第7話 たった一つの願い
朝のセレスティアには、龍神祭の熱気がまだ色濃く残っていた。
宿の窓を開ければ、石畳を掃く箒の音や、屋台へ薪を運ぶ人々の声が聞こえてくる。通りの向こうでは早くも肉が焼かれ始め、香ばしい匂いが冷えた朝の空気に混じっていた。
祭りそのものは昨日と変わらない。
違うのは、その中を歩く人々の視線だった。
「……昨日より増えたな。朝から何人もこっち見てる」
二階の窓辺から通りを眺めていたグレイが、小さく呟く。
大会を勝ち進むにつれ、街で顔を知られることは増えていた。だが決勝を終え、優勝者となった今は明らかに様子が違う。
宿の前を通る者が、時折こちらを見上げている。それどころか、目が合えば嬉しそうに手を振ってくる者までいた。
「姫さん、そろそろ諦めた方がいいと思うっスよ」
背後から聞こえた声に、グレイは窓の外を見たまま眉を寄せた。
「何をだよ。別に何か諦めるようなことしてないだろ」
「自分が有名になったってことっス」
「それは否定してない。昨日より見られてるから、増えたなって思っただけ」
「じゃあ、なんで朝から何度も外を確認してるんスか?」
「気になるだろ。昨日までこんなに見られてなかったんだから」
「それを有名になったって言うんスよ」
振り返ると、ライアンがパンを片手に笑っていた。
その向かいでは、ライカが呆れたように弟を見ている。
「にーちゃん、朝からお姫ちゃんで遊ぶのはやめやがってください。今日は龍神様にお会いするんですから」
「だからこそっスよ。山へ行ったら姫さんで遊んでる場合じゃないかもしれないっスから」
「だったら今も遊ぶなよ。俺は朝飯食いたいんだけど」
グレイが窓から離れて席へ向かうと、今度はライカの視線が向けられた。
「それより、お姫ちゃん」
「何? 今度はライカまで何か言うの?」
「今日は絶対に変なことをしないでくださいね」
グレイは椅子を引こうとしていた手を止めた。
ライカを見る。
それから何も言わずに椅子へ座った。
「……なんで黙りやがったんですか?」
「いや、何もしてないのに先に釘刺されたから。何て返せばいいのか考えてた」
「する予定がある人の返し方なんですよ、それは」
「ないよ。少なくとも、俺は変なことするつもりで行くわけじゃない」
「その『俺は』が不安なんです」
ライカが疑わしそうな目を向ける。
グレイには、なぜそこまで信用されていないのかがよく分からなかった。
「では、願いはもう決まっているのですか?」
静かな声とともに、グレイの前へ茶が置かれた。
セバスだった。
旅に加わった頃とは比べものにならないほど、その所作は執事として板についている。だが昨日の決勝後、グレイの動きについて細かな反省点をいくつも挙げていたあたり、武人としての中身まで変わったわけではない。
「決めた。昨日寝る前には、もうこれでいいって思ってた」
「左様でございますか」
セバスの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「差し支えなければ、お聞きしても?」
「着いてから言う。今ここで言ったら、たぶん三人とも色々言うだろ」
その答えを聞いたライアンが、思いきり顔をしかめる。
「うわ。絶対ろくでもない願いっス」
「何でそうなるんだよ。まだ何も言ってないだろ」
「普通の願いなら、わざわざ隠さないじゃないっスか」
「隠してない。アルディエルに最初に言いたいだけ。願いを叶える本人より先にお前らへ言うのも変だろ」
「そう言われると、それっぽい理由っスけど……」
ライアンは納得しきれない顔をしている。
グレイはそれ以上相手にせず、パンへ手を伸ばした。
龍神が願いを一つ叶える。
大会へ参加した時から聞いていた話だ。
けれど、欲しいものを考えてみても、金や武器は真っ先に候補から外れた。旅を続けるのに困らない程度のものは持っているし、特別な武器を求めてもいない。
知識には惹かれた。
長く生きてきた古龍なら、自分の知らない世界をいくつも知っているはずだ。
それでも――今、一番気になっているものは別にある。
「お姫ちゃん」
考え込んでいたグレイへ、ライカが念を押すように声をかけた。
「龍神様に失礼なことだけは言わないでくださいね」
「言わないよ。俺だって喧嘩しに行くわけじゃないんだから」
「その自信がどこから来るのか分かりません」
「何でだよ。普通に話すだけだぞ?」
グレイは助けを求めるようにセバスを見る。
しかし彼は茶器を整えながら、静かに首を振った。
「私もライカと同意見でございます」
「セバスまで? 長く一緒にいるんだから、少しくらい俺を信じろよ」
「長くお側にいるからこそ申し上げております」
「……それ言われると、何も返せないな」
実際、反論できなかった。
ライアンが堪えきれず笑い始める。
その時、窓の外から低い鐘の音が響いた。
祭りの賑やかな鐘とは違う。長く尾を引く音が街へ広がり、先ほどまで騒がしかった通りがわずかに静まっていく。
セバスが窓へ目を向けた。
「お時間のようです」
武闘大会の優勝者は、霊峰ヴァルグランへ招かれる。
その頂に住むのは、白耀龍神アルディエル。
この国で神として崇められ、ガルドですら自分では勝負にならないと言った存在。
グレイは残っていた茶を飲み干し、椅子から立ち上がった。
「じゃあ行こう。待たせるのも悪いし、俺も早く会ってみたい」
◇
宿を出ると、白い法衣をまとった神官たちが待っていた。
中央には表彰式でも顔を見た老神官が立っている。
「お待ちしておりました。武闘大会優勝者、グレイ殿」
「おはよう。待たせてない?」
一瞬だけ間があった。
もう少し格式のある挨拶を期待されていたのかもしれない。
「いえ。ちょうどよい頃合いでございます」
老神官はすぐに表情を戻すと、グレイの後ろに立つ三人へ視線を向けた。
「お連れの方々も、ご一緒でよろしいでしょうか」
「うん。三人とも一緒に行く。駄目じゃないなら連れていきたい」
「もちろんでございます」
ライアン、ライカ、セバス。
三人とも普段と変わらない旅装だった。
これから神と呼ばれる存在に会うというのに、いつもの旅の延長に三人がいる。それだけで、グレイには十分だった。
「では、ご案内いたします」
神官たちについて大通りへ出る。
途端に左右から歓声が上がった。
「グレイー!」
「優勝おめでとう!」
龍を模した旗が朝の風にはためき、沿道では子供たちまで手を振っている。
どうやら優勝者が霊峰へ向かうところまで、祭りの催しとして定着しているらしい。
グレイはどう反応すればいいのか少し迷ったあと、片手を上げて応えた。
「姫さん、昨日よりちゃんと反応できてるじゃないっスか」
「無視するのも変だろ。向こうは俺に手振ってるんだし」
「成長したっスねえ」
「何でお前が嬉しそうなんだよ」
やがて街の門を抜ける。
そこから先に待っていたのは、街中から眺めていた時より遥かに巨大なヴァルグランだった。
山頂は雲の中へ消え、近づくほど全体像が分からなくなる。街の熱気を押し返すように、森と岩の匂いを含んだ冷たい風が斜面から吹き下ろしてきた。
「近くで見ると、本当に高いな。街から見てた時よりずっと大きく見える」
「今さらっスか?」
「遠くから見るのと近くで見るのは違うだろ。上の方、ほとんど見えないぞ」
ライアンが呆れたように山を見上げる。
「これ、全部歩くんスかね」
「途中から特別な道をお使いいただきます」
老神官が振り返った。
「龍神様のお力によって作られた道です。通常の登山ほど時間はかかりません」
「へえ、便利だな。こんな山を毎回登るのは大変そうだし」
「グレイ様」
すぐ横からセバスの声が飛んできた。
「何?」
「龍神様の御前では、もう少し言葉をお選びくださいませ」
「分かってるよ。別にアルディエル本人に『便利だな』って言うつもりじゃない」
「その『つもり』を心配しております」
「……普通に話すだけなのにな」
グレイは納得しきれないまま首を傾げた。
参道へ入ると、祭りの喧騒は少しずつ背後へ遠ざかっていった。
◇
山道はよく整備されていた。
古い石段の両側には龍を彫った石柱が並び、翼を広げるもの、長い身体を岩へ巻きつけるもの、海から顔を出すものと、その姿は一つとして同じではない。
しばらく眺めながら歩いていたグレイが、不意に足を緩めた。
「これ、全部本当にいた龍? 形がかなり違うけど」
「実在した龍を模したものと伝えられております。古い彫像も多く、すでに姿を消した種もございますが」
「龍も死ぬんだな。長生きだから、もっと残ってるのかと思ってた」
「もちろんでございます。我ら人族とは比較にならぬほど長命ですが、不死ではありません」
「……そっか。不死じゃないんだな」
グレイは風雨に削られた石の龍を一度だけ見上げ、再び歩き出した。
不死ではない。
その言葉だけが、少し胸に残った。
やがて森が深くなり、鳥の声と葉擦れだけが周囲を満たす。
さらに登った先で木々が途切れると、巨大な石門が現れた。
壁も柵もない。
二本の石柱と、その上に渡された梁だけが山道を跨いでいる。
「ここから先が、龍神様の領域となります」
老神官は門の手前で足を止めた。
「我々がお連れできるのは、ここまでです。この先へ立ち入れるのは、龍神様に仕える者と、正式に招かれた者のみ」
「このまま真っ直ぐ行けばいい? 道は一本しかないみたいだけど」
「はい。門を越えれば、道が示されます」
グレイが進もうとしたところで、老神官に呼び止められた。
「グレイ殿」
「何?」
「龍神様は、我らにとって神そのものでございます。あなた方に同じ信仰を求めるつもりはありません。ただ――敬意だけは、お忘れなきよう」
その目は真剣だった。
グレイも茶化さずに相手を見る。
「分かった。俺はアルディエルを神として信仰してるわけじゃないけど、馬鹿にするつもりもないよ」
老神官は僅かに目を見開いたあと、深く頭を下げた。
「それで十分でございます」
門を越える。
数歩進んでも、何も起こらない。
そう思った直後、目の前の景色が揺らいだ。
「おお……?」
ライアンが声を漏らす。
先ほどまで続いていた山道が消え、代わりに白い石の階段が現れていた。
真っ直ぐ雲の中へ伸びている。
左右は切り立った崖で、下を覗けば先ほどまで歩いていた森が遥か下に見えた。
「これ、空間が繋がってるな。転移させられた感じはしなかった」
「転移でしょうか」
「少し違う。俺たちを移したんじゃなくて、離れた場所にある道同士を直接繋いでる。俺の空間魔法にも似た使い方がある」
興味を惹かれ、グレイは思わず階段の端へ寄った。
空間へ意識を伸ばそうとしたところで、背後から声が飛んでくる。
「グレイ様」
「分かってる。壊したりしない。どう繋いでるのか見るだけ」
「触らないでくださいませ」
「だから見るだけだって」
「それで終わらなかった前例がございます」
グレイの動きが止まる。
少し考えたあと、素直に一歩戻った。
「……分かった。今日はやめとく」
ライアンが肩を震わせた。
「姫さん、完全に子供扱いっスね」
「うるさい。気になるものは気になるんだから仕方ないだろ」
階段を上る。
不思議なことに、見た目ほど長くはなかった。
進むにつれて森が遠ざかり、やがて四人は白い霧の中へ入った。湿った冷気が頬を撫で、髪に小さな水滴がつく。
さらに進み、霧を抜けた瞬間。
先頭を歩いていたライカが足を止めた。
「……すごい」
そこは雲の上だった。
青空の下、一面に広がる白い雲海。その向こうからいくつもの山頂が島のように顔を出している。
冷たい風が吹き抜け、グレイの白銀の髪を大きく揺らした。
「いい場所だな。静かだし、景色もいい」
「姫さん、住むとか言わないでくださいよ」
「言わないよ。旅してるんだから、ここに住んだら先に進めないだろ」
「今ちょっと考えたっスよね?」
「景色がいいとは思った。でも住むとは考えてない」
「微妙に言い直したっスね」
「細かいな」
歩き出した先に、大きな建物が見えてきた。
神殿――そう呼ぶには、どこか異質だった。
白い石造りではあるものの、装飾は少ない。巨大な柱と広い屋根を持ちながら、壁の一部は最初から存在せず、山の風がそのまま内部を通り抜けている。
人が使うことだけを考えた建築ではない。
もっと大きな生き物が出入りすることを前提としている。
その入口に、一人の男が立っていた。
長い白髪に金色の瞳。
額から伸びる白い角。
「待っていた」
低い声が風の中を通る。
グレイは男を頭から足まで見てから、角へ視線を戻した。
「その角……龍? 人の姿になってるの?」
男の眉がわずかに動いた。
「……なるほど。ガルドが面白いと言うわけだ」
「ガルドを知ってるの? あいつもここに来るんだ」
「同族だからな。あれはここへ来るたびに何かしら騒ぎを持ち込む」
「想像できる。大会でも結構うるさかったし」
男は一度だけグレイの後ろへ目を向け、それから名乗った。
「私はアルディエル様に仕える龍、シェルガだ」
「俺はグレイ。後ろの三人は一緒に旅してる仲間」
「知っている。大会も見ていた」
「いたの? 全然気づかなかった」
「気づかれぬようにしていたからな」
「じゃあ次は探してみる。龍なら魔力の感じも人と違いそうだし」
「……好きにしろ」
シェルガは早々に何かを諦めたように踵を返した。
「来い。アルディエル様がお待ちだ」
◇
神殿の内部は静かだった。
外から入り込む風の音だけが、高い天井の下を抜けていく。
奥へ進むにつれ、人影が増えた。
神官だけではない。
角や鱗を残した者もいれば、人間とほとんど変わらない姿をした者もいる。
人化した龍たちだ。
その視線がグレイへ集まっていた。
敵意はない。
大会を制し、龍を破ってここまで来た者への純粋な興味が強い。
「俺、ちょっと緊張してきたっス」
ライアンが声を潜めた。
「にーちゃんでも緊張するんですね」
「するっスよ。これから神様に会うんスから」
「神っていうか龍だろ。本人も龍なんだから」
「姫さん、それこの国で言っちゃ駄目なやつっス」
「分かってる。龍神って呼ばれてるのも知ってるよ」
「ほとんど変わってないっスよ」
「お姫ちゃん」
ライカが横から睨む。
「お願いですから、この先では余計なことを言わないでください」
「分かったよ。思ったこと全部口に出すのはやめる」
「本当ですか?」
「……できるだけ考えてから話す」
「不安しかありません」
「何でだよ。俺なりに気をつけるって言ってるだろ」
前を歩くシェルガの肩がわずかに揺れた。
聞こえているらしい。
やがて、一行は巨大な扉の前へ辿り着いた。
そこには翼を広げて空を見上げる、一頭の白龍が刻まれている。
「この先だ」
シェルガの声から、それまでの軽さが消えた。
グレイも自然と口を閉じる。
扉の向こうから魔力が溢れているわけではない。
殺気もない。
それでも分かる。
――いる。
自分がこれまで出会ってきた強者とは、明らかに違う何かが。
胸の奥が微かに熱を持つ。
気づけば、グレイの口元が少しだけ緩んでいた。
「グレイ様」
セバスに呼ばれて振り返る。
「何? 俺、何もしてないぞ」
「……いえ。何でもございません」
「ならいいけど」
セバスはそれ以上何も言わなかった。
シェルガが扉へ手を触れる。
重い音を響かせながら、巨大な扉が左右へ開いていった。
◇
扉の先にあったのは部屋ではなかった。
山頂そのものを削り出したような広大な空間が、青空へ向かって開けている。
白い柱の向こうには雲海。
そして中央の石造りの台座に、一人の男が腰掛けていた。
白髪。
大柄な身体。
簡素な白い衣。
見た目だけなら、人間と大きく変わらない。
男の金色の瞳がこちらへ向いた。
それだけで、グレイの足が止まった。
怖いわけではない。
敵意を向けられたわけでもない。
なのに、身体の奥に眠っていた戦うための感覚が勝手に目を覚ます。
「ほう」
男の口元が緩んだ。
「お前が今年の勝者か」
「グレイ。大会では龍と何人か戦ったけど、お前は全然違うな」
「名は聞いておる」
男が立ち上がる。
人の姿でありながら、セバスよりもさらに大きい。
「我が名はアルディエル。この地で、龍神などと呼ばれておる者だ」
神官たちが一斉に頭を下げた。
周囲にいた龍たちも礼を取る。
ライアンとライカがそれに倣い、セバスも静かに頭を下げた。
グレイだけが立ったままだった。
アルディエルの瞳が細くなる。
「頭を下げぬか」
「必要ならするけど、俺はそういうつもりで会いに来たわけじゃない」
広場の空気が固まった。
「我を神と知っておろう」
「この国ではそうなんだろ。でも、俺はこの国の人間じゃないから、お前を神として見てない」
「ほう?」
「勘違いするなよ。敬意がないって意味じゃない。ガルドが自分じゃ勝負にならないって言ってたから、ずっと会ってみたかった」
「頭を下げぬのに、敬意があると?」
グレイは少し考えた。
自分なりに失礼をするつもりはない。
だからこそ、素直に答える。
「俺は、強い相手だからって理由だけで頭を下げたりしない。でも、強い奴はちゃんとすごいと思う。それじゃ駄目?」
アルディエルの金色の瞳が僅かに細くなる。
「面白いことを言う」
「それで一つ聞きたい。ガルドが勝負にならないなら、レオルよりもずっと強い?」
「比べる必要もない」
「そっか。じゃあ、やっぱり相当強いんだな」
グレイの口元が僅かに緩んだ。
それを、アルディエルは見逃さなかった。
「お前。我を見て笑ったな」
「うん。聞いてたより強そうだから、ちょっと嬉しくなった」
「何が嬉しい」
「強い奴に会えたこと。大会に出なかったら、お前とこうして話すこともなかっただろ」
今度こそ、誰も口を開かなかった。
アルディエルはしばらくグレイを見つめていたが、やがて肩を揺らし始める。
「……クク」
低い笑いが漏れる。
次の瞬間、それは山頂へ響く大笑いへ変わった。
「ハハハハハ! なるほどな! 面白い!」
神官たちが困惑する中、アルディエルは愉快そうに笑い続ける。
「龍を破って上がってきた者がどのような奴かと思えば、我を見て最初に抱く感想がそれか!」
「それ、褒めてるんだよな? さっきから面白いって言われてるけど」
「褒めておる!」
「ならいい。ありがとう」
「礼を言うのか! ハハハ!」
ひとしきり笑ったアルディエルは、再び台座へ腰を下ろした。
そして片手を上げる。
広場が静まった。
「さて。戯れはここまでとしよう」
声に先ほどまでとは違う重みが宿る。
「グレイ。お前は龍神祭武闘大会を制した。その力、見事であった」
「ありがとう。決勝は結構危なかったけど、出てよかったよ」
「大会の勝者には、一つの褒美を与える。それが、この祭りで古くより続く約束だ」
アルディエルの金色の瞳が、真っ直ぐグレイを捉えた。
「富を望んだ者もおれば、国を救うための恵みを求めた者もいた。病を癒す力、武具、知識――願いは様々だ。我が力の及ぶ範囲であれば、可能な限り聞き届けよう」
山頂を風が抜ける。
白銀の髪が頬へかかり、グレイはそれを指先で払った。
「故に問おう。今年の勝者、グレイ」
アルディエルが姿勢を正す。
「お前は何を望む」
静かだった。
グレイはすぐには答えず、目の前の龍神を見る。
考える時間なら、すでに十分あった。
金も武器もいらない。
知らないことを聞いてみたい気持ちはある。
それでも、それ以上に知りたいものがある。
目の前にいる存在が、どれほど強いのか。
それを自分自身で確かめたい。
「もう決めてる。ここへ来る前から変わってない」
「ならば申せ」
グレイは一歩だけ前へ出た。
金色の瞳を真っ直ぐ見返す。
「俺と戦ってほしい。今の俺が、お前にどこまで通じるのか確かめたい」
風だけが、二人の間を通り抜けた。
「……姫さん」
後ろからライアンの呆れた声が聞こえる。
「本当に言ったっス……」
ライカは額を押さえていた。
セバスだけは、予想していたのか静かに目を閉じている。
アルディエルは笑わなかった。
「我が与える願いを使って、我と戦いたいと?」
「そう。せっかく一つ叶えてくれるなら、今一番やりたいことに使いたい」
「富でも、武具でも、加護でもない。我が持つ知識を求めることすらせず、ただ戦いたいと申すのか」
「知識は欲しいよ。数千年生きてるなら、俺の知らないこともたくさん知ってるだろうし」
「ならば、それを願えばよい」
「でも、それは話せば聞けるかもしれない。お前が本気でどれくらい強いかは、戦わないと分からないだろ」
「なぜ、そこまで我の力を知りたい」
「強いって聞いたから。それに、ガルドが勝負にならないって言う相手なんて滅多に会えない。だったら戦ってみたい」
あまりにも単純な理由だった。
だが、グレイにとってはそれで十分だった。
「無礼な!」
神官の一人が声を上げる。
「アルディエル様は我らが崇める龍神! その御身を己の力試しのために使おうなど――」
「控えよ」
アルディエルの一言で、声が止まった。
「これは我が与えた願いだ。何を願うかは勝者が決める」
神官を下がらせ、アルディエルは再びグレイを見る。
「一つ聞こう。我と戦い、お前は何を得る?」
「それは分からない。まだ戦ってないんだから、今決めても仕方ないだろ」
「分からぬもののために、願いを使うのか」
「うん。何が得られるか分かってるなら、わざわざ試す必要ないからな」
グレイは自分の拳へ一度だけ視線を落とした。
「俺はもっと強くなりたい。だから自分より強い相手がいるなら戦ってみたいんだ。何を学べるのかも、どこまで通じるのかも、実際にやってみないと分からない」
「我を師とでもするつもりか?」
「それは違う。師匠ならもうセバスがいるし、お前に教えてもらうために戦いたいわけじゃない」
後ろでセバスが僅かに目を開く。
アルディエルの口元がわずかに動いた。
「では、我に勝てると思っておるのか」
今度は、グレイもすぐには答えなかった。
目の前に立つ男を見る。
底が見えない。
ガルドとも、レオルとも違う。
これまで出会った強者と同じ尺度で測っていい相手なのかさえ分からない。
「分からない。今のお前を見ただけじゃ、勝てるとは言えないな」
周囲がわずかにざわめく。
それでもグレイは続けた。
「負けるかもしれない。でも、だから戦いたいんだよ。勝てるって分かってる相手だけ選んでも、自分がどこまで行けるか分からないだろ」
アルディエルの目が見開かれた。
しばらく、何も言わない。
やがて、その口元が大きく歪んだ。
「……ハ」
低い笑いが漏れた。
「ハハハハハ!」
再び、豪快な笑い声が山頂へ響き渡る。
「よい! 実によいぞ!」
アルディエルが立ち上がった。
「久しく、そのような願いを聞いておらなんだ!」
「じゃあ、戦ってくれる? 俺はそのためにここまで来たんだけど」
「まだ決めておらん」
「……そこまで笑ったのに?」
「そう落胆するな」
「別に落ち込んでない。ただ、いけると思っただけ」
笑みを残したまま、アルディエルの声が低くなる。
「我と戦うという意味を、お前が理解しているのであれば――聞き届けてやってもよい」
空気が変わった。
シェルガの表情からも、それまでの呆れが消える。
「アルディエル様。ここでなさるおつもりですか」
「少し確かめるだけだ」
「神官たちがおります」
「ならば守れ」
「……承知しました」
シェルガたち龍が素早く動き、神官を囲むように位置を変えた。
グレイもようやく理解する。
「俺が本気で戦えるか、今ここで確かめるつもり?」
「簡単なことだ」
アルディエルが立つ。
「そこに立っておれ」
「それだけでいいなら分かった。動かないでいればいいんだな?」
「それだけだ」
「じゃあ、やってみろ」
「グレイ様」
セバスの声が、いつもより低かった。
振り返ると、彼はわずかに腰を落としている。
ライアンとライカからも笑みは消えていた。
「お気をつけください」
「分かってる。何か来たらちゃんと対応する」
グレイは前を向いた。
アルディエルは何もしていない。
ただ、そこに立っている。
「では――見せてみよ」
次の瞬間。
世界が沈んだ。
「――っ!」
耳が音を拾わなくなる。
空気そのものが質量を持ったかのように身体へ圧し掛かり、足元の白い石が低く軋んだ。
魔力ではない。
殺気とも違う。
目の前にいる存在が、自分より遥かに巨大な生き物なのだと、理屈より先に身体へ理解させる圧力。
――神威。
グレイは、その言葉の意味を初めて身体で知った。
背後から鈍い音が聞こえた。
ライアンとライカが耐えきれず膝をついたのだ。
防護の内側にいる神官たちも立っていられない。
セバスでさえ、片膝を石床へついていた。
「セバス、大丈夫か?」
「お気になさらず」
苦しそうな呼吸の中でも、声は崩れない。
「グレイ様は、前だけをご覧ください」
「……分かった。無理はするなよ」
アルディエルを見る。
ただ立っている。
それだけなのに、膝が折れそうになる。
グレイは足へ力を込めた。
気と魔力を重ね、身体の隅々まで巡らせる。
《魔気闘法》。
全身を一つに繋ぐように力を整えると、僅かに身体が動くようになった。
「ほう」
アルディエルの瞳が細くなる。
「まだ立つか」
「立ってろって言ったのはお前だろ。だったら、これくらいで座るわけにはいかない」
「そうであったな」
圧力が増した。
足元に亀裂が走る。
視界が揺れ、吸血鬼としての本能が激しく警鐘を鳴らした。
逃げろ。
離れろ。
逆らうな。
身体の奥底から湧き上がる警告を感じながら、グレイはゆっくり息を吐いた。
「……すごいな。まだ何もしてないのに、立ってるだけでこれか」
「何がだ」
「お前だよ。強いとは思ってたけど、思ってたよりずっと上だった」
顔を上げる。
怖い。
その感覚は確かにある。
だが、それと同じくらい――知りたかった。
自分の空間魔法は、この龍に届くのか。
拳は通じるのか。
磨いてきた《魔気闘法》で、どこまで食らいつけるのか。
この存在が本気で戦えば、何が起こるのか。
気づけば、グレイの口元が僅かに緩んでいた。
「何がおかしい」
「別におかしくはない。思ってたより強かったから、余計に戦いたくなっただけ」
「まだ戦っておらぬぞ」
「だからだよ。これで本気じゃないなら、その先があるってことだろ」
グレイは一歩、前へ出た。
靴底の下で石が砕ける。
身体は重い。
それでも進める。
「早く戦ってみたい。俺の攻撃がどこまで通じるのか、今ので余計に気になった」
アルディエルが黙った。
その金色の瞳が、真正面からグレイを捉えている。
やがて。
「ハハ……!」
神威の中で、龍神が笑った。
「よい」
アルディエルが一歩踏み出す。
「実によい。我が力を感じ、それでもなお前へ出るか」
「出るよ。ここで下がるくらいなら、最初から戦いたいなんて頼んでない」
「恐ろしくはないのか」
「怖いよ。身体が逃げろって言ってるのも分かる」
グレイは素直に認めた。
それでも視線は逸らさない。
「でも、それ以上に戦ってみたい。怖いからって、知りたいものまで諦めるつもりはない」
アルディエルはしばらく黙っていた。
やがて天を仰ぎ、大きく笑った。
同時に、身体へ圧し掛かっていた神威が消える。
「――っ」
急に身体が軽くなり、グレイは一歩よろめいた。
背後ではライアンが座り込み、ライカが大きく息を吐いている。セバスもゆっくりと立ち上がった。
「これで終わり? まだもう少しくらいなら立てたぞ」
「十分だ」
「もうちょっと強くしたら、どこまでいけるか――」
「グレイ様」
セバスに呼ばれ、グレイは口を閉じた。
「……分かった。やめとく」
その様子を見たアルディエルが楽しそうに笑う。
「よい家族を持っておるな」
グレイの動きが止まった。
アルディエルはライアン、ライカ、セバスへ順に目を向ける。
「お前を案じながら、それでも完全には止めぬ」
「止めても無駄だからじゃない? 俺、戦うって決めたらたぶん聞かないぞ」
「それだけではあるまい」
グレイは答えなかった。
代わりにライアンが立ち上がり、服についた埃を払う。
「まあ、姫さんが本当に嫌がることなら止めるっスよ。でも今回は、自分から望んだことっスからね」
「お姫ちゃんがあんなに楽しそうなら、私たちが無理に止めることでもありません」
ライカも立ち上がる。
最後にセバスが前へ出た。
「戦うこと自体に、私は反対いたしません」
「うん。それならよかった。セバスに止められたら、ちょっと困ってた」
「ですが、無茶をなさるのであれば止めます」
「分かってる。勝負したいだけで、死にたいわけじゃないから」
「本当に?」
「本当だよ。危なくなったらちゃんと考える」
「グレイ様」
「……できるだけじゃなくて、ちゃんと考える。それでいいだろ」
アルディエルは三人を見渡し、愉快そうに目を細めた。
そして広場の端まで歩くと、雲海を背に振り返る。
「グレイ」
「何? もう決まった?」
「お前の願い――確かに聞き届けよう」
グレイの目がわずかに見開かれた。
「我と戦え」
「本当にいいのか? あとから別の願いにしろって言っても変えないぞ」
「願ったのはお前であろう」
「そうだけど、ちゃんと決まったなら嬉しい」
「今さら怖気づいたかと思ったぞ」
グレイの口元が上がる。
「それはない。むしろ、今ので余計に楽しみになった」
「ならばよい」
「それで、いつやる? 俺は今日でもいいぞ」
「急くな」
「早い方がいいだろ。もう身体も治ってるし」
「グレイ様」
今度はセバスが即座に止めた。
「決勝を終えたばかりでございます。少なくとも、本日はお休みください」
「もう治ってる。傷も残ってないぞ」
「身体だけの話ではございません」
グレイは少し考えた。
確かに、昨日は決勝まで戦っている。
身体が再生しているからといって、何も消耗していないわけではない。
「……じゃあ明日。それくらいならいいだろ」
「先に龍神様のご都合をお聞きくださいませ」
「あ」
グレイはアルディエルを見る。
「明日、空いてる?」
「ハハハ! 構わん!」
アルディエルが豪快に笑った。
「我も待つのは好かん。明日としよう!」
「アルディエル様!」
シェルガの声が飛ぶ。
「勝手に話を進めないでください! あなたが本気で戦えば周辺への影響が出ます。結界の準備も必要なのですよ!」
「ならば、人の住まぬ北の谷を使えばよい」
「その結界を誰が用意すると?」
「お前だ」
「そうでしょうね!」
グレイはシェルガを見る。
「……大変そうだな。俺にできることある?」
「誰のせいだと思っている!」
「アルディエルだろ?」
「お前もだ!」
「俺も? 願いを聞いてくれるって言ったのはアルディエルだぞ」
「その願いを選んだのはお前だ!」
「……それはそうだな。ごめん」
とうとうライアンが吹き出した。
張り詰めていた空気が、そこでようやく緩んだ。
◇
その後、グレイたちは神殿の一角へ案内された。
雲海を望む場所に低い卓が置かれ、山で採れた野菜や香草を使った肉料理、パン、果物が並べられる。
アルディエルも席についた。
先ほどまで神威で全員を押さえつけていた存在とは思えないほど気さくに杯を傾け、グレイたちへ龍族の話を聞かせていく。
グレイも気になったことをいくつか尋ねた。
龍にも様々な種がいること。
長く生きる種であっても、不死ではないこと。
そして、長命だからこそ抱えるものがあること。
「アルディエル、一つ聞いていい?」
「なんだ」
「長く生きるの、嫌になったことある?」
杯を持つ手が止まった。
ほんの一瞬だったが、先ほどまでの笑いが消える。
「ある」
短い答えだった。
グレイはすぐに続きを求めなかった。
風が卓の上を抜け、遠くの雲がゆっくりと形を変えていく。
「そっか。やっぱりお前にもあるんだな」
「ああ」
「俺もあるよ。昔は、長く生きることにいいことなんてないと思ってた」
「そうか」
「でも――」
グレイは隣を見る。
ライアンが取ろうとしていた肉をライカが先にさらい、抗議する弟を無視して口へ運んでいる。
向かいでは、セバスが空いたグレイの皿へ料理を取り分けていた。
いつもの光景だ。
「今は悪くない。まだ一緒に旅したい奴がいるし、知らない場所もたくさんあるから」
アルディエルは何も言わなかった。
ただ三人を見てから、小さく頷く。
「そうか」
それだけで十分だった。
「アルディエルは? 今も長く生きるの、嫌だと思う?」
「さてな」
アルディエルは杯へ口をつけた。
「明日になれば、少しはましになるかもしれん」
「何で明日?」
「久方ぶりに、面白い奴と戦えるからだ」
グレイは少し目を瞬いた。
それから、小さく笑う。
「それなら俺も同じだな。明日は今日より楽しみだ」
◇
夕方。
神殿に用意された客室の窓からは、夕陽に染まった雲海が見えた。
グレイが窓辺に座っていると、ライアンが隣へやってくる。
「姫さん」
「何? また願いのこと?」
「満足したっスか?」
「まだ。願いは叶えてもらったけど、戦うのは明日だからな」
「ですよねえ」
ライアンが苦笑する。
「まさか本当に龍神と戦うことになるとは思わなかったっスよ」
「俺も絶対受けてもらえるとは思ってなかった。でも、アルディエルなら嫌がらない気はしてた」
「普通は聞き届けてもらえると思わないっス」
「強い奴って、戦うの好きな奴多いだろ」
「偏見っスよ」
「でもセバスも好きだぞ。昔なんて俺が会いに行くたび戦ってたし」
「反論しづらい例を出すのやめてほしいっス」
少し離れたところでは、セバスが紙へ何かを書き込んでいた。
「セバス、さっきから何書いてるの?」
「明日の準備でございます」
「アルディエルのことで、何か分かった?」
「ほとんど何も」
「じゃあ見せて」
グレイは椅子から降り、紙を覗き込んだ。
書かれているのは、今日実際に確認できたことだけだった。
古龍。
白耀龍神。
神威。
人化。
極めて高い身体能力。
それ以外はほぼ空白だ。
「……本当に分からないな。使う魔法も、龍の姿でどう戦うのかも何もない」
「はい。推測で埋めるより、何も分からないものとして臨むべきかと」
「その方がいい。分からないなら、最初はちゃんと見る」
「そう仰ると思っておりました」
セバスは紙を置いた。
「グレイ様。一つだけ、お約束ください」
「何? さっきの無茶するなって話?」
「それもございます。危険だと判断した場合、退くことを躊躇わないでください」
グレイは黙ってセバスを見る。
「勝つために戦うことと、死ぬまで戦うことは違います。龍神様の力は、まだ底が見えておりません」
「分かってる。俺も死ぬまでやるつもりはないよ」
「空間魔法がどこまで通じるかも分からない」
「それは試してみる。今日の神威だけじゃ、空間そのものへの干渉までは分からなかったから」
「承知しております。ですが――」
「大丈夫」
グレイは窓の外へ目を向けた。
雲の向こうへ、太陽がゆっくり沈んでいく。
「死ぬつもりはないよ。勝てないって分かったら、その時はちゃんと考える」
ライアンとライカがこちらを見る。
グレイはその視線に気づき、少しだけ笑った。
「まだ三人と旅するから。こんなところで終わるつもりはない」
セバスだけが、静かに頷いた。
「でしたら、私から申し上げることは一つだけでございます」
「何? まだあるの?」
ほんの少し、その口元が緩む。
「存分に楽しんでいらしてください」
グレイは一瞬目を丸くした。
それから口元を緩める。
「……うん。そうする。でも勝つつもりで行くぞ」
◇
夜。
眠る前に少しだけ外の空気を吸おうと、グレイは一人で客室を出た。
昼間食事をした場所まで行き、石の縁へ腰を下ろす。
眼下には雲海。
頭上には無数の星が広がっている。
「……明日、本当に戦えるんだな」
小さく呟いた。
今日感じた神威を思い返す。
身体が本能から拒絶した。
それほどの相手だ。
なのに胸の奥にあるのは、後悔ではない。
「何を一人で笑ってやがるんですか」
背後から聞こえた声に振り返る。
ライカだった。
「起きてたの? もう寝たと思ってた」
「それはこちらの台詞です。明日戦う人が夜更かししてどうするんですか」
「眠れないわけじゃないよ。ちょっと外見たかっただけ」
ライカは隣へ腰を下ろした。
しばらく二人で星を眺める。
「……怖くないんですか?」
不意に聞かれた。
グレイは少し考える。
「怖いよ。今日ので、俺よりずっと強いかもしれないって分かった」
ライカがこちらを向いた。
「だったら、どうしてそんなに楽しそうなんです?」
「強いって分かったからだよ。勝てるか分からないけど、俺の力がどこまで通じるのか知りたい」
「本当に戦うのが好きですね」
「戦うだけが好きなわけじゃない。でも、知らないものを知るのは好きだよ」
グレイは夜空へ視線を戻す。
「アルディエルみたいな相手とは、次いつ会えるか分からないだろ。だったら今やってみたい」
「止めてほしいですか?」
「いや。止められても行くと思う」
「でしょうね」
ライカは膝を抱え、夜空へ目を向ける。
「だから止めません。お姫ちゃんが、あんなに楽しそうにしてたんですから」
「俺、そんなに分かりやすかった?」
「すごく」
「……そっか。自分じゃ普通にしてたつもりなんだけどな」
「口元がずっと緩んでやがりましたよ」
「それはちょっと恥ずかしいな」
少しだけ気恥ずかしくなり、グレイも空を見る。
昔は、ただ生きるだけで精一杯だった。
それでも旅を続けているうちに、知らない場所へ行くことも、知らない誰かと出会うことも、少しずつ楽しくなった。
強い相手と戦うことも、その一つになったのかもしれない。
「ライカ」
「はい?」
「今日、一緒に来てくれてありがとう。ライアンとセバスにも言ってないけど、三人がいてくれてよかった」
ライカは少しだけ黙った。
やがて、グレイの肩へ自分の肩を軽くぶつける。
「今さら何を言いやがってるんですか」
「今さらでも、思ったから言っただけだよ」
「そういうのは明日帰ってきてから言ってください」
「じゃあ、帰ってきたらもう一回言う」
「……そうしてください」
それ以上、どちらも何も言わなかった。
雲の上を吹く風は冷たい。
けれど隣にある温度までは奪わない。
二人はしばらく、そのまま星を眺めていた。
◇
翌朝。
霊峰ヴァルグランの北側。
人の住まぬ谷を囲むように、幾重もの結界が展開されていた。
その中央にグレイは立っている。
向かい側から、アルディエルがゆっくり歩いてきた。
昨日と同じ人の姿。
だが、その金色の瞳には隠しきれない期待が宿っている。
「よく眠れたか」
「普通に眠れたよ。昨日セバスに休めって言われたから、ちゃんと寝た」
「我はあまり眠れなんだ」
「何で? 龍でも戦う前は眠れなくなるの?」
「楽しみでな」
グレイの口元が緩んだ。
「それなら分かる。俺も寝る前まで今日のこと考えてた」
「ハハハ! そうか!」
谷の上には、ライアン、ライカ、セバス。
少し離れてシェルガたち龍も控えている。
「グレイ様!」
セバスの声が届く。
グレイは振り返った。
「昨日のお約束をお忘れなきよう!」
「分かってる! 危なくなったらちゃんと考えるから!」
「姫さん!」
続いてライアンが声を張る。
「ちゃんと帰ってきてくださいっスよ!」
「ああ! まだ一緒に旅するって昨日言っただろ!」
最後にライカと目が合った。
彼女は何も叫ばなかった。
ただ、小さく手を上げる。
グレイも同じように手を上げた。
昨夜交わした言葉を、わざわざここでもう一度口にする必要はなかった。
それから前を向く。
アルディエルも笑みを収めていた。
「さて」
風が止んだ。
「願いは変わらぬな」
「変わらないよ。昨日あれだけ話したんだから、今さら別のものにはしない」
「我と戦いたい」
「ああ。本気のお前と戦って、俺がどこまでやれるのか確かめたい」
「後悔せぬか」
「しない。負けたら悔しいとは思うだろうけど、戦ったことを後悔するつもりはないよ」
「よかろう」
アルディエルが両腕を広げた。
空が鳴った。
雲が大きく動き、谷を囲む山肌が低く震える。
昨日とは比べものにならない神威が押し寄せ、結界の表面に白い光が走った。
グレイは腰を落とす。
気を巡らせ、そこへ魔力を重ねる。
《魔気闘法》。
白銀の髪が吹き荒れる風に舞った。
対するアルディエルの身体から、眩い白光が溢れ出す。
人の輪郭が崩れた。
膨れ上がる。
白い鱗に覆われた四肢が大地を掴み、巨大な翼が朝の空へ広がっていく。長い尾が岩肌を擦り、金色の瞳が遥か高みからグレイを見下ろした。
やがて光が消える。
そこに立っていたのは、人ではない。
一頭の巨大な白龍だった。
大会で見た若い龍とは、存在そのものが違う。
グレイは首が痛くなるほど顔を上げ、その姿を見つめた。
『グレイ』
声だけで空気が震えた。
『我が名は、白耀龍神アルディエル』
巨大な金色の瞳に、小さな白銀の姿が映る。
『お前の願い――確かに聞き届けた』
グレイは静かに拳を握った。
怖い。
それを否定する必要はない。
けれど、足は下がらなかった。
まだ知らない強さが、目の前にある。
ならば、自分のすべてで確かめればいい。
グレイは構え、白龍を真っ直ぐ見上げた。
「俺から頼んだ勝負だからな。手加減はいらない。俺も勝つつもりでやる」
アルディエルの口元が、確かに笑った。
『――来い、白銀の真祖』
白い翼が大きく広がる。
グレイの深紅の瞳が、真っ直ぐアルディエルを捉えた。
「うん。よろしく、アルディエル」
次の瞬間。
谷を満たしていた空気が弾けた。




