第4話 知らない男
朝の街は、昨日とは少し違う顔を見せていた。
大通りを行き交う人の数はまだ少なく、開いたばかりの店先では商人たちが木箱を運び、軒下へ商品を並べている。石畳には夜の冷たさがわずかに残り、建物の隙間を抜ける風にも朝らしい涼しさがあった。
そんな通りを、ライカは買い物籠を片手に一人で歩いていた。腰にはいつもの鉄扇が下がっている。
宿を出てから、まだそれほど時間は経っていない。
昨日この街へ着いたばかりということもあり、今日はしばらく滞在するために必要な物を揃えることになっていた。本来なら四人で出るところだったが、買い出しくらいなら一人で十分だとライカが言ったのだ。
それに真っ先に反応したのは、やはりライアンだった。
『ねーちゃん一人で大丈夫っスか?』
聞いた瞬間、ライカは思わず兄の顔を見返した。
『にーちゃん。それ、本気で言ってやがります?』
『いや、そういう意味じゃないっスよ。昨日のこともあるし、一応――』
『狙われたのはお姫ちゃんでしょうが。私まで宿から出るなって言うなら、にーちゃんの方こそ大人しく部屋にいやがってください』
それでライアンは黙った。
セバスも止めはしなかったが、宿を出る直前に「何かございましたら、無理に一人で片付けようとなさらぬよう」とだけ言われた。
自分は守られるだけの存在ではない。
そう言い返したい気持ちはあったものの、昨日グレイが何の前触れもなく頭部を撃ち抜かれたばかりなのだから、三人が普段より神経質になっている理由も分かっている。
結局、ライカは何も言わずに手だけ振って宿を出た。
そんな中、グレイだけは少し違っていた。
『帰ったら俺も街を見たいから、面白そうな店があったら覚えといてくれる? 昨日は宿までしか見てないし、まだ全然歩けてないから』
昨日まで自分を撃った相手についてあれほど考えていたというのに、それはそれとして知らない街への興味は失っていないらしい。
思い出したライカの口元が、僅かに緩んだ。
「本当に、切り替えだけは早いんですから」
もっとも、それでこそグレイなのだろう。
ライカは通りの角を曲がり、そのまま街の南側にある市場へ向かった。
◇
朝市が開かれている広場には、近隣の農村から運ばれてきた野菜や果物、乾燥させた肉や魚、香辛料や布、日用品に旅人向けの保存食まで、様々な商品を並べた露店が軒を連ねていた。
朝が深まるにつれて客も増え始め、店主たちの呼び込みと値段を交渉する声があちこちから聞こえてくる。
「これ、もう少しありません?」
ライカが乾燥させた果実を指差すと、店主の女が箱の中を確認した。
「裏にもう一箱あるよ。旅用かい?」
「そんなところです。しばらくこの街にはいると思いますけど、その後はまた移動しますから」
「なら少し多めに持っていきな。これは日持ちするよ」
「じゃあ、それもお願いします」
必要な物を籠へ入れながら、ライカは周囲の店も確認していた。
急ぐ必要はない。食料や日用品を揃えるついでに、どこに何があるのか覚えておけば後で困らないし、グレイから頼まれた通り、面白そうな場所も見ておきたかった。
市場の奥には菓子を扱う店があり、少し離れた通りには装飾品を並べた店も見える。
その中で、ふと目に留まった店があった。
「……あれは連れてきたら駄目ですね」
通りの先に、大量の武具を並べた店がある。
見慣れない形の武器までいくつも飾られており、グレイ本人が欲しがるかどうかはともかく、セバスと二人で眺め始めれば長くなるのは目に見えていた。そこへライアンまで加われば、買い物どころではなくなる。
「後で聞かれても黙っておきましょう」
誰に言うでもなく呟き、ライカは買い物を続けた。
籠の半分ほどが埋まった頃、市場を出たところで足を止める。
目の前の道を、三人の男が塞いでいた。
最初は偶然かと思ったものの、ライカが右へ寄れば男たちも右へ動き、左へ避けようとすれば同じように進路を塞いでくる。
ライカは面倒そうに眉を寄せた。
「……何か用です?」
一番前にいた男が、にやりと笑う。
「いやいや。随分綺麗な姉ちゃんが一人で歩いてるからさ。ちょっと話でもしようと思って」
「私はしたくありません。用がそれだけなら、さっさと道を空けやがってください」
「そう言うなって」
男が一歩近づいたところで、鼻につく酒の匂いが漂ってきた。
朝から飲んでいたらしい。後ろにいる二人も同じような顔で笑っている。
「この辺じゃ見ない顔だよな。旅人か?」
「答える必要あります?」
「冷たいねえ」
ライカは小さく息を吐いた。
面倒ではあるが、危険ではない。
三人の足運びや重心、腰に下げている武器を見れば、まともに鍛えている者ではないことくらいすぐに分かる。鉄扇を抜くまでもなく、素手だけで十分に片付けられる相手だった。
むしろ、気になったのは別のことだった。
市場のすぐ近くなのだから、通りには当然多くの人間がいる。
商人や買い物客だけでなく、武器を携えた冒険者らしい者の姿まであった。
何人かと目が合った。
しかし、誰も近づいてこない。
視線が合えばすぐに逸らされ、気づいていないふりをして通り過ぎていく。
「……へえ」
ライカの目が僅かに細くなった。
誰も気づいていないわけではない。ただ、面倒事へ関わりたくないのだ。
それ自体を責めるつもりはない。
自分たちだって旅の途中で見かけたすべての揉め事へ首を突っ込むわけではないし、見知らぬ相手のために危険を冒すことを当然だとも思っていない。
それでも、ここまで露骨に見て見ぬふりをされると少し呆れる。
「姉ちゃん、聞いてんのか?」
男が痺れを切らしたように手を伸ばしてきた。
ライカは買い物籠を左手へ持ち替えながら、右足を半歩だけ引く。
伸びてくる手首を取り、そのまま重心を崩せば一人。
後ろの二人が来るなら、続けて片付ければいい。
そう判断し、動こうとした瞬間だった。
「その辺にしといたらどうだ?」
知らない男の声が飛んできた。
ライカの動きが止まり、三人の男たちも揃って声のした方へ振り返る。
通りの端。
建物の壁へ寄りかかるようにして、一人の男が立っていた。
旅装姿で、目立つ武器は持っていない。少し眠そうにも見える顔でこちらを眺めており、少なくともライカには見覚えのない男だった。
「……あ? 何だお前」
ゴロツキの一人が睨みつける。
「いや、別に」
男――ロイは壁から背を離すと、面倒そうに頭を掻いた。
「朝から随分うるさいなと思ってな。そっちの人も嫌がってるみたいだし、その辺でやめとけよ」
「関係ねえだろ」
「そうだな」
あまりにもあっさり認められ、男たちが一瞬黙る。
ライカも僅かに眉を上げた。
「じゃあ引っ込んでろ!」
「それでもいいんだけどな」
ロイは困ったように息を吐いた。
「ここまで見ちまってから何もしないってのも、後でちょっと気になりそうなんだよ。俺もなるべく揉めたくないから、できれば大人しくどっか行ってくれないか?」
声には気怠さすら混じっている。
正義感に燃えているようには見えず、格好をつけようとしている様子もない。
本当に、目の前の状況を見てしまったから仕方なく出てきた。
そんな調子だった。
それが、ライカには少し意外だった。
「てめぇ……格好つけてんじゃねえぞ!」
「そう見えるなら困るな。俺は本当に、なるべく揉めたくないんだけど」
「だったら消えろ!」
一人がロイの胸倉へ手を伸ばした。
ロイは大きく避けようとはしない。
掴まれる直前、その手首へ軽く触れただけだった。
「だから、やめとけって」
次の瞬間、男の身体が大きく傾いた。
「ぐっ!?」
何をしたのか、ライカには見えていた。
手首を外へ逸らしながら肘の向きを変え、男自身が前へ出てきた勢いをそのまま利用したのだ。
派手な動きではない。
力任せでもない。
ただ、無駄がなかった。
男は何が起きたのか理解できないまま石畳へ膝をつく。
「痛ぇ! 離せ!」
「暴れるともっと痛いぞ」
「てめぇ!」
残りの二人が動いたところで、ロイは小さくため息をついた。
「だから面倒なんだよな」
一人目の手を離した直後、正面から拳が飛んでくる。
ロイは半歩だけ身体をずらした。
拳が空を切り、勢い余って前へ出た男の足元へロイの靴先が軽く触れる。
「うおっ――!」
体勢を崩した背中を押され、男はそのまま石畳へ転がった。
残った一人が腰の短剣へ手を伸ばす。
その瞬間だけ、ロイの顔から気怠そうな雰囲気が消えた。
「それはやめろ」
低い声だった。
短剣が鞘から抜かれるより先に距離を詰め、腕を押さえながら身体を捻る。
「いっ……!」
「殴り合いで終わるならまだいいけど、刃物を出したら話が変わる。お前もそこまでやるつもりじゃないだろ?」
「は、離せ……!」
「じゃあ抜くなよ」
ロイが手を離すと、男は顔を歪めながら数歩後ろへ下がった。
三人とも、もう先ほどまでの勢いはない。
「まだやる?」
ロイが尋ねても返事はなかった。
最初に倒された男が立ち上がり、仲間へ目配せする。
「……覚えてろよ」
「たぶん覚えないと思う」
「てめぇ!」
「もう行くぞ!」
仲間に引かれ、三人は捨て台詞を残したまま通りの向こうへ消えていった。
その背中を見送り、ロイは疲れたように息を吐く。
「朝から余計なことしたな……」
「大して動いてなかったでしょうが」
背後から声をかけられ、ロイが振り返った。
買い物籠を持ったまま、ライカが立っている。
「……まあ、見てたなら分かるか」
「見てましたよ。というか、絡まれてたのは私なんですけど」
「それもそうか」
ロイが少し笑う。
ライカは目の前の男を改めて眺めた。
やはり旅人らしい格好で、派手な装備は何一つない。先ほど三人を追い払った時にも強さを見せつけようとはせず、必要なことだけをして終わらせていた。
「一応、ありがとうございます」
「別にいいよ。大したことしてないし」
「ええ。私一人でも平気でしたから」
「……やっぱり?」
ロイが僅かに目を細める。
視線が一度、ライカの腰にある鉄扇へ落ちた。
「気づいてたんです?」
「途中でな。あいつが手を伸ばした時、もう動くつもりだっただろ。重心が変わってた」
「だったら助けなくてもよかったんじゃないです?」
「気づいた時にはもう声掛けた後だったからな。今さら『やっぱり一人で大丈夫そうだから頑張って』って帰るのも変だろ」
「引っ込みがつかなかったと」
「それもある」
あっさり認めるロイを見て、ライカは思わず笑った。
「本当に変な人ですね」
「よく言われる」
「でしょうね」
そこで一度、会話が途切れた。
騒ぎが終わったと分かると、周囲にいた人々は何事もなかったかのようにそれぞれの用事へ戻っていく。
ライカはその様子を眺めてから、ぽつりと口を開いた。
「……誰も来なかったのに、あなたは来たんですね」
「ん?」
ロイも周囲へ視線を向け、それだけで言葉の意味を理解したらしい。
「ああ。そのことか」
「面倒だったんでしょう?」
「面倒だったな」
「なら、どうしてです?」
聞かれたロイは少しだけ考えた。
しかし、答えを探すのにそれほど時間はかからなかった。
「見ちまったからかな」
「それだけです?」
「それだけだな。別に正義感が強いわけじゃないし、世の中の揉め事全部に首を突っ込んでたら時間がいくらあっても足りない」
「でしょうね」
「でも、目の前で見て、嫌がってるのも分かって、それでも何もしないで通り過ぎたら……たぶん後で少し気になる。それが嫌だっただけだよ」
ロイはそれ以上、自分の行動を飾ろうとはしなかった。
善人らしく振る舞うでもなく、自分が格好いいことをしたと誇るでもない。
見てしまったから動いた。
それだけらしい。
ライカは小さく頷いた。
「そうですか」
少しだけ、この男に興味が湧いた。
「名前、聞いても?」
「俺?」
「他に誰がいるんです?」
「それもそうか。ロイだ」
「ロイ」
「ああ」
「私はライカです」
名前を聞いたロイの視線が、一瞬だけ止まった。
「ライカ、か。覚えやすいな」
「そうですか?」
「ああ」
そう答えながら、ロイは改めて目の前の女を見る。
金色の髪に整った顔立ち。頭には獣人特有の耳があり、先ほど男三人に囲まれていた時にも怯えた様子はなかった。
最初に目に入った時から、綺麗な女だとは思っていた。
だから声を掛けた――わけではない。
少なくとも、ロイ自身はそう思っている。
「……何です?」
視線に気づいたライカが怪訝そうな顔をした。
「さっきから見すぎですよ」
「ああ、悪い。綺麗だなと思って」
「……は?」
あまりにもそのまま言われたため、ライカの反応が一瞬遅れた。
当のロイには格好をつけた様子すらない。
「そういうの、普通そのまま言います?」
「言わない方がよかったか?」
「別に嫌ではありませんけど……急すぎるでしょうが」
「見すぎだって言われたから、理由を答えただけなんだけどな」
「私は理由まで聞いてませんよ」
「そうだったな」
ロイが笑う。
ライカは呆れたように眉を寄せた。
「あなた、結構適当ですね」
「そうかもしれない」
「そこも否定しないんです?」
「違うと思ったら否定するけど、今のはたぶん合ってるからな」
「……やっぱり変な人」
「それ、さっきも言われたぞ」
「訂正する理由が増えませんから」
そう言いながらも、ライカの口元は僅かに緩んでいた。
本来なら、助けてもらった礼を言って、それで終わりだったはずだ。
けれど、このまま別れるのは少し惜しい。
もう少し話してみたい。
今のところ、それ以上でもそれ以下でもない興味だった。
「ロイ。この後、時間あります?」
「あるけど」
「なら、お茶でもどうです? 一応助けてもらいましたし、何もせずに別れるのも私が落ち着きませんから」
ロイが少し意外そうに目を瞬いた。
「礼ならさっき言われたけど」
「言葉だけじゃ足りない気がしたんですよ。別に嫌なら構いませんけど」
「嫌じゃない。せっかく誘ってもらったし、俺ももう少し話してみたいからな」
返事が思った以上に早く、ライカが僅かに目を細める。
「即答ですね」
「駄目だった?」
「いいえ。それなら行きましょう。市場へ来る途中に、近くで茶を出してる店を見かけましたから」
二人が歩き始めたところで、ロイがライカの籠を見る。
「それ、持とうか?」
「これくらい自分で持てます」
「そうだな」
「……そこは少しくらい食い下がらないんです?」
「自分で持てるって言われたからな」
ライカは数秒ほどロイを見つめた後、今度こそ声を出して笑った。
「本当に変な人ですね」
「また増えたな」
◇
店は市場から少し離れた通りにあった。
大通りほど騒がしくなく、店内には茶葉の穏やかな香りが漂っている。二人は通りに面した窓から柔らかな光が差し込む奥の席へ座った。
ライカは買い物籠を足元へ置き、向かいに座ったロイへ品書きを向ける。
「何にします?」
「任せるよ。この街の店はまだほとんど知らないんだ」
「あなたも旅人なんです?」
「ああ。最近この辺に来たばかり」
「私たちと同じですね」
「……たち?」
「連れがいるんですよ。今は宿にいますけど」
ロイが僅かに視線を上げる。
「何人?」
「三人です。私を入れて四人ですね」
「四人旅か」
「そんなところです」
ライカは特に気にした様子もなく答え、ロイもそれ以上は尋ねなかった。
やがて注文した茶が運ばれてくる。
湯気と一緒に香りが立ち上り、ライカは一口飲んでから満足そうに茶器を置いた。
「悪くないですね」
ロイも続いて口をつける。
「確かに」
「感想それだけです?」
「茶に詳しくないんだ」
「じゃあ私に任せたの、正解だったんですか?」
「少なくとも俺が適当に選ぶよりは正解だったと思う」
「そういうことですか」
そんな他愛のないやり取りから始まった会話は、不思議と途切れなかった。
どこから来たのか。
この街へいつ着いたのか。
普段何をしているのか。
ただし、互いに深いところまでは踏み込まない。
ライカは自分が人形であることを話さず、グレイの名前も、ライアンやセバスのことも必要以上には口にしなかった。
ロイも当然、自分が悪魔であることや、この街でグレイを探していることなど話さない。
互いに見せているのは表面だけだ。
それでも、会話を退屈だとは感じなかった。
「ロイは冒険者なんです?」
「違う」
「じゃあ傭兵?」
「それも違うな」
「さっきの動きを見た後だと、普通の旅人だと言われても信じにくいんですけど」
「旅してたら多少は身を守れないと困るだろ」
「多少で三人をほとんど触らせずに追い払います?」
「相手が大したことなかったからな」
「それは同意します」
ライカは茶器を置きながら、ロイを真っ直ぐ見た。
「でも、最後の一人が刃物を抜こうとした時だけ、少し空気が変わりましたよね」
「そこまで見てたのか」
「見ますよ。助けられてる側だからって、ぼーっと眺めてるほど大人しくありませんから」
「それは最初から分かってたよ」
「どこで?」
「絡まれてた時。怖がってなかっただろ。むしろ、いつ手を出してきても動けるようにしてた」
ロイは茶器を傾けながら続ける。
「俺が入らなかったら、あの三人どうするつもりだった?」
「最初の一人を投げて、残りが来るならそのまま片付けるつもりでした」
「やっぱり本当に俺いらなかったな」
「だから最初から言ってるでしょう。別に助けてもらわなくても平気だったって」
「悪かったよ」
「謝れとは言ってません」
ライカが呆れた顔をすると、ロイは困ったように笑った。
「難しいな。助けなくてもいいのに、助けたら礼を言われて、でも助けは必要なかったって言われる」
その言葉に、ライカは少しだけ考えた。
「……助けは必要ありませんでしたけど、嫌ではなかったですよ」
ロイの手が止まる。
「そうなのか?」
「誰も動こうとしませんでしたからね」
ライカは窓の外へ目を向けた。
通りには多くの人が行き交っている。
「見てる人は何人もいました。でも、みんな目を逸らした。別に責めるつもりはありませんよ。関係ない揉め事に巻き込まれたくない気持ちは分かりますから」
「なら、俺も放っておいた方がよかったか?」
「それは嫌ですね」
返事は早かった。
ロイが少し笑う。
「やっぱり難しいな」
「今度はそうかもしれませんね」
ライカも釣られるように笑った。
「私は一人でも何とかできました。でも、あなたが動いたこと自体は嬉しかった。それだけですよ」
「なるほど」
「だからお茶に誘ったんです。助けてもらったお礼だけなら、さっき言葉で済ませてもよかった。でも、誰も動かなかった中であなたは動いた。それで、どういう人なのか少し気になりましたから」
ロイは向かいに座るライカを見る。
先ほど見すぎだと言われたばかりなので、今度はすぐに視線を茶器へ戻した。
「期待には応えられそう?」
「今のところ、思ってたより適当な人だとは分かりました」
「評価下がってないか?」
「でも、嫌いじゃないですよ」
ライカは何気なく言った。
今度はロイが一瞬黙る。
「……そうか」
「何です、その反応」
「いや。結構そのまま言うんだなと思って」
「誰かさんに言われたくありませんね」
「それは確かに」
二人の笑い声が重なった。
◇
店を出る頃には朝の冷たさもすっかり消え、通りを歩く人の数も増えていた。
ライカは買い物籠を持ち直す。
「じゃあ、私はそろそろ戻ります。あんまり遅いと、にーちゃんが本当に探しに来そうなので」
「兄貴がいるのか」
「双子ですよ」
「へえ。似てる?」
「顔はそこそこ。でも性格は……どうでしょうね。少なくとも、私はあそこまで落ち着きがないつもりはありませんけど」
「仲は良さそうだな」
「悪くはないですよ。面倒ですけど」
そう言いながら、ライカの表情は柔らかい。
ロイにも、それが本気で嫌がっている顔ではないことくらい分かった。
「そっちは?」
今度はライカから尋ねる。
「何が?」
「家族とか、一緒に旅してる人とか」
「今はいない。一人で動いてるよ」
「そうですか」
ライカはそれ以上聞かなかった。
旅をしていれば、誰にだって聞かれたくないことの一つや二つはある。
その程度の距離感は、長い旅の中で自然と身についていた。
二人は店の前で向き合う。
「今日はありがとうございました」
「もう礼はいいよ」
「これはお茶に付き合ってくれた分です」
「そっちか。なら、俺も楽しかったよ」
「それならよかったです」
そこで別れるはずだった。
ライカは数歩進んだところで、ふと足を止めた。
何となく振り返る。
ロイはまだ店の前にいて、ちょうど目が合った。
「ロイ。しばらくこの街にいるんです?」
「そのつもりだけど」
「なら、また会うかもしれませんね」
「広い街だぞ」
「会ったらって話ですよ。別に探して歩くとは言ってません」
「それもそうだな」
ロイは少し考えてから笑った。
「まあ、また会っても悪くない」
「私も同じです。次は変な人に絡まれてない時にしてください」
「俺が絡まれてたら?」
「気が向いたら助けてあげますよ」
「頼もしいな」
「あなたなら必要ないんでしょうけどね」
ロイはそこで、先ほど店の中で聞いた言葉を思い出した。
「それでも、嫌じゃないよ」
ライカが一瞬だけ目を丸くする。
「……そういうの覚えてるんですね」
「意外だった?」
「少しだけ」
「じゃあ次に会ったら、その辺の評価も訂正してくれ」
「考えておきます」
ライカは軽く手を上げると、今度こそ人混みの中へ歩き出した。
金色の髪が少しずつ遠ざかっていく。
ロイはその後ろ姿をしばらく眺めていた。
「ライカ、か」
本人にも言った通り、覚えやすい名前だった。
それだけのはずなのに、もう一度声に出してみたくなった。
「……綺麗だったな」
容姿だけではない。
三人の男に囲まれても動じず、助けた後には必要なかったとはっきり言う。それでいて、周囲の誰も動かなかった中でロイが動いたことは、きちんと見ていた。
面白い女だった。
また会えたなら、もう少し話してみたい。
今はその程度で十分だった。
ロイはそれ以上考えず、人の増え始めた通りへ歩き出した。
◇
「ただいま戻りました」
宿の部屋へ入り、ライカが扉を閉める。
その音に反応して、椅子に座っていたライアンがすぐに振り返った。
「遅かったっスね、ねーちゃん」
「予定より少し遅れただけでしょうが。大げさに言いやがらないでください」
「いや、買い物にしては長かったなって思っただけっスよ」
「市場が広かったんですよ。それに途中でお茶してましたから」
「一人で?」
「一人じゃありません」
言ってから、ライカ自身も少しだけ間違えたと思った。
案の定、ライアンの動きが止まる。
机に座っていたグレイまで顔を上げ、窓辺にいたセバスもこちらを見た。
「誰と?」
グレイが尋ねる。
ライカは買い物籠を机の脇へ置いた。
「知らない男です」
「知らない男とお茶したの?」
「その言い方やめてもらえます?」
「でも知らない男だったんだろ?」
「会った時はですよ。今は名前くらい知ってます」
ライアンが椅子から身を乗り出した。
「ねーちゃん、何があったんスか?」
「別に大したことじゃありません。市場を出たところで三人組に絡まれて、その人が間に入ってきただけですよ」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
グレイがすぐに椅子から立ち上がる。
「絡まれたって、怪我はしてない? 相手は武器とか持ってたの?」
視線がライカの全身を確かめるように動く。
予想以上の反応に、ライカは少しだけ目を瞬いた。
「お姫ちゃん、落ち着いてください。怪我なんてしてませんよ。私一人でもどうにでもなる相手でしたから」
「それならいいけど、昨日のこともあるだろ。何か変な奴だったなら、ちゃんと教えてくれ」
「大丈夫です。昨日の狙撃とは関係ないと思いますよ。絡んできたのは、どこにでもいそうな酔っ払いでしたから」
怪我がないと分かり、ようやくグレイの肩から僅かに力が抜けた。
それを見たライカが小さく笑う。
昨日は自分に気にするなと言っていた本人が、立場が逆になればこれなのだから、やはり似たようなものなのだろう。
「それで、その男が助けたんスか?」
今度はライアンが尋ねた。
「そうですよ。私が動くより先に入ってきたんです」
「ねーちゃんが助けられたって、珍しいっスね」
「そこに引っかかるんですか。別に助けてもらわなくても平気だったって、本人にもちゃんと言いましたよ」
「ねーちゃん、助けてくれた人にそれ言ったんスか?」
「言いましたよ。その代わり、お礼にお茶までご馳走したんですから十分でしょうが」
「なるほど。それでお茶か」
グレイが納得したように頷いた。
「その人、いい奴だった?」
聞かれたライカは、すぐには答えなかった。
「……どうでしょうね。悪い人には見えませんでしたけど、今日会ったばかりですから。いい人だって決めるには早いでしょう」
「それもそうだな。でも、ライカがまた話してもいいと思ったなら、面白い奴だったんだろ?」
「どうしてそうなるんです?」
「興味なかったら、お礼だけして別れればいいじゃん。わざわざお茶に誘って、また会ってもいいと思ったんだろ?」
「お礼もありますよ」
「それだけ?」
「……それだけではないですけど」
そこでライアンが僅かに反応した。
「へえ」
「にーちゃん」
「何も言ってないっスよ」
「顔がうるさいんですよ」
「ねーちゃんまで顔で判断するようになってないっスか? それ、最近の姫さんと同じっスよ」
「黙りやがってください」
ライアンが笑う横で、グレイは少し首を傾げた。
「名前は?」
「ロイです」
その名を聞いても、三人の誰にも反応はなかった。
当然だった。
グレイたちが知っているのは、自分たちの感知できないほど遠くからグレイの頭部を撃ち抜いた何者かがいるということだけだ。
その男の顔も、名前も知らない。
「ロイか」
グレイは一度だけその名前を繰り返した。
「また会えるといいな」
「別に約束したわけじゃありませんよ。街で会ったら、また話してもいいってだけです」
「それなら似たようなもんだろ。嫌な奴なら、もう一度会ってもいいなんて思わないし」
「……まあ、それはそうですね」
ライカは籠から買ってきた物を取り出しながら、僅かに口元を緩めた。
「少なくとも、もう一度くらいなら会っても悪くないですよ」
グレイはその横顔を見て、少しだけ笑った。
「そっか。それならよかった」
「何がです?」
「ライカが楽しそうだから」
ライカの手が止まった。
「……お姫ちゃん」
「何だよ」
「そういうところだけ妙に気づくの、やめてもらえません?」
「何で?」
「何でもです」
ライカが少しだけ顔を逸らす。
それを見たライアンが何か言おうと口を開きかけた。
「にーちゃん」
「まだ何も言ってないっス」
「言う前に止めてるんです」
グレイが笑い、セバスもそのやり取りを眺めながら僅かに表情を緩めた。
昨日の狙撃から四人の間に残っていた張り詰めた空気も、その時だけは少し薄くなっていた。
◇
夜。
ロイは宿の窓辺に立っていた。
昼間とは違い、通りにはいくつもの灯りが並び、酒場から漏れる笑い声や馬車の音が途切れることなく続いている。
どうやらこの街は、夜になった程度では静かにならないらしい。
ロイは窓枠へ肩を預けながら、ぼんやりと外を眺めていた。
頭に浮かんでいるのは、白銀の標的ではない。
金色の髪と鉄扇。
少し変わった言葉遣い。
そして、茶を飲みながら聞いた言葉だった。
『私は一人でも何とかできました。でも、あなたが動いたこと自体は嬉しかった。それだけですよ』
「……ライカ」
もう一度、その名前を口にする。
今日会ったばかりの女だ。
綺麗だと思った。
話していて退屈しなかった。
何より、自分に媚びるでもなく、必要なことは必要だとはっきり言うところが気に入った。
また会えば、もう少し話してみたい。
今はそれだけだった。
ロイは窓から離れ、寝台の方へ向かう。
明日になれば、今度こそ本来の目的へ戻るつもりだった。
グレイ。
自分が頭を撃ち抜き、それでも立ち上がった女。
こちらも気になる。
頭部を貫いても死なないのであれば、どこまで再生するのか。次は何を狙えば殺せるのか。その前に、もう少し相手について調べておく必要もある。
「まあ、急ぐ必要もないか」
標的は同じ街のどこかにいる。
そして、今日出会ったライカもこの街にいる。
その二人が同じ宿の同じ部屋で、自分について話していたことなど――。
ロイはまだ、知るはずもなかった。




