第5話 名前を知る
昼を少し過ぎた頃、大通りの喧騒は朝よりいくらか落ち着いていた。
人通りそのものが減ったわけではない。石畳の両側には露店が並び、焼いた肉の香ばしい匂いに、果物を山積みにした店から漂う甘い香りが混じっている。荷車が石の継ぎ目を越えるたびに乾いた音を響かせ、その隙間を縫うように子供たちが走り抜けていった。
ライカは片腕に紙袋を抱え、通りの端を歩いていた。
この街へ滞在して数日。最初は広く感じた街並みも、何度か買い出しへ出れば大まかな位置関係は頭に入る。宿から市場までの道はもちろん、食料品を扱う店や質のいい茶葉を置いている店まで、迷わず行けるようになっていた。
今日の買い物もほとんど終わっている。
残っているのは、ライアンに頼まれた干し肉くらいだった。
「まったく……自分で買いに来やがってください」
小さく零しながら角を曲がったところで、ライカの足が止まる。
少し先の露店に、見覚えのある男が立っていた。
黒を基調とした動きやすそうな服装は、人混みの中で特別目立つものではない。それでも、一度覚えた顔を見間違えるほどライカの記憶は悪くなかった。
数日前、自分に絡んできた男たちを追い払い、その後一緒に茶を飲んだ男――ロイだ。
別れ際には、また会っても悪くないと互いに話していた。
まさか本当に、それほど間を置かず再会するとは思っていなかったが。
ロイは果物を並べた露店の前で、一つの商品をじっと見つめていた。赤い実の表面には細かな黄色い斑点があり、この辺りではさほど珍しいものではない。
買うでもなく眺め続けている姿に、ライカは少し迷ってから歩み寄った。
「そんなに睨んでも、果物は逃げやがりませんよ」
声をかけると、ロイが振り返った。
一瞬だけ驚いたように目を見開いたあと、すぐに口元が緩む。
「……ライカか。いや、睨んでたわけじゃない。食ったことがないから、うまいのか考えてただけだ」
「店主に聞けばいいでしょう。買うでもなくずっと悩まれている方が、店主も困りやがりますよ」
「聞いたら買わないと悪い気がするだろ」
「なら買えばいいじゃないですか」
「外れだったら?」
「知りませんよ」
即答すると、ロイが以前と同じ力の抜けた笑い方をした。
ライカは呆れながらも露店へ視線を移す。
「それなら甘いですよ。少し酸味もありますけど、熟れてるものを選べば普通に美味しいです」
「じゃあ選んでくれ」
「どうして私が選ぶんですか」
「俺より詳しいだろ」
「それだけで人に頼みやがりますか」
文句を言いつつも、ライカは籠の中へ手を伸ばした。
表面の色を確かめ、二つほど持ち上げて重さを比べる。そのうち一つを選び、ロイへ差し出した。
「これにしやがってください。たぶん甘いです」
「たぶん?」
「絶対なんて言ってませんよ。外れても文句は受け付けません」
「分かった。じゃあこれにする」
ロイは素直に果実を買い、店主から受け取るなりその場で齧ろうとした。
「ちょっと待ちなさい」
ライカが止めると、果実が口へ届く寸前で止まる。
「何だ?」
「洗ってないでしょう」
「皮ごと食えるんだろ?」
「食べられますけど、そういう問題じゃありません。せめて拭きやがってください」
「面倒だな」
「なら買う前に考えなさい」
ライカは紙袋から布を取り出すと、ロイの手から果実を受け取った。近くの水場まで行くほどでもないので、水筒の水を少しかけて表面を拭いてから返す。
ロイは果実とライカを交互に見た。
「……何ですか」
「いや、面倒見がいいんだなと思って」
ライカの眉が僅かに動く。
「あなたが雑すぎるだけでしょう」
「そうかもしれない」
否定するでもなく、ロイは今度こそ果実を齧った。
しゃり、と瑞々しい音がする。
数度噛んだところで、僅かに目が細くなった。
「うまい」
「それは良かったですね」
「選ぶの上手いな」
「買い物くらい何度もしてますから。これで外れだったら、次に会った時まで言われそうでしたし」
「そこまで言わないよ」
「どうでしょうね」
そう返しながら、ライカの口元にも薄い笑みが浮かんだ。
ほんの数分の立ち話だった。
互いに用事があり、今日は茶に誘う理由もない。やがてロイは通りの向こうへ、ライカは残りの買い物を済ませるため市場へ向かった。
それでも別れ際、ライカは前回より少しだけ長くその背中を目で追っていた。
◇
「ねーちゃん、干し肉は?」
宿へ戻った途端、ライアンが真っ先に口にしたのはそれだった。
ライカは無言で紙袋を卓上へ置く。
窓際ではグレイが椅子に座り、買ってきたばかりの街の地図を広げていた。その向かいにはセバスがいる。二人ともライカが帰ってきたことには気づいていたが、ライアンほど露骨に食料を気にしてはいない。
「買ってきましたよ。ですが、帰ってきた姉に最初にかける言葉がそれですか?」
「おかえり、ねーちゃん。それで干し肉は?」
「順番を入れ替えただけじゃないですか」
「ちゃんと最初におかえりって言ったっスよ?」
「もう遅いです」
ライカは紙袋から干し肉を取り出すと、わざわざライアンから最も遠い場所へ置いた。
「あっ、何でそっち置くんスか」
「夕食用です。今食べるものじゃありません」
「一枚くらいいいじゃないっスか」
「駄目です」
ライアンが不満そうに椅子へ沈む。
その様子を見ていたグレイが、地図から顔を上げた。
「ライカ、買い物長かったな。何か探してたの?」
「いえ。途中で少し立ち話をしていただけですよ」
「知り合い?」
「この前話したロイです。偶然見かけただけですよ。果物の前でずっと悩んでいたので、少し付き合っていただけです」
その名前にグレイが「ああ」と頷き、ライアンも干し肉から意識を外した。
「また会ったんスか。結構な偶然っスね」
「この街に滞在しているのは向こうも同じなんですから、別におかしくないでしょう」
「俺、まだお姫ちゃんたち以外で二回も偶然会った人いないっスけど」
「にーちゃんが人の顔を覚えてないだけじゃないですか?」
「それはひどくないっスか?」
ライアンが笑いながら抗議すると、セバスが静かに茶を口へ運んだ。
「余計なことを言って夕食を減らされても知らんぞ、ライアン」
「セバスまで何言ってるんスか。俺は純粋にねーちゃんの交友関係を応援してるだけっスよ」
「その顔で言われても説得力がないな」
「俺、そんな顔してるっスか?」
「していますよ。ものすごく腹の立つ顔を」
ライカが睨むと、ライアンは楽しそうに肩を竦めた。
グレイはそんな二人を眺めてから地図を畳む。
「でも、話しやすいならいいんじゃないか? 旅してれば、こういうところで知り合いが増えることもあるだろ。俺だってそうだったし」
「お姫ちゃんまで何を言い出すんですか。別に友人を探しに街へ来たわけではありませんよ」
「分かってるよ。ただ、ライカが楽しそうなら悪いことじゃないってだけ」
「……別に、楽しそうになんてしてません」
「そう?」
「そうです」
ライカは話を終わらせるように紙袋の整理へ戻った。
旅の中で生まれる縁など珍しくない。
長く続くものもあれば、一晩の食事だけで終わるものもある。その時に交わした言葉まで無意味になるわけではないし、別れた後に二度と会わないことだって普通にある。
だから、ロイとの関係もその一つにすぎない。
そう思ったところで、ふと考える。
また会うだろうか。
自分から浮かんだ疑問に、ライカは僅かに眉を寄せた。
すぐに紙袋へ視線を戻し、それ以上考えるのをやめた。
◇
三度目は、本当に偶然だった。
翌日の夕方、ライカが宿の近くにある食堂から出たところで、向かいの建物の壁に寄りかかっているロイを見つけた。
今度は向こうが先に気づいた。
「また会ったな」
「……この街、そんなに狭かったですかね」
「俺も同じこと思った」
ロイが壁から背を離す。
「何をしていたんですか?」
「飯を食う場所を探してた」
「それなら、そこにありますよ」
ライカが今出てきた食堂を指すと、ロイは看板を見上げた。
「うまい?」
「普通です。不味くはありませんけど、人に勧めるほどでもありませんね」
「正直だな。じゃあ別のところにする」
「そうしやがってください」
そこで別れるものと思っていたが、ロイが歩き出した方向はライカが宿へ戻る道と同じだった。
自然と並んで歩く形になり、ライカが横目を向ける。
「ついてきてません?」
「違うよ。こっちの方が店が多そうだから歩いてるだけだ」
「本当でしょうね」
「信用ないな」
「まだ数回しか会っていない男を全面的に信用するほど、私は素直じゃありませんよ」
「数回も会ってるなら、少しくらい信用してくれてもいいだろ」
「その理屈はよく分かりません」
ロイが笑い、ライカもそれ以上は言わなかった。
不思議と会話は途切れない。
話題はこの街の食事や市場、旅人の多さ、道端で売られていた妙に辛い串焼きなど、明日になれば忘れていても困らないようなものばかりだった。
それでもロイは、適当に相槌を打っているようでいて、ライカが以前話したことを意外なほど覚えていた。
「そういえば、ライカは辛いの苦手なんだっけ」
「よく覚えてますね」
「この前、茶飲んだ時に言ってただろ。甘い菓子の方がいいって」
「そんな話しましたか?」
「したよ」
「……私は覚えてませんでした」
「自分で言ったのに?」
「会話を全部覚えているわけじゃありませんよ」
「俺は結構覚えてる」
何でもない調子で言われ、ライカは僅かに視線を逸らした。
ちょうど通りの向こうから荷車が来る。
そちらを見る理由には十分だった。
「変なところで記憶がいいんですね」
「そうか?」
「そうですよ」
荷車が通り過ぎると、ライカは何事もなかったように前を向いた。
しばらく歩いたところで、ロイが一軒の小さな食堂を指す。
「ここ、どうだ?」
「私はもう食べましたよ」
「知ってる。店がどうか聞いただけ」
「……入ったことはありませんね」
「じゃあ試してみる」
「そうですか」
ロイは扉へ向かいかけたものの、その直前で振り返った。
「明日もこの辺歩く?」
ライカは少しだけ眉を上げる。
「買い物があれば」
「じゃあ、また会うかもな」
「三日続けて偶然会ったら、さすがに少し怖いですよ」
「俺もそう思う」
笑いながら店へ入っていくロイを見送り、ライカも宿へ向かった。
その途中。
明日、何か買うものがあっただろうか。
そんなことを考えている自分に気づき、すぐに思考を打ち切った。
◇
翌日の昼前。
ライカは市場にいた。
買うものはある。
茶葉は少なくなっていたし、砂糖も予備があって困るものではない。ライアンが勝手に食べる菓子も減っているし、グレイが気に入っていた果物も見かけた。
だから、買い出しに来る理由は十分にあった。
「……何を考えてるんでしょうね、私は」
小さく呟きながら茶葉の袋を手に取る。
香りを確かめ、店主からいくつか種類を聞いたあと、そのうち二つを購入した。
買い物を終えて市場を出る。
昨日ロイと歩いた通りへ向かう。
姿はない。
別に約束をしたわけではないのだから、当然だ。
ライカはそのまま歩き、果物屋の前を通り過ぎる。
やはりいない。
昨日ロイが入った食堂の前にも姿はなかった。
「……馬鹿らしい」
自分へ言い聞かせるように呟いた、その時だった。
「誰が?」
真横から声が飛んできた。
反射的に一歩離れ、右手が腰の鉄扇へ伸びる。
抜く直前で止まった。
路地の入口。
壁へ寄りかかるようにして、ロイが立っている。
「……ロイ」
「そんなに驚くと思わなかった」
「急に声をかけやがらないでください」
「悪かった」
素直に謝るロイを睨みながら、ライカは鉄扇へ伸ばしかけていた手を下ろした。
「いつからそこにいたんですか?」
「少し前から」
「なら普通に声をかけなさい」
「何か探してるみたいだったから」
「探してません」
「そう?」
「そうです」
短い沈黙のあと、ロイの口元が僅かに上がる。
「じゃあ、今日も偶然だな」
「……そういうことにしておきましょうか」
ライカは諦めたように息を吐いた。
ここまで来れば、本当に偶然だったのかどうかなど、もう大した問題ではなかった。
「昼は?」
「まだ」
「私は買い物が終わったところです」
そこで一度言葉を切り、ライカはロイを見る。
「この前は私がお茶に誘いましたよね。次くらい、あなたから誘ってもいいんじゃないですか?」
ロイが一瞬黙った。
自分でも少し直接的だったかと思ったが、取り消すほどのことでもない。
やがてロイが小さく笑う。
「じゃあ、飯食いに行かない?」
「最初からそう言えばいいんですよ」
二人は並んで歩き出した。
選んだのは、大通りから少し外れた小さな食堂だった。
昼時にもかかわらず混みすぎておらず、窓際の席が空いている。木の卓には細かな傷が残り、椅子も座ると僅かに軋んだ。高級店ではないものの、店内には煮込んだ肉と焼きたてのパンの匂いが満ちている。
向かい合って座り、注文を済ませる。
「そういえば、ロイ」
「ん?」
「あなた、自分のことはあまり話しませんよね」
「そうか?」
「そうですよ。どこから来たのか聞いても遠いところ、何をしているのか聞いても今は特に何も。よく考えたら、ほとんど何も知りません」
「ライカだって似たようなもんだろ」
「私は聞かれれば答えますよ。言いたくないことまで話すつもりはありませんけど」
「それは俺も同じだよ」
ロイは特に困った様子もなく答えた。
何かを必死に隠しているというより、言いたくないことは言わない。それだけのように見える。
旅をしていれば、過去を話したがらない者など珍しくない。
ライカも無理に聞くつもりはなかった。
やがて料理が運ばれてくる。
肉と野菜を煮込んだものに、厚く切ったパン。派手な料理ではないが香りは悪くない。
ロイは一口食べ、すぐに頷いた。
「ここは当たりだな」
「まだ一口でしょう」
「一口食えば分かるだろ」
「この前は果物一つ選べなかった人が、随分偉そうですね」
「あれは知らない果物だったから仕方ない」
「言い訳しやがってください」
ライカも料理へ手をつける。
味は濃すぎず、肉も柔らかい。確かに悪くなかった。
しばらく食事を続けたところで、今度はロイが口を開いた。
「ライカは、ずっと旅してるのか?」
「ええ。身内と一緒に」
「家族?」
「まあ、家族ですね」
ライカは自然に答えた。
主従という言葉だけでは足りない。
長い時間を共に歩き、何度も食卓を囲み、今も同じ旅を続けている者たちだ。それを説明するなら、家族という言葉が一番近い。
「にーちゃんもいますし、面倒な老人もいますし、放っておくと変なことへ首を突っ込むお姫ちゃんもいます」
「……お姫ちゃん?」
ロイが僅かに笑った。
「そう呼んでるのか?」
「私だけですよ。にーちゃんは姫さんと呼んでいますし、セバスはグレイ様と呼んでいます」
ロイの手が止まった。
パンを持ったまま、本当に僅かな時間だけ動きが途切れる。
だが、向かいにいるライカが見逃すには十分な変化だった。
「どうしました?」
「……今、何て言った?」
「何がです?」
「最後の名前」
「グレイ様と――」
「グレイ?」
その瞬間、ロイの声からそれまでの力の抜けた調子が消えた。
ライカの目が細くなる。
「知ってるんですか?」
ロイはすぐには答えなかった。
視線だけがライカへ向いている。
「そのグレイって……白銀の髪の女か?」
「そうですけど」
「吸血鬼?」
今度は、ライカの表情からも笑みが消えた。
即座に敵と判断するほどではない。しかし、先ほどまでと同じように話せる状況でもなかった。
「随分詳しいですね」
「……有名なんじゃないのか?」
「有名な場所では有名でしょうね。ですが、名前を聞いただけで白銀の髪と吸血鬼まで出てくる人は、それほど多くありませんよ」
ロイは黙った。
ライカも急かさず、その顔を見つめる。
店内では他の客たちが変わらず食事を続けている。皿と匙の触れ合う音や笑い声、厨房から漂う料理の匂いも、先ほどまでと何一つ変わっていない。
それなのに、二人の卓だけ空気が僅かに重くなっていた。
ロイが持っていたパンを皿へ戻す。
「ライカは、そのグレイと一緒に旅してるのか?」
「ええ」
「どんな関係なんだ?」
今度はライカがすぐには答えなかった。
質問の意図を測るようにロイを見る。
敵意は感じない。
殺気もない。
それでも、グレイの名前が出た途端、明らかに様子が変わった。
「……さっき言ったでしょう。家族ですよ」
「それだけ?」
「何を知りたいんです?」
真っ直ぐ問い返され、ロイが僅かに迷う。
「いや……立場とか。ライカがグレイとどういう関係なのか、それが気になっただけだ」
しばらくロイを見たあと、ライカは椅子の背へ少し身体を預けた。
「私はお姫ちゃんの従者です。ずっと昔から仕えていますよ。まあ、私たちの場合はそれだけでもありませんけどね」
「……従者?」
「ええ」
「ずっと昔って、どれくらい?」
「そこまで話す必要があります?」
「いや……ないな」
ロイが視線を落とす。
明らかに様子がおかしい。
「ロイ」
「何だ?」
「あなた、本当にお姫ちゃんを知ってるんですか?」
返事はすぐには来なかった。
その沈黙だけで、少なくとも何も知らないという可能性は消える。
「……見たことはある」
「どこで?」
「遠くから」
「いつです?」
「少し前」
「随分曖昧ですね」
「そうだな」
「誤魔化す気もないんですか?」
「下手な嘘ついても、ライカは気づきそうだし」
「それは正解です」
ライカは腕を組んだ。
ロイは困ったように頭を掻く。
これまでなら単に気楽な男の仕草にしか見えなかったものが、今は何かを隠しているようにしか見えない。
しかも、その何かはグレイに関係している。
「お姫ちゃんに何か用でもあるんですか?」
「……あると言えばある」
「会いたい?」
「それは……」
初めて、ロイの返事が詰まった。
ライカの目から僅かに柔らかさが消える。
「変ですね。さっきまで普通に話していたのに、お姫ちゃんの名前が出た途端に別人みたいですよ」
「自分でもそう思う」
「なら説明しやがってください」
「今は無理だ」
「……そうですか」
ライカはそれ以上追及しなかった。
ロイが話さないと決めている以上、この場で問い詰めても意味はない。
ただし、何もなかったことにするつもりもなかった。
「食べましょう。冷めますよ」
「……いいのか?」
「何がです?」
「もっと聞かれると思った」
「聞いてほしいなら聞きますけど?」
「いや」
「なら食べなさい」
ロイはしばらくライカを見ていたが、やがて再び匙を取った。
食事は続いた。
けれど、先ほどまでとまったく同じ空気には戻らなかった。
◇
店を出たあとも、二人はすぐには別れなかった。
午後の日差しが石畳を照らし、建物の隙間を抜ける風が市場から様々な匂いを運んでくる。ライカは買った物を抱え、ロイは両手を空けたまま、その隣を歩いていた。
しばらくして、先に口を開いたのはロイだった。
「ライカ。一つ聞いていいか?」
「内容によります」
「グレイのこと、大事なんだな」
ライカは足を止めなかった。
「当たり前でしょう。従者だからというだけではありませんよ。お姫ちゃんは私とにーちゃんにとって、もうずっと家族です。セバスだって同じでしょうね」
「……そうか」
「何でそんなことを聞くんです?」
「気になっただけだ」
「またそれですか」
「悪い」
「別に謝らなくていいですよ。ただ、やっぱり変な人だとは思っています」
「それは今さらじゃないか?」
「自覚があるなら結構です」
ライカが小さく息を吐く。
少し先には、宿へ続く道との分かれ道が見えていた。
「ライカは、身内にはいつもそんな感じなのか?」
「どんな感じです?」
「世話焼いて、怒って、それでも放っておかない」
「……誰が世話焼きですか」
「俺の果物まで洗ってくれた」
「あれはロイがそのまま食べようとするからでしょう」
「この前は弟の干し肉も買ってた」
「何でそれまで覚えてるんですか」
「見えてたから」
「よく見てますね」
「見てるよ」
あまりにも普通に返され、ライカの足取りが僅かに鈍った。
ロイ自身も言ってから気づいたらしい。
「……いや、変な意味じゃなくて」
「別に何も言ってませんよ」
「そうだけど」
「意外と慌てるんですね、ロイ」
「今のは忘れてくれ」
「嫌です」
少しだけ、先ほどまでの空気が戻る。
ライカの口元にも薄い笑みが浮かんだ。
「まあ、身内を放っておけないのは否定しませんよ。にーちゃんは昔から余計なことをしますし、セバスは真面目そうに見えて武術のことになると、お姫ちゃんと一緒になって無茶をしやがりますから」
「グレイも?」
「一番手がかかります」
「そんな感じには見えなかったけどな」
ロイが何気なく言った。
ライカの視線が横へ動く。
遅れて、ロイの足も止まった。
「……遠くから見ただけなんですよね?」
「そうだった」
「今の言い方、随分近くで見たみたいでしたよ」
「気のせいだ」
「下手な嘘ですね」
「だから嘘は苦手なんだ」
「開き直りやがらないでください」
ライカは呆れながらも、それ以上は追及しなかった。
ただ、胸の片隅には確かな引っかかりが残っている。
ロイはグレイを知っている。
少なくとも、単に噂を聞いただけではない。
それなのに、何を知っているのか話そうとしない。
危険な相手なのか。
当然、その可能性も考える。
だが数日前、自分に絡んだ男たちを追い払った時、ロイは必要以上の力を使わなかった。それから何度か会った中でも、グレイへ繋がる情報を探るような質問はほとんどしていない。
もし最初からグレイへ近づくために自分を利用していたのなら、あまりにも遠回りだった。
それに――。
ライカは隣を歩く男を見る。
「何だ?」
「いえ」
「また変な人だと思ってる?」
「それは最初からずっと思ってます」
「ひどいな」
「事実でしょう」
少なくとも、これまでロイと交わした会話まで全部が嘘だったとは思いたくなかった。
今は、それ以上の結論を出せなかった。
◇
分かれ道でライカと別れたあと、ロイはしばらくその場から動けなかった。
遠ざかっていく金色の髪を目で追い、角を曲がって見えなくなってからも、数秒ほど同じ場所に立ち尽くす。
「……参ったな」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど力が抜けていた。
ライカと出会ったのは偶然だった。
最初に目を引かれたのは、その容姿だった。
綺麗な女だと思った。
だが、何度か話しているうちに、それだけではなくなった。
見た目よりずっと気が強く、言いたいことははっきり言う。面倒そうな顔をしながら人の世話を焼き、仲間の話をする時には本人も気づかない程度に声が柔らかくなる。
自分が何かを隠していると気づいても、無理に踏み込んではこなかった。
そして今日。
そのライカが、グレイの従者だと知った。
「……よりによって、そこか」
ロイは額へ手を当てた。
思い出すのは、遠く離れた場所から捉えた白銀の標的。
鉄を生み、圧縮し、風と距離を読みながら狙いを定めた。
放った一撃は狙い通り頭部へ入った。
普通なら死んでいる。
あの瞬間だけを見れば、失敗する要素などなかった。
だが、標的は立ち上がった。
真祖。
人間の常識では測れない相手だった。
「家族、ねえ……」
ライカの言葉が耳に残っている。
従者だからではない。
家族。
そう言った時の表情まで覚えていた。
ロイは近くの壁へ背を預ける。
自分が頭を撃ち抜いた女を、ライカは家族と呼んだ。
そしてライカは、目の前の男がその犯人だとは知らない。
「これ、言ったら怒るよな」
考えるまでもなかった。
怒るだろう。
あの気の強さなら、その場で鉄扇が飛んできても不思議ではない。
それだけならまだいい。
数日前、果物を洗って渡してきた手。
今日、何気なく自分の名前を呼んだ声。
グレイについて話した時に見せた表情。
それらが頭から離れない。
「……面倒なことになった」
面倒事は嫌いだった。
仕事に命を懸ける趣味もない。
召喚されたから来た。
対価を受け取り、残された願いがあったから標的を撃った。
殺せなかったなら、方法を変えてもう一度狙えばいい。
本来なら、それだけの話だった。
なのに、次に攻撃を仕掛ける相手をライカは家族と呼ぶ。
その事実だけが、妙に重かった。
◇
「遅かったっスね、ねーちゃん」
宿へ戻ると、窓辺にいたライアンがすぐに振り返った。
「買い物ですよ」
「昼前に出たっスよね?」
「食事もしていました」
「一人で?」
「……何ですか、その聞き方は」
ライアンの顔を見る。
嫌な予感がした。
「いやあ。まさかまた、ロイと会ったのかなって」
「何で分かるんですか」
「当たったんスか?」
ライアンが楽しそうに卓上へ振り返る。
「姫さん、また当たったっスよ」
卓にはグレイとセバスがいた。
セバスは茶を淹れており、グレイは小さな金属部品を指先で弄っていたが、ライアンの声に顔を上げる。
「また会ったの?」
「そうですよ。一緒に昼を食べてきました」
「随分仲良くなったな」
「……そこは今どうでもいいんですよ」
普段なら言い返すところだが、ライカの声にいつもの勢いがない。
セバスがそれに気づき、茶器を置いた。
「何かあったのか?」
低く落ち着いた声に、ライカは一度セバスを見てからグレイへ視線を向けた。
「……お姫ちゃん。ロイがお姫ちゃんを知っていました」
部屋の空気が僅かに変わった。
ライアンの笑みが消え、セバスの視線も鋭くなる。
グレイだけは大きく表情を変えず、手にしていた金属部品を卓上へ置いた。
「どこで会ったって?」
「そこまでは言いませんでした。私が名前を出した途端に様子が変わって、白銀の髪か、吸血鬼かと聞いてきましたよ」
「それなら俺だろうな。この辺に同じ名前の白銀の吸血鬼が何人もいるとは思えないし」
「そこは私も疑ってません。問題は、どうして知っているのかです。遠くから見たことがあるとは言っていましたけど、詳しく聞いたら急に誤魔化し始めました」
ライアンが窓辺から離れる。
「そいつ、ねーちゃんが姫さんと一緒にいるって最初から知ってたんスか?」
「いえ。それは違うと思います」
「何で言い切れるんスか?」
「私が従者だと話した時の反応ですよ。あれは本当に知らなかった人間の反応でした。少なくとも、最初から私を使ってお姫ちゃんへ近づこうとしていたようには見えません」
「ねーちゃんがそう見るなら、そうなんでしょうけど……」
ライアンは腕を組んだまま考え込む。
グレイも少し考えてから口を開いた。
「俺を知ってること自体は、そこまで変じゃないと思う。アークレシアじゃ結構目立ったし、それより前にも色んな場所を歩いてるからな。気になるのは、ライカに聞かれても話せない理由があるってことだろ」
「そうですね」
「それと、ライカに何かするつもりだったなら、もう機会は何度もあったはずだ。二人で会ってたんだろ?」
「ありましたよ」
「なら、今の段階で敵だって決める材料も足りない。もちろん警戒はした方がいいけど、俺を知ってるってだけで全部疑ってたら旅なんてできないしな」
ライアンがグレイを見る。
「姫さん、ちょっと警戒薄くないっスか?」
「薄くしてないよ。分からないから決めつけないだけだ。それに、ライカが何度も会って何もされてないなら、その事実もちゃんと見た方がいいだろ」
そう言ってから、グレイはライカへ視線を向けた。
「ただ、次に会って何か変だと思ったら、一人で全部どうにかしようとするなよ。ライカが強いのは知ってるけど、それと俺たちが心配しないのは別だから」
ライカは僅かに目を細めた。
「分かっていますよ。お姫ちゃんこそ、知らない相手に興味を持ったからって勝手に会いに行きやがらないでくださいね」
「何で俺が怒られてるんだよ。まだ会いに行くなんて言ってないだろ」
「まだ、でしょう?」
「……そこは否定しにくいな」
ライアンが小さく笑う。
「姫さん、自覚あるんスね」
「俺だって自分のことくらい分かってるぞ」
「それ、どのくらい信用していいんスか?」
「ライアンよりは信用できると思う」
「急に俺へ飛んできたっスよ」
僅かに空気が緩む。
しかし、セバスだけはしばらく黙っていた。
ライカがその様子に気づく。
「セバス?」
「今の段階では何とも言えん。ただ、グレイ様を知りながら理由を伏せたのなら、次に会うことがあれば注意して見ておけ。敵意がなくとも、何かを隠しているのは確かだろう」
「そのつもりですよ」
「それでいい」
セバスはそれ以上言わなかった。
ライカも買ってきた荷物の整理へ戻る。
けれど、頭にはグレイの名前を聞いた瞬間のロイの顔が残っていた。
あの男は何を知っているのか。
何を隠しているのか。
答えはまだない。
◇
夜が深まり、街の明かりが一つずつ減っていく。
宿から離れた建物の屋根に、ロイは一人で座っていた。
昼間の暖かさはもう残っていない。冷えた風が頬を撫で、遠くから酔客の笑い声が微かに聞こえてくる。
膝を立て、その上へ腕を置く。
視線の先。
いくつもの屋根を越えた場所に、ライカたちが泊まっている宿があった。
今日、初めて知った。
探していた標的は、思っていたよりずっと近くにいる。
場所さえ分かれば、今夜仕掛けることもできる。
正面から行く必要などない。
一度目の狙撃で頭部を撃ち抜くだけでは足りないことも分かっている。次は別の方法を考えればいい。
ロイは右手を持ち上げた。
掌の上に土色の魔力が集まり、やがて小さな鉄塊へ形を変える。月明かりを僅かに返す冷たい金属を、指先で転がした。
その時、昼間のライカの声が蘇った。
『私はお姫ちゃんの従者です』
そして、もう一つ。
『家族ですよ』
ロイは鉄塊を握り込んだ。
数秒そのままでいたが、やがて手を開く。
鉄は形を崩し、細かな粒となって夜風へ散っていった。
「今日はやめとくか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
理由ならいくらでもある。
まだ標的の情報が足りない。
一度失敗している以上、次は確実に仕留めるべきだ。
宿の中には複数人いる。今動けば、余計な邪魔が入る可能性もある。
どれも間違いではない。
ただ、その中に一つだけ、ロイ自身が考えないようにしている理由があった。
次にライカと会えば、また同じように名前を呼ばれるかもしれない。
その時。
自分が何者なのか。
グレイに何をしたのか。
すべてを知られたら、ライカはどんな顔をするのだろう。
「……本当に面倒だな」
今度の言葉には、昼間までとは違う苦さが混じっていた。
これまでは、どう殺すかを考えればよかった。
それなのに今は、殺さない理由を探している。
契約の標的はすぐそこにいる。
にもかかわらず、頭に浮かぶのは白銀の吸血鬼ではなく、金色の髪を揺らしながら自分の名前を呼んだ女だった。
ロイはしばらく宿の方角を眺めたあと、静かに立ち上がる。
今夜、二度目の一撃を放つことはなかった。
数日前まで偶然出会っただけだった女は、いつの間にかロイにとって、簡単には切り離せない存在になり始めていた。




