第3話 十年に一度の武闘祭
翌朝。
セレスティアの街は、昨夜の喧騒が嘘だったかのように――静かではなかった。
「……朝から元気だな」
宿の窓を開けたグレイは、眼下の大通りを見下ろしながら呟いた。
夜通し騒いでいた者もいたはずなのに、通りにはすでに多くの人が行き交っている。龍を象った旗が朝風にはためき、軒を連ねる屋台からは白い湯気が立ち上っていた。焼きたてのパンの香ばしい匂いが風に乗り、その向こうからは鉄を打つ乾いた音まで聞こえてくる。
中でも目立つのは、コロッセオへ向かう人の流れだった。
武器を背負った者。鎧を着込んだ者。身体の大きな獣人や、杖を手にした魔法使い。
昨日まで祭りを楽しんでいた見物客とは、明らかに纏う空気が違う。
「今日から受付だったか」
昨日、掲示板で確認した日程を思い出す。
大会そのものは数日後。今日は参加登録と、規則についての簡単な説明が行われることになっていた。
グレイは窓枠へ肘を置き、しばらく人の流れを眺める。
歩き方や重心、周囲へ向ける視線、武器の持ち方。見ただけで分かる者もいる。
強い。
少なくとも、昨日の祭りで見かけた力自慢とは違う。本当に戦うことを生業としている者たちが、あの場所へ集まり始めている。
「グレイ様。朝食のお時間です」
背後から聞き慣れた声が届き、グレイは窓の外を見たまま答えた。
「もう少し見てから行く」
「冷めます。その『もう少し』を信用してよろしいのであれば、私は何も申し上げません」
「……信用ないな」
「これまでの積み重ねでございます」
そこでようやく振り返ると、セバスはいつもの旅装を隙なく整え、平然とした顔で立っていた。
グレイは少しだけ不満そうに眉を寄せたものの、反論できるほど身に覚えがないわけでもない。
「出会ってからの?」
「はい。随分と長く積み重ねてまいりました」
「そう言われると何も言えないな。分かった、行く」
「ありがとうございます」
礼を言われるようなことなのかと首を傾げながら、グレイは窓を閉めた。
階段を下りて食堂へ向かうと、すでにライアンとライカが席についている。テーブルにはパンと卵、野菜のスープ、それに薄く切った燻製肉が並んでいた。
「遅いっスよ、姫さん。どうせ窓から参加者見てたんでしょう?」
「なんで知ってるんだ?」
「隣の部屋ですからね。お姫ちゃんが朝食前に窓を開けた時点で、こうなると思っていました」
「……俺の行動、読まれすぎじゃない?」
グレイが席につくと、双子は揃って何とも言えない顔をした。セバスまで当然のように席へ向かうものだから、それ以上追及する気も失せる。
昨日の屋台料理と比べれば質素な朝食だったが、朝にはこれくらいがちょうどいい。
グレイがパンへ手を伸ばしたところで、向かいのライアンが身を乗り出した。
「で、姫さん。大会、出るんスよね?」
「まだ決めてない。昨日もそう言っただろ」
「昨日は昨日っス。じゃあ、今日は?」
「……今から考える」
その答えを聞いたライカが、スープを一口飲んでから静かに器を置いた。
「もう考え終わっている顔ですけどね」
「何だよ、その顔って」
「出たい顔です。お姫ちゃんにはあります」
「そんな顔ある?」
納得できず、グレイは隣に座ったセバスへ視線を向ける。
「セバス。俺、そんな顔してる?」
「僭越ながら申し上げますと、昨日からずっと」
「……そうか。なら出る」
「決断が軽いっスね!」
ライアンが吹き出し、ライカも口元を緩めた。
だがグレイ自身にとっては、背中を押す理由が一つ増えただけだった。
「せっかく十年に一度なんだ。次にここへ来た時、やってるとは限らないだろ」
「十年待てばやってるっスよ?」
「その時ここにいるか分からない。それに――強い奴がいるんだろ」
「……結局そこっスね」
ライアンとライカが顔を見合わせる。
「お姫ちゃんですから」
「何だよ」
「褒めていますよ」
「昨日からそればっかりだな」
グレイはちぎったパンをスープへ浸し、そのまま口へ運んだ。
温かなスープが染み込んだパンを咀嚼していると、今度はライアンが少しだけ真面目な顔をする。
「でも姫さん、本気でやるんスか? 魔法も全部使って」
「相手次第だな。最初から空間魔法を使ったら面白くないだろ」
「では、体術を中心に?」
「ああ。《魔気闘法》も使う。そのつもりだ」
セバスの問いに答えながら、グレイは自分の手へ目を落とした。
初めてセバスと戦った頃は、拳の握り方一つ取っても今とは違った。
身体能力に任せていた。
速ければ当たる。強ければ倒せる。空間魔法を使えば相手の死角へ回り込むことさえ難しくない。
それでも、届かなかった。
老い、病に身体を蝕まれていた男に、何度も地面へ転がされた。
そこから五年を費やして技を学び、その後も九十年、拳を振り続けてきた。
今では足を運ぶことも拳を振ることも、魔法を扱うのと同じくらい自然に身体が応じる。
それでも完成したとは思っていない。
セバスも、武に完成はないと言っていた。
ならば、知らない相手が大勢集まる場所へ来て、自分がどこまで通用するのか試さない理由はなかった。
「セバス。あとで見てて」
「もちろんです。悪いところがございましたら?」
「遠慮なく教えて。大会でも修行でも、使える機会は使った方がいいだろ」
「承知いたしました」
横で聞いていたライアンが呆れたように肩を落とす。
「大会を修行場所扱いしてるっスよ、この人」
「お姫ちゃんですから」
「その言い方便利だな」
残ったスープを飲み干そうとしたところで、ライカの声が少しだけ低くなった。
「でも、お姫ちゃん。怪我には気を付けやがってください」
「大会で? 俺が?」
「強い弱いの話じゃありません。何があるか分からないでしょう」
「……分かった。無茶はしない」
「本当です?」
ライカの声はいつもと大きく変わらない。
けれど、目だけは違っていた。
グレイがどれほど強くなろうと、簡単には死なない身体を持っていようと、そこだけは変わらない。
だからグレイも笑って誤魔化さなかった。
「する前に考える。それでいいだろ?」
「はい。それならいいです」
ようやくライカが食事へ戻り、ライアンもそれ以上は言わなかった。
そんな三人を、セバスだけが静かに眺めている。
「何?」
「いえ。グレイ様も随分変わられたと思いまして」
「そう?」
「以前であれば、今の問いには即答で『大丈夫だ』と仰っていたでしょう」
グレイが記憶を探っている横で、ライアンとライカが揃って頷く。
「言ってたっスね」
「言っていました」
「覚えてない」
「そこは変わってませんね」
「ライカ。やっぱり褒めてないだろ」
食卓に笑い声が落ちた。
◇
コロッセオへ続く大通りは、昨日よりさらに混雑していた。
大会参加者だけではない。誰が出るのか確かめに来た者や、出場者を応援する者、賭けの情報を集めているらしい者までいる。
「今年は南方の剣王が来てるらしいぞ」
「帝国の騎士団長もだろ?」
「いや、あいつは出ない。貴賓席らしい」
「龍はどうなんだ? もう人に化けて混じってるんじゃないか?」
そんな会話が、歩いているだけであちこちから耳へ入ってくる。
「有名な奴、多いんだな」
「十年に一度ですからね。名を売るには、これ以上ない舞台なのでしょう」
「勝ったら龍神にも会えるしな」
「そちらを目的とする者も多いかと」
セバスの言葉を聞いていたライアンが、横からグレイの顔を覗き込んだ。
「姫さんは、名声も願いも興味ないっスよね?」
「ああ。今のところは」
「何でも叶えてもらえるとしてもです?」
今度はライカが聞いてくる。
グレイは歩きながら考えた。
「金はいらない。武器も使わない。領地も爵位もいらない」
「じゃあ何が欲しいんスか?」
「……何だろうな」
欲しいもの。
すぐには浮かばなかった。
昔なら、もっと違う答えがあったのかもしれない。
けれど今は、隣にライアンがいる。ライカがいる。少し後ろを歩くセバスもいる。
遠く離れた《ドールハウス》の中には、家族たちもいる。
それを思えば、答えは意外なほど簡単だった。
「……特にない。今で十分だから」
ライアンが目を瞬き、ライカは少しだけ目を細めた。
セバスは何も言わなかった。
「だから大会で勝ったら、その時に考える」
「その前に優勝する気なんスね」
「出るなら勝つつもりでやるだろ」
「お姫ちゃん。今、かなり格好良かったのに最後で台無しです」
「なんで?」
理由が分からず首を傾げるグレイを見て、ライカは小さく笑った。
◇
コロッセオの前には、昨日にはなかった長い列ができていた。
「……これ全部?」
「参加者のようですね。数百人はいらっしゃるかと」
「多いっスねぇ。姫さん、帰るっスか?」
「並ぶ。ここまで来たんだから」
受付自体は複数設けられているらしく、長い列も少しずつ進んでいる。
参加するのはグレイだけなので、ライアンたちは途中で観覧側へ回ることになった。
「姫さん、俺たちその辺にいるっス」
「ああ」
「受付で喧嘩しやがらないでくださいね。強そうな人を見つけてもです」
「しないって。登録するだけだろ」
そう答えたグレイへ、セバスが念を押す。
「グレイ様。まだ試合ではございません」
「分かってるって」
「ならば結構です」
何を心配されているのか納得できないまま三人と別れ、グレイは列へ並んだ。
すぐに周囲から視線を感じる。
理由は分かっていた。
武器を持っていない。鎧もない。身に着けているのは普段の旅装だけで、白銀の長い髪も相まって、見た目だけなら武闘大会の参加者には見えないのだろう。
前に並んでいた大男が、ちらりと振り返った。
一度なら気にしなかった。
二度。
三度。
「何?」
「いや……嬢ちゃん、ここ大会受付だぞ。観戦券は反対側だ」
「知ってる。俺も出るから並んでる」
「……出る? 武器も持ってねぇみたいだが」
「使わない。魔法は使えるけど、杖もいらない」
男が黙った。
そのやり取りを聞いていた後ろの獣人の女性が、堪えきれず吹き出す。
「おっさん、余計な世話だよ。本人が出るって言ってんだからいいじゃないか」
「いや、でもよ……」
「負けたって死にはしないんだ。いい経験になるだろ。嬢ちゃんもそうだろ?」
「いや。勝つつもりで来た」
今度は女性まで黙った。
グレイが不思議そうに首を傾げると、女性はやがて愉快そうに笑った。
「面白い子だね。せいぜい予選で当たらないことを祈るよ」
「当たったら?」
「遠慮なく倒す」
「うん。それでいい」
女性も笑った。
前の大男だけが二人を見比べ、「お前ら怖ぇな……」と呟いて前を向く。
その後も列は少しずつ進んだ。
退屈はしなかった。
大剣を背負った人間、二本の曲剣を腰へ下げた獣人、全身鎧の戦士、ローブ姿の魔法使い。槍、斧、杖、そして自分と同じように素手の者。
見たことのない武器を持つ者までいる。
そんな中、グレイの視線が一人の男で止まった。
少し離れた別の列。
背が高く、黒に近い深緑の髪をしている。
武器は持っておらず、服装も簡素だった。
それなのに――妙に目を引いた。
「……強そう」
自然と声が漏れる。
立ち方に隙がない。
だが、セバスのように武人として磨き抜かれた立ち方とも違っていた。
ただ自然に立っている。
それだけなのに、重心がまったく読めない。
やがて男がこちらを向いた。
目が合う。
ほんの一瞬、男の瞳が僅かに細くなった。
グレイも逸らさない。
何かが、人間とは少し違う。
そんな気がした。
やがて男の列が進み、彼も何事もなかったように前を向く。
「……龍かな」
口にしてから、自分で首を傾げた。
見た目だけでは分からない。昨日聞いた話では、人化した龍が正体を隠して参加することもあるという。
なら、試合になれば分かるだろう。
そう考えると、少し楽しみになった。
◇
「次の方」
ようやく順番が来た。
受付には神官らしい男と、大会運営の職員が並んで座っている。
「お名前をお願いします」
「グレイ」
「家名はございますか?」
「必要?」
「任意ですので、なければグレイ様のみで登録いたします」
「なら、それで」
職員が紙へ書き込み、続けて種族を尋ねた。
「吸血鬼」
その瞬間だけ、筆先が止まった。
「……吸血鬼。確認ですが、アンデッドではありませんね?」
「違う」
「失礼いたしました。意思疎通可能な人型種族であれば、大会規定上は問題ございません」
珍しそうにはされたものの、それ以上の追及はなかった。
多種族が集まる大会だからなのだろう。
使用武器はなし。魔法使用はあり。
そして主属性を尋ねられたので、グレイはいつも通り答える。
「空間」
「……空間、ですか?」
「ああ」
「非常に珍しい属性ですね。大会では空間転移等も使用可能ですが、観客席へ直接干渉する術式は禁止されております」
「分かった」
職員はさらに、競技場外へ意図的に攻撃を転移させる行為や、競技場そのものへ恒久的な損傷を与える術式も禁止だと説明した。
グレイとしても、空間断絶まで使うつもりは最初からない。
これは大会だ。
相手を殺す必要はない。
「こちらが参加番号です。紛失しないようお願いいたします」
渡された小さな金属札には数字が刻まれていた。
「明後日の朝、予選組み合わせが発表されます。予選は複数名による乱戦形式となり、規定人数まで減った時点で終了です」
「乱戦? 何人くらい?」
「組によって異なりますが、五十名前後を予定しております」
「五十か。残るのは?」
「基本的には八名です」
思っていたより多い。
グレイの目が僅かに明るくなったのを見て、職員は説明を続ける。
「なお、武器・魔法ともに使用可能です。また、大会中は龍神アルディエル様の御力を基にした防護結界が展開されます」
そこからは神官が説明を引き継いだ。
「参加者が致命傷に相当する攻撃を受けた場合、結界が敗北を判定し、試合開始時に近い状態まで身体を復元いたします」
「……復元?」
グレイの眉が僅かに上がった。
「傷が消えるのか? 欠損も?」
「結界が正常に作用する範囲であれば。ただし、痛みまで消えるわけではございません」
「痛みは残る?」
「はい。傷そのものは戻りますが、戦いの恐怖や経験まで失われるわけではありません。故に、無謀な参加は推奨しておりません」
なるほど、とグレイは頷く。
治癒魔法とは違う。
時間魔法とも少し違うのだろうか。
完全に何も残らないのであれば、戦いから得られるものまで薄くなる。その点では、痛みや記憶が残る方が自然に思えた。
「それ、アルディエルがやってるのか?」
「龍神様より授けられた神域結界です。大会期間中のみ、コロッセオ全域に展開されます」
「へぇ……」
戦う前から、龍神への興味が一つ増えた。
「質問はございますか?」
「一つだけ。龍も本当に出る?」
職員と神官が顔を見合わせる。
「参加者の種族情報は、本人が公開を望まない限り公表されません」
「じゃあ、いるかもしれない?」
「否定はいたしません」
それで十分だった。
「ありがとう」
参加札を受け取り、その場を離れようとしたところで神官に呼び止められる。
「グレイ様。ご武運を」
「ああ。楽しんでくる」
小さく笑い、グレイは受付を後にした。
◇
「楽しんでくる、じゃないっスよ」
三人のところへ戻った途端、ライアンが呆れた顔を向けてきた。
「何で知ってる?」
「近かったんで聞こえたっス。大会に遊びに行くみたいな言い方してたじゃないっスか」
「似たようなものだろ」
「普通の参加者は、もう少し緊張するものですよ」
ライカまで加わったので、グレイは少し考える。
「してるよ。少しは」
「どの辺がっスか?」
「龍がいるか分からないところ」
「それは緊張ではなく期待です」
三人から揃って否定され、グレイは参加札を見せることで話を切り替えた。
「予選は明後日。五十人くらいで乱戦だって」
「それはまた多いっスね。姫さん、魔法使うんスか?」
「予選くらいは拳でやる。《魔気闘法》は使うけどな」
「やっぱり修行する気じゃないですか」
そこでセバスが静かに口を開いた。
「良い機会でしょう。ただし、大会だからと相手を軽く見ることはおやめください」
「分かってる。五十人の乱戦なら囲まれるし、狙われることもある」
「その通りです。一対一とは勝手が異なります」
「なら、そこも含めて練習になる」
セバスはしばらくグレイを見つめた。
やがて、その目にかつて拳聖と呼ばれていた頃の色が僅かに戻る。
「承知しました。存分にお試しください」
「ああ」
「ただし、浮かれて足元を掬われぬよう」
「……分かってる」
その一瞬の表情をライカは見逃さなかった。
「今、不満そうな顔しやがりましたね」
「ライカ、細かい」
「お姫ちゃんが分かりやすいんです」
◇
参加登録を終えたあと、四人はそのままコロッセオの中を見て回ることにした。
大会前ということもあり、観客席の一部が一般開放されている。
石造りの通路を抜け、階段を上った先で、一気に視界が開けた。
「広いな……」
巨大な円形闘技場。
中央には白い砂が敷かれ、その周囲を何層もの観客席が取り囲んでいる。数万人は入るだろう。
上部には巨大な柱が並び、その一本一本へ龍の彫刻が巻き付いていた。
正面奥には、他より高い位置に豪華な席が設けられている。
「貴賓席ですね」
「龍神も来る?」
グレイの問いに答えたのは、近くにいた係員だった。
「恐らくアルディエル様御本人は、霊峰から御覧になるかと」
「山から見えるのか?」
「我々には分かりません。ただ、龍神様は大会を御覧になっていると伝えられております」
「……神だから?」
「神ですから」
それで説明がつくらしい。
グレイはコロッセオの上部から見える霊峰ヴァルグランへ視線を向けた。
「見てるならちょうどいい。俺の試合も見てもらえる」
「もう龍神に見せる気っスか?」
「優勝したら会うんだろ」
「その前提なんですね、お姫ちゃん……」
呆れるライカを横目に、グレイは競技場へ視線を戻した。
まだ誰も戦っていない。
それでも頭の中では、すでに人が動き始めていた。
五十人による乱戦。
空間魔法は使わない。
正面だけを見ていれば囲まれる。魔法使いも遠距離武器を使う者もいる。協力する者が出るかもしれないし、弱そうな相手から狙う者もいるだろう。
セバスとの鍛錬は一対一が多かった。
旅の中で集団戦も経験しているが、相手が魔物ではなく、それぞれ考えて動く人間となれば話は違う。
「グレイ様」
「ん?」
「今、頭の中で戦っておられましたね」
「分かる?」
「長い付き合いですので」
グレイは小さく笑い、もう一度白い競技場を見下ろした。
「楽しみだな」
◇
同じ頃。
コロッセオ上層にある、一般観客の立ち入りを許されていない貴賓区画では、各国から招かれた要人たちが案内を受けていた。
十年に一度の龍神祭。
その武闘大会は、単なる祭りの催しではない。
龍神を信仰するアークレシアとの関係を築き、各地から集まった武人や、次代を担う若者、新たに名を上げる冒険者を見定める。
各国の有力者にとっては、外交の場でもあった。
その一角を、一人の青年が歩いていた。
小国の第三王子。
今回の訪問も、彼自身が望んだものではない。
国を代表するほど重要な立場ではなく、かといって完全に自由でもない。
兄たちの代わり。
その程度の意味合いが強かった。
「こちらが王族用の観覧席となります。大会期間中は各国の御使者も――」
「そうか」
案内役の説明を半ば聞き流しながら、青年は眼下へ目を向ける。
競技場ではまだ何も行われていない。
参加者らしい者たちが、観客席を見学しているだけだ。
興味はなかった。
武人の祭典も、龍も、強者も。
そうしたものを好む兄なら、もっと楽しんだのかもしれない。
退屈そうに視線を動かしていた、その時だった。
白いものが目に入った。
最初は、ただそれだけだった。
白銀の髪。
大勢の人間がいる観客席の中で、なぜかそこだけが目に留まる。
「……」
青年の足が止まった。
「殿下?」
案内役が振り返る。
しかし、青年は答えなかった。
視線の先にいるのは、少女――いや、年若い女性だった。
白銀の長い髪に、飾り気のない旅装。
華美な衣装も宝石もない。王族や貴族の女たちが好むような装飾品も身につけていない。
それなのに、目が離れなかった。
彼女は三人の連れと話している。
金髪の男女と、執事らしき男。
何かを言われた白銀の女が、僅かに笑った。
その瞬間。
青年は、無意識に息を止めていた。
「……誰だ」
「はい?」
「あの白銀の女だ。名前は分かるか?」
「参加者でしょうか。申し訳ございません、まだ名簿を確認しておりませんので……」
「調べろ。名前だけでいい。どこの国の者かも分かるなら知りたい」
即答だった。
案内役は一瞬だけ戸惑ったものの、「承知いたしました」と頭を下げる。
青年はそれ以上何も言わなかった。
ただ、白銀の女から視線を外さなかった。
そんなことなど知らないグレイは、競技場を見下ろしたままだった。
◇
「姫さん。何か感じたっスか?」
ライアンに聞かれ、グレイは後ろを振り返った。
上の方。
貴賓席。
「いや。何となく視線を感じただけ」
「誰かに見られてたんスかね?」
「人が多いし、大会参加者を見に来てる奴もいる。気のせいだろ」
「ならいいっスけど」
グレイはすぐに興味を失い、再び競技場へ視線を戻した。
「それより、下には行けないのか?」
「競技場へですか? 今日は参加者も立入禁止みたいですね」
「残念」
「明後日には嫌でも入れるっスよ」
ライカが案内板を確認している横で、グレイはもう一度白い砂の敷かれた競技場を眺めた。
「お姫ちゃん、今から戦いたそうな顔しやがってますよ」
「そこまでじゃない」
「そこまで、なんですね」
「ライカ。さっきから揚げ足ばかり取ってない?」
「これだけ長く一緒にいれば上手くなります」
グレイが何とも言えない顔をすると、ライアンが声を上げて笑った。
「姫さん、せっかくだし参加者を見て回るっスか? 強そうなの探してたじゃないっスか」
「……行く」
「やっぱり」
四人は観客席を離れた。
◇
コロッセオ周辺には、大会参加者を狙った武具の露店が並んでいた。
剣、槍、盾、防具、魔法触媒、簡単な回復薬。武器の手入れ道具まで揃っている。
グレイには必要ない。
代わりに見ているのは、人だった。
「あれ、強そう」
通りの向こうを、巨大な大剣を背負った女が歩いている。
グレイより頭一つ以上背が高く、腕も太い。
「分かりやすいっスね」
「じゃあ、あっちは?」
今度は細身の男。
腰には剣が一本だけ。
だが、歩く音がほとんどしない。
「姫さん、完全に品定めしてるっスよ」
「失礼ですよ、お姫ちゃん」
「声には出してない」
「今、出してます」
「あ」
グレイが口を閉じたところで、首筋から頬にかけて細かな鱗を持つ男が通りかかった。
「ドラゴニュート?」
「恐らく」
セバスが答える。
男も視線に気づいたらしく、こちらを見た。
目が合ったので、グレイは軽く頭を下げる。
相手も同じように返し、そのまま通り過ぎていった。
「普通だったな」
「何を期待していたんです?」
「分からない」
「お姫ちゃん……」
ライカが溜息をつく。
それでもグレイは気にせず周囲を見回し――足を止めた。
「いた」
「何がっスか?」
「受付で見た人」
深緑の髪。
武器を持たない男が、少し離れた屋台で飲み物を買っている。
「あの人、強そうなんだ」
「知り合いじゃないんスよね?」
「違う」
「じゃあ、何で分かるんスか?」
「分からないから気になる」
セバスも男へ目を向けた。
数秒。
「……確かに」
「だろ?」
「セバスは何か分かるんスか?」
「分からん。だからこそ、だ」
それを聞いたグレイが嬉しそうに笑う。
「同じだな」
「グレイ様」
「何?」
「声を掛けるのはおやめください」
まだ一言も言っていないのに先回りされ、グレイは眉を寄せた。
「挨拶くらい」
「大会で当たれば、その時になさればよろしいかと」
「……分かった」
「姫さん、本当に行くつもりだったんスね」
ライアンが呆れた声を出す。
「少し話すだけだろ」
「知らない人に『強い?』って聞く気だったでしょう」
ライカの指摘に、グレイは黙った。
「図星ですか」
「……帰ろう」
「逃げやがりましたね」
◇
夕方。
四人は宿へ戻る前に、昨日とは別の食堂へ入った。
龍神祭の特別料理。
そう書かれた看板に、ライアンが見事に引っかかったからだ。
「姫さんばっかり言われるっスけど、ねーちゃんだって寄り道してるじゃないっスか」
「今回はにーちゃんです。看板を見た瞬間に止まったでしょう」
「美味そうだったんで」
「祭りなんだからいいだろ」
グレイが味方すると、ライアンが嬉しそうに頷く。
「姫さん、分かってるっスね」
「お姫ちゃんまで甘やかさないでください。明後日は大会でしょう」
「出るのは俺だけだぞ」
「応援する側にも体力は必要です」
何をするつもりなのかと聞けば、「普通に見ます」と返ってくる。
それなら大丈夫だろうと言ったところで、ライカは何故か少し腹を立てていた。
やがて運ばれてきたのは、大皿に載せられた丸焼きの鳥だった。
香草と一緒に焼かれた表面は飴色で、皮は見るからにぱりぱりとしている。
「龍神祭の料理って、龍関係ないんだな」
「龍を食べるわけにはいかないでしょう」
「確かに」
近くにいた店員が笑いながら説明してくれた。
「その料理は、龍が翼を広げた姿を表してるんですよ。両側の肉を翼に見立てているんです」
「これが?」
「はい」
「……鳥だな」
「お姫ちゃん。店員さん困ってます」
だが店員も慣れているのか、気を悪くした様子はなかった。
「初めて見る人は大体そう言いますよ。龍神様へ捧げる祭事料理が元になってるんです」
古くから龍神祭の時期に食べられてきた料理らしい。
説明を聞きながら一切れ口へ運ぶ。
皮は香ばしく、肉は柔らかい。香草の匂いも強すぎず、噛むほどに肉汁が広がった。
「うまい」
「姫さん、これ酒欲しくならないっスか?」
「なる」
「お二人とも。明後日大会ですよ」
「明後日だろ? 一杯くらいならいいだろ」
ライカが厳しい顔をしたところで、三人の視線が自然とセバスへ向かった。
少し考えたあと、セバスは淡々と答える。
「一杯程度であれば問題ないかと」
「セバス!」
「グレイ様には明日一日休養していただきますので」
「するとは言ってない」
「なさいます」
「……はい」
即座に折れたグレイを見て、ライカが半眼になる。
「セバス、最近お姫ちゃんに甘くないです?」
「適切な判断だ」
「じゃあ俺は?」
ライアンが聞くと、セバスは一切迷わなかった。
「好きにしろ」
「差がすごいっスね!」
グレイは笑いながら、運ばれてきた酒を一口飲んだ。
ほんの少し甘い。
祭り用なのか、普段飲むものより軽かった。
窓の外では龍を象った灯りが揺れ、遠くから音楽が聞こえてくる。
明後日には戦う。
数十人の知らない相手。
どんな技を使うのか。誰が残るのか。自分の拳がどこまで通じるのか。
考えれば楽しみだった。
けれど、今は。
目の前の食卓の方が大事だった。
「ライアン。それ俺の」
「え? 最後の肉なら、もう食ったっスよ。早い者勝ちっス」
「……ライアン」
「姫さん、目が怖いっス」
ライカが呆れたように額へ手を当てる。
「にーちゃん、子供じゃないんですから食べ物で喧嘩しないでください」
「俺悪くないっスよね!?」
「グレイ様。追加を頼みますので」
「……ならいい」
「よくないっスよ!」
笑い声が重なった。
◇
食事を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
四人で宿へ戻る。
昨日ほど寄り道はしなかった。
ただ、コロッセオの前を通った時だけ、グレイは足を止めた。
夜空の下に聳える巨大な闘技場。
さらにその向こうには、霊峰ヴァルグランが黒い輪郭を描いている。
「明後日か」
「はい」
セバスが隣へ並んだ。
ここは「九十年+五年」という年数の確認より、**セバスが師としてグレイの成長を見ることを楽しみにしている**方向に寄せた方が自然です。
「グレイ様。楽しみですか」
「うん。知らない奴と戦えるのもそうだけど……セバスに見てもらえるのも」
思いがけない答えだったのか、セバスが僅かに目を細めた。
「俺がどれくらい上手くなったか、自分じゃ分からないところもあるからな」
「なるほど。では、師として拝見いたしましょう」
「厳しく?」
「当然でございます。相手が誰であろうと、悪いところがあれば遠慮なく申し上げます」
昔と変わらない言葉に、グレイは小さく笑った。
「それでいい。ちゃんと見てて」
「承知いたしました。ですが――私から教わったものだけを見せようとは思わないことです」
「え?」
「これまでの旅で、グレイ様が御自身で身につけたものも含めてこそ、今のあなたなのでしょう」
グレイは一度、自分の拳へ視線を落とした。
握って、開く。
「……分かった。全部見せる」
「楽しみにしております」
人間だった頃とは違う手。
真祖となった身体。
けれど、その身体をどう動かせばいいのか。
その基礎を叩き込んだのは、隣にいる男だった。
後ろからライアンの声が飛んでくる。
「姫さーん、セバスー! 置いてくっスよ!」
「にーちゃん、宿は同じなんだから置いていけるわけないでしょう」
「雰囲気っスよ、雰囲気!」
「今行く」
グレイが振り返り、二人のもとへ歩き出す。
セバスも、その少し後ろをついていった。
◇
その頃。
コロッセオのさらに上。
夜の貴賓区画に、一人の青年が立っていた。
窓辺。
その手には、一枚の紙がある。
大会参加者の簡易名簿。
そこに記されている名は短かった。
――グレイ。
「グレイ……」
第三王子は、その名を小さく口にした。
吸血鬼。
空間属性。
家名なし。
分かったのは、それだけ。
どこの国から来たのか。
誰なのか。
何者なのか。
それ以上のことは何一つ分からない。
「殿下。明日の予定ですが――」
「ああ」
従者に声を掛けられ、王子は紙を畳んだ。
まだ、ただ目に留まっただけだった。
美しいと思った。
名前を知りたいと思った。
だから調べさせた。
それだけのこと。
青年は窓辺を離れる。
◇
一方、そんなことなど知る由もないグレイは、ライアンたちと宿へ向かって歩いていた。
「姫さん、明日は何するっスか?」
「休む。セバスに言われたから」
「珍しいですね、お姫ちゃん。午前中も?」
「休む。午後は少しくらい街――」
「グレイ様」
後ろから声が飛んだ。
グレイは言葉を止める。
「……休む」
「よろしい」
「セバス、完全に姫さんの扱い分かってるっスね」
「長い付き合いですから」
ライアンが笑い、ライカも小さく肩を揺らした。
グレイも少しだけ笑う。
頭上では、龍を象った無数の灯りが夜風に揺れていた。
そのさらに向こうでは、夜の霊峰ヴァルグランが街の喧騒など知らぬように静かに聳えている。
十年に一度の武闘祭。
各地から集まった強者たち。
人の姿に紛れているという龍。
そして、そのすべてを遥か高みから見ているという白耀龍神。
まだ誰とも戦っていない。
何も始まってはいない。
それでも、グレイの足取りは昨日よりほんの少しだけ軽かった。
腰元では、今日受け取った参加札が歩調に合わせて小さな音を立てている。
明後日。
あの白い砂の上へ立つ。
その時、自分の前に誰がいるのか。
グレイはまだ知らない。
だからこそ――楽しみだった。




