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白銀の旅路  作者: 人形遣い
第四章『悪魔の居場所』

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第2話 侯爵級悪魔


 王城の地下深く。


 厚い石壁に囲まれた宝物庫は、地上の喧騒から切り離されたように静まり返っていた。


 天井近くに埋め込まれた魔法灯が淡い光を落とし、整然と並んだ武具や宝飾品の輪郭だけを暗がりの中へ浮かび上がらせている。


 その最奥。


 第三王子は、一つの台座の前に立っていた。


 ここへ足を踏み入れた時にはまだ残っていた迷いも、今はもう薄い。


 頬には昼間に受けた拳の痛みが残っている。治療を拒んだため、腫れも引いていなかった。


 だが、それ以上に消えないものがある。


 広場に響いた笑い声。


 自分へ背を向け、そのまま立ち去った白銀の女。


 何度思い返しても、腹の底から熱が込み上げてくる。


「……私を馬鹿にしたことを、後悔させてやる」


 王子の指先が、台座の上へ伸びる。


 そこに置かれていた国宝へ触れた瞬間、冷たい感触が掌へ伝わった。


 父王から聞かされていた話を、王子は覚えている。


 決して軽々しく使ってはならない。


 王家が滅亡の危機に瀕した時にのみ、その使用を許される。


 それほどまでに危険なもの。


 だが、王子にとって今は、それを使わない理由の方が見つからなかった。


 グレイは強い。


 龍神祭の武闘大会を勝ち抜き、その後には神聖国が崇める龍神と戦ったとも聞いている。


 兵を送ったところで意味はない。騎士を集めたところで結果は同じだろう。


 ならば、人間ではないものを使えばいい。


 王子は国宝を手に取った。


     ◇


 宝物庫からさらに奥へ続く小部屋。


 普段は何も置かれていないその空間へ、王子は持ち込めるだけの宝を運ばせていた。


 金貨。宝石。魔力を宿した鉱石。


 王家に伝わる装飾品。


 そして、国宝。


 何をどれだけ用意すれば足りるのかなど、王子は知らない。ただ、価値のあるものを積み上げれば、それだけ大きな対価になると考えていた。


「殿下……本当に行われるおつもりですか」


 扉の外から、護衛の騎士が声を掛ける。


 王子は振り返らなかった。


「何度言わせる。誰も入れるな」


「しかし、陛下の許可もなく国宝を使用されるなど――」


「私が責任を取る。誰も近づけるな。父上にも知らせる必要はない。終われば私から説明する」


「……承知いたしました」


 納得した声ではなかった。


 それでも騎士はそれ以上言わず、やがて扉が閉まる。


 王子は一人になった。


 小部屋の中央には、国宝を中心として用意された召喚のための場所がある。長い年月、誰にも使われてこなかったものだ。


 王子は教えられていた通りに国宝へ手を添えた。


 静かだった地下室の空気が変わる。


「……っ」


 肌を撫でる空気が、一気に冷えた。


 魔法灯が明滅し、積み上げていた宝石のいくつかから光が失われていく。


 続いて、金属が軋むような低い音が地下室へ広がった。


 足元に影が集まっていく。


 それは灯りによって生まれた影ではない。床の一点から滲み出すように現れ、ゆっくりと円を描きながら広がっていく。


 王子が一歩下がった。


「……これが」


 影が揺れる。


 同時に部屋の空気が重くなり、息を吸うだけで胸の奥を押されるような圧迫感が襲ってきた。


 王子は思わず喉を鳴らす。


 それでも逃げなかった。


 ここまで来て、引き返せるはずがない。


「来い。私の望みを叶えられる悪魔よ。対価ならここにある。金も宝石も、好きなだけ持っていけ」


 床の影が大きく広がった。


 積み上げられた宝物が、一つ、また一つと光を失っていく。


 魔力を宿していた鉱石は灰色に濁り、宝石には細かな亀裂が走る。金貨さえ形を保てず、乾いた音を立てて崩れた。


 王子の表情が引きつる。


「おい……」


 止まらない。


 用意した宝が次々と価値を失っていく。


 それでも影は消えない。


 むしろ、先ほどよりも濃くなっていた。


「十分だろう! これだけ用意したんだぞ!」


 返事はない。


 代わりに、足元から伝わる冷気だけが強くなっていく。


 そして。


『――足りない』


 初めて、声がした。


 低い声だった。


 決して大きくはない。それなのに耳からではなく、頭の内側へ直接響いたように感じられた。


 王子の身体が硬直する。


「何が……足りない」


『対価だ』


「これだけの宝がある!」


『それでも足りない』


 あまりにも淡々とした返答だった。


 王子の額に汗が浮かぶ。


「なら、何が必要だ」


 影が揺れる。


『召喚を望んだのは、お前だ』


「ああ、そうだ。だから必要なものを言え。金ならまだある。王城には他にも宝物が――」


『不要だ』


「ならば何だ!」


 一瞬。


 地下室から音が消えた。


 王子は息を呑む。


 次に響いた声は、先ほどまでと何も変わらなかった。


『足りない分は、お前で払え』


「……何?」


 理解が追いつかなかった。


 王子が一歩下がる。


「私で払うとは、どういう意味だ」


 答えを聞く前から、身体が拒絶していた。


 足元の影が王子の靴へ触れる。


 冷たい。


 そう感じた次の瞬間には、影が足首を越えていた。


「待て」


 王子が国宝から手を離そうとする。


 離れない。


「なっ……」


 指が動かなかった。


 まるで最初から一つの物だったかのように、掌が国宝へ張り付いている。


「待て! 私はそんなものを払うとは言っていない!」


『契約は始まっている』


「ふざけるな! 私は王族だぞ! 私の命がどれほどの価値を持つと思っている!」


『知らない』


 短い返答だった。


 王子の顔から血の気が引く。


『お前が誰であろうと、対価は対価だ』


「やめろ!」


 影が膝を越える。


 身体の奥から、何かが抜けていく。


 魔力ではない。血でもない。


 もっと深い場所にある、自分という存在そのものへ何かが食い込んでくる。


 肉体の命だけではない。


 その奥にある魂そのものを、少しずつ影の中へ引きずり込まれている。


 そんな感覚だった。


「やめろ……! 宝ならやる! 国宝もくれてやる! だから私は――!」


『では、願いは?』


 声が問う。


 王子の口が止まった。


 影はもう腰まで達している。身体から力が抜け、視界も暗くなり始めていた。


 逃げなければならない。


 やめさせなければならない。


 そのはずなのに。


 頭に浮かんだのは、昼間の広場だった。


 笑い声。


 白銀の髪。


 自分を殴った女。


『俺、お前に興味ないよ』


「……グレイ」


 王子の唇が震える。


 影が胸へ届いた。


「グレイを……」


 声が掠れる。


 それでも、最後の言葉だけははっきりしていた。


「グレイを殺せ……!」


『承知した』


 その瞬間。


 地下室の光が消えた。


     ◇


 扉の外で待っていた騎士が異変に気づいたのは、それから間もなくのことだった。


 扉の隙間から黒いものが流れ出している。


 煙ではない。


 影のようなものが床を這い、すぐに消えていく。


「殿下?」


 返事がない。


「殿下!」


 騎士は命令を無視して扉を開けた。


 中へ踏み込み――動きを止める。


「……殿下?」


 部屋の中央に第三王子が倒れていた。


 仰向けのまま、動かない。


 その周囲には、価値を失った宝物が散乱している。


 騎士が駆け寄った。


「殿下! しっかりなさってください!」


 肩へ触れる。


 反応はない。


 呼吸もない。


 胸へ耳を当てても、何も聞こえなかった。


「誰か! 誰か来い!」


 騎士の叫びが地下へ響く。


 足音が近づいてくる。


 その騒ぎの中。


 誰も気づかなかった。


 部屋の隅に残っていた影が、僅かに揺れたことに。


     ◇


 暗い。


 最初に浮かんだのは、その認識だった。


 次に感じたのは、重さ。


 指がある。


 腕がある。


 脚がある。


 肺へ空気が入り、胸が膨らむ。


 精神だけで存在していた時には必要のなかったものが、一つずつ感覚として戻ってきた。


 息を吐き、もう一度吸う。


「……なるほど」


 男は自分の声を聞いた。


 喉を震わせて音を出す。それだけの行為が、少し新鮮だった。


 ゆっくりと目を開く。


 見えたのは、夜の森。


 枝葉の隙間から月明かりが落ち、湿った土の匂いが鼻へ届く。


 男――ロイは、自分の右手を持ち上げた。


 指を一本ずつ動かし、掌を返す。


 握って、開く。


「ちゃんと動くな」


 受肉。


 召喚主が差し出した対価――その魂を使い、この世界で活動するための肉体が形作られている。


 ロイは立ち上がった。


 身体の状態を確かめるように肩を回し、首を傾ける。


 問題はない。


 記憶もある。


 そして、召喚主が最後に残した願いも。


「グレイを殺せ、か」


 知らない名前だった。


 恨みもない。


 会ったこともない。


 死んだ男に義理があるわけでもない。


 ただ、受け取った願いは残っている。


 捨ててもいい。


 そうする理由があるなら。


 けれど今のロイには、わざわざ捨てる理由もなかった。


「さて……まずは探すところからだな」


 ロイは周囲を見回す。


 怒りも使命感もない。


 自分を呼び出した男が、自らの魂まで差し出して殺したがった相手。


 どんな存在なのか。


 そこには、少しだけ興味があった。


「そこまでして殺したい相手なら、退屈はしないか」


 口元を僅かに緩め、ロイは歩き始めた。


 夜の森へ、その姿が溶けていった。


     ◇


 翌朝。


 グレイたちは街道を歩いていた。


 第三王子の国を離れてから一日。


 次の街までは、順調なら今日の夕方には着く。


 街道の左右には広い草原が続き、少し離れた場所を細い川が流れている。朝露を残した草が風に揺れ、時折その間から小さな虫が飛び立った。


 空には薄い雲があり、日差しも強くない。


 歩くにはちょうどいい気温だった。


「姫さん、昨日の王子、追ってこなかったっスね」


 ライアンが後ろ向きに歩きながら言う。


 グレイは少し考えた。


「追ってきても困るだろ。俺たちはもう国の外だし、あれだけ言えばさすがに分かったんじゃない?」


「どうっスかねえ。俺、あの人は分かってない方に賭けたいっス」


「何を賭けるんだよ」


「そこは今から考えるっス」


「考えてから言えよ」


 グレイが呆れたように返す。


 ライカがライアンの背中を軽く叩いた。


「にーちゃん、前向いて歩きやがってください。転んでも置いていきますよ」


「ねーちゃんは俺に冷たくないっスか?」


「何十年同じこと言わせるつもりです?」


「まだ言ってくれるなら大丈夫っスね」


「何が大丈夫なんですか」


 二人のやり取りが朝の街道へ流れていく。


 グレイはそれを聞きながら歩き、後ろからセバスが静かについてくる。


 しばらくして、グレイが足を少し緩めた。


「セバス」


「はい」


「昨日の王子、やっぱりもう一発くらい殴った方がよかったと思う?」


「なぜ私へお尋ねになるのでしょう」


「一番、拳に詳しいから」


「そういう問題ではございません」


 セバスは一度だけ目を閉じた。


「ただ、グレイ様が必要と判断された一撃であれば、あれで十分だったかと。必要以上に拳を振るうものではございません」


「俺もそう思ったから一発でやめた。でも、全然分かってなさそうだっただろ」


「拳で理解させるにも限界はございます」


「拳聖がそれ言うんだ」


「拳だからこそ、でございます」


 グレイは少しだけ笑った。


「それもそうか」


 ライアンが振り返る。


「姫さん、普通に会話してるっスけど、内容だけ聞くと結構物騒っスよ」


「王子を何発殴れば反省するかという話ですからね」


 ライカが平然と付け足す。


「ねーちゃんも大概っス」


「にーちゃんほどじゃありません」


「俺、何もしてないっスよ?」


 グレイは二人を見てから、前方へ視線を戻した。


 街道は遠くまで続いている。


 穏やかな朝だった。


 少なくとも、四人にとっては。


     ◇


 その頃。


 街道から遥かに離れた丘の上に、一人の男がいた。


 ロイは木陰に座り、遠くの街道を眺めている。


 距離がある。


 普通なら、人の顔どころか人数を確認することすら難しい。


 だが、ロイは焦らない。


 標的を探し始めてから、それほど時間はかからなかった。


 白銀の髪。


 四人組。


 女二人、男二人。


 召喚主から残された情報と一致する。


「……あれか」


 ロイは顎へ手を当てた。


 まだ撃たない。


 まず見る。


 標的の動き。周囲の三人。警戒の程度。


 戦い方までは分からなくても、普段の立ち振る舞いから拾えるものはある。


 正面から近づく必要はない。


 名乗る理由もない。


 殺せと言われた相手なのだから、殺せる場所から狙えばいい。


 わざわざ自分の得意な距離を捨ててまで、正面から力比べをする趣味はなかった。


 ロイは立ち上がる。


 街道からさらに距離を取るように、その場を離れた。


     ◇


 昼前。


 グレイたちは小さな石橋を渡った。


 下を流れる川は浅く、澄んだ水の底に丸い石が見える。


 橋を渡り切ったところで、グレイが川を見下ろした。


「魚いるな」


 ライアンがすぐに反応する。


「姫さん、今日は駄目っスよ。ここで始めたら絶対夕方まで動かなくなるっス」


「見ただけだろ。釣るなんて言ってない」


「顔がちょっと釣りたそうだったっス」


「そんな顔してた?」


「してましたよ、お姫ちゃん」


 ライカまで同意した。


 グレイがセバスを見る。


「グレイ様、私へ助けを求めるような目を向けられましても」


「まだ何も言ってないだろ」


「では、先へ参りましょう」


「……分かったよ」


 少しだけ名残惜しそうに川から目を離す。


 その様子を、遠方からロイが見ていた。


「……普通だな」


 思わず口から出た。


 自分を呼び出した男が、魂まで差し出して殺したがった相手。


 どれほど傲慢な怪物かと思えば、今のところは仲間と旅をしている女にしか見えない。


 周囲の三人との距離も近かった。


 護衛というより、仲間。


「何したんだ、お前」


 当然、答える者はいない。


 ロイは僅かに笑った。


 事情を知る必要はない。


 召喚主は死んだ。聞こうにも、もう聞けない。


 それに、事情を知ったところで撃つかどうかが変わるとも限らなかった。


「まあいいか。俺には関係ない」


 ロイは再び移動を始めた。


 狙うなら、街へ入る前。


 できれば人が少ない場所がいい。


 標的一人を狙うために、関係のない人間まで巻き込む必要はない。


 善人になるつもりはなかったが、余計なことをする趣味もなかった。


     ◇


 午後になると、街道を行く旅人が少し増えた。


 商人の馬車とすれ違い、冒険者らしい一団を追い越す。


 グレイたちは急いでいない。


 一定の速度で歩き続ける。


 道の先には低い丘陵が連なり、その向こうに目的の街があるらしい。


「あとどのくらい?」


 グレイが尋ねる。


 ライカが街道脇の標識を見る。


「この距離なら二時間もかからないと思いますよ。日が沈む前には十分着きます」


「じゃあ今日はそこで泊まろう」


「最初からその予定っスよ、姫さん」


「確認しただけだろ」


 ライアンが笑う。


 その後ろで、セバスが一度だけ周囲へ目を向けた。


 風が草原を渡り、丘の向こうへ抜けていく。


 特に異常はない。


「どうした?」


 グレイが気づいた。


「いえ。少々風向きが変わりましたので」


「何かいる?」


「今のところは何も」


「そっか」


 グレイも周囲へ目を向けた。


 気配はない。


 魔物の姿も見えない。


 四人はそのまま歩き続ける。


 誰も気づかなかった。


 丘をいくつも隔てた場所で、ロイが地面へ片膝をついたことに。


     ◇


 ロイは土へ手を触れた。


 魔力が地面へ流れ、土中に含まれるものを少しずつ拾い上げていく。


 必要なのは鉄。


 僅かに含まれるそれを一箇所へ集め、余計なものを取り除きながら形を整える。


 そして圧縮する。


 やがて指先ほどの小さな弾丸が出来上がった。


 ロイはそれを摘まみ、軽く眺める。


「これでいい」


 標的との距離は十分にある。


 近づく理由はない。


 むしろ近づけば、それだけこちらの存在に気づかれる可能性が高くなる。


 ロイは風を見る。


 草の揺れから空気の流れを読み、遠方へ視線を向けた。


 標的は歩いている。


 速度は一定。


 周囲の三人も同じ。


 狙うのは胴体ではない。


 確実に仕留めるなら、頭。


 最初から決めていた。


 ロイの視線が細くなる。


     ◇


「それで、街に着いたら何食うっスか?」


 ライアンが歩きながら尋ねた。


「着いてから決めればいいだろ」


「そう言って姫さん、変な店見つけるとすぐ入りたがるじゃないっスか」


「変な店じゃなくて、知らない店だろ。せっかく知らない街に来たんだから、同じようなものばっかり食べても面白くないじゃん」


「その結果、前にとんでもなく辛い料理引いたの忘れたんスか?」


「あれはあれで美味かっただろ」


「途中から涙出てたじゃないっスか」


「あれは辛かったからだよ。美味いのと辛いのは別だろ」


 ライカが小さく笑う。


「お姫ちゃん、あの時ずっと水飲んでましたもんね」


「だから辛かったんだって」


 何でもない会話だった。


 誰も急いでいない。


 誰も戦っていない。


 ただ、次の街へ向かって歩いているだけだった。


     ◇


 遥か遠方。


 ロイの指先で、鉄の弾丸が僅かに浮いた。


 圧縮された魔力が、その後方へ集まっていく。


 距離。


 風。


 標的の歩幅。


 すべてを合わせる。


 狙いの先には、白銀の頭部があった。


 ロイは息を整えることすらしない。


 ただ、撃つべき瞬間を待つ。


     ◇


「それで、街に着いたら――」


 ライアンが話していた。


 何を言おうとしていたのか。


 その続きを聞くことはできなかった。


 グレイの頭部に、何かが直撃した。


 音は後から来た。


 肉を貫く鈍い音。


 白銀の髪が大きく揺れ、グレイの頭が弾かれる。


 身体が傾いた。


「――姫さん?」


 ライアンの声。


 グレイは答えなかった。


 そのまま街道へ倒れ、乾いた土が僅かに舞う。


 一瞬。


 誰も動けなかった。


「グレイ様!」


 最初に動いたのはセバスだった。


 倒れたグレイへ駆け寄る。


 ライアンも我に返った。


「姫さん!」


 ライカの顔から血の気が引く。


「お姫ちゃん……!」


 グレイは動かない。


 頭部には明らかな損傷があり、何かが貫通している。


 前方からではない。


 横。


 僅かに後方。


「伏せろ!」


 セバスの声が飛んだ。


 ライアンとライカが即座に姿勢を低くする。


 セバスはグレイの身体を庇える位置へ移動すると、敵を探して周囲へ鋭く視線を走らせた。


「どこだ……」


 敵が見えない。


 気配もない。


 魔力を放った者も近くにはいない。


「何なんスか、今の……!」


 ライアンの声から、いつもの軽さが完全に消えていた。


 視線はグレイから離れない。


 頭部を撃ち抜かれている。


 分かっている。


 グレイが真祖であることも、これだけで終わるような存在ではないことも。


 それでも、理解と感情は別だった。


「何かが飛んできやがりました。魔法……?」


 ライカはグレイへ駆け寄りたい衝動を抑え、周囲を睨んでいた。


 まだ敵がいる。


 次が来ない保証はない。


「撃った奴がいる」


 セバスが低く言った。


「相当遠い」


「どっちだよ!」


「分からん」


「分からんって……!」


「だから動くな。次が来る可能性がある」


 声は冷静だった。


 だが、グレイを庇うように立つセバスの拳は強く握られている。


 主のすぐ傍にいた。


 それなのに。


 何も分からなかった。


 音すら、着弾した後だった。


 その事実を考えるのは後だ。


 今は敵を探す。


 セバスは一度も警戒を解かなかった。


「姫さん……」


 ライアンが地面へ手をつく。


 次の瞬間。


 グレイの指が動いた。


 ライアンの目が見開かれる。


「……え」


 損傷した頭部が再生を始めていた。


 失われた部分が戻り、血が止まり、傷が塞がっていく。


 やがてグレイの瞼が僅かに動いた。


「……痛い」


 掠れた声が漏れる。


「姫さん!」


 ライアンが思わず身を乗り出した。


「近い……聞こえてる」


 グレイは眉を寄せながら身体を起こす。


 頭へ手を当て、指先で髪を掻き分けながら傷があった場所を確かめた。


「……もう塞がってるな」


「そういう問題じゃないっスよ!」


 ライアンの声が街道へ響いた。


 グレイが目を瞬く。


「何で怒ってるんだよ」


「怒ってるんじゃないっスよ! 目の前で姫さんの頭が撃ち抜かれて、そのまま倒れたんスよ! 治るって分かってたって、平気なわけないじゃないっスか!」


 声が僅かに震えていた。


 グレイはそこで、ようやくライアンの顔をきちんと見た。


 いつもの笑みがない。


 ライカも同じだった。


 ただ、こちらはグレイではなく、今も遠くの丘陵へ警戒を向けている。


 セバスも振り返らない。


 グレイが起き上がったことは確認している。それでも、まだ敵がいる以上は警戒を解くつもりがないのだろう。


 グレイは頭から手を離した。


「……悪かった。治るからって、見てる三人まで平気なわけじゃないよな」


「なぜグレイ様がお謝りになるのです」


 セバスは周囲を見たまま答えた。


「撃たれたのはグレイ様でございます。謝罪される理由などございません」


「でも心配させただろ」


「それとこれとは別でございます」


「……そっか」


 グレイはゆっくりと立ち上がる。


 少しだけ身体が揺れた。


 セバスの視線が初めてグレイへ戻り、すぐに腕を支えようとする。


 グレイは手を上げて、大丈夫だと示した。


「待ってください、お姫ちゃん。まだ撃ってきた奴がどこにいるか分かってないんですよ」


「分かってる。だから無闇に動くつもりはないよ」


 そう答えながら、グレイは周囲を見る。


 街道。


 草原。


 丘。


 人影はない。


 近距離から撃たれたものではない。それだけは分かる。


 着弾した方向。


 頭が弾かれた角度。


 身体へ残っていた衝撃。


 グレイはゆっくりと振り返った。


「……向こうだと思う」


 街道から大きく外れた丘陵地帯を見る。


 セバスも同じ方向へ視線を向けた。


「お分かりになりますか」


「大体の方向だけ。飛んできた向きなら分かる。でも……」


 グレイの目が細くなる。


 何も見えない。


 気配も拾えない。


 かなり遠い。


 撃ち込まれたものが通った空間を辿っても、方向を絞るのが精一杯だった。


「……どこから撃ったんだ?」


 恐怖がないわけではない。


 自分でも何が起きたのか分からないまま頭部を撃ち抜かれた。


 それは明確な脅威だ。


 けれど同時に、グレイの中には別の感情が生まれていた。


 疑問。


 自分が気づけないほど遠くから、どうやって正確に当てたのか。


「姫さん」


「何?」


「……その目、何か見つけた時の目になってるっスよ」


 グレイがライアンを見る。


「だって気になるだろ。俺、撃たれる直前まで本当に何も分からなかったんだぞ。近くに気配もなかったし、魔法を使う感じもしなかった」


「だから今はそれを気にしてる場合じゃないでしょうが!」


 ライカが即座に返した。


 声が強い。


 怒っているというより、グレイがそのまま丘へ向かいそうなのを警戒している。


「分かってるよ。勝手に行ったりしない」


「本当ですね?」


「本当だって。でも、あれだけ離れたところから俺の頭を正確に狙ったなら、普通の攻撃じゃないだろ。どうやったのかくらいは知りたい」


「分析は安全な場所へ移動してからにしてください」


「今じゃないと痕跡が消えるかもしれない」


「お姫ちゃん」


「……分かった。そんな顔するなよ。ここで調べられる範囲だけにする」


 ライカはまだ納得していない顔だった。


 グレイは再び遠くを見る。


「それにしても、本当に見事だった。最初の一発で頭を狙って、俺が気づく前に当ててる。相当慣れてると思う」


「褒めないでください」


「敵だからって技術まで悪くなるわけじゃないだろ」


「敵『かもしれない』じゃなくて、完全に敵っスからね。姫さんの頭を撃ち抜いてるんスよ」


「それは分かってる」


「本当に分かってるんスかね……」


 ライアンが額を押さえる。


 それでもグレイが普段通りに話せていることに、少しだけ安心したのだろう。


 張り詰めていた肩から僅かに力が抜けた。


 一方でセバスは地面を見ていた。


 何かを探すように視線を動かし、やがて街道脇へ歩く。


「グレイ様」


「何かあった?」


「恐らく、これかと」


 掌に載っていたのは、潰れた金属片だった。


 グレイが近づく。


 指で触れる。


「……鉄?」


「そのように見受けられます」


「これを飛ばしたのか」


 グレイの表情が僅かに変わった。


 小さい。


 これほど小さな鉄片で、自分の頭部を完全に貫通した。


「相当速かったはずだ。それに、あの距離からこれを正確に飛ばしたなら――」


「お姫ちゃん」


「分かってる。ここでずっと調べたりしないよ」


 先に言うと、ライカが僅かに眉を寄せた。


「でしたら結構です」


「これ、持っていっていい?」


 グレイはセバスを見る。


「無論でございます」


「街に着いてからちゃんと見たい。どう作ったのか分かるかもしれないし」


 グレイは金属片を受け取ると、掌の上で転がした。


 ライアンがその様子を見て息を吐く。


「姫さん、興味持つのはもう止めないっスけど……狙われてるってことだけは忘れないでほしいっス」


「忘れてないよ。今のは完全にやられた。俺が気づいた時にはもう頭を抜かれてたんだから、次も同じようにはさせたくない」


「だから次がある前提で考えないでくださいよ、お姫ちゃん」


 ライカがすぐに返す。


「相手が諦めたと思う方が危ないだろ」


「それはそうですけど……!」


「ちゃんと警戒するって意味だよ。俺だけじゃなくて三人の周りも見る。俺を狙ってる奴が、次も俺だけを狙うとは限らないから」


 その言葉に、ライカが黙った。


 セバスが僅かに目を細める。


「そこまでお考えであれば結構です。ただし、技術への興味と敵への警戒を混同なさらぬようお願いいたします」


「分かってる。知らないものだから知りたいだけで、撃たれるのが楽しいわけじゃないよ」


「それを聞けて安心いたしました」


 セバスはそう答えたものの、表情はまだ硬い。


 グレイは一瞬だけ彼を見る。


 普段より静かだった。


 だが今は、それ以上何も聞かなかった。


 ライカは遠方を警戒したまま口を開く。


「今日は街まで急ぎません? 開けた場所にいるより、人のいるところまで移動した方がいいです」


「賛成っス。俺もさすがにここでのんびりする気分じゃないっスよ」


 グレイは二人を見る。


 少し前までとは空気が違う。


 ライアンは軽口を言っていても、何度も周囲へ目を向けている。


 ライカは敵がいるかもしれない方向を警戒しながら、自然とグレイから離れない位置を取っていた。


 そしてセバスは、何も言わず四人の最後尾へ移動する。


 全員を視界へ入れられる位置だった。


「分かった。今日は寄り道なしで街まで行こう。俺も撃った奴がまだ近くにいるのかは気になるけど、三人まで狙われるのは嫌だ」


「最初からそう言ってくださいよ、お姫ちゃん」


「今言っただろ」


「そういうところですよ」


 ライカが息を吐く。


 四人は再び歩き始めた。


 先ほどまでより、互いの距離は少しだけ近かった。


     ◇


 遥か離れた森の中。


 ロイはすでに移動を終えていた。


 撃った場所へ留まる理由はない。


 命中は確認した。


 頭部を貫通した。


 普通なら、それで終わりだ。


 だが。


「……起きたな」


 歩きながら、ロイは呟く。


 遠すぎたため細かな状態までは見えなかった。


 それでも、倒れた白銀の女が再び身体を起こしたことだけは確認できた。


「頭を抜いたんだけどな」


 足を止める。


 少し考える。


 外した可能性はない。


 確実に当たった。


 弾道にも問題はなかった。


 ならば。


「死なないのか」


 ロイの口元が僅かに上がった。


 召喚主が魂まで差し出した理由が、少しだけ分かった気がした。


「なるほど。そりゃ普通の奴じゃ無理だな」


 正面から挑むつもりはない。


 次も遠くから狙えばいい。


 頭で駄目なら、別の方法を試す。


 どうすれば殺せるのか。


 どこまでなら届くのか。


 何をすれば反応するのか。


 標的について、知らないことが多い。


 ロイにとって、それは不快なことではなかった。


 むしろ、少し面白くなってきた。


「まあ、急ぐこともないか」


 再び歩き出す。


 死んだ王子への忠誠心などない。


 命を懸けてでも願いを叶えてやろうという使命感もなかった。


 ただ、受け取った願いはまだ残っている。


 そして今のところ、それを捨てるより続ける方が面白そうだった。


「もう少し見てみるか」


 ロイは森の奥へ姿を消していった。


     ◇


 日が傾き始めた頃。


 街の外壁が見えてきた。


「見えたっスよ」


 ライアンの声に、グレイが顔を上げる。


 街道の先に石造りの門がある。


 人の出入りも多く、商人の馬車が列を作り、旅人たちが門へ向かって歩いている。


「間に合ったな」


「誰かさんが川で釣りを始めなかったおかげですね」


「だから釣るって言ってないだろ」


「どうだか」


 ライカの返しに、グレイは少し不満そうに眉を寄せた。


 ライアンが笑う。


 いつものやり取り。


 けれど、完全に元へ戻ったわけではなかった。


 グレイが少し足を止めるだけで、三人の視線が集まる。


 頭へ手を伸ばせば、ライアンの表情が僅かに強張った。


 それに気づいたグレイは、髪へ触れようとしていた手を止める。


「……もう治ってるぞ」


「分かってるっスよ」


 返事は早かった。


 けれどライアンは、それ以上何も言わなかった。


 グレイもすぐには続けない。


 少しだけ間を置いてから、前を向いた。


「俺が逆の立場でも、たぶん嫌だったと思う」


 ライアンがグレイを見る。


「治るって分かってても、目の前で誰かの頭が撃ち抜かれたら……平気ではいられないよな。さっきはそこまで考えられてなかった」


「……そうっスね」


「だから、次はもっと気をつける。撃たれないようにするって意味で」


「お願いしますよ、姫さん。マジで」


「うん」


 グレイは素直に頷いた。


 その横でライカが息を吐く。


「本当に頼みますよ。次に同じことされたら、撃った奴より先にお姫ちゃんへ説教しますからね」


「何で俺なんだよ」


「知らない技術だとか言って、またそっちへ意識を持っていかれそうだからです」


「そこはもう気をつけるって言っただろ」


「ちゃんと覚えておいてくださいよ?」


「覚えてるよ。俺だって頭に穴開けられるのは嫌だからな」


「そこは最初から嫌がってください」


「嫌だったって。痛かったし」


 ライカが呆れたように息を吐く。


 ライアンの口元にも、ようやく普段に近い笑みが戻った。


 その少し後ろを歩いていたセバスは何も言わない。


 グレイはちらりと振り返った。


「セバス」


「はい」


「……何でもない」


 セバスは僅かに眉を動かしたが、問い返さなかった。


 グレイもそれ以上は言わない。


 今はまだ。


 四人は門へ向かって歩き出した。


 その途中、グレイはポケットへ手を入れる。


 指先に、小さな金属片が触れた。


 自分の頭を撃ち抜いたもの。


 あれだけ遠くから、気配も悟らせず、正確に届いた。


 誰が撃ったのかは分からない。


 なぜ自分を狙ったのかも分からない。


 第三王子との繋がりなど、知るはずもなかった。


 ただ一つだけ、はっきりしている。


 自分の知らない技術だった。


「……セバス」


「はい」


「街に着いたら、これ一緒に見てくれる? 俺だけだと分からないところもありそうだから」


「承知いたしました。ただし、まずは宿を確保してからにいたしましょう」


「分かった。今日はちゃんとそっちを先にする」


「それを聞けて安心いたしました」


 グレイは少し笑った。


 もう一度だけ、後ろを振り返る。


 夕暮れに染まる街道。


 低い丘の向こうまで見ても、誰の姿もない。


 撃った者は、とっくに消えている。


 それでもグレイは、しばらくそちらを見ていた。


「姫さん?」


 ライアンに呼ばれ、前へ向き直る。


「何でもない。行こう」


 そして四人は街の門をくぐった。


 ポケットの中には、潰れた鉄の欠片が残っている。


 グレイの頭を撃ち抜き、三人から一瞬で笑顔を奪ったもの。


 そして当のグレイには、恐怖だけではなく――まだ見ぬ狙撃手と、自分の知らない技術への大きな疑問を残した、小さな一片が。

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