第1話 追いかける王子
神聖国アークレシアを離れてから、十二日が過ぎていた。
霊峰ヴァルグランは、もう見えない。
海へ向かう街道を外れ、いくつかの町を経由しながら西へ進んだグレイたちは、その日の昼過ぎ、小さな国の城下町へ足を踏み入れていた。
国境を越えたとはいっても、景色が急に変わるわけではない。緩やかな丘陵のあいだを縫う街道には背の低い草が広がり、遠くには収穫を待つ畑が見える。アークレシアで何度も目にした龍を模した旗や石像はすっかり姿を消し、代わりに麦穂を意匠にした紋章が城壁の門に掲げられていた。
門を抜ければ、石畳の道が城下の奥まで続いている。
祭りの最中だったセレスティアと比べれば人通りは少ない。それでも昼時を過ぎた大通りには買い物帰りの住民や荷車を引く商人が行き交い、軒先からは店主たちの声が飛んでいた。
グレイは歩きながら、通りの先へ視線を向ける。
「静かだな」
「姫さん、あれだけ騒がしい場所に一週間もいた後だからじゃないっスか? 俺も最初は静かだと思ったっスけど、よく聞いたら普通にうるさいっスよ」
隣を歩くライアンが、通りの反対側を指した。
ちょうど野菜を売る女と客らしい男が値段を巡って言い争っている。その少し先では子供たちが走り回り、荷車の御者が道を塞ぐ犬へ声を上げていた。
確かに静かではない。
グレイは少し考えてから頷いた。
「じゃあ、アークレシアがうるさすぎたのか」
「十年に一度の祭りと比べる方がおかしいですよ、お姫ちゃん。あそこは昼も夜も騒いでいましたからね。最後の方なんて、どこから祭りでどこから宴なのか分かりゃしませんでしたし」
ライカが呆れたように言いながら、肩に掛けていた荷物の位置を直す。
その後ろを歩くセバスは周囲へ静かに目を配っていた。
「旅先としては、この程度の賑わいがちょうどよろしいでしょう。必要な物も揃いそうですし、今夜の宿を探すにも困ることはなさそうです」
「そうだな。今日はここで泊まろう。急いでるわけでもないし」
グレイがそう言うと、三人から異論は出なかった。
次の目的地が決まっているわけではない。
海を渡った先にどんな土地があるのかを知り、興味を惹かれた場所へ足を運ぶ。それが今の旅だった。
アークレシアへ立ち寄ったのも同じだった。
龍を神として祀る国がある。
十年に一度の祭りがある。
そんな話を聞いて訪れ、結果として武闘大会へ出て、龍と戦い、最後には龍神アルディエルと三日間も殴り合った。
予定など、あってないようなものだ。
「とりあえず宿だな」
「賛成っス。荷物置いたら街見て回りましょうよ。さっき市場みたいなの見えたっスよ」
「にーちゃんは知らない街へ着くと毎回それですね。少しくらい落ち着きやがってください」
「ねーちゃんだって結局来るじゃないっスか」
「放っておいたら余計な物まで買ってくるからでしょうが」
二人のやり取りを聞きながら、グレイは少しだけ口元を緩めた。
セバスも何も言わない。
ただ、ほんの僅かに目を細めていた。
長く続いた旅の中では、特別でもなんでもない光景だった。
◇
宿は大通りから一本入った場所で見つかった。
三階建ての古い建物だったが、外壁はきちんと塗り直され、入口の脇には季節の花が植えられている。扉を開けると、磨かれた木の匂いと一緒に宿主の男が顔を上げた。
四人分の部屋を確保し、荷物を置く。
そこから街を歩き始めたのは、太陽が少し西へ傾き始めた頃だった。
城下町そのものは、それほど大きくない。
中央に王城があり、そこから放射状に大通りが伸びている。商業区と職人街が分かれている程度で、半日も歩けば大体の場所は見て回れそうだった。
ライアンが露店を覗き、ライカがそれを追いかける。
セバスはグレイの少し後ろ。
いつもの位置だった。
「姫さん、これどうっスか?」
声を掛けられ、グレイが振り向く。
ライアンが手にしていたのは、小さな木彫りの鳥だった。
「何に使うんだ?」
「飾るんスよ」
「どこに?」
「……どこっスかね」
「考えてから買え」
「正論っス」
ライアンが木彫りを戻す。
店主が笑っていた。
そのまま歩き出そうとしたところで、少し離れた場所から馬の蹄が石畳を叩く音が聞こえてきた。
それほど珍しい音ではない。
グレイも最初は気にしなかった。
だが、周囲の人々が道の端へ寄り始める。
商人が商品を引き、子供を連れていた母親が慌てて我が子の手を取った。
道の中央が空いていく。
「誰か来るみたいっスね」
ライアンが振り返る。
大通りの先から、数頭の馬がこちらへ近づいてきていた。
先頭にいるのは騎士。
その後ろに、装飾の施された馬車が続いている。
側面には城門で見たものと同じ麦穂の紋章が刻まれていた。
「王族か」
グレイはそれだけ言って、他の住民と同じように道の端へ寄った。
特に興味はない。
馬車が目の前を通り過ぎる。
――はずだった。
車輪の音が止まった。
少し遅れて、馬の鼻息が聞こえる。
グレイは首を傾げた。
「なんだ?」
馬車の扉が開いた。
中から一人の青年が降りてくる。
仕立てのいい衣服に、丁寧に整えられた髪。腰には実用性より装飾を重視したような剣を提げている。
年齢は二十代半ばほど。
青年は周囲など見ていなかった。
真っ直ぐに、グレイを見ている。
「ようやく見つけた」
その言葉に、グレイは眉を寄せた。
知らない男だった。
少なくとも、話した記憶はない。
ライアンがグレイと青年を交互に見る。
「姫さん、知り合いっスか?」
「知らない」
「だそうっスよ」
「ライアン、なぜお前が答える」
セバスが淡々と言う。
「いや、なんか言いたそうだったから」
青年の表情が僅かに強張った。
だが、それもすぐに消える。
彼は姿勢を整え、グレイの前まで歩いてきた。
「龍神祭以来だな。あの時は話す機会に恵まれなかったが、こうして再び会えた。やはり縁というものはあるらしい」
「龍神祭?」
グレイは青年の顔を見る。
記憶を探ってみる。
武闘大会では多くの人間を見た。
観客も多かった。
宴でも何人もの人間から声を掛けられた。
だが、目の前の青年には覚えがない。
「どこかで話した?」
「……いや。話してはいない」
「じゃあ、やっぱり知らないな」
青年の頬が僅かに引きつった。
後ろでライアンが口元を押さえている。
ライカが肘でその脇腹を突いた。
青年は一度咳払いをした。
「私はこの国の第三王子だ。龍神祭には我が国の使節として参加していた。武闘大会も観戦させてもらった」
「ああ。そうなんだ」
「……それだけか?」
「他に何かある?」
グレイは本気で分からなかった。
王子だと言われても、それ以上の感想がない。
相手が王族だからといって、それだけで態度を変える理由もなかった。
第三王子は少しの間、言葉を失っていた。
やがて気を取り直したように笑みを作る。
「名を聞かせてもらえるだろうか」
「グレイ」
「グレイ……そうか。良い名だ」
「ありがとう」
今度はきちんと返した。
それで話は終わったと思い、グレイは歩き出そうとする。
「待ってくれ」
呼び止められた。
グレイが振り返る。
「まだ何かある?」
「せっかく我が国を訪れてくれたのだ。今夜、城へ招待したい。龍神祭の話も聞いてみたいし、君のような女性を歓迎できることは私にとっても喜ばしい」
「行かない」
即答だった。
王子が固まる。
グレイは少し考え、理由が必要なのかと思って続けた。
「今日は街を見るつもりだから。それに城へ行く理由もないだろ」
「ならば明日はどうだ?」
「明日のことはまだ決めてない。でも、たぶん行かない」
「なぜだ?」
「知らない奴と城で話すより、街を歩いてる方が面白そうだから」
悪意はなかった。
だからこそ、青年には余計に効いたらしい。
後ろでライアンが肩を震わせている。
「にーちゃん」
「分かってるっス。笑ってないっスよ」
「声が震えてやがりますよ」
第三王子の視線が二人へ向いた。
だが、すぐにグレイへ戻る。
「……突然の誘いだったな。失礼した。ならば今日はこれで引こう。また改めて挨拶させてもらう」
「別に挨拶はもうしただろ」
グレイは首を傾げた。
今度こそライアンが吹き出した。
「ぶっ……!」
「にーちゃん」
「無理っス、ねーちゃん。姫さん悪気ないの分かってるから余計に無理っス」
「笑うなよ」
グレイが振り返る。
「だって姫さん、それはちょっと酷いっスよ。間違ったこと言ってないっスけど」
「そうなの?」
「そういうところですよ、お姫ちゃん」
ライカまで小さく息を吐く。
第三王子は何も言わず、馬車へ戻った。
扉が閉まり、騎士たちが動き出す。
馬車が大通りの向こうへ消えてから、グレイはもう一度首を傾げた。
「変な奴だな」
「俺は姫さんの方がちょっと心配になってきたっス」
「なんでだよ」
「いや、いいっス。たぶん説明しても分かんないっスから」
「言ってみろよ」
グレイがライアンを追う。
笑いながら逃げたライアンを、ライカが呆れた顔で見送った。
セバスだけが、遠ざかっていく王家の馬車へ一度視線を向ける。
だが、その時は何も言わなかった。
◇
翌朝。
グレイが部屋の扉を開けると、その前に大きな箱が置かれていた。
「……何だこれ」
箱には赤いリボンが掛けられている。
上には小さな封筒。
拾い上げて中を見る。
簡潔な文章だった。
昨日の出会いを祝して。
そんな意味の言葉が並び、最後に第三王子の名が書かれている。
「いらないな」
グレイは箱を持ち上げ、そのまま階段を降りた。
一階では宿主が朝の準備をしていた。
「あ、あの、お客様。その箱は……」
「昨日の王子からみたいなんだけど、いらないから返しておいてくれる?」
「えっ」
宿主の手が止まる。
「いや、しかし……王子殿下からの贈り物では?」
「そう書いてある。でも俺、頼んでないし」
「そ、それはそうでしょうが……」
宿主が困った顔をする。
グレイはそこで初めて、自分が面倒なことを頼んでいると気づいた。
「返すの、困る?」
「正直に申し上げますと……少々」
「じゃあ俺が返す」
「それも、それはそれで……」
「どっちだよ」
グレイが眉を寄せる。
階段から降りてきたライカが、その光景を見て足を止めた。
「朝から何してるんですか、お姫ちゃん」
「昨日の奴から何か届いた」
「……ああ」
ライカは一瞬で察したらしい。
箱へ視線を落とす。
「開けたんです?」
「開けてない。いらないから」
「でしょうね」
やがてライアンとセバスも降りてきた。
結局、箱は王城から来た使者が再び宿を訪れた際、そのまま返すことになった。
中身を見ることすらなかった。
それで終わる。
グレイはそう思っていた。
終わらなかった。
昼前には別の使者が来た。
今度は花束だった。
「いらない」
午後には装飾品。
「使わない」
夕方には、城下で最も格式の高い店での食事への招待。
「行かない」
三度目あたりから、ライアンは面白がり始めていた。
「次は何が来ると思うっスか?」
「知らない。もう来なくていい」
「俺は服だと思うっス」
「賭けでも始めやがったら蹴りますよ、にーちゃん」
「ねーちゃんは何だと思う?」
「聞いてます?」
グレイは窓辺の椅子に座り、外を見ながら頬杖をついた。
「王子って暇なの?」
「一括りになさらない方がよろしいかと」
セバスが答える。
「グレイ様もかつては王族だったでしょう」
「俺はあんなことしてない」
「存じております」
即答だった。
グレイは少しだけ目を細める。
「セバス、今ちょっと笑ってるだろ」
「気のせいでございます」
「絶対笑ってる」
そんなやり取りをしている間にも、窓の外を王家の使者らしい男が通っていった。
グレイはそれを目で追い、小さく息を吐く。
「面倒だな」
その時点では、本当にそれだけだった。
◇
三日目になると、状況が少し変わった。
朝、街へ出ようとしたグレイたちは、宿の入口で二人の兵士と鉢合わせた。
兵士たちはグレイを見ると姿勢を正した。
「グレイ殿ですね」
「そうだけど」
「第三王子殿下よりお迎えに参りました。本日こそ城へお越しいただきたいとのことです」
「行かない」
「……殿下がお待ちです」
「待たなくていいって伝えて」
兵士たちが顔を見合わせる。
「ですが――」
「何回も断ってる。今日も行かない。それだけだろ」
グレイは横を抜けようとする。
兵士の一人が進路へ出た。
その瞬間、後ろにいたセバスの目が細くなる。
ライアンも笑みを消した。
グレイは立ち止まった。
「そこ、退いて」
「殿下の命令ですので」
「俺には関係ない」
「グレイ様」
セバスが静かに呼ぶ。
グレイは振り返らない。
「分かってる。何もしない」
兵士へ視線を戻す。
「お前たちも命令されただけだろ。だから怒ってない。でも、俺は行かない。無理に連れていくなら、その時は止めるぞ」
声はいつもと変わらない。
けれど兵士たちは何かを感じ取ったらしい。
龍神祭の武闘大会。
その噂がこの国まで届いているのかは分からない。
ただ、目の前の少女が脅しで言っているのではないことだけは伝わったようだった。
二人は道を空けた。
「……殿下には、そのようにお伝えします」
「頼む」
グレイはその横を通り過ぎた。
ライアンたちも続く。
しばらく歩いたところで、ライアンが後ろを振り返った。
「ちょっとしつこくなってきたっスね」
「最初からしつこいだろ」
「いや、そうなんスけど。贈り物くらいなら笑ってられたんスよ。兵士で道塞ぐのは違うかなって」
グレイも同意だった。
「俺もそう思う。でも、あいつらは命令されただけだしな」
「問題は王子の方ですね」
ライカが小さく息を吐いた。
「お姫ちゃん、どうします? このまま面倒が増えるなら、予定より早く出てもいいと思いますけど」
「それは嫌だ」
グレイはすぐに答えた。
三人の視線が集まる。
「俺たちがこの街を出たいなら出る。でも、あいつが面倒だからって理由で出るのは嫌だ。まだ見てない場所もあるし」
ライアンが笑う。
「それでこそ姫さんっスね」
「別に意地張ってるわけじゃないぞ」
「分かってるっスよ。姫さん、見たいもの残ってる時に予定変えられるの嫌いっスもんね」
「そういうこと」
グレイは頷き、そのまま歩き続けた。
◇
その日の午後。
グレイたちは職人街を歩いていた。
金槌の音があちこちから響き、炭と熱した鉄の匂いが通りに満ちている。店先には剣や鎧だけでなく、農具や調理器具まで並び、奥では職人たちが汗を流していた。
セバスが一軒の武具店で足を止めた。
「何かあった?」
「いえ。あのトンファーの材質が少々気になりまして」
「見る?」
「よろしいのですか?」
「俺も見る」
二人が店へ入る。
ライアンとライカは少し先の露店を見に行った。
店内には油と革の匂いが籠もっていた。
セバスが壁に掛けられたトンファーを手に取り、重さを確かめる。
グレイは隣に並んでいた短剣を眺めていた。
「どう?」
「悪くありません。重心も考えられております。ただ、私が使うには少々軽いでしょう」
「今の方がいい?」
「はい。長く使っておりますので」
「じゃあいらないな」
「左様でございますね」
店主が二人の会話を聞きながら苦笑している。
結局何も買わずに店を出ると、通りの先で人だかりができていた。
中心にいるのはライアンとライカ。
そして数人の兵士。
「……またか」
グレイの声が少し低くなる。
近づくと、兵士たちの後ろに見覚えのある青年が立っていた。
第三王子本人だった。
「グレイ!」
こちらを見つけた王子の顔が明るくなる。
「ようやく会えた。宿を訪ねても出ていると聞いてな。せっかくなので私自身が迎えに来た」
「何で?」
「何で、とは?」
「何で俺を迎えに来るんだ?」
「何度も言っているだろう。君と話がしたい」
「俺はしたくない」
王子の表情が固まる。
周囲の住民たちは遠巻きに様子を見ていた。
グレイは少し考える。
これまで何度も断った。
それでも伝わっていない。
なら、もう少しはっきり言うしかない。
「俺、お前に興味ないよ。贈り物もいらないし、城にも行かない。飯も一緒に食べる気ない。だから、もう誘わなくていい」
「……なぜだ」
「だから、興味ないから」
「私は王子だぞ」
「知ってる。前に聞いた」
王子の顔が赤くなる。
「君が望むものなら用意できる。宝石でも、衣服でも、金でもいい。城へ来れば――」
「いらない」
「なら何が欲しい!」
声が通りへ響いた。
グレイは瞬きをする。
少し考えた。
「今は特にない」
「そんなはずがあるか!」
「ないって言ってるだろ」
グレイの眉が僅かに寄る。
「お前、俺が欲しい物を聞いてるんじゃなくて、自分が渡せる物の中から選ばせたいだけだろ。それなら何を出されてもいらない」
周囲が静かになった。
王子は何も言えなかった。
グレイはその横を通り過ぎる。
「行こう」
ライアンたちも続いた。
誰も振り返らなかった。
◇
翌日。
昼を少し過ぎた頃、グレイたちが宿へ戻ると、入口の前に人が集まっていた。
宿主が兵士と話している。
いや。
話しているというより、責められていた。
「ですから、本当に存じません! お客様がどちらへ向かわれたかまでは、こちらでも――」
「貴様の宿に泊まっているのだろう!」
「それはそうですが、外出先まで管理しているわけでは……」
「殿下がお呼びなのだ。協力するのが当然だろう!」
グレイの足が止まった。
ライアンの表情から笑みが消える。
ライカも黙った。
セバスは何も言わず、グレイを見る。
宿主の顔は青ざめていた。
その後ろでは従業員らしい若い女性が不安そうに立っている。
「何してるんだ?」
グレイが声を掛ける。
兵士たちが振り返った。
「あ……グレイ殿」
「その人に何の用?」
「いえ、我々はあなたの居場所を――」
「俺の?」
「はい。殿下がお呼びですので」
グレイは宿主を見る。
「何かされた?」
「い、いえ……」
答えが遅れた。
グレイは少しだけ目を細める。
「本当に?」
宿主は困ったように兵士たちを見る。
それで十分だった。
「分かった」
グレイは兵士へ向き直る。
「王子はどこ?」
◇
王子は城へ戻っていなかった。
大通りに面した広場。
そこに王家の馬車が停まっていた。
グレイが歩いていくと、第三王子はすぐに気づいた。
「グレイ! ようやく――」
「お前、宿の人に何した?」
王子の声が止まる。
グレイは真っ直ぐに歩いていく。
後ろにはライアンたちがいる。
だが誰も止めない。
「何の話だ?」
「俺の居場所を聞くために、兵士を宿へ行かせただろ」
「ああ、そのことか。宿の主人が非協力的だったのでな。少し注意するよう命じただけだ」
「注意?」
「王族から尋ねられたなら、知っていることを答えるのは当然だろう」
グレイの足が止まった。
王子との距離は、もう数歩しかない。
「俺がどこにいるか、あの人は知らなかったぞ」
「ならば調べればいい。客として泊めているのだから、それくらい――」
「何で?」
グレイの声は大きくなかった。
王子が眉を寄せる。
「何がだ?」
「何で関係ない人が、俺の居場所を調べないといけないんだ?」
「それは私が――」
「俺は何度も断ったよな」
そこで一度、言葉を切る。
怒鳴る必要はなかった。
むしろ声は普段より静かだった。
「贈り物もいらない。城にも行かない。飯にも行かない。もう誘わなくていいって言った。それでもお前が俺を追いかけてくるだけなら、面倒な奴だと思うだけで済んだ」
王子の顔から、少しずつ余裕が消えていく。
グレイは続けた。
「でも、関係ない人に迷惑かけるのは違うだろ」
「迷惑など――」
「かかってた」
即座に遮る。
「宿の人、困ってたぞ」
「だから何だ。私はこの国の王子だ。平民が王族へ協力するのは――」
最後まで聞かなかった。
グレイの右足が一歩前へ出る。
腰が僅かに落ちた。
セバスだけが、その動きで何が起こるかを理解した。
「……あれは痛いな」
ぽつりと呟く。
隣でライアンが目を丸くした。
「止めないんスか?」
「なぜだ?」
「いや、セバスなら一応止めるかなって」
「止める理由がない」
「ですよね」
ライカも腕を組んだまま動かなかった。
「お姫ちゃん、ああなったらもう決めてますからね。それに今回は、私も止める気ありません」
次の瞬間。
グレイの拳が第三王子の頬へ入った。
魔気闘法は使っていない。
吸血鬼としての力も、ほとんど乗せていない。
ただの拳だった。
それでも成人男性を殴り飛ばすには十分だった。
「ぐっ――!?」
王子の身体が横へ飛ぶ。
二度、石畳の上を転がり、広場の端に置かれていた木箱へ突っ込んだ。
箱が崩れる。
中に入っていた布が舞った。
広場が静まり返る。
兵士たちも動けない。
グレイは拳を下ろした。
「痛かった?」
王子は頬を押さえながらグレイを睨む。
「き、貴様……!」
「痛いなら覚えとけ。あの宿の人も、同じくらい嫌だったと思うぞ」
「この……私を誰だと――!」
「第三王子だろ。何回も聞いた」
周囲のどこかで、小さな笑い声が漏れた。
王子の顔が強張る。
「誰だ!」
怒鳴った瞬間、今度は別の場所から笑い声が聞こえた。
一つ。
二つ。
そして、堪えきれなくなったように広場のあちこちへ広がっていく。
「おい、笑うな! 無礼だぞ!」
兵士が声を上げる。
だが、それが逆効果だった。
笑いは止まらない。
グレイは周囲を見回した。
「何で笑ってるんだ?」
「姫さん……」
ライアンが額を押さえる。
「そこ分かってないんスか?」
「何が?」
「いや、もういいっス」
ライカまで口元を手で隠していた。
「お姫ちゃんらしいですよ、本当に」
「だから何がだよ」
グレイは納得できないまま二人を見る。
セバスだけは平然としていた。
「グレイ様」
「ん?」
「宿へ戻りましょう。これ以上ここに留まる理由もございません」
「そうだな」
グレイは頷く。
そこで、倒れている王子をもう一度見た。
「俺のこと追いかけるのは好きにすればいい。でも、他の人に迷惑かけるなよ。次やったら、今より強く殴るから」
「貴様……貴様ぁ……!」
「じゃあな」
グレイは背を向けた。
誰も止めなかった。
兵士たちですら、第三王子を助け起こすことを優先していた。
広場を離れながら、ライアンが振り返る。
「姫さん、あれ絶対また来るっスよ」
「そう?」
「来るっス。俺なら二度と顔見せられないっスけど、あの王子はたぶん違うっス」
「じゃあ、また殴る」
「単純っスねえ」
「言っても分からないなら仕方ないだろ」
グレイは一度だけ拳を開いて、握り直した。
「でも次は、もう少し痛くする」
「グレイ様」
セバスが呼ぶ。
「何だ?」
「次がございましたら、加減だけはお忘れなきよう」
「分かってる。死なないくらいにする」
「その基準では少々不安なのですが」
ライアンが吹き出した。
ライカも肩を揺らしている。
グレイだけが、なぜ笑われたのか分からない顔をしていた。
◇
宿へ戻ると、主人が何度も頭を下げた。
「申し訳ありません。本当に……私どものせいで」
「何で?」
グレイは逆に首を傾げた。
「俺が泊まったから巻き込まれたんだろ。謝るなら俺の方じゃない?」
「い、いえ! そんな!」
「じゃあ、どっちも謝らなくていいだろ」
グレイはそれで話を終えた。
宿主はしばらく何も言えず、やがて困ったように笑った。
その顔を見て、グレイも少しだけ表情を緩める。
「俺たち、今日ここを出るよ」
「今日ですか?」
「うん。別に逃げるわけじゃないけど、もうこの街で見たかったところは大体見たから。あいつにこれ以上付き合う理由もないし」
「そう、ですか……」
宿主は少し寂しそうにした。
それから深く頭を下げる。
「道中、お気をつけて」
「ありがとう。ここ、いい宿だった」
短い言葉だった。
けれど宿主は嬉しそうに笑った。
部屋へ戻り、荷物をまとめる。
もともと長く滞在する予定ではなかったため、支度には大して時間もかからなかった。
夕方には四人とも城門へ向かっていた。
空は赤く染まり始めている。
城壁の向こうには、次の土地へ続く街道が伸びていた。
「結局、何の国だったんスかね」
ライアンが言う。
「何の国って?」
「いや、姫さんが国に着くと大体何か見つけるじゃないっスか。武術だったり、祭りだったり、変な食い物だったり」
「今回は王子がしつこかった」
「それ、国の特徴じゃないっスよ」
「じゃあ普通の国」
「雑っスね」
ライカが呆れたように笑う。
「普通でいいじゃないですか。毎回何か起きたら疲れますよ。今回はお姫ちゃんが王子を一発殴ったくらいで済んだんですから」
「ねーちゃん、それ普通じゃないっス」
「にーちゃんは細かいですね」
「細かくないっスよ」
二人の声を聞きながら、グレイは城門を抜けた。
振り返らない。
あの王子がこの後どうするのかにも、それほど興味はなかった。
自分たちは旅人だ。
気になる場所へ行き、見たいものを見て、また次へ向かう。
それだけだった。
「次、どこ行く?」
グレイが尋ねる。
「この先にもう少し大きな街があるらしいっスよ。商人から聞いたんスけど、街道沿いだから旅人も多いみたいっス」
「じゃあそこ」
「即決ですね、お姫ちゃん」
「他にないだろ」
夕暮れの街道を、四人の影が長く伸びていく。
風は少し冷たくなっていた。
城下の喧騒も、歩くほど遠ざかっていく。
やがて城壁すら丘の向こうへ隠れた。
グレイたちは、そのまま次の街へ向かった。
◇
日が沈んだ後も、王城の一室には明かりが灯っていた。
第三王子は鏡の前に立っていた。
左頬が赤く腫れている。
治療を受ければすぐにでも腫れは引く。
そんなことは分かっていた。
それでも、まだ治療を受けていなかった。
鏡を見るたび、昼間の光景が蘇る。
拳。
衝撃。
石畳。
そして――笑い声。
「……私を……」
拳が震える。
「この国の王子である私を……!」
机の上に置かれていた杯を払い落とす。
硬い音を立てて床へ転がった。
侍女が身体を震わせる。
「出ていけ」
「で、ですが殿下、お怪我の治療を――」
「出ていけ!」
怒声が響く。
侍女は慌てて部屋を出ていった。
扉が閉じる。
静寂が戻った。
王子は荒い息を繰り返しながら、鏡の中の自分を睨みつける。
龍神祭で初めて見た時。
白銀の髪が目に入った。
人混みの中にいても、なぜか目を奪われた。
武闘大会で戦う姿を見て、その興味はさらに強くなった。
美しい。
強い。
だから欲しいと思った。
自分なら手に入れられると思っていた。
王族として生まれてから、望んで手に入らなかったものなどほとんどない。
少なくとも、金や地位で動く者はいくらでも見てきた。
それなのに。
『俺、お前に興味ないよ』
あの言葉が耳から離れない。
拳よりも、あの一言の方が痛かった。
「……ふざけるな」
王子は鏡から目を逸らした。
机へ向かう。
その上には、グレイへ送ろうとして受け取られなかった品々の一覧が残っていた。
宝石。
衣服。
食事。
どれも拒絶された。
見向きもされなかった。
最後には、人前で殴られた。
平民に笑われた。
「許さない……」
低い声が漏れる。
グレイはもう城下を出たと報告を受けている。
追わせることも考えた。
だが、兵士を何人送ったところで意味がない。
あの女が強いことは知っている。
龍神祭の武闘大会を勝ち抜いた。
龍神と戦ったという噂まである。
普通の兵士では止められない。
騎士を集めたところで、同じだ。
ならば。
王子の視線が、部屋の奥へ向いた。
壁に掛けられた王家の紋章。
その向こう。
王城のさらに深い場所。
王族の中でも限られた者しか入ることを許されない区画がある。
幼い頃、一度だけ父から聞いた。
この国には、王家が代々守ってきたものがある。
決して軽々しく使ってはならないもの。
国が滅びかねない危機にのみ、その封を解くことが許されるもの。
王家の国宝。
王子はゆっくりと立ち上がった。
扉へ向かう。
廊下には護衛が待っていた。
「殿下?」
「地下へ行く」
護衛の騎士が目を見開いた。
「地下、と申されますと……」
「宝物庫だ」
「しかし、あそこは陛下の許可なく立ち入ることを禁じられております」
王子の目が細くなる。
「私は王族だ」
「それでも――」
「鍵を持ってこい」
騎士が動かない。
王子は一歩近づいた。
「聞こえなかったのか?」
「……承知いたしました」
騎士が頭を下げる。
やがて用意された鍵を手に、王子は城の奥へ向かった。
華美な装飾の施された廊下から、石造りの階段へ。
下へ。
さらに下へ。
空気が冷たくなっていく。
壁に掛けられた魔法灯だけが、細い通路を照らしていた。
何枚もの扉を抜ける。
最後に現れたのは、王家の紋章が刻まれた重い扉だった。
騎士が足を止める。
「殿下。本当に、お入りになるのですか」
「くどい」
「ですが、国宝は王家の存亡に関わるものと聞いております。陛下へお話を通されてからでも遅くは――」
「父上には私から話す」
「しかし――」
「ここで待て」
王子は鍵を差し込んだ。
重い音が響く。
長く閉ざされていた扉が、ゆっくりと開いた。
冷たい空気が流れ出す。
その先にある暗闇を見つめ、王子は一人で中へ入った。
扉の向こうには、いくつもの宝物が保管されている。
古い剣。
王冠。
宝石。
歴代の王が残した品々。
王子はそれらには目も向けなかった。
探しているものは、一番奥にある。
父から聞いた話を頼りに歩く。
やがて。
魔法灯の淡い光が、一つの台座を照らした。
その上に置かれているものを見て、王子の足が止まる。
王家が決して軽々しく触れてはならないと定めたもの。
使うことそのものを禁じられ、ただ保管され続けてきた国宝。
王子は台座の前まで進んだ。
昼間の笑い声が、また耳の奥に蘇る。
『第三王子だろ。何回も聞いた』
奥歯を噛む。
「……グレイ」
その名を吐き出す。
震えていた手が、ゆっくりと上がった。
そして第三王子は――王家の国宝へ手を伸ばした。




