロイは少し黙り、濡れた石畳へ視線を落とした。
「たぶん、あんたにだけ先に話すのは駄目だ。聞いたら、あんたがどうするか分からないからな」
ライカの表情が消える。
「随分、不穏なことを言いやがりますね。それでも連れていけと?」
「逃げるつもりはない。グレイにも、あんたにも、ちゃんと話す」
昨日から感じていた違和感が、胸の内で形を持ちはじめる。
グレイの名前を聞いた瞬間に止まった手。吸血鬼かと確かめた声。遠くから見たことがあるという曖昧な説明。
何かあるとは分かっていた。それでも、ロイが自分からグレイへ会わせてほしいと言い出すところまでは考えていなかった。
「……分かりました。ただし、私も一緒です。にーちゃんとセバスにも席を外させません。それで嫌なら連れていきませんよ」
「それでいい。むしろ、その方がいい」
返事に迷いはなかった。
ライカは紙袋を抱え直し、なおもロイの目を見た。
「では行きましょう。先に言っておきますけど、何かしようとしたら私も本気で止めますからね」
「分かってる。そういうところも含めて、あんたに頼んでる」
「……今、余計なことを言いませんでした?」
「気のせいだ」
「あなた、本当に誤魔化すのが下手ですね」
「知ってる」
その返しだけは昨日までと変わらなかった。
ライカは小さく息を吐いて宿へ向かい、少し遅れてロイが隣へ並んだ。
◇
宿までの道は、普段より短く感じられた。
ロイは何も話そうとせず、ライカも無理に話題を探さない。ただ、ときどき横目で様子を窺った。
歩き方は普段と変わらず、周囲を過剰に気にしている様子もない。武器らしいものも見えなかったが、それで安心できるわけではなかった。
最初に会った時から薄々感じている。この男は強い。
路地で男たちを追い払った時も、力を見せつけるような動きはしなかった。必要な分だけ動き、相手が引けば追わない。それだけなら、腕の立つ旅人で済む。
しかし、何度か一緒に歩くうちに別の部分も見えてきた。
人混みでも他人とぶつからず、背後から荷車が来れば音だけで先に道を空ける。立ち止まる時には通りの中央を避け、自分と話している最中でさえ、周囲への意識が完全に途切れたことはない。
戦うことに慣れている。それも、かなり。
隠しているというより、見せる必要がないと思っているように見えた。
「ロイ。あなた、強いですよね」
唐突な問いにも、ロイは歩みを止めなかった。
「急だな」
「前から思っていましたよ。昨日までは聞く理由がなかっただけです」
「どうだろうな。相手による」
「弱いとは言わないんですね。お姫ちゃんよりも?」
「それはない。正面からやったら勝てないし、たぶん何回やっても無理だ」
即答だった。ライカは意外そうに横顔を見る。
「随分あっさり認めるんですね。それに――正面から、ですか?」
ロイが僅かに口を閉じる。
「言葉の綾だ」
「また下手な誤魔化しをしやがりましたね」
「もうすぐ着くんだろ。全部、着いてから話す」
宿が見えてきたため、ライカもそれ以上は追及しなかった。
入口の上では雨に濡れた看板が揺れ、開け放たれた一階の窓から昼食の匂いが漂っている。ライカは扉の前で足を止め、最後にもう一度だけ確認した。
「お姫ちゃんや私たちへ危害を加えるつもりはなく、逃げる気もない。それで間違いありませんね?」
「ああ」
数秒、目を見て確かめる。嘘を完全に見抜けるとは思っていないが、少なくとも返答に迷いはなかった。
「分かりました。ついてきやがってください」
宿へ入り、昼の食堂を抜けて階段を上がる。二階の廊下、その奥にある部屋の前で扉へ手をかけたところで、ライカは隣に立つロイの表情が僅かに強張っていることに気付いた。
「緊張してるんですか?」
「少しな。俺だってする時はする」
「意外ですね。逃げるなら今ですよ」
「それはしない」
ライカは何も返さず、扉を開いた。
◇
「おかえり、ライカ。今日は早かった――」
窓辺にいたグレイの声が途中で止まった。
部屋には三人が揃っていた。グレイは椅子に腰掛け、開いた本を膝の上に置いている。ライアンは卓上に広げた紙を眺め、セバスは窓際で手袋を整えていた。
三人の視線が、ライカの後ろに立つロイへ集まる。
最初に反応したのはライアンだった。
「……ねーちゃん。その人が?」
「ええ。昨日話したロイです」
ライアンの目が細くなる。まだ敵意ではないが、明らかに相手を観察していた。セバスも同様にロイへ意識を向けている。
グレイだけは本を閉じると、少し興味深そうにロイを見た。
「ライカが何度も会ってた人か。俺はグレイ。もう知ってるみたいだけど、一応ちゃんと名乗っておく」
ロイはすぐに答えられなかった。
白銀の髪と赤い瞳。あの日、遠く離れた場所から照準の先に置いた姿が、今は十歩も離れていない場所にいる。
生きているのは当然だ。殺せなかったのだから。
それでも、頭を撃ち抜いた相手が平然と椅子に座り、自分へ名乗っている光景には奇妙な感覚を覚えた。
「ロイ?」
ライカの声で我に返り、部屋へ一歩入る。
「ああ、悪い。俺はロイだ」
「それもライカから聞いた。今日は俺に会いたいって言ったんだろ?」
「ああ」
グレイは膝の上の本を卓上へ置いた。
「だったら座ればいい。立ったまま話すようなことじゃないなら、その方が楽だろ」
ライアンが怪訝そうにグレイを見る。
「姫さん、随分普通に入れるっスね」
「ライカが連れてきたんだから、いきなり追い出す理由はないだろ。それに、俺を知ってる理由を話しに来たんじゃないの?」
「……たぶん、そうっスけど」
納得しきれない顔をしながらも、ライアンは止めなかった。セバスが無言で椅子を一つ引き、ロイはそこへ腰を下ろす。
その隣にライカ、正面にグレイ。ライアンは少し離れた場所に立ち、セバスはグレイの斜め後ろへ移動した。
それだけでロイには分かった。二人とも、自然にグレイを守れる位置へ入っている。命令ではなく、長い時間の中で身についた動きなのだろう。
「何から話せばいいかな」
「最初からでいいんじゃない?」
グレイが答える。
「ライカが気にしてるのは、お前が俺をどこで知ったかだろ。そこから話せば、途中も分かると思う」
「……そうだな」
ロイは膝の上で両手を組んだ。
逃げないと決めた以上、余計な言い訳は必要ない。
「まず、俺は人間じゃない。悪魔だ」
室内が静まり返る。
「侯爵級。名前はロイ。それは昨日ライカに教えた通りだ」
「侯爵級……?」
ライアンの声から軽さが消え、セバスの目も僅かに鋭くなった。ライカは何も言わず、続きを待っている。
「その身体は?」
グレイは驚くより先に、そちらへ興味を向けた。
「受肉してる。元々の俺は、肉体を持たない精神体だ」
「誰かに呼ばれたの?」
「第三王子に」
空気が一段重くなり、グレイの表情から僅かに柔らかさが消える。
「……あいつか」
「知ってるんスか?」
ライアンへ、グレイは少し眉を寄せて答えた。
「俺たちが街を出る原因になった奴だよ。断ってるのに何度も来て、最後は宿や周りの人間にまで迷惑をかけたから殴った」
「その王子が、国にあった召喚用の品で俺を呼び出した。ただ、俺を召喚してこっちで肉体まで作るには、用意された対価が足りなかった」
「不足分は、呼んだ者から取られたのですね」
ライカの問いに、ロイは頷いた。
「王子の魂が使われた。本人が理解していたかは知らないが、最後までグレイを殺せと言っていたよ」
ライアンの視線に明確な警戒が宿る。
「それで、あんたは受けたんスか。姫さんに何の恨みもないのに?」
「ああ。対価を受け取ったし、その時は断る理由もなかった」
「随分軽いっスね」
「否定はしない」
「にーちゃん」
ライカが静かに止める。その声も普段より硬かった。
ロイが一度目を向けると、視線が合った直後にライカの方が逸らした。それが少しだけ胸に残る。
「それで、俺を探した?」
「召喚された日からな。居場所を見つけたあとも、何日か遠くから見ていた」
グレイの赤い瞳が僅かに細くなった。
「じゃあ――」
そこで言葉が止まる。
街を離れたあとの、誰もいない街道。何の気配もなく飛んできた一撃。見えない距離から正確に頭部を撃ち抜いた何者か。
グレイの中で話が繋がったことを、ロイも悟った。
もう隠す必要はない。
「そうだ。あんたの頭を撃ったのは俺だ」
椅子から立ち上がり、グレイを正面から見る。
室内から音が消えたように感じた。
「――てめぇ」
椅子が床を擦り、ライアンの手が腰の短剣へ伸びる。ほぼ同時にセバスが一歩踏み出し、先ほどまでの執事然とした雰囲気を消した。
「動くな。妙な真似をすれば、その場で潰す」
「分かってる」
「なら、両手を見える位置へ置け」
ロイは言われた通り、両手をゆっくり上げた。抵抗するつもりはない。
ライカだけが椅子に座ったまま動かなかった。表情の読めない顔で、じっとロイを見ている。
「……ロイ。今の、本当ですか?」
「ああ」
「お姫ちゃんの頭を撃ったのが、あなたなんですね」
「俺だ」
ライカの視線が落ちる。
数日前の路地で自分の前へ出た背中。果物を食べながら笑った顔。食堂で名前を交わした時の声。そして昨日、グレイを家族だと話した瞬間に止まった手。
だから、あんな顔をしたのか。
理解はできる。だが、理解できることと受け入れられることは違った。
「……そうですか」
それ以上、言葉は続かなかった。
ロイにも何も言えない。謝って済むことではなく、あの時は本気で殺すつもりだった。失敗したというだけで、その事実を誤魔化す気はなかった。
ライカから目を逸らし、グレイへ向き直ったところで違和感に気付く。
ライアンは今にも飛びかかりそうで、セバスからも明確な敵意が向けられている。ライカは顔を上げられない。
それなのに、撃たれた本人だけが椅子に座ったままロイを見つめていた。怒っているようには見えず、むしろ口元には僅かな笑みさえ浮かんでいる。
「……やっと会えた」
「は?」
「姫さん?」
ロイだけでなく、ライアンまでグレイを振り返った。
「何だよ」
「何だよじゃないっスよ! 今の話、聞いてたっスよね!?」
「聞いてた。だから、あの時俺を撃った奴が目の前にいるんだろ?」
「そうっスよ!」
グレイは構わずロイへ視線を戻した。
「ずっと気になってたんだ。あれだけ離れた場所から、俺にもセバスにも気付かれずに、ちゃんと頭へ当てただろ。どうやったのか聞きたかった」
「グレイ様。興味を持たれるのは勝手ですが、今は技術の話をする場面ではありません」
「分かってる。でも、本人が自分から来て全部話したんだ。今すぐ俺を殺すつもりなら、こんな面倒なことをする必要はないだろ」
「それと信用することは別です」
「信用してるなんて言ってないよ。ただ、俺は撃たれた本人だからな。怒るかどうかくらいは自分で決めたい。セバスたちが怒ってる理由も分かるけど、今すぐ殴るのは少し待ってくれ」
セバスは拳を握ったまま何も返さなかったが、一歩後ろへ戻った。ライアンはまだ納得していない。
「姫さん、頭を撃ち抜かれたんスよ。普通なら死んでたんスからね?」
「俺は普通じゃないだろ」
「そういう話じゃないっス」
「分かってるよ。ライアンたちがあの時どう思ったかも、俺が平気だったから終わりでいいとも思ってない」
グレイは少しだけ声を落とした。
「だから、怒るなとは言わない。でも俺はこいつと話したい。せっかく向こうから来たのに、話す前に追い出したら何も分からないままだろ」
ライアンは歯を食いしばりながらも、短剣から手を離した。
「……分かったっス。でも俺は、まだ信用しないっスからね」
「それでいいと思う」
グレイは素直に頷いた。
「……あんた、変わってるな」
「よく言われる。でも、自分から会いに来た奴に言われたくないな」
グレイは少し身を乗り出しかけたが、セバスの視線に気付き、先に問いを改めた。
「今も俺を殺すつもり?」
再び空気が張り詰める。
ロイはすぐには答えなかった。昨日の夜、標的が泊まる宿を見つけ、撃とうと思えば撃てる場所まで近づいていた。それでも、実行しなかった。
「……分からない。契約は残ってる。王子は死んだが、対価を受け取った以上、仕事としては終わっていない」
「なら敵だろ」
セバスの声に迷いはない。
「そうなるな」
「ロイ」
ライカが顔を上げた。その瞳には怒りと戸惑い、それでも完全には切り捨てきれない迷いがある。
「昨日、お姫ちゃんがどれだけ大事か聞きましたよね。その時には、もう全部分かっていたんでしょう?」
「ああ」
「それでもまだ殺すつもりなんですか?」
ここで適当なことを言えばいい。もう殺さない、契約などどうでもいい。そう言えば、少なくとも今より空気は軽くなるかもしれない。
けれど、そんな言葉で取り繕う資格はなかった。
「だから、分からないんだ。昨日までなら、もう一度狙うつもりだった」
ライアンの手が再び短剣へ近づく。ロイは構わず続けた。
「最初に失敗した時は、次にどう殺すかしか考えていなかった。頭だけでは足りないなら別の場所を狙えばいい。それだけだった」
グレイは黙って聞いている。
「でも、あんたと話した。グレイが家族だと聞いたあと、宿の場所も見つけた。狙うなら昨日の夜に狙えたよ」
「……この宿を見ていたんですか?」
「遠くからな」
ライカの顔が強張る。
「それでも撃たなかった。どうしてです?」
「それが分からないから、ここへ来た」
ロイは視線を落とした。
「契約だから殺す。それで終わるはずだったし、俺にとってはその程度の話だった。でも、あんたがグレイを家族だと言った瞬間から、それだけじゃなくなった」
静かな声だった。飾ろうとも、都合よく見せようともしない。
「黙ったままあんたと会い続けることもできた。でも、それをやったら、次に何を話しても全部嘘になる気がした。だから逃げずに、撃った本人を含めた全員へ先に話すことにした」
しばらく誰も口を開かなかった。
窓の外では雲の切れ間から光が差し、濡れた屋根が白く反射している。
やがて、グレイが椅子から立ち上がった。セバスがすぐに反応する。
「グレイ様」
「何もしないよ。近くで見たいだけ」
「その言葉が信用できないのですが」
「俺、そんなに信用ない?」
「強者が絡む時だけはありません」
「ひどいな」
そう言いながら、グレイはロイの前まで歩いた。あの日なら決して近づけなかった距離まで来ても、ロイは動かない。
グレイが見上げる。
「お前、俺が怖くないの?」
「怖いぞ。正面からやったら勝てない相手が目の前にいるんだ。怖くない方がおかしいだろ」
「それでも逃げなかったんだな」
「逃げたら、たぶんライカに二度と会えない」
ライカの肩が僅かに揺れ、ライアンが眉を上げた。グレイは二人を順に見てから、もう一度ロイへ向き直る。
「なるほど。昨日からライカが少し変だった理由は、お前だったんだな」
「お姫ちゃん。今は余計なことを言いやがらないでください」
「怒るなよ。俺は何も変なことを言ってないだろ」
「言っています」
納得していない顔をしながらも、グレイはそれ以上触れなかった。
「じゃあ、もう一つ聞く。第三王子が死んだ今、その契約を続けるかどうかはお前が決められるの?」
「……決められる」
「命令に逆らったら死ぬとか、そういうものでもない?」
「対価はもう受け取ってる。やめたところで俺が消えるわけでもない」
「なら、自分で決めればいいだろ」
ロイが黙る。
「俺を殺したいなら、また狙えばいい。その時は俺も、ちゃんと敵として見る。でも、もうやりたくないならやめればいい。王子はもういないんだし、お前がこれからどうするかまで、死人に決めてもらう必要はないだろ」
「姫さん。それ、本人に言うことっスか? もう一回狙っていいみたいになってるっスよ」
「いいとは言ってない。狙われたら俺も反撃するぞ。俺だって殺されたいわけじゃないからな」
「分かってるっスけど、そこじゃないっスよ……」
グレイが少し困った顔をする。その様子に、ロイは思わず笑った。
こんな状況で笑うつもりなどなかったが、堪えられなかった。
「……本当に変な奴だな」
「だから、何でお前に言われるんだよ」
グレイも口元を緩める。
その横で、ライカだけは笑っていなかった。
ロイはそれに気付く。自分が話さなければならない相手は、撃った本人だけではない。
「ライカ」
「何です?」
「悪かった」
ライカの眉が僅かに寄る。
「何に対してです?」
「黙ってたことだ。グレイを撃ったことは、謝って済む話じゃない」
「だから謝らない?」
「違う。撃った時の俺は、本気で殺すつもりだった。今さら悪かったと言って、なかったことみたいにするのは違うと思ってる」
ライカは黙って聞いている。
「でも、あんたと何度も会ったあとまで隠していたのは俺が悪い。昨日、グレイの名前を聞いた時に言うべきだった」
「言われても困りましたよ。たぶん、その場で殴っていました」
「だろうな」
「鉄扇があれば使っていました」
「それは少し怖いな」
「怖がりやがってください」
ほんの少しだけ、いつもの調子が戻った。それでもライカの表情はまだ硬い。
「私は、すぐにあなたを信用できません。お姫ちゃんが許すとしても、それと私は別です。にーちゃんもセバスも、たぶん同じでしょう」
「分かってる」
「……ですが、今日、自分から来たことまで無かったことにはしませんよ」
ロイが目を上げると、ライカはまっすぐこちらを見ていた。
「黙ったまま逃げることもできたでしょう。それをしなかったことくらいは、ちゃんと見ます。ただし、それ以上はまだ何も言いません。私自身、何を考えればいいのか整理できていませんから」
「それでいい」
「あなたが決めるんじゃありません」
「……そうだな」
ロイは小さく笑った。
「ところで」
グレイが口を開くと、ライアンが嫌そうな顔を向ける。
「姫さん、何を聞くつもりっスか」
「撃ち方」
「やっぱりっスか!」
「ずっと気になってたんだから仕方ないだろ。話が一段落したなら、聞いてもいいじゃないか」
セバスが深く息を吐いた。
「グレイ様。あなたという方は……」
「セバスも気にならない? あの距離から俺たち全員に気付かれずに撃ったんだぞ」
「技術としては気になりますが、今ここで尋ねる必要はありません」
「俺は今聞きたい」
「子供ですか」
「セバスよりは若いぞ」
「そういう意味ではありません」
ライアンが額を押さえる。
「何で姫さんが一番楽しそうなんスかね……」
「楽しんでるわけじゃない。でも、撃った奴が分かったのは嬉しい。正体が分からないままなのは気持ち悪かったからな」
グレイはロイを見て、真剣な声音で続ける。
「それに、あれは本当にすごかった。弾が当たる直前まで気付けなかったし、分かった時にはもう避けられなかった。敵にやられたことと、技術がすごいことは別だろ」
ロイはしばらくグレイを見たあと、諦めたように息を吐いた。
「……鉄だ。土魔法で鉄を作り、弾の形へ圧縮して強度を上げる。それを射出する」
グレイの目が僅かに輝き、ライアンは天井を仰いだ。
「射出も土魔法?」
「基本はな。重力も使うが、補助程度だ」
「だからあんな速度になったのか。魔法そのものを飛ばすんじゃなくて、作った鉄を飛ばしてたんだな。距離は?」
「それも言うのか? また撃たれるかもしれないぞ」
「次は知ってるから、同じやり方なら避ける」
ロイの口元が僅かに上がる。
「言うじゃないか」
「一回食らったんだから、次まで同じように当たったらセバスに怒られる」
「当然です」
即座に返ってきた声に、グレイが肩を竦めた。
張り詰めていた部屋の空気が、ほんの少しだけ緩む。
完全ではない。ロイとライアンの間には、まだ目に見えない線がある。セバスの警戒も消えておらず、ライカの胸の内にあるものも、何一つ整理されていない。
それでも、武器が抜かれることはなかった。
◇
話が終わる頃には、窓から差し込む光が傾き始めていた。
ロイが椅子から立ち上がる。
「じゃあ、俺は帰る」
「待て」
セバスに呼び止められ、振り返る。
「次にグレイ様へ敵意を向けた時は、今日のように話を聞くとは思うな」
怒鳴ってはいない。だからこそ、冗談ではないと分かる。
「分かってる」
「ならいい」
ライアンも腕を組んだままロイを見る。
「俺も同じっスよ。姫さんが話すって言ったから、今日は何もしなかっただけっス。次に撃ったら、どこまで逃げても追いかけるっスからね」
「真面目に覚えておく」
「その返し、余計に腹立つっス」
ロイは苦笑し、最後にライカを見る。
「送らなくていい」
「別に送るとは言ってませんよ」
「そうか」
「……ですが、下までは行きます」
ロイが少し目を見開く。ライアンも何か言いかけたが、ライカが先に睨んだ。
「にーちゃん」
「何も言ってないっスよ」
「顔が言っています」
「ねーちゃんも最近、そればっかりっスね」
「黙りやがってください」
二人は部屋を出て階段を下りた。
昼を過ぎた宿の食堂は静かになっている。外へ出ると雨は完全に止み、雲の隙間から差す光が濡れた石畳を淡く照らしていた。
入口の前で、ロイが足を止める。
「ここでいい。今日はありがとう」
「何に対してですか?」
「連れてきてくれたこと」
「私も知りたかっただけですよ」
「それでもだ」
ライカは答えない。ロイは少し迷ってから続けた。
「もう会わない方がいいなら、そうする」
ライカの目が僅かに揺れる。
「どうして私に決めさせるんです?」
「俺が決めたら、たぶんまた会いたいって言うから」
雨上がりの風が二人の間を抜け、金色の髪がライカの頬へかかる。彼女はそれを指で払った。
「……ずるい言い方をしますね。そんなことを言われたら、私が追い払ったみたいになるでしょう」
「じゃあ、どうすればいい?」
「自分で考えやがってください。今日、お姫ちゃんにも言われたでしょう。自分のことくらい自分で決めなさい」
ロイは少し笑った。
「じゃあ決める。また会いに来る」
ライカはすぐに答えなかった。
昨日までなら、呆れた顔で好きにしろと言えた。だが、今はそれほど簡単ではない。
目の前の男は侯爵級の悪魔であり、第三王子に召喚されてグレイを殺すために受肉した。そして実際に、グレイの頭を撃ち抜いた。
あの日、グレイが倒れた瞬間を忘れてはいない。飛び散った血も、崩れる身体も、一瞬だけ何も考えられなくなった自分も、今なお鮮明に残っている。
それをした男が、今ここにいる。
許したわけではなく、許せるかどうかも分からない。
それでも、誰も関わろうとしなかった路地で面倒そうな顔をしながら前へ出た男も、果物一つで悩み、自分の話を覚えていた男も、今日逃げずにグレイの前へ立った男も、すべて同じロイだった。
「……好きにしやがってください」
ようやく出た言葉に、ロイが少し目を見開く。
「いいのか?」
「会いに来るなとは言ってません。ただし、次にお姫ちゃんへ何かしたら、私も容赦しませんからね。その時は、最初に会った時に助けてもらったことも、一緒にお茶を飲んだことも関係ありません」
「ああ、分かってる」
「本当に?」
「本当に」
ライカは数秒ロイの目を見てから、視線を外した。
「なら、今日はそれでいいです」
「ライカ」
「まだ何か?」
「いや。またな」
ライカは返事をしなかった。ただ、歩き出したロイの背中を見送る。
通りへ出た姿が人の流れに混ざり、少しずつ遠ざかっていく。角を曲がる直前、ロイが一度だけ振り返った。
視線が合う。
どちらも手を振らなかった。それでも今度は、すぐに目を逸らすこともなかった。
やがてロイの姿が建物の向こうへ消え、ライカはしばらくその場に立ち尽くしていた。
◇
「……帰った?」
二階へ戻ると、最初に声をかけてきたのはグレイだった。
「帰りましたよ」
扉を閉める。
グレイは先ほどと同じ椅子に座り、ライアンは窓辺、セバスは壁際に立っていた。ロイが帰ったからといって、誰も完全には気を抜いていない。
「ライカ。無理に何か決めなくていいからな。俺があいつと話してみたいのと、お前がどう思うかは別だから」
ライカは少しだけ目を見開いた。
「俺は撃たれた本人だから、あいつの技術が気になるって気持ちの方が先に来る。でもライカは違うだろ。俺が平気だったからって、同じように考える必要はないよ」
「……分かっています」
「ならいい」
グレイはそれ以上踏み込まなかった。ライカも、今はまだ聞いてほしいとは思わない。自分でも説明できないものを、どう話せばいいのか分からなかった。
「ねーちゃん」
窓辺からライアンが呼ぶ。
「何です?」
「俺、あいつ嫌いっスよ」
「知っていますよ」
「でも、ねーちゃんに会うなとは言わないっス。姫さんを撃ったのは腹立つっスけど、誰と話すかまで俺が決めることじゃないっスから。ただ、何かあったら絶対に言ってほしいっス」
ライカが弟を見ると、ライアンは少し不機嫌そうに鼻を掻いた。
「……ええ」
「一人で抱え込んだら怒るっスからね」
「にーちゃんにだけは言われたくありません。昔から何度、一人で突っ走ったと思ってるんです?」
「それとこれとは別っスよ」
「同じです」
いつものような言い合いが始まり、セバスが小さく息を吐く。グレイの口元にも僅かな笑みが浮かんだ。
ライカは弟へ言葉を返しながら、一度だけ窓の外へ目を向ける。
雨はもう降っていない。濡れていた街の屋根も、差し込む午後の光に少しずつ乾き始めていた。
昨日まで知らなかった事実を、今日すべて知った。
知れば簡単になると思っていたのに、実際は逆だった。ロイを知らなかった頃よりも、ずっと分からなくなっている。
それでもライカは、もう一度だけ窓の外を見た。
次に会った時、何を話せばいいのかはまだ決まっていなかった。




