第2話 金獅子の双子
砂漠を越えた先の街は、グレイが想像していたよりもずっと賑やかだった。
乾いた街道を進むにつれて、人の声が少しずつ大きくなっていく。
荷車の軋む音。獣の鳴き声。道端に並んだ露店から客を呼び込む声。
砂漠から吹いてくる乾いた風には、焼いた肉や香辛料の匂いが混じっていた。
故郷を出てから、これほど多くの生きた人間――いや、人々の中へ入るのは初めてだった。
「……獣人の国、か」
グレイは外套のフードを少しだけ持ち上げる。
街道を行き交う者たちの頭には、人間にはない耳があった。
狼。
猫。
犬。
兎。
形も大きさも様々で、頭部に獣の特徴を持つ者もいれば、腕や足の一部に毛が生えている者もいる。腰の辺りから尾を伸ばしている者も珍しくなかった。
人間の姿もある。
けれど、明らかに少数だった。
書物で読んだことはある。
獣人。
人間とは異なる身体的特徴を持ち、多くの種族へ枝分かれした人々。
それでも、文字と絵で知っていることと、実際に目の前を歩いている姿を見るのとでは随分違った。
グレイのすぐ横を、小さな狐耳を生やした子供が走り抜ける。
「待ちなさい!」
母親らしい女性が追いかけていった。
子供の尾が左右に大きく揺れている。
グレイは無意識にその後ろ姿を目で追った。
「……動くんだな」
ぽつりと呟く。
当然と言えば当然なのだろう。
それでも、本で見ていた時には分からなかったことだった。
少し先では、荷物を運んでいた犬系の獣人が誰かに呼ばれ、耳だけをそちらへ向けている。
反対側では猫系らしい女性の尾が、不機嫌そうにぱたぱたと地面を叩いていた。
感情に合わせて動くものらしい。
面白い。
もっと近くで見てみたい気持ちはあったが、さすがに他人の耳や尾を凝視するのは失礼だろう。
グレイは視線を前へ戻した。
街を囲う外壁が近づいてくる。
砂漠側から入る者を想定しているためか、街門の前には広い休憩所が設けられていた。大きな水桶が並び、旅人や荷を運んできた獣たちが水を飲んでいる。
その先には入街を待つ短い列があった。
グレイも最後尾へ並ぶ。
前にいるのは、砂埃にまみれた大柄な男だった。
頭には丸い耳。
熊だろうか。
背中にはグレイより大きな荷物を背負っている。
男がふと振り返った。
視線が下がる。
グレイと目が合った。
「…………」
「…………」
男がもう一度前を見る。
そして、また振り返った。
「嬢ちゃん、一人か?」
「そうだ」
「砂漠から?」
「ああ」
男の眉間に深い皺が寄った。
何かおかしなことを言っただろうか。
「連れは?」
「今はいない」
正確には、《ドールハウス》にいる。
嘘ではない。
「……そうか」
男は納得していない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。
ただ、列が進んでも何度か後ろを気にしていた。
グレイは小さく首を傾げる。
砂漠を一人で越えたように見える十歳の少女。
冷静に考えれば、不自然なのかもしれない。
だが今さらどうしようもない。
まさか、
『実は何十人も家族がいる。ただ全員人形で、俺が作った異空間の城下町に入っている』
などと説明する方が問題だ。
列が進む。
やがてグレイの番になった。
門の脇には二人の衛兵が立っていた。
一人は犬系。
もう一人は豹に近い特徴を持っている。
犬系の衛兵がグレイを見る。
やはり視線が下がった。
「身分証は?」
「ない」
「初入国か?」
「ああ」
「出身は?」
グレイは一瞬だけ迷った。
故郷の名を言って通じるのか。
滅びたばかりとはいえ、隣接している国なら知られている可能性もある。
余計な騒ぎは避けたい。
「西だ」
「西のどこだ?」
「砂漠の向こう」
「それは見れば分かる」
衛兵が困ったように頭を掻いた。
グレイは黙る。
嘘をつくことはできる。
だが、適当な国名を出して確認された方が面倒だ。
「事情があるのか?」
「……まあな」
衛兵はしばらくグレイを見た。
敵意がないか確かめているのだろう。
グレイも静かに視線を返す。
やがて衛兵が息を吐いた。
「荷物は?」
「これだけだ」
肩に掛けた小さな鞄を見せる。
最低限の金と水、それから街へ入る時に不自然ではない程度の荷物だけを入れている。
本当に必要なものの大半は家族が持っている。
「武器は?」
「持ってない」
これも嘘ではない。
グレイ自身に武器は必要ない。
衛兵はますます不思議そうな顔になった。
「保護者は?」
「いない」
「……嬢ちゃん、何歳だ?」
「十歳」
身体の年齢としては。
衛兵が額を押さえた。
隣の豹系の衛兵が、僅かに肩を揺らした。
「笑うな」
「笑ってない」
「じゃあお前がやれ」
「嫌だ」
「ったく……」
犬系の衛兵がグレイへ向き直る。
「いいか。ここは砂漠を越えて最初の街だから、旅人は多い。人間も珍しくはない。だが、十歳の子供が一人で歩く場所じゃない」
「歩いてきた」
「そういう話じゃない」
「なら、どういう話だ?」
「…………」
衛兵が黙った。
隣の衛兵が今度こそ吹き出した。
「お前、後で交代な」
「悪い悪い」
何が面白いのか分からない。
グレイが眉を寄せていると、犬系の衛兵は深く息を吐いた。
「入街税を払えるなら入れてやれる。犯罪歴の照合も必要だが……身分証がないなら仮登録だ。中で問題を起こすなよ」
「分かった」
「それと」
「まだあるのか?」
「日が暮れてから一人で路地裏を歩くな。宿は大通り沿いに取れ。困ったら衛兵詰所か冒険者ギルドへ行け」
「……分かった」
「本当に分かってるか?」
「何度言わせるんだ」
グレイは指定された金額を支払った。
衛兵はまだ心配そうだったが、最後には木製の簡易通行証を渡してくれた。
「なくすなよ」
「ああ」
門をくぐる。
数歩進んだところで、グレイは振り返った。
先ほどの衛兵がまだこちらを見ている。
目が合うと、手で前へ行けと示された。
「……変な奴だな」
そう呟いてから、グレイは街の中へ入った。
◇
街の中は、外から見た以上に活気があった。
大通りの両側に石造りと木造の建物が混在している。
故郷の城下町とは建築様式が違う。
屋根は低く、強い日差しを避けるためなのか、建物同士の間隔も狭い。通りの上には布製の日除けが何枚も張られ、陽光を柔らかく遮っていた。
砂漠に近い土地らしい工夫なのだろう。
グレイにとってはありがたい。
日差しが弱くなるだけで身体がかなり楽になる。
露店には見たことのない果物が積まれている。
鮮やかな赤。
黄色。
濃い紫。
その隣では、串に刺した肉を焼いていた。
脂が炭へ落ちるたびに火が上がり、香辛料の強い匂いが漂ってくる。
「……いい匂いだな」
食べたい。
人間だった頃なら、そう思ったはずだ。
今も味への興味はある。
けれど。
その向こうを歩いている人々から、もっと別の匂いがする。
グレイの足が止まった。
どくん。
自分のものではない心臓の音が、耳の奥へ入ってくる。
近くを通り過ぎた獣人。
首筋。
皮膚の下を流れるもの。
血。
「……っ」
グレイは外套の中で拳を握った。
喉が熱い。
砂漠で感じていた渇きとは違う。
生きた人間――獣人も含めて、これほど多くの生者に囲まれるのは、真祖になってから初めてだった。
匂いが多すぎる。
音が多すぎる。
心臓。
血流。
呼吸。
体温。
人間だった頃には意識もしなかったものが、嫌になるほど鮮明に分かる。
グレイは俯いた。
魔力を巡らせる。
喉の奥へ集まりかけた衝動を押さえ込む。
「……大丈夫だ」
小さく呟く。
誰も聞いていない。
自分に言い聞かせるための言葉だった。
吸わない。
絶対に。
誰かを襲ってまで生きるつもりはない。
そのための方法を探すために旅へ出た。
ここで負けるわけにはいかない。
グレイは人通りの少ない方へ歩いた。
路地へ入り、建物の壁へ背中を預ける。
目を閉じる。
魔力を身体中へ回す。
少しずつ。
少しずつ。
熱が引いていく。
「……面倒な身体だな」
自嘲気味に呟いた。
真祖から流れ込んだ記憶の中には、血を飲むことへの抵抗などなかった。
むしろ当然の行為として刻まれている。
人間が水を飲むように。
食事をするように。
吸血鬼は血を飲む。
だからこそ腹が立つ。
「俺は、お前じゃない」
誰もいない路地で呟く。
死んだ真祖へ向けた言葉だった。
少し休めば、身体は落ち着いた。
グレイは壁から離れる。
その時だった。
「おい」
背後から声がした。
振り返る。
三人の男が路地の入口を塞いでいた。
全員獣人。
犬系が二人。
鼠に近い特徴を持つ男が一人。
服装からして衛兵ではない。
「さっき門から入ってきたガキだろ」
「……そうだが」
「一人なんだってな」
グレイは瞬きをした。
街へ入ってまだ大して時間は経っていない。
どこで見ていたのだろう。
「それが?」
「困ってんじゃねえかと思ってよ」
「別に困ってない」
「遠慮すんなって」
男たちが近づいてくる。
グレイはその場から動かなかった。
敵意。
いや。
もっと軽い。
自分たちの方が強いと確信している者の態度だ。
グレイは三人を観察する。
武器。
一人が腰に短剣。
一人は棍棒。
もう一人は何も見えていないが、服の下に何かある。
魔力量。
少ない。
身体能力。
獣人だから人間より多少高いのだろう。
それでも。
「金持ってんだろ?」
鼠系の男が笑った。
「砂漠越えてきたんだ。旅費くらいあるよな」
「ある」
「素直じゃねえか」
「必要だから持ってる」
「じゃあ俺たちが預かってやるよ」
「嫌だ」
即答した。
男の笑みが消える。
「……あ?」
「聞こえなかったか?」
グレイは男を見上げた。
「嫌だと言った」
空気が変わった。
犬系の男が舌打ちする。
「ガキが調子乗ってんじゃ――」
「そこで何してるんスか?」
別の声が割り込んだ。
男たちが振り返る。
路地の入口。
一人の青年が立っていた。
最初に目へ入ったのは、髪だった。
陽光を受けて輝く金色。
それと同じ色の獣耳が頭の上にある。
獅子。
グレイはすぐにそう気付いた。
背は高い。
腰には二本の短剣。
軽装で、動きやすさを重視した服装をしている。
青年は路地の中を見て、面倒そうに頭を掻いた。
「三人がかりで子供囲んでるようにしか見えないんスけど。俺、なんか勘違いしてるっスか?」
「関係ねえ。消えろ」
「そう言われてもなあ」
青年は困ったように笑う。
「ねーちゃんに見つかったら、俺まで怒られるんスよ」
「知るか!」
犬系の男が棍棒を持ち上げた。
グレイは小さく息を吐く。
別に助けは必要ない。
むしろ、これ以上騒ぎが大きくなる方が困る。
「お前」
グレイが青年へ声をかけた。
「ん?」
「放っておいていいぞ」
「……へ?」
「俺一人で問題ない」
青年が目を瞬いた。
三人の男たちも黙った。
短い沈黙。
「……姫さん、それ言う状況じゃないっスよ」
「誰が姫さんだ」
「あ、違ったっスか?」
「違うとは言ってない」
「どっちなんスか」
グレイが眉を寄せる。
男たちの一人が怒鳴った。
「舐めてんじゃねえぞ!」
棍棒が振り下ろされる。
狙われたのは青年だった。
だが。
金色の姿が消えた。
「遅いっス」
声は男の横から聞こえた。
いつ抜いたのか。
青年の右手には短剣が握られている。
刃ではなく柄が男の脇腹へ入った。
「ぐっ……!」
身体が折れる。
その背中を青年が軽く押した。
男はそのまま地面へ倒れ込む。
速い。
グレイは少しだけ目を細めた。
悪くない。
少なくとも、この三人とは比べものにならない。
「てめえ!」
残る二人が同時に動く。
青年の左手にも短剣が現れた。
二刀。
一人目の腕を受け流し、身体を入れ替えるように背後へ抜ける。
もう一人が短剣を抜いた瞬間、その手首へ蹴りが入った。
武器が飛ぶ。
「はい、おしまいっス」
青年が二本の短剣を逆手に持った。
切っ先は誰にも向けていない。
それでも男たちは動けなくなった。
「まだやるなら相手するっスけど、そろそろ衛兵呼ばれると思うっスよ?」
「……覚えてろ!」
「それ、ちゃんと覚えてた奴あんまり見たことないんスよね」
男たちは倒れた仲間を引き起こし、路地から逃げていった。
青年は短剣を鞘へ戻す。
「まったく……」
そしてグレイを見る。
「怪我ないっスか?」
「ない」
「金取られたりは?」
「してない」
「ならよかったっス」
青年が笑った。
グレイはじっと彼を見る。
「なんスか?」
「いや」
「もしかして怖かったっスか? もう大丈夫っスよ」
「違う」
「強がらなくてもいいっスって。ああいうの、この辺たまにいるんスよ。砂漠越えで疲れた旅人狙って――」
「ライアン」
冷たい声が路地へ響いた。
青年の肩が跳ねた。
「……やべ」
グレイが声の方を見る。
路地の入口に、もう一人立っている。
女性だった。
青年と同じ金色の髪。
同じ金色の獅子耳。
顔立ちもよく似ている。
ただ、纏う空気はまるで違った。
青年が陽気で軽い印象なら、女性は姿勢が整い、鋭い目をしている。
腰の辺りには折り畳まれた鉄扇が差されていた。
女性は笑っていた。
笑っているのに、青年――ライアンの顔が引きつっている。
「にーちゃん」
「はい」
「私、何と言いやがりましたか?」
「えーっと……」
「市場で買い物を済ませたら、勝手にいなくならず宿へ戻りやがってください、と言ったはずですが?」
「いや、ねーちゃん。これには事情が――」
「言い訳する前に荷物を見せやがってください」
「荷物?」
ライアンが両手を見る。
何も持っていない。
「あ」
「買い物は?」
「……これからっス」
女性の笑みが深くなる。
「なるほど」
「ねーちゃん、怖いっス」
「誰のせいだと思ってやがるんですか?」
「俺っスね」
「分かっているなら結構です」
グレイは二人のやり取りを黙って見ていた。
姉弟。
それも、かなり近い年齢に見える。
顔立ちが似すぎている。
「双子か?」
グレイが尋ねると、女性が初めてこちらを見る。
視線が下がる。
「……にーちゃん」
「なんスか?」
「この子は?」
「さっき絡まれてたんスよ」
「それで?」
「助けたっス」
「買い物を放り出して?」
「人助けっスよ?」
「それは良いことですね」
「でしょ?」
「ですが買い物を忘れていい理由にはなりやがりません」
「厳しいっス……」
女性が小さくため息をついた。
それからグレイの前へ歩いてくる。
しゃがみはしなかった。
ただ、威圧しないよう少し距離を取って立ち止まる。
「怪我は?」
「ない」
「何か取られやがりましたか?」
「何も」
「そうですか。それなら良かったです」
声は少し変わっていた。
ライアンへ向けていたものより柔らかい。
グレイは女性の顔を見る。
「お前がねーちゃんか」
「そうです」
「こいつはライアン?」
「そうです。どうしようもないにーちゃんですが」
「ねーちゃん、初対面の子に何言ってるんスか」
「事実を言ってやがるだけです」
女性は自分の胸元へ軽く手を添えた。
「私はライカです」
「ライカ」
「ええ。こっちが双子の弟のライアン」
「弟?」
グレイはライアンを見る。
「なんスか、その顔」
「いや。にーちゃんって呼ばれてたから」
「ねーちゃん、昔から俺のこと『にーちゃん』って呼ぶんスよ」
「私の方が姉ですが?」
「分かりづらい」
「よく言われやがります」
ライカは特に気にした様子もなく答えた。
「お前は?」
ライアンが聞く。
「グレイ」
「グレイっスか」
「ああ」
「それで、グレイはなんで一人であんな奴らに囲まれてたんスか?」
「向こうから来た」
「そうじゃなくて」
先ほど門で衛兵としたような会話になっている。
グレイは少し嫌な予感がした。
ライカが辺りを見る。
「保護者は?」
「いない」
「同行者は?」
「今はいない」
「宿は?」
「まだ決めてない」
「この街に知り合いは?」
「いない」
ライカの眉間に皺が寄っていく。
「どこから来やがりました?」
「西」
「西のどこから?」
「砂漠の向こう」
ライアンとライカが揃って黙った。
グレイは二人を見上げる。
「……なんだ?」
「ねーちゃん」
「にーちゃん」
二人が同時に呼び合った。
「この子、砂漠越えてきたって言ってるっスよ」
「聞こえてやがりました」
「一人で?」
「そう言ってやがりますね」
「無理じゃないっスか?」
「普通なら無理ですね」
グレイは眉を寄せた。
「越えてきたぞ」
「いやいやいや」
ライアンがしゃがみ込み、グレイと視線を合わせる。
「砂漠っスよ?」
「知ってる。歩いてきたからな」
「何日かかると思ってるんスか?」
「何日かかったかな……」
「ほら!」
「何が、ほら、なんだ」
「子供一人で砂漠越えなんて危なすぎるっス!」
「危ないことはなかった」
魔物には何度か遭遇した。
全て人形たちかグレイ自身で対処した。
砂嵐もあったが、空間魔法で避けた。
水も《ドールハウス》に十分用意していた。
少なくとも、グレイにとっては命の危険を感じるような場面はなかった。
「何歳っスか?」
「十歳」
「十歳!?」
ライアンの声が路地に響いた。
「うるさい」
「いや、だって十歳って!」
「にーちゃん、声が大きいです」
「ねーちゃんも驚いてるっスよね?」
「驚いてやがりますが、騒いでも年齢は変わりません」
「それはそうっスけど」
ライカがグレイを見る。
「本当に一人旅ですか?」
「ああ」
「家族は?」
その質問で、グレイは一瞬黙った。
ライカが気付く。
「……答えたくなければ構いやがりません」
「いる」
「え?」
「家族はいる」
グレイはそう答えた。
嘘ではない。
皆、《ドールハウス》にいる。
「ただ、今は俺一人で歩いてるだけだ」
「なるほど……?」
ライカは納得したような、していないような顔をした。
これ以上説明するつもりはない。
ライアンが立ち上がる。
「とりあえず、大通り戻るっスか。こんな路地にいたら、また変なの来るかもしれないっス」
「来ても問題ない」
「そういう問題じゃないっスよ」
「さっきからそればっかりだな」
「グレイが問題を理解してないからっス」
面倒な奴だ。
グレイはそう思った。
だが、不思議と嫌ではなかった。
◇
「食べるっスか?」
ライアンが差し出してきた串焼きを、グレイは見つめた。
路地を出た三人は市場へ戻っていた。
本来の目的だった買い物を済ませるためらしい。
なぜ自分まで一緒にいるのかは分からない。
別れるつもりでいたのだが、
『宿を決めるまでは一緒にいろ』
とライアンに言われ、
『勝手に消えやがらないでください』
とライカにまで言われた。
別に従う理由はない。
ないのだが。
「……もらう」
「どうぞっス」
串を受け取る。
焼きたてで温かい。
一口齧る。
濃い香辛料の味が口いっぱいに広がった。
「…………」
「どうっスか?」
「辛い」
「そこが美味いんスよ」
「舌が痛い」
「水」
横からライカが木製の杯を渡してきた。
グレイは受け取り、一気に飲む。
「……助かった」
「にーちゃん。子供にいきなり辛いものを食わせやがらないでください」
「そんな辛くないっスよ」
「辛い」
「グレイまで!?」
ライカが呆れたように息を吐く。
市場を歩きながら、二人は何度も店へ立ち寄った。
干し肉。
水。
布。
薬草。
簡単な野営道具。
明らかに旅を続けるための買い物だった。
「お前たちも旅してるのか?」
グレイが聞く。
ライアンが荷物を抱え直した。
「そうっスよ」
「どこへ?」
「今んところ、この国の中をあっちこっちっスね」
「国の中だけ?」
「今は、ですが」
答えたのはライカだった。
「私たちにも色々とありやがるんですよ」
「ふうん」
グレイはそれ以上聞かなかった。
言いたくないことを無理に聞くつもりはない。
自分にもある。
ライアンが横から覗き込んでくる。
「聞かないんスか?」
「何を?」
「色々って言われたら気にならないっスか?」
「言いたいなら自分から言うだろ」
「……へえ」
「なんだ?」
「いや」
ライアンは少し笑った。
「変わってるなと思っただけっス」
「お前に言われたくない」
「会って一時間も経ってないのに酷くないっスか?」
「十分分かる」
「ねーちゃん、この子結構辛辣っス」
「にーちゃんが絡みすぎなんですよ」
ライカが鉄扇の先でライアンの肩を軽く叩く。
その様子を見ながら、グレイはもう一度串焼きを齧った。
やはり辛い。
けれど、二口目は最初ほど嫌ではなかった。
知らない味だった。
これも旅をしなければ知らなかったものなのだろう。
そう考えると、少し面白い。
「グレイ」
「ん?」
「今夜の宿は決めやがりましたか?」
「まだだ」
「でしたら、私たちが泊まっているところへ来やがってください」
「なんで?」
「なんで、と言われましても」
ライカが僅かに眉を下げる。
「このまま一人にする方が気になりやがります」
「俺は大丈夫だぞ」
「十歳の子供が一人で砂漠を越えてきて、街へ入ってすぐ三人組に絡まれた後に言われても説得力がありません」
「あいつらは別に――」
「分かったっス!」
ライアンが突然声を上げた。
「何が?」
「グレイ、俺たちが弱いと思ってるんじゃないっスか?」
「は?」
「だから一人で大丈夫だって言うんスよ。俺たちに守られる必要なんてないって」
「実際、必要ない」
「ほら!」
「にーちゃん」
「勝負するっスか?」
グレイは瞬きをした。
ライカが鉄扇でライアンの後頭部を叩く。
乾いた音がした。
「痛っ!」
「十歳の子供に勝負を挑みやがらないでください」
「いや、だってこの子絶対なんか隠してるっスよ!」
「だからといって勝負する理由にはなりません」
「気にならないっスか?」
「気にはなりやがります」
「ねーちゃんもじゃないっスか!」
「ですが今は宿が先です」
グレイは二人を交互に見た。
「お前ら、いつもこんな感じなのか?」
「そうっス」
「違います」
同時だった。
「どっちだよ」
「ねーちゃんが認めないだけっス」
「にーちゃんが余計なことばかりしやがるだけです」
また始まった。
グレイは小さく息を吐いた。
だが、口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
◇
宿は大通りから一本入った場所にあった。
二階建ての大きな建物で、一階は食堂になっている。
扉を開けた瞬間、肉を煮込んだ匂いと焼きたてのパンの香りが流れてきた。
「戻ったっス!」
「にーちゃん、宿で大声を出しやがらないでください」
「ただいまくらいいいじゃないっスか」
店主らしい大柄な獣人が厨房から顔を出す。
「遅かったじゃねえか。買い物だけじゃなかったのか?」
「色々あったんスよ」
「その子は?」
当然、グレイへ視線が向く。
「拾ったっス」
「拾ってない」
グレイが即座に否定する。
「一人旅の子です」
ライカが補足した。
「砂漠を一人で越えてきやがったそうです」
「は?」
店主の顔が固まった。
まただ。
グレイは少し面倒になってきた。
「部屋は空いてるか?」
「いや、ちょっと待て。お嬢ちゃん、一人なのか?」
「ああ」
「歳は?」
「十歳」
「親は?」
「家族はいる」
「どこに?」
「……遠くないところ」
嘘ではない。
距離という意味では、すぐ近くだ。
店主は明らかに困っていた。
ライカが助け舟を出す。
「私たちが見ておきます」
「お前らが?」
「はい」
「ならまあ……」
店主は頭を掻いた。
「空きはある。一部屋でいいか?」
「一人部屋でいい」
グレイが言う。
「隣を取るっス」
ライアンが勝手に続けた。
「なんで?」
「何かあった時すぐ行けるじゃないっスか」
「何もない」
「そう言って路地で絡まれてたっスよね?」
「だから、あれは――」
「グレイ」
ライカに名前を呼ばれた。
グレイは口を閉じる。
「今日はそれで我慢しやがってください」
「……なんで俺が怒られてるんだ?」
「怒ってはいません」
「その口調で言われると分かりづらい」
「よく言われやがります」
どこかで聞いた返事だった。
◇
夜。
グレイは一人、宿の部屋にいた。
小さなベッド。
机。
椅子。
窓。
最低限のものしかない部屋だった。
けれど清潔だ。
窓の外から街の明かりが見える。
砂漠側の街だから夜も旅人が多いらしく、大通りからはまだ人の声が聞こえていた。
グレイはベッドの縁へ座る。
「……変な奴らだったな」
ライアン。
ライカ。
金色の獅子の双子。
会ったばかりなのに、やけに世話を焼いてくる。
一人で大丈夫だと言っているのに聞かない。
ライアンは軽い。
ライカは妙な言葉遣いをする。
どちらもグレイに対して必要以上に警戒していなかった。
それが少し不思議だった。
故郷で最後に向けられた視線を思い出す。
恐怖。
嫌悪。
剣。
『化け物』
グレイは自分の手を見る。
白い。
人間だった頃よりもずっと白い肌。
爪も意識すれば鋭く伸びる。
瞳も、力を抑えなければ深紅になる。
牙もある。
それでも今日、ライアンは何も知らずに自分を助けようとした。
ライカも普通に水を渡した。
「……知らないから、か」
当たり前だ。
二人は何も知らない。
グレイが何者なのか。
何をしたのか。
どれほど多くの死者を人形にしたのか。
何も。
知られれば同じかもしれない。
グレイは考えるのをやめた。
「母上」
小さく呼ぶ。
魔力を流す。
部屋の中に《ドールハウス》への入口が開いた。
そこから母が姿を現す。
「呼んだ?」
「ああ」
母は部屋を見回した。
「宿に着いたのね」
「さっきな」
「初めての街はどうだった?」
グレイは少し考える。
「人が多かった」
「そう」
「獣人もたくさんいた。本で見たのとは結構違う」
「楽しかった?」
「……まだ分からない」
母はそれ以上答えを求めなかった。
グレイの隣へ座る。
「二人、変な奴に会った」
「変な人?」
「双子」
「どんな人?」
「金色の獅子の獣人。ライアンとライカ」
口にしてから、自分が思ったより二人のことを覚えていることに気付く。
「ライアンは軽い。ずっと『〜っス』って喋る。ライカは弟なのにライアンを『にーちゃん』って呼ぶ」
「弟なのに?」
「ああ。ライカが姉らしい」
「面白いわね」
「変だろ」
「グレイは、その二人が嫌い?」
不意に聞かれた。
グレイは母を見る。
「なんでそうなる?」
「ずいぶん詳しく話すから」
「聞かれたから答えただけだ」
「そう」
母が微笑む。
「何だよ」
「何でもないわ」
グレイは少し不満そうに母から顔を背けた。
窓を見る。
「明日、街を見て回る」
「一人で?」
「そのつもりだった」
「だった?」
「……あいつらが勝手についてきそうなんだよ」
母が小さく笑った。
「なら、三人で見てくればいいじゃない」
「なんでだよ」
「嫌なら断ればいいでしょう?」
「断ってる」
「それでも?」
「聞かない」
「そう」
また笑う。
「だから何なんだよ」
「何でもないって」
グレイは納得できなかった。
その時。
部屋の扉が叩かれた。
「グレイー、起きてるっスか?」
聞き覚えのある声。
グレイと母が同時に扉を見る。
「……ほらな」
グレイが呆れたように言う。
母は立ち上がった。
「戻った方がいい?」
「ああ。今はまだ、説明が面倒だ」
「分かったわ」
母が《ドールハウス》へ戻る。
入口を閉じた直後、もう一度扉が叩かれた。
「寝たっスかー?」
「うるさい」
「起きてるじゃないっスか」
グレイは扉を開けた。
ライアンが立っている。
その後ろにライカ。
「何だ?」
「明日の予定聞いてなかったなと思って」
「街を見る」
「一人で?」
「ああ」
ライアンとライカが顔を見合わせた。
嫌な予感がする。
「俺たち、明日この街出るんスよ」
「そうか」
「グレイは?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、一緒に来るっスか?」
「……どこに?」
「とりあえず東っス」
「適当だな」
「旅なんてそんなもんっスよ」
「にーちゃんと一緒にしやがらないでください。次の目的地は決まっています」
「あれ、そうだったっスか?」
「決めたでしょうが」
「忘れてたっス」
鉄扇がライアンの頭へ落ちた。
「痛っ!」
グレイは二人を見る。
「俺についてくるのか?」
「逆っス。俺たちについてくるんスよ」
「嫌だ」
「即答!?」
「俺には俺の旅がある」
「私たちにもあります」
ライカが静かに言った。
「だから、途中まで同じ道を歩けばいいだけです」
グレイがライカを見る。
「なんでそこまで俺を気にする?」
ライカは少し考えた。
「十歳の子供が一人で旅をしているからです」
「それだけ?」
「今は、それだけで十分です」
グレイは黙った。
ライアンが横から笑う。
「ねーちゃん、こういうとこ頑固なんスよ」
「にーちゃんにだけは言われたくありません」
「俺は柔軟っス」
「無計画と言うんです」
「酷いっスね」
二人がまた言い合いを始める。
グレイは扉に手を掛けた。
「もう寝る」
「明日は?」
「知らない」
「朝飯一緒に食べるっスか?」
「勝手にしろ」
「それ、いいって意味っスよね?」
「知らない」
「何時に起きるっスか?」
「うるさい」
「姫さん朝弱いタイプっスか?」
グレイの手が止まった。
「……今、なんて呼んだ?」
「え?」
ライアンも止まる。
「姫さん?」
「なんで?」
「なんとなくっス」
「俺が?」
「雰囲気っスかね」
「意味分からない」
「嫌ならやめるっスけど」
グレイは少し考えた。
まだ二人には、自分が本当に王女だったことを話していない。
偶然。
ただの軽口。
それなのに、妙なところを突いてくる。
「……好きにしろ」
「了解っス、姫さん」
「にーちゃん」
ライカが横を見る。
「何スか?」
「勝手に変な呼び方を付けやがらないでください」
「いいじゃないっスか。本人もいいって言ってるし」
「いいとは言ってない」
「好きにしろって言ったっス」
「それは……」
否定しようとして、面倒になった。
「もういい」
グレイは扉を閉めようとする。
その隙間からライカがグレイを見る。
少しだけ考えて。
「おやすみなさい、お姫ちゃん」
「お前まで!?」
「にーちゃんだけというのも不公平でしょう?」
「何の公平性だよ!」
ライカは僅かに口元を上げた。
「では、明日の朝に」
「行くとは言ってない!」
「おやすみっス、姫さん」
「聞け!」
扉が閉まる。
廊下から二人の足音が遠ざかっていった。
グレイはしばらく扉を睨んでいた。
「……なんなんだ、あいつら」
返事はない。
静かになった部屋へ戻る。
ベッドへ横になる。
目を閉じる。
眠る必要は以前より減っている。
それでも習慣として眠ることはできた。
だが、今日はなかなか眠れなかった。
『姫さん』
『お姫ちゃん』
からかっているだけだ。
何も知らない。
それなのに。
「……変な奴ら」
今度は先ほどより小さな声で呟いた。
故郷を離れた時、グレイは世界を知ろうと思った。
吸血鬼を知る。
真祖を知る。
自分が何者なのかを知る。
そのための旅だった。
誰かと出会うことなど、ほとんど考えていなかった。
家族はもういる。
それ以上を求めるつもりもなかった。
だから、この時のグレイにはまだ分からなかった。
砂漠を越えた最初の街。
そこで偶然出会った金獅子の双子が、これからどれほど長く自分の隣を歩くことになるのか。
そして。
軽い調子で呼ばれた「姫さん」と「お姫ちゃん」という呼び名が、遥か先の時間まで残り続けることになるのかを。
窓の外では、獣人の街の灯りが一つ、また一つと消えていく。
グレイは知らない街の夜の中で、静かに目を閉じた。




