第10話 また戦おう
霊峰ヴァルグランから首都セレスティアへ戻る頃には、空はすっかり夜の色へ変わっていた。
三日間続いた戦いの終わりを待っていたかのように厚い雲が途切れ、その隙間から覗いた月が山道を淡く照らしている。高地を吹き抜ける風は冷たかったが、山を下るにつれて、その中へ別のものが混じり始めた。
笛と太鼓の音。
人々の笑い声。
それから、肉を焼く香ばしい匂い。
セバスに肩を借りて歩いていたグレイは、山道の先に広がる光景を見て足を止めた。
「……何だ、あれ」
眼下に広がるセレスティアは、眠るどころか三日前よりも明るかった。
大通りには人が溢れ、酒場の扉は開け放たれている。屋台から立ち上る煙が夜空へ流れ、通りのあちこちで杯が掲げられていた。
十年に一度の龍神祭。
本来なら武闘大会の決勝が終わり、そろそろ祭りそのものも終わりへ向かっている頃だったはずだ。
少なくとも、グレイはそう聞いていた。
「姫さん」
少し先を歩いていたライアンが振り返る。彼も三日間、霊峰と街を行き来していたせいか多少疲れた顔をしていたが、その表情には妙な笑いが浮かんでいた。
「たぶんあれ、姫さんたちが戻ってくるの待ってたんスよ」
「俺?」
グレイは自分を指差した。
「他に誰がいるんですか」
反対側から身体を支えていたライカが呆れたように息を吐く。
「龍神様と三日三晩も戦いやがった人が、他に何人いると思ってるんです?」
「知らない。探せば一人くらいいるかもしれないだろ」
「いませんよ。いたら龍神祭のたびにこんな騒ぎになってます」
「じゃあ俺か」
「最初からそう言ってるでしょう」
納得したように頷いてから、グレイはもう一度街を見た。
ちょうどその時だった。
大通りの端にいた男が、こちらへ顔を向けた。
最初は何気なく見ただけだったのだろう。けれど銀髪の少女と、その後ろを歩く白銀の髪をした男に気づいた瞬間、その目が大きく見開かれた。
「あれ……白銀だ」
小さな声だった。
それでも周囲へ伝わるには十分だった。
「白銀の参加者だ!」
「帰ってきたぞ!」
「龍神様もいる!」
一つの声が二つになり、二つが十へ増える。
次々と人が振り返り、山から下りてきた一行へ視線が集まった。
グレイの足が止まる。
「……帰りたい」
「もう街まで戻ってきたっスよ」
「宿に帰る」
「その宿へ行くためには、あそこを通らないといけませんよ」
ライカが大通りを指差す。
グレイは人混みを見た。
次に宿がある方向を見る。
もう一度、人混みを見る。
「別の道は?」
「遠回りになります」
「そっちでいい」
「お姫ちゃん」
ライカの目が細くなる。
「自分で龍神様へ戦いを願ったんでしょう。今さら逃げやがらないでください」
「戦いたかっただけなんだけど。こんなに人が集まるなんて聞いてない」
「その相手が、この国で神様として崇められてる龍だったからっスよ」
ライアンが笑いを堪えながら口を挟む。
「姫さん、そこ分かってなかったんスか?」
「分かってたよ。でも戦う時は関係ないだろ。強い相手だった。それで十分だったし」
後ろから豪快な笑い声が響いた。
グレイが振り返る。
人化したアルディエルが、二人の龍族に肩を貸されながら歩いてきていた。
三日間戦い続けたのはグレイだけではない。
アルディエルの身体にも無数の傷が残り、歩みも普段より明らかに重い。それでも顔には疲労より愉快そうな笑みが浮かんでいた。
「我へ挑み続けた者が、今さら民を前にして何を怯えておる」
「戦うのとこれは別だろ」
「同じではないか」
「全然違う。アルディエルは殴ればいいけど、あの人たちは殴れない」
アルディエルの笑みが止まった。
「……民を殴るなよ?」
「殴らないよ。だから困ってるんだろ」
グレイは当然のように答える。
ライアンが堪えきれず吹き出した。
「姫さん、それ龍神様相手なら困らないって意味になってるっスよ」
「実際困らなかったし」
「我の扱いが随分と雑ではないか?」
「三日も殴り合ったんだから、今さらだろ」
「それもそうだな!」
アルディエルはあっさり納得した。
「納得するんスね……」
ライアンが呟く横で、セバスが静かに息を吐いた。
「グレイ様。立ったまま話していては余計にお疲れになります。まずは街へ入りましょう」
「セバス」
「はい」
「部屋まで運んで」
「宴の後でしたら」
グレイが顔を上げた。
「まだ始まってもないぞ」
「始まります」
「何で分かるんだよ」
「我が始めるからだ」
即座に答えたのはアルディエルだった。
グレイはゆっくり振り返る。
「……今から?」
「当然だ」
「俺、眠い」
「我も眠いぞ」
「じゃあ寝ようよ」
「それとこれとは別だ」
一拍置いて、グレイの眉が寄った。
「それ、さっき俺が言ったやつじゃん」
「なるほど。使い勝手のよい言葉だな」
「返して」
「断る」
言い合っている間にも、街の入口には人が増えていた。
人族、獣人、龍族。
武闘大会へ参加していた武人の姿もあり、グレイが予選で戦った者まで混じっている。
しかし、誰もすぐには近づいてこなかった。
理由は明白だった。
グレイの後ろに、アルディエルがいる。
人の姿をしていても、この国の者たちが見間違えるはずがない。
白耀龍神アルディエル。
神聖国アークレシアが神として崇める存在。
アルディエルは支えていた側近からゆっくりと腕を離すと、痛む身体を気にする様子もなく前へ出た。
それだけで街の空気が変わった。
笛が止まり、太鼓が止まる。
大通りを埋めていた無数の声まで消え、数え切れないほどの視線がアルディエルへ集まった。
「龍神祭は終わったか?」
静まり返った街へ、アルディエルの声が響く。
誰もすぐには答えなかった。
しばらくして、近くにいた龍族の男が恐る恐る頭を下げる。
「い、いえ。まだ終祭の儀は行われておりません」
「そうか」
アルディエルの口元が上がった。
「ならばちょうどよい」
嫌な予感がした。
グレイが一歩離れようとした瞬間、その肩へ大きな手が置かれる。
「……アルディエル」
「皆、聞け!」
「おい」
無視された。
「此度の龍神祭、その武闘大会を制した者を知っていよう!」
一斉に視線が移動する。
アルディエルから、その隣に捕まっているグレイへ。
逃げたい。
だが今の身体では走れない。
空間魔法を使えば逃げられるが、三日間の戦いで魔力もほとんど残っていなかった。
「その者は優勝者に与えられる願いとして、金も名誉も求めなかった!」
ざわめきが広がる。
「ただ一つ――我との戦いを望んだ!」
その話までは街にも伝わっていたらしい。
けれど、その後。
霊峰で何が起きていたのかまで知る者は少ない。
「我らは三日戦った! 夜も朝も関係なく、互いに退かず、互いに倒れず――最後には我が側近と、この者の家族に止められるまで戦い続けた!」
街中からどよめきが上がった。
グレイは隣を見上げる。
「アルディエル」
「何だ」
「もういいだろ。十分伝わったと思う」
「まだ肝心なところを言っておらん」
「長い」
「我の国だぞ」
「それずるくない?」
アルディエルは楽しそうに笑った。
そしてグレイの肩を抱いたまま、再び民へ向き直る。
「我が友を迎えよ!」
グレイの表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、ライアンもライカもセバスも、その僅かな変化を見逃さなかった。
「白銀の真祖――グレイ!」
一瞬の静寂。
次の瞬間、街が揺れた。
歓声と拍手が一斉に沸き起こる。誰かが杯を掲げれば、それに応えるように別の誰かが叫び、止まっていた笛と太鼓も再び鳴り始めた。
「白銀!」
「グレイ!」
「龍神様の友だ!」
四方八方から名前を呼ばれ、グレイは完全に動きを止めていた。
「……聞いてない」
「今言ったぞ」
「そうじゃなくて、先に言えよ」
「言えば逃げるだろう」
「逃げたよ」
「ならば言わなくて正解だったな!」
「アルディエル」
「何だ」
「今ならもう一回殴れる気がする」
「望むところ――」
「お二人とも」
低い声が割って入った。
グレイとアルディエルが同時に振り返る。
セバスが腕を組んで立っていた。
「三日間戦った直後でございます。続きを始めるおつもりでしたら、今度は私も止めますが」
「……やらない」
「む……我もやめておこう」
揃って引き下がる二人を見て、ライアンが肩を震わせる。
「姫さん、龍神様と一緒にセバスに怒られてるっス」
「うるさい」
「でも、友って言われてるっスよ」
「聞こえてたよ。あれだけ大声で言われたんだから」
ライアンは笑いながら、少しだけグレイの顔を覗き込んだ。
「で、どうなんスか?」
「何が?」
「龍神様に友って言われたことっス。嫌なら姫さん、普通に嫌って言うじゃないっスか」
グレイはすぐには答えなかった。
街の歓声を聞きながら、隣を見る。
三日前まで知らなかった相手。
強い龍。
最初は、それだけだった。
三日間殴り合い、倒れ、立ち上がり、互いの力をぶつけた。
今は少し違う。
「……悪くないよ。俺も、また会いたいと思ってるし」
ライアンの口元が上がった。
「それ、結構気に入ってるやつじゃないっスか」
「うるさいって」
グレイはライアンの額を指で押す。
その様子を見ていたアルディエルが満足そうに笑い、両腕を広げた。
「では宴だ! 今宵は盛大に祝うぞ!」
「やっぱり今からやるの?」
「無論!」
「寝たいんだけど」
「我が国の酒は美味いぞ」
グレイの目が僅かに動いた。
ライカがそれを見逃さない。
「お姫ちゃん?」
「何?」
「今、ちょっと興味持ちやがりましたね」
「持ってない。どんな酒か気になっただけ」
「それを興味を持ったと言うんですよ」
「肉もあるぞ!」
アルディエルが追い打ちをかける。
グレイは数秒だけ考えた。
「……行こう」
「即決しやがりましたね」
「三日も戦ったんだから腹減ってるんだよ。食べてから寝る」
「最初からそう言えばいいでしょう」
ライカが呆れたように言う。
グレイは何も気にせず、セバスの肩を借りたまま大通りへ向かった。
三日間の戦いは終わった。
その代わりに始まった夜は、戦いとはまるで違う意味で長いものになった。
◇
翌日、グレイが目を覚ましたのは昼近くになってからだった。
龍族の居館に用意された部屋には柔らかな日差しが入り、開けられた窓から流れ込む風が白い薄布を揺らしている。
聞こえてくるのは鳥の声。
そして、遠くから響く太鼓の音だった。
「……まだやってるのか」
寝台の上で身体を起こした瞬間、全身へ鈍い痛みが走った。
思わず顔をしかめる。
真祖の再生能力によって大きな傷はほとんど塞がっている。けれど失った魔力と体力まで一晩で完全に戻るわけではない。
特に最後の殴り合いで受けた細かな傷は、まだ身体のあちこちに残っていた。
頬へ触れる。
「……まだちょっと腫れてる」
「当然でございましょう」
「うわ」
突然返ってきた声に振り向くと、部屋の隅にセバスが立っていた。
「いたの?」
「先ほど参りました。よくお休みでしたので、お声はかけませんでした」
「そうなんだ。俺、どれくらい寝た?」
「半日ほどでございます」
「そんなに?」
驚きながら寝台から足を下ろすグレイに、セバスは僅かに眉を寄せた。
「三日間ほとんど眠らず戦っていたことをお忘れですか? むしろ、もう少しお休みいただきたいくらいです」
「忘れてないよ。でも寝すぎると身体重くなるし」
立ち上がって軽く肩を回す。
昨日よりは随分と軽い。
本調子には程遠いが、歩く程度なら問題なさそうだった。
「セバスたちは休めた?」
「ええ。ライアンとライカも含め、交代で休ませていただきました」
「ならよかった」
グレイは窓辺へ歩き、眼下のセレスティアを見下ろした。
昨日で終わると思っていた祭りは、どう見ても終わっていない。大通りには人が溢れ、昨日と変わらない賑わいが続いている。
「セバス。龍神祭って、いつまで?」
「本来であれば本日が終祭の日だったそうです」
「だった?」
「アルディエル様が延長なさいました」
嫌な予感がする。
「何日?」
「一週間です」
グレイはゆっくり振り返った。
「……一週間?」
「はい」
「何で?」
「グレイ様との戦いを祝うためだそうです」
グレイは少し考え、それから同じことを聞いた。
「何で?」
「私に聞かれましても」
「止めなかったの?」
「私が龍神様を、でございますか?」
「……無理か」
「ご理解いただけて何よりでございます」
額へ手を当てる。
窓の外から歓声が届いた。
一週間。
人間にとってはそれなりに長い。
グレイにとっては、そうでもない。
「まあ、いいか」
「よろしいので?」
「急いでないし。それに、まだこの国ちゃんと見てないから。祭りが続くなら、その間に見ればいいだろ」
知らない土地を歩き、知らないものを見る。
最初から、そのための旅だ。
「承知いたしました」
「ライアンとライカは?」
「ライアンはすでに街へ出ております」
「早いな」
「昨夜知り合った龍族の方々に誘われたそうです」
「ライカは?」
「追いかけて行かれました」
グレイは着替えへ手を伸ばしかけ、止まる。
「……何かやった?」
「昨夜の酒代を賭け事で取り返す、と」
「追いかけた方がいいな」
「私もそう思います」
即答だった。
グレイは少しだけ笑い、服を手に取った。
◇
龍神祭は、本当にそこから一週間続いた。
最初の二日ほど、グレイは街を歩くたびに落ち着かなかった。
どこへ行っても視線が集まる。
露店を覗けば店主が気づき、道を歩けば誰かが振り返る。
「龍神様と戦った白銀だ」
「三日間だってよ」
そんな声が聞こえるたび、最初のうちは反応していたグレイも、三度目を過ぎた辺りから諦めた。
「姫さん、有名人っスね」
隣を歩くライアンが串焼きを齧りながら笑う。
「お前も一緒に歩いてるから結構見られてるぞ」
「俺は姫さんのおまけっスよ」
「じゃあ、それ半分食べていい?」
「何でそうなるんスか?」
「おまけだから」
「食い物にまで適用されないっスよ」
「一口でいい」
「姫さん、さっき三本食ったっスよね?」
「食べた。でもまだ腹減ってる。回復してる時って結構使うんだよ」
「絶対それ理由にして食べたいだけっスよ」
そう言いながらも、ライアンは串に残っていた最後の一切れをグレイへ差し出した。
グレイは遠慮なく受け取る。
「ありがとう」
「最初からそれ言えばあげたっスよ」
「じゃあ次からそうする」
「本当っスかね……」
そんな話をしながら歩いていると、少し前で露店を見ていたライカが振り返った。
「お姫ちゃん、ちょっとこっちへ来やがってください」
「何かあった?」
「これです」
ライカが手にしていたのは、掌に収まるほどの小さな銀細工だった。
翼を広げた龍が細かく彫られている。
「土産?」
「そうです」
「誰に?」
聞いてから、ライカが何を言おうとしているのか気づいた。
「家族に決まってるでしょう」
ライカは当たり前のように答えた。
「せっかくこんな遠くまで来たんです。待っている皆にも、この国で見たものを少しくらい持って帰りやがってください」
グレイは銀細工を受け取った。
指先で回してみる。
翼も鱗も細かく作られており、小さいながらよくできている。
「……これ、いいな」
「でしょう?」
「同じの何個ある?」
「全員同じ物にするんですか?」
「少しずつ違う方がいい。向こうにも店あったよな?」
「ありましたよ。龍の形も何種類か――って、お姫ちゃん?」
「見てくる」
「待ちなさい。店は逃げませんよ」
歩き出したグレイをライカが追い、その後ろをライアンもついてくる。
旅先で何かを買う。
帰った時に渡す。
それ自体は大したことではない。
けれど、いつからか旅はグレイ一人が世界を見るためだけのものではなくなっていた。
見たものを話したい相手がいる。
面白いものがあれば持ち帰りたいと思う相手がいる。
銀色の龍を掌で転がしながら、グレイは次の露店へ顔を覗かせた。
◇
同じ頃、セバスは祭りの中心から少し離れた場所にいた。
コロッセオの裏手に設けられた訓練場。
普段は龍族の武人たちが身体を動かしているらしく、地面には踏み込みによって削れた跡がいくつも残っている。
その中央で、セバスを囲むように十人ほどの龍族が集まっていた。
「なるほど。ただ魔力を身体へ纏わせるのではないのだな」
一人の龍族が自分の拳を開閉しながら尋ねる。
「ええ。正確には、気と魔力の流れを身体の動きへ重ねます。ただし、私と皆様では身体の構造も魔力の性質も異なります。そのまま真似ることはお勧めいたしません」
「だが考え方そのものは使える」
「それは否定いたしません。自分の身体に合わせて組み直すのであれば、試す価値はあるでしょう」
セバスの《魔気闘法》は、単純に魔力を纏うだけの技術ではない。
だからこそ、教わったからといってすぐ使えるものでもなかった。
別の龍族が腕を組む。
「グレイへこれを教えたのも、お前なのだろう?」
「基礎を少々」
「少々?」
龍族が怪訝そうな顔をする。
「龍神様の顎を殴り飛ばしていたぞ」
「そこから先はグレイ様ご自身のものです。私が教えたからできたのではなく、あの方が自分の身体に合わせて使える形へ変えたのでございます」
教えたことまで否定するつもりはない。
だが、使えるようになったことまで自分の功績にする気もなかった。
セバスにとっては、それが当然だった。
「ならば、お前自身のものを見たい」
大柄な龍族が一歩前へ出た。
「手合わせを頼めるか?」
セバスは相手の立ち方を見る。
重心。
肩の位置。
拳の握り方。
自然と昔の感覚が戻ってくる。
「構いません。ただし私は魔法を使えません。それでもよろしいですか?」
「むしろ望むところだ」
龍族が笑った。
セバスの口元も僅かに上がる。
上着を脱ぎ、袖を整えたところで、訓練場の入口から声が飛んできた。
「……何してるんスか、セバス」
振り向けば、ライアンが立っていた。
どうやら街を歩いている途中で拳の音を聞きつけたらしい。
「交流だ」
「どう見ても殴り合ってるっスけど」
「武人にはこれが一番早い」
「姫さんと龍神様みたいなこと言い始めたっスね」
セバスの眉が僅かに動いた。
「それは聞き捨てならんな」
「そこ否定するんスか?」
「当然だ。グレイ様とアルディエル様は三日間続けた。私はそこまで無茶をする気はない」
「比較するとこ、そこなんスか……」
ライアンが呆れた顔をする。
向かいに立っていた龍族が豪快に笑った。
「お前たちの主従は面白いな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
セバスが腰を落とす。
それを見て、ライアンは肩をすくめた。
「結局やるんスね」
「もちろんだ。せっかく誘ってもらったんだからな」
「じゃあ俺、見てるっス」
「好きにしろ。ただし近づきすぎるなよ」
「分かってるっスよ」
セバスが正面へ視線を戻す。
祭りの音に混じって、拳と拳がぶつかる乾いた音が訓練場へ響いた。
◇
宴の四日目。
夜の霊峰ヴァルグランは、昼間までの賑わいが嘘のように静かだった。
首都では今も祭りが続いているらしく、遠くから笛の音が微かに届いている。
グレイは中腹の広場にある低い石壁へ腰掛け、手の中の杯を傾けていた。
人が多いこと自体は嫌いではない。
ただ、ずっと囲まれていると疲れる。
だから少しだけ抜けてきた。
「ここにいたか」
後ろから聞こえた声に、グレイは杯を持ったまま振り返った。
「アルディエル」
人化した龍神が酒瓶を片手に歩いてくる。
「一人か?」
「今は。ライアンは街。ライカはたぶんそれ追いかけてる。セバスは龍族の人たちと話してる」
「そなたは宴から逃げたのか?」
「……半分くらい。嫌いじゃないけど、ずっと人の中にいると疲れるんだよ」
「なるほど。三日間戦い続ける体力はあるのにな」
「使う場所が違うだろ」
アルディエルは笑いながらグレイの隣へ腰を下ろした。
ふとグレイの杯を見る。
「空ではないか」
「さっき飲んだ」
「ならば注ごう」
「自分でできるぞ」
「我がやりたいのだ」
「じゃあお願い」
差し出した杯へ透明な酒が注がれる。
甘い香りが鼻へ届き、口に含むと柔らかな甘さの後から強い熱が喉を通った。
グレイはもう一度少量を口へ運ぶ。
「これ好きかも。昨日のと違うな」
「分かるか」
「何が入ってる?」
「霊峰にのみ咲く花と、龍族の里で採れる果実だ。長く寝かせるほど香りが増す」
「へえ。これ何年?」
「百二十年ほどだな」
杯を傾けかけていた手が止まった。
「……結構いいやつじゃん」
「我が友へ安酒を出せるか」
「別に安くても飲むぞ。美味ければ」
「我の気分の問題だ」
「そっか。じゃあ遠慮しない」
今度はゆっくり味わう。
百二十年。
人にとっては、とても長い。
けれど、ここにいる二人にとっては少し違った。
「百二十年前って、何してた?」
何となく聞いてみる。
アルディエルは酒瓶を持ったまま空を見上げ、少し考えた。
「何をしていたかな」
「忘れた?」
「すべてを覚えているわけではない。そなたは違うのか?」
「俺も忘れるよ。全部覚えてたら頭いっぱいになるだろ」
「違いない」
グレイは杯へ視線を落とした。
「覚えてることは、ずっと覚えてるけど」
それ以上は言わなかった。
長く生きていても、何もかも鮮明に残り続けるわけではない。
忘れようとしても残るものがある。
大切だったはずなのに、少しずつ輪郭が薄れていくものもある。
アルディエルも、それ以上は聞かなかった。
しばらく二人で酒を飲んでいると、今度はアルディエルが口を開いた。
「そなたは、長く生きることを嫌だと思ったことはあるか?」
グレイの手が僅かに止まった。
遠くに見えるセレスティアの灯りへ目を向ける。
祭りの光。
ここからでは一つ一つの人影など見えない。
「あるよ」
短く答えた。
アルディエルは頷くだけだった。
「そうか」
理由を聞かれなかったことに、グレイは少しだけ肩の力を抜く。
今度は自分から尋ねた。
「アルディエルは?」
「ある」
「龍神でも?」
「龍神だからではない。我が長く生きているからだ」
「そっか」
「ただ、嫌だと思うことと、終わらせたいと思うことは別だ」
グレイは隣を見る。
アルディエルもこちらを見ていた。
「……分かる。それは別だよな」
「ああ」
それだけで会話は途切れた。
何を失ったのか。
どうして嫌になったのか。
それでもなぜ生きているのか。
互いにすべてを話す必要はなかった。
同じだけ長く生きていても、歩いてきた道は違う。
分かったつもりになるより、その程度の距離がちょうどよかった。
グレイは杯に残っていた酒を飲み干す。
「アルディエル」
「何だ」
「次は勝つ」
アルディエルの眉が上がった。
「それはこちらの台詞だ」
「俺、空間魔法まだ全部見せてないぞ」
「我とて同じだ」
「ほんと?」
「そなた、我があれで全てだと思っていたのか?」
グレイは少し考えてから首を横へ振った。
「全力ではあっただろ。でも殺すための力は使ってなかった。俺も同じだったし」
「……なるほど」
「だから今回は引き分けでいいよ。次に決めればいい」
「次は違うぞ」
「うん。俺もそのつもり」
グレイの口元が少し上がる。
「次も引き分けたら?」
「その次だ」
「また引き分けたら?」
「さらに次だ」
「終わらないな」
「それでよかろう」
グレイは一瞬黙ったあと、小さく笑った。
「確かに。それなら急いで決めなくていいか」
二人とも、時間だけはある。
次。
その次。
さらに先。
そんな約束ができる相手は、グレイにとって決して多くなかった。
「酒、もう一杯」
「よかろう」
アルディエルが瓶を持ち上げる。
グレイの杯が満たされると、今度はグレイが酒瓶を受け取った。
「アルディエルも」
「うむ」
互いの杯を満たし、軽く合わせる。
澄んだ音が、静かな霊峰の夜へ溶けていった。
◇
宴は五日目、六日目と続いた。
街の至るところで料理と酒が振る舞われ、コロッセオでは祭りの余興として即興の試合まで始まった。
「姫さん! 飛び入りできるらしいっスよ!」
目を輝かせるライアンに、グレイは迷わず首を横へ振った。
「やらない。まだ身体重いし、今やったらセバスに怒られる」
「珍しいっスね。姫さんが自分から止めるなんて」
「三日間やったから十分だよ。今は見る方でいい」
「じゃあ俺、出てくるっス!」
「怪我するなよ」
「姫さんに言われると説得力ないっス!」
そう言って飛び入りしたライアンは数試合を勝ち抜き、最後には龍族の若者と正面から打ち合って負けた。
戻ってきた時には額に大きなこぶができている。
「惜しかったっス!」
「負けてるじゃん」
「姫さん、笑わないでくださいっス」
「笑ってないよ」
「口元!」
「気のせい」
「絶対笑ってるっス!」
騒ぐライアンへ、ライカが治療用の布を押しつける。
「にーちゃん。調子に乗りやがるからです。途中から完全に相手の誘いに乗ってたでしょう」
「でも楽しかったっスよ」
「ならいいですけど。次は頭から突っ込みやがらないでください」
言葉こそ呆れているが、ライカの手つきは丁寧だった。
その少し離れた場所では、セバスが先日手合わせをした龍族の武人たちと話している。
どうやらすっかり馴染んだらしい。
グレイは石壁へ腰を預け、その光景を眺めていた。
「よい家族だな」
隣に立ったアルディエルが言う。
グレイは迷わず頷いた。
「うん」
「自慢か?」
「かなり」
即答すると、アルディエルが笑った。
「そなたはそういうところだけは迷わんな」
「迷う理由ないし。大事な家族だから」
ライアンが何か言って、ライカに頭を叩かれている。
少し離れたところでは、セバスがその様子を見て僅かに笑っていた。
「アルディエルは?」
「何がだ?」
「家族」
アルディエルは少し考え、広場に集まる龍族たちを見渡した。
「我にとっては、この山に住む龍たちも似たようなものかもしれんな」
「じゃあ多いな」
「多いぞ」
「名前全部覚えてる?」
「当然だ」
グレイが感心して顔を上げる。
「すごいな」
「龍神だからな」
「それ、最近便利な言葉になってない?」
「そなたに言われたくない」
「俺、そんな便利な言葉ないぞ」
「真祖だから、でよかろう」
「それで誤魔化したことないよ」
「そうだったか?」
「たぶん」
「自信がないではないか」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
三日前までは拳を交えることでしか知らなかった相手。
けれど今は、戦わなくても話すことがあった。
◇
一週間は、過ぎてしまえば短かった。
宴の最終日。
セレスティアには祭りの終わりを惜しむ空気が漂い、屋台を畳む商人や帰り支度をする旅人の姿が増えていた。
グレイたちも朝から出発の準備を進めていた。
ライアンが荷物をまとめ、ライカが忘れ物を確認する。セバスは旅に必要な食料と水を補充していた。
最後に部屋を見回したグレイは、窓を閉めて小さく頷く。
「よし。忘れ物ない」
「姫さん、準備できたっスか?」
「できた。行こう」
荷物を持ち上げる。
もう誰かに身体を支えてもらう必要はない。
傷はほとんど消え、魔力も十分に戻っている。
四人で宿を出て大通りを歩くと、片づけをしていた人々がグレイに気づいて手を振ってきた。
最初の頃なら固まっていただろう。
今は少しだけ慣れた。
グレイも小さく手を上げて返す。
「慣れましたね、お姫ちゃん」
「ちょっとだけ。まだあんなに集まられるのは嫌だけど」
「十分な進歩っスよ、姫さん」
「ライアン」
「何スか?」
「余計」
「褒めたんスけどね」
そんな話をしながら街の門へ向かう。
やがて、その手前に立っている一人の男が見えた。
白銀の髪。
金色の瞳。
「遅いぞ」
「アルディエル」
グレイが足を止める。
「見送り?」
「我が友が国を発つのだ。当然であろう」
「龍神って意外と暇なの?」
「最後まで一言多いな、そなたは」
「ごめん」
「まったく反省しておらんな」
「してるよ。ちょっとだけ」
「それを反省とは言わん」
アルディエルの後ろにはガルドとレオル、そのほかにも祭りの間に顔を合わせた龍族たちが集まっていた。
グレイは一人ずつ顔を見る。
「世話になった。大会も祭りも楽しかったよ」
長い言葉ではない。
それでもガルドは十分だと言うように笑った。
「こちらこそ。随分と面白いものを見せてもらった」
レオルも一歩前へ出る。
「次に会う時は、俺ともまた戦ってくれ」
「いいよ。レオルも強かったし、次はもっと強くなってそうだから」
「姫さん、また約束増やしてるっスね」
「別にいいだろ。次に会う理由が増えるだけだし」
ライアンは一瞬だけ目を丸くしたあと、肩をすくめて笑った。
「まあ、姫さんらしいっスけど」
やがてアルディエルが前へ出る。
グレイも一歩進んだ。
二人が向かい合う。
三日前も、こうして向かい合った。
あの時は互いに拳を構えていた。
今日は違う。
「次はどこへ行く」
「まだ決めてない」
「決めておらんのか?」
「旅だし。行ったことない場所に行ければ、それでいいよ」
「随分と気ままな旅だな」
「その方が面白いだろ」
「なるほど。そなたらしい」
アルディエルは少し笑った。
「ならば、いずれまたここへ来い」
「うん。近くまで来たら寄るよ」
「我が生きているうちにな」
グレイは思わず眉を上げた。
「お前がそれ言う?」
「そなたもだ」
「俺もか」
「互いに簡単には死なんだろう?」
「まあ、それはそうだな」
霊峰から冷たい風が下りてくる。
グレイの銀髪が揺れ、向かいに立つアルディエルの白銀の髪も同じ方向へ流れた。
「アルディエル」
「何だ」
グレイは少しだけ口元を緩めた。
「また戦おう」
アルディエルの表情が変わる。
龍神として民へ向けるものではない。
三日間、互いに倒れるまで殴り合った相手へ向ける笑みだった。
「無論だ」
アルディエルが拳を差し出す。
「次は三日では帰さんぞ」
グレイも拳を出した。
「じゃあ四日?」
「一月だ」
「長いな」
「怖じ気づいたか?」
「まさか。だったら一月分、ちゃんと準備してくるよ」
こつん、と拳が触れる。
「次は勝つ」
「我がな」
「俺が」
「我だ」
「俺だって」
「……また始まりやがりましたね」
後ろからライカの声がした。
ライアンが笑う。
「放っとくと本当に今日出発できないっスよ」
「セバス、止めなくていいんスか?」
「もう少し続くようなら止める」
「そこはすぐ止めないんスね」
「別れの挨拶くらい好きにさせてやれ」
その言葉が聞こえたのか、グレイが振り返った。
「もう終わるよ」
「でしたら問題ございません」
グレイへ返す時だけ、セバスの口調が自然と改まる。
グレイはアルディエルへ向き直り、拳を離した。
「じゃあな、アルディエル」
「ああ。また会おう、グレイ」
それで十分だった。
グレイは背を向ける。
ライアン。
ライカ。
セバス。
三人と一緒に街の門を抜けた。
後ろは振り返らない。
もう会えない相手ではない。
また来ればいい。
「姫さん」
「何?」
「次どっち行くっスか?」
街道が二つに分かれている。
グレイは右を見る。
次に左を見る。
「さあ」
「決めてないんスか!?」
「さっきアルディエルにも言っただろ」
「俺らには言ってないっス!」
「じゃあ今言った」
「行き当たりばったりにもほどがあるっスよ!」
ライカまで眉間へ皺を寄せた。
「お姫ちゃん。せめて次の町くらい確認しやがってください。食料だって無限じゃないんですよ」
「セバス、知ってる?」
「存じております」
「じゃあ大丈夫」
「最初からセバス任せっスか!」
「適材適所」
「便利な言葉覚えやがりましたね」
「前から知ってるよ」
四人の声が街道へ遠ざかっていく。
アルディエルは、その姿が小さくなるまで門の前に立っていた。
「行かれましたな」
隣にいたガルドが静かに言う。
「ああ」
レオルも街道の先を眺めている。
「不思議な方でした」
「そうだな」
アルディエルの口元には、まだ笑みが残っていた。
「次は負けぬ」
ガルドが僅かに眉を上げる。
「まだ仰るのですか」
「当然だ」
「引き分けでございましたが」
「だから次は我が勝つ」
ガルドとレオルは顔を見合わせた。
それ以上は何も言わなかった。
龍神が次の再会をこれほど楽しみにしている。
それだけで十分だった。
◇
その日の夕方。
龍神祭のため各地から集まっていた貴族たちも、次々とセレスティアを離れ始めていた。
祭りの跡が残る大通りを、一台の豪奢な馬車が進んでいく。
その窓辺に、一人の若い男が座っていた。
神聖国アークレシアの第三王子。
彼もまた、龍神祭へ参列するため首都を訪れていた一人だった。
窓の外では、片づけをする人々が今も祭りの話をしている。
話題の中心にいるのは、一人の銀髪の女。
武闘大会を勝ち抜き、優勝者の願いとして龍神との戦いを望み、三日三晩戦い続けた者。
白銀の真祖。
「……グレイ」
第三王子が小さくその名を口にする。
最初に見たのはコロッセオだった。
大勢の参加者の中で、銀髪を揺らしながら淡々と相手を倒していく姿。
歓声に酔うこともなければ、王族や貴族へ媚びる様子もない。
龍族を相手にしても態度は変わらず、最後にはこの国の神そのものへ戦いを願った。
理解できない。
だからこそ、妙に目に残った。
「殿下」
向かいに座っていた従者が声をかける。
「いかがなさいましたか」
「いや。少し気になる者がいてね」
「龍神祭の参加者でございますか?」
「ああ」
第三王子は窓の外へ視線を向けたまま答える。
「白銀の真祖。面白い女だ」
まだ、それだけだった。
彼女が何者なのか。
どこから来たのか。
どこへ向かうのか。
何も知らない。
「お調べいたしますか?」
従者の問いに、第三王子は少し考えた。
「……いや。今はいい」
馬車が街の門へ近づいていく。
「いずれ、また会うこともあるだろう」
馬車はそのまま門を抜け、夕暮れの街道へ出た。
グレイたちが向かった方角とは別の道。
互いの距離は少しずつ離れていく。
この時はまだ。
ただ名を覚えた。
それだけだった。
◇
セレスティアを離れて数日。
周囲の景色は、霊峰を中心とした険しい山々から穏やかな草原へ変わっていた。
振り返ればヴァルグランの白い頂が地平の向こうに僅かに見える。
風は穏やかで、空は高い。
祭りの間、どこへ行っても人の声と音楽に囲まれていたせいか、旅人の少ない街道はいつも以上に静かに感じられた。
「静かっスね」
ライアンが歩きながら呟く。
「一週間、ずっと騒がしかったですからね」
ライカが答えた。
「俺、結構好きだったっスよ」
「でしょうね。毎晩飲み歩きやがってましたから」
「ねーちゃんも来てたじゃないっスか」
「にーちゃんが何かやらかさないか見張っていたんです」
「楽しんでたっスよね?」
「気のせいです」
「踊ってたっスよね?」
ライカの足が止まりかけた。
「忘れやがってください」
「無理っス」
「忘れなさい」
「嫌っス」
二人のやり取りを聞きながら、グレイは少し前を歩いていた。
その後ろにはセバス。
いつもの旅へ戻った。
それなのに、何となく少しだけ違う。
グレイは腰に下げた小さな袋へ触れた。
中には龍を模した銀細工が入っている。
家族への土産。
そして、もう一つ。
アルディエルから受け取った小さな白い鱗。
特別な力があるわけではない。
何かの証でもない。
人化する際に剥がれかけていたものを見つけ、グレイが欲しいと言った。
それだけのものだった。
「姫さん」
「ん?」
ライアンの声に顔を上げる。
「何笑ってるんスか?」
「笑ってた?」
「ちょっとだけっスけど」
グレイは自分の口元へ指を当てた。
「気のせいじゃない?」
「ねーちゃん」
ライアンが確認する。
「笑ってましたね」
「セバス」
「僅かに」
グレイが振り返った。
「全員見てたの?」
「姫さんが一人でニヤついてたら気になるっスよ」
「ニヤついてない」
「じゃあ何考えてたんスか?」
グレイは少しだけ考えた。
遠くなった霊峰へ目を向ける。
もうアルディエルの姿など見えるはずもない。
「次はどうやって殴ろうかなって」
「まだ考えてたんスか!?」
「だって負けてないだろ」
「勝ってもないっスよ!」
「だから次は勝つんだよ。今度はもう少し空間魔法の使い方変えてみたいし」
「龍神様も同じようなこと考えてそうっスね……」
「なら、どっちが先に考えつくかも勝負だな」
「もう次の勝負始まってるんスか!?」
グレイは笑った。
今度は隠さなかった。
また会える。
また戦える。
それがいつになるのかは分からない。
一年後かもしれない。
十年後かもしれない。
もっと先かもしれない。
それでも、約束は残っている。
長く生きていれば、別れは増える。
失うものも増えていく。
けれど、別れがすべて終わりになるわけではない。
次を約束して離れられる相手もいる。
グレイは霊峰から視線を外し、街道の先へ向き直った。
「行こう。次の街までどれくらい?」
「このまま進めば、明日の夕刻頃には到着するかと」
セバスの答えに、グレイは頷く。
「じゃあそこで一泊しよう。できれば風呂ある宿がいいな」
「承知いたしました」
「俺も風呂入りたいっス」
ライアンが嬉しそうに言った瞬間、ライカが横から睨んだ。
「にーちゃんはその前に服を洗いやがってください」
「洗ったっスよ!」
「昨日でしょう。もう汚れてます」
「旅してるんだから仕方ないっス!」
「お姫ちゃんもです」
「俺も?」
「昨夜、そのまま地面に寝転がって星を見ていたでしょう」
「見てた。綺麗だったよ」
「感想を聞いてるんじゃありません。洗濯物を増やしやがらないでください」
「……ごめん」
素直に謝ったグレイを見て、ライアンが笑う。
「姫さん、そこは素直なんスね」
「ライカ怒ると長いから」
「聞こえてますよ、お姫ちゃん」
「聞こえるように言った」
「お姫ちゃん?」
ライカの声が一段低くなる。
グレイは僅かに歩調を速めた。
「……ごめんって」
「逃げても話は終わりませんよ」
「セバス」
「私を巻き込まないでくださいませ」
「助けてくれないの?」
「今回はグレイ様が悪いかと」
「セバスまで……」
ライアンの笑い声が草原へ響く。
その横で、セバスも僅かに口元を緩めていた。
草原の中を一本の街道が伸びている。
その先に何があるのか、グレイはまだ知らない。
どんな国があるのか。
どんな人がいるのか。
どんな強い相手に出会えるのか。
知らないからこそ、歩いていける。
霊峰ヴァルグランは、少しずつ遠ざかっていく。
けれど、そこで交わした約束まで遠ざかることはない。
――また戦おう。
たったそれだけの約束。
けれどグレイにとっては、いつかもう一度この国を訪れる理由として、それで十分だった。




