第1話 砂漠の向こうへ
朝焼けが、崩れた城壁の向こうから差し込んでいた。
夜の名残を追い払うような淡い光が、雨に濡れた石畳を静かに照らしている。
昨日まで降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。
水を吸った土の匂い。焼け焦げた木材の匂い。どこかで崩れかけた瓦礫が小さく軋む音。
グレイは城門の前に立ち、それらを黙って聞いていた。
十年間、毎日のように見てきた景色だった。
けれど、もう知っている場所には見えない。
城門から続いていた大通りには人の姿がなく、かつて朝になると開いていた店の扉も閉ざされたままだった。屋根を失った家々の隙間から朝日が入り込み、濡れた石畳の上で細く揺れている。
その先には、焼け落ちた城下町が広がっていた。
グレイは胸元へ手を添えた。
服の下、そこには小さな欠片がしまわれている。
父だったものの、最後の欠片。
「……行くか」
誰に言うでもなく呟いた声が、朝の静けさへ溶けていく。
返事は一つではなかった。
「はい、姫様」
「どこまでもお供いたします」
「道中の食事についてはお任せください。姫様が何を召し上がれるのか、まだ分からないことも多うございますが」
「城の外へ出るのは、随分と久しぶりな気がいたしますね」
後ろから聞こえる声に、グレイはわずかに目を細めた。
振り返る。
そこには母がいた。
騎士たちがいた。
侍女たちがいた。
宮廷魔導士たちも、料理人たちもいる。
誰もが、グレイの知っている姿をしていた。
けれど、その身体はもう生きていた頃のものではない。
魔力によって形作られ、朽ちることのない人形の身体。
あの夜、失いたくないと願った。
もう二度と、誰もいなくならないでほしいと願った。
その願いの果てに、彼らは今もグレイの傍にいる。
父だけはいない。
視線が無意識に胸元へ落ちた。
すぐに顔を上げる。
「……母上」
「はい」
「本当に来るのか?」
母の人形は少しだけ首を傾けた。
生前と変わらない仕草だった。
「昨日も同じことを聞いてたわよ」
「そうだったか?」
「ええ。三度ほど」
「……そうか」
グレイは気まずそうに視線を逸らす。
母は小さく笑った。
「あなたが私たちを置いていこうとするからでしょう?」
「置いていくつもりだったわけじゃない。ただ……」
言葉が止まる。
城を離れる。
それは自分が決めたことだった。
この身体が何なのか。
吸血鬼とは何なのか。
真祖とは何なのか。
自分の中へ流れ込んできた力を、どう扱えばいいのか。
何も分からない。
ここに残っていたところで、答えが落ちているわけではない。
だから世界を見る。
自分が生まれ育った国の外へ行く。
それだけなら、一人でもよかった。
むしろ、一人で行くべきだと思っていた。
けれど。
『皆も連れていく』
昨日、結局そう言った。
母も家臣たちも、誰一人として反対しなかった。
「……いや」
グレイは小さく首を振った。
「何でもない」
母はそれ以上聞かなかった。
代わりにグレイの髪へ手を伸ばし、寝癖の残っていた銀髪を指先で整える。
「それでは参りましょうか」
「ああ」
グレイは城門の外へ向き直った。
一歩。
濡れた石畳を踏む。
もう一歩。
子供の頃、何度もこの門を通った。
城下町へ遊びに行った日もあった。
父に連れられて国民の前へ出たこともある。
祭りの日には、母と一緒に馬車へ乗った。
いつも帰ってきた。
この門を通れば、その先には家があった。
今は違う。
振り返らなかった。
振り返れば、足が止まりそうだったから。
グレイは前だけを見て歩いた。
家族たちの足音が、その後ろから静かについてきた。
◇
故郷を離れて数日。
グレイは早くも一つの問題に直面していた。
「……目立つな」
街道から少し外れた岩場で、グレイは腕を組んでいた。
目の前には人形たちが並んでいる。
母。
侍女。
騎士。
魔導士。
料理人。
その他にも多くの者がいる。
旅立った時には、彼らが一緒にいることを不自然だとは思わなかった。
グレイにとっては家族だからだ。
しかし、国境へ近づくにつれて旅人とすれ違う機会が増えてきた。
最初に出会った商人は固まった。
次に出会った冒険者たちは武器へ手を伸ばした。
昨日すれ違った旅人など、グレイたちを見た瞬間に馬車を反転させて逃げていった。
十歳ほどにしか見えない少女。
その後ろを、何十体もの人形が歩いている。
しかも、どれも人間と見間違えるほど精巧に作られている。
冷静に考えれば、どう見ても普通ではない。
「今さらお気付きになられたのですか?」
侍女の言葉に、グレイが眉を寄せた。
「分かっていた」
「左様でございますか」
「……その顔は信じてないだろ」
「人形ですので、表情などございません」
「普通にあるだろ」
侍女は微笑んでいる。
グレイはしばらく睨んでいたが、やがて諦めて岩へ腰掛けた。
頭上では強い日差しが照りつけている。
故郷から東へ進むほど、土地は乾いていった。
緑は減り、代わりに赤茶けた土と岩が増えている。
さらに東へ進めば、大きな砂漠がある。
その砂漠を越えた先には、獣人たちが暮らす国があると聞いていた。
グレイが最初の目的地として選んだ場所だ。
理由は単純だった。
故郷から外へ向かう道の中で、最初に興味を持ったから。
知らない土地。
知らない種族。
知らない文化。
世界を知るための旅なら、知らないものが多い方がいい。
だが、その前に解決しなければならない。
グレイは並んだ人形たちを眺めた。
「この人数で国境を越えるのは無理だな」
「止められるでしょうね」
宮廷魔導士だった人形が答える。
「説明したところで理解されるとも思えません」
「俺が人形にしたって言えば、もっと面倒になるだろうな」
「おそらくは」
「なら、隠すしかない」
グレイは自分の掌を見る。
空間魔法。
元々、適性はあった。
真祖となったことで魔力量は以前とは比較にならないほど増えている。
あの戦いでも、距離を折り、攻撃を逸らし、人形たちを移動させるために使った。
ただ、まだ完成していない。
今のグレイができることは限られている。
空間を少しずらす。
二点の距離を短くする。
小さな物を一時的に別の空間へ置く。
そんな程度。
「物を入れられるなら……」
グレイは地面へ落ちていた小石を拾った。
掌の上に置く。
魔力を流す。
指先の上で空間が僅かに歪んだ。
小石が消える。
数秒後。
ぽとり、と頭の上へ落ちてきた。
「痛っ」
侍女が口元を押さえた。
「笑ったな?」
「いいえ」
「絶対笑っただろ」
「人形ですので」
「便利だな、その言い訳」
頭をさすりながら、グレイは落ちた石を拾う。
失敗ではない。
一度は別の空間へ入った。
問題は維持できなかったことだ。
小石程度ならともかく、人間ほどの大きさを持つ人形を何十体も入れるには、比較にならない規模の空間が必要になる。
グレイは立ち上がった。
「少し試す」
「姫様?」
「今のままじゃ、どこの国にも入れない。なら、皆がいられる場所を作ればいい」
母が静かにグレイを見る。
「場所を?」
「ああ」
グレイは両手を広げた。
「ここじゃない場所に」
言葉にすると簡単だった。
実際にやろうとすると、途方もなく難しい。
けれど、不可能だとは思わなかった。
前世の知識が頭の奥に残っている。
空間というものを、この世界の人間とは少し違う捉え方ができる。
目に見える三次元だけではない。
座標。
領域。
内と外。
繋がっている必要すらない空間。
この世界の魔法理論と、前世で知った考え方。
その二つを重ねる。
「姫様」
宮廷魔導士の人形が声をかけてきた。
「何だ?」
「何をなさろうとしているのか、我々にも共有していただけますか」
「異空間を作る」
「…………」
沈黙。
「なんだよ」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「数日前まで、空間を数歩折り畳むだけでも相当な集中を必要としておられたように記憶しております」
「そうだな」
「その状態から、いきなり異空間を創造なさるので?」
「そうだ」
また沈黙した。
グレイは眉を寄せる。
「無理だと思ってるだろ」
「率直に申し上げれば」
「なら手伝え」
「……承知いたしました」
少しだけ楽しそうな声だった。
それから、砂漠へ入るまでの数日は、ほとんど魔法の研究に費やされた。
◇
最初の試作は、小箱ほどの広さだった。
次は樽。
その次は小部屋。
空間を作るだけなら、思っていたより早く形になった。
問題は安定させることだった。
魔力を流し続けなければ崩壊するようでは意味がない。
グレイが眠っている間も維持されなければならない。
さらに、人形たちが長期間過ごせる場所である必要がある。
「広げすぎた」
夜。
野営地の焚き火の前で、グレイは地面へ寝転がっていた。
身体が重い。
魔力を使いすぎた。
真祖となってから初めて感じるほどの疲労だった。
「ですから、一度お休みになられてはと申し上げたでしょう」
侍女が濡らした布を額へ置く。
「もう少しだった」
「その『もう少し』を三時間ほど聞いております」
「……三時間?」
「はい」
「そんなにやってたか」
「なさっておりました」
グレイは目を閉じた。
焚き火の薪が爆ぜる。
少し離れた場所では騎士たちが周囲を警戒している。
料理人たちは、まだ必要なのかも分からない食事を準備していた。
吸血鬼になってから、身体の感覚が変わった。
食事はできる。
味も分かる。
けれど、人間だった頃のような空腹とは違う。
もっと深い場所に、別の渇きがある。
血。
考えないようにしていても、ときどき喉の奥が熱くなる。
それが嫌だった。
今はまだ、魔力で抑え込めている。
だが、いつまで続くかは分からない。
「……俺、本当に変わったんだな」
小さな呟きだった。
侍女の手が止まる。
グレイは目を閉じたまま続けた。
「疲れ方も違う。腹の減り方も違う。寝なくても平気だし、傷も勝手に治る」
「姫様」
「分かってる。今さらだ」
額の布が少しずれる。
侍女が直してくれた。
それ以上、何も言わなかった。
その沈黙がありがたかった。
慰めてほしいわけではない。
大丈夫だと言ってほしいわけでもない。
ただ、傍にいてくれればよかった。
「……明日、続きをやる」
「はい」
「止めないのか?」
「止めたところで、姫様はなさるでしょう?」
「まあな」
「でしたら、せめて今夜はお休みください」
「分かった」
「本当に?」
「……たぶん」
「姫様」
「分かったって」
少しだけ声を荒らげると、近くにいた母が笑った。
グレイは目を開ける。
「母上まで笑うなよ」
「ごめんなさい。でも、少し安心したの」
「何が?」
「あなたが、あなたのままだから」
グレイは答えなかった。
焚き火へ視線を向ける。
揺れる炎が銀色の瞳へ映った。
人間ではなくなった。
それでも。
母から見れば、まだ自分は自分らしい。
胸の奥に残っていた小さな硬さが、ほんの少しだけ解けた。
「……寝る」
「ええ。おやすみなさい」
グレイは身体を横へ向けた。
その夜は、久しぶりによく眠れた。
◇
砂漠へ入る頃には、異空間は一つの形になり始めていた。
砂が風に巻き上げられる。
昼間の熱気は凄まじく、遠くの景色が陽炎に揺れている。
普通の人間なら長時間歩くだけでも体力を奪われる環境だった。
真祖となったグレイには、暑さそのものは大きな問題ではない。
問題は日差しだった。
「……暑い」
「先ほど、暑さは問題ないと仰っておられませんでしたか?」
「気分の問題だ」
グレイは大きな布を頭から被っていた。
身体を覆うようにして、できるだけ直射日光を避けている。
日光を浴びた瞬間に灰になるようなことはなかった。
だが、明らかに身体が重くなる。
魔力の巡りも鈍い。
夜になれば嘘のように楽になることを考えれば、吸血鬼としての性質なのだろう。
「夜に進んだ方がよろしいのでは?」
「それだと、普通の旅人に見えないだろ」
「既に十分、普通には見えないかと」
「だから、それを何とかしてるんだよ」
グレイが振り返る。
今日も人形たちは後ろを歩いている。
ただし、それも今日までの予定だった。
「止まろう」
岩陰を見つけ、グレイは足を止めた。
人形たちも続く。
砂の上へ腰を下ろし、グレイは両手を前へ出した。
数日間、何度も組み直した術式。
空間の外側を固定する。
内部の広さと外部の大きさを切り離す。
出入口はグレイの魔力へ紐付ける。
問題は誰を入れるか。
生きている者まで入れるようにすると、術式が複雑になりすぎた。
そもそも必要ない。
これは家族のために作る場所だ。
ならば条件そのものを絞ればいい。
「俺が人形にした者だけ」
魔力が動く。
空間が軋んだ。
目の前に小さな亀裂が生まれる。
黒い。
光のない裂け目。
しかし、その奥には何かがある。
「姫様」
「まだ待て」
グレイは集中を切らさない。
額を汗が伝った。
亀裂の向こうへ空間を広げる。
一部屋。
一軒。
それでは足りない。
家族が暮らす場所なのだから。
ただ立って待つだけの倉庫にはしたくなかった。
それぞれが過ごせる場所がいる。
家がいる。
道がいる。
広場がいる。
グレイの脳裏に、故郷の景色が浮かんだ。
朝の市場。
石畳。
噴水。
城へ続く坂道。
料理人たちが買い出しへ行った店。
騎士たちが休憩中に寄っていた酒場。
侍女たちが花を買っていた小さな店。
もう存在しない街。
その記憶を、空間へ流し込む。
魔力が一気に持っていかれた。
「っ……!」
膝が砂へ落ちる。
「姫様!」
「来るな!」
伸ばされた手を制した。
まだ終わっていない。
ここで途切れれば、内部が崩れる。
グレイは歯を食いしばった。
身体の奥から魔力を引き出す。
真祖となったことで得た、底が見えないほどの魔力量。
それでも足りない。
なら、広げるのではなく折ればいい。
外から見た大きさと、中の広さが同じである必要はない。
空間そのものを幾重にも折り畳む。
一枚の紙を何度も折るように。
いや。
逆だ。
小さく折り畳まれたものを、内側だけで広げる。
「……そういうことか」
グレイの口元がわずかに上がった。
掴んだ。
魔力の流れが変わる。
無理やり押し広げていた空間が、自然に展開されていく。
家。
道。
広場。
城壁。
そして、その中心に小さな城。
かつての故郷そのものではない。
完全に同じにはしたくなかった。
あの場所は、あの場所だけだ。
けれど、家族たちが過ごす場所として、馴染みのある景色は残したかった。
やがて、魔力の流出が止まった。
亀裂が安定する。
グレイは荒い息を吐きながら、砂へ片手をついた。
「……できた」
しばらく誰も声を出さなかった。
グレイが顔を上げる。
「誰か、入ってみてくれ」
「では私が」
騎士の一人が前へ出た。
黒い亀裂の前に立ち、手を触れる。
その身体が吸い込まれるように消えた。
グレイは息を止める。
一秒。
二秒。
三秒。
「……どうだ?」
返事はない。
「おい」
当然だった。
空間そのものが違う。
声が届くようには作っていない。
「……しまったな」
「姫様?」
「中の声が聞こえない」
待つ。
しばらくすると、亀裂が揺れた。
騎士が戻ってくる。
「どうだった?」
グレイは思わず身を乗り出した。
騎士は少しだけ間を置いた。
「街がございました」
「……本当に?」
「はい。石畳の道が続き、家々が並んでおります。広場もございます」
「崩れたりしてないか?」
「私が確認した範囲では」
「息苦しくは?」
「我々に呼吸が必要かはさておき、特に違和感はございません」
「動ける?」
「問題なく」
グレイは小さく息を吐いた。
成功した。
「では、次は私が」
母が亀裂へ近づいた。
グレイは頷く。
しかし。
母の身体が消えた直後、グレイはふと考えた。
「俺も見てくるか」
亀裂へ手を伸ばす。
触れる。
「……ん?」
何も起こらない。
もう一度。
「…………」
入れない。
グレイは無言で亀裂を見つめた。
術式を確認する。
条件。
――グレイが人形に変えた者。
「……あ」
後ろで侍女が顔を逸らした。
「笑うな」
「まだ何も申し上げておりません」
「絶対笑った」
「人形ですので」
「それ禁止にするぞ」
グレイは額を押さえた。
術式自体は完璧に働いている。
完璧すぎた。
グレイ自身は人形ではない。
だから入れない。
条件を変更することも考えた。
だが、生きている者を入れるとなれば術式の根幹から組み直す必要がある。
それに。
「……まあ、いいか」
グレイは亀裂から手を離した。
そもそも、自分が入る必要はない。
これは家族たちが過ごす場所だ。
グレイが外を歩いている間、彼らが狭い収納空間で待つ必要がなくなる。
やがて母が戻ってきた。
「どうだった?」
「素敵な場所だったわよ」
「本当か?」
「ええ」
母は微笑んだ。
「少し、懐かしい気持ちになったの」
その一言で、グレイは内部がどんな場所になったのか理解した。
自分では見ることができない。
これからも、人形たちから話を聞くしかない。
それでも構わなかった。
「名前が必要ですね」
宮廷魔導士の言葉に、グレイが首を傾ける。
「名前?」
「これほどの魔法です。いつまでも『あの空間』では不便でしょう」
「別にいいだろ」
「姫様は昔から、作った人形には必ず名前を付けておられたではありませんか」
「それとこれとは……」
言いかけて止まる。
確かに、名前がないのは少し落ち着かない。
グレイは亀裂を見る。
人形たちだけが入れる場所。
中には街がある。
家族たちのための家。
少し考えた後、グレイは口を開いた。
「……ドールハウス」
「ドールハウス?」
「ああ」
前世では、もっと小さなものをそう呼んだ。
人形のための家。
今、目の前にあるものとは規模が違いすぎる。
けれど。
「《ドールハウス》でいい」
グレイがそう言うと、異空間の亀裂が静かに揺れた。
まるで名前を受け入れたようだった。
◇
それから砂漠の旅は、少しだけ静かになった。
昼間。
砂丘の上を歩いているのはグレイ一人。
大きな外套を羽織り、頭まで布で覆った小さな少女が、どこまでも続く砂の海を進んでいく。
足跡は一人分しかない。
少し前までは、後ろから何十人もの足音が聞こえていた。
今は風の音だけだ。
「……静かだな」
思わず口から漏れた。
返事はない。
グレイは数歩進んでから足を止めた。
振り返る。
当然、誰もいない。
「…………」
分かっていた。
皆は《ドールハウス》にいる。
呼べばすぐに出せる。
いなくなったわけではない。
それなのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
「……くだらない」
前を向く。
歩き出す。
十歩。
二十歩。
三十歩。
止まる。
「一人くらい出してもいいよな」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
魔力を動かす。
空間が開き、侍女が姿を現した。
「お呼びでしょうか、姫様」
「……別に」
「はい?」
「中の様子を聞こうと思っただけだ」
「左様でございますか」
「ああ」
「先ほどお入りになられてから、まだ十五分ほどですが」
「…………」
グレイは歩き出した。
侍女も当然のようについてくる。
「戻らなくていいのか?」
「戻りましょうか?」
「いや」
「では、このままお供いたします」
「……そうしてくれ」
砂を踏む音が二つになった。
それだけで、さっきまでやけに広く感じていた砂漠が少し狭くなった気がした。
「中はどうだ?」
「皆、それぞれ見て回っております」
「何か足りないものは?」
「今のところは。ただ、料理長が厨房について少々不満を」
「なんで?」
「調理器具がございませんので」
「あ」
「騎士団長からは訓練場が欲しいとのことです」
「街を作ったんだから空いてるところでやればいいだろ」
「地面の材質が気に入らないそうでございます」
「面倒くさいな……」
「魔導士長は研究室を」
「後でまとめて聞く」
「承知いたしました」
グレイはため息をついた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
家族が新しい場所で何をしているのか。
何が欲しいのか。
自分には見ることができない。
だから、聞けばいい。
そのうち、中にどんな店ができたのかも聞いてみよう。
母はどこで過ごしているのか。
騎士たちは何をしているのか。
料理人たちは、食べる必要もないのにまた料理を始めるのだろうか。
そんなことを考えながら歩いているうちに、日が傾き始めた。
昼間は白く輝いていた砂が、赤みを帯びていく。
空気も急速に冷え始める。
砂漠の夜は早い。
「今日はここまでにするか」
「はい」
岩陰へ移動する。
侍女が《ドールハウス》から必要な者たちを呼び、野営の準備が始まった。
料理長が火を起こす。
騎士が周囲を確認する。
母が敷物の上へ腰掛ける。
ついさっきまで何もなかった砂漠の一角に、いつもの光景が戻ってくる。
グレイは少し離れた場所に座った。
西を見る。
太陽が砂丘の向こうへ沈んでいく。
故郷は、さらにその先だ。
もう何日も歩いた。
それでも、まだ近く感じる。
「グレイ」
母が隣へ座った。
「何だ?」
「寂しいの?」
「……急だな」
「昼間、すぐに侍女を呼び戻したと聞いたのよ」
グレイが侍女を見る。
少し離れた場所で、何も知らない顔をしている。
「余計なことを……」
「怒らないであげてね」
「怒ってない」
「では、寂しかったの」
「違う」
「ふふ、そう」
「ああ」
「では、そういうことにしておくわね」
母はそれ以上追及しなかった。
グレイは膝を抱えた。
夜風が銀髪を揺らす。
「……母上」
「はい」
「俺は、どこまで行けばいいと思う?」
母がグレイを見る。
「世界を知るって言っても、広すぎるだろ。何を見れば終わりなのかも分からない」
「終わらせる必要があるの?」
「え?」
「旅というものは、最初に終わりを決めなければ始められないわけではない」
グレイは答えられなかった。
母は沈みきった太陽の方を見る。
「あなたは、あなた自身を知りたいのでしょう?」
「ああ」
「ならば、知りたいと思う間は歩けばよいの」
「……適当だな」
「そうかしら?」
「母上らしくない」
「母親というものは、娘が悩んでいる時にすべての答えを教えられるほど万能ではないの」
「王妃だったくせに」
「王妃も母親も、分からないことはあるのよ」
グレイは小さく笑った。
「なんだ、それ」
「ふふ」
母も笑う。
その声を聞いていると、少しだけ昔へ戻ったようだった。
けれど、同じではない。
戻ったわけではない。
ここは砂漠だ。
故郷ではない。
父はいない。
自分はもう人間ではない。
それでも母は隣にいる。
グレイは砂の上へ手を置いた。
昼の熱はほとんど残っていなかった。
何気なく侍女に語りかける。
「じゃあ、とりあえず向こうの国を見る」
「ええ」
「その後は、その時に決める」
「いいんじゃない 」
「適当だな」
「グレイが決めた事だもの」
「それもそうか」
夜空を見上げる。
故郷で見ていた星と同じものが、そこにあった。
場所が変わっても、空まで変わるわけではないらしい。
グレイはしばらく星を眺めた。
◇
砂漠へ入ってから、さらに幾日かが過ぎた。
《ドールハウス》も少しずつ改良されていった。
料理長の厨房。
騎士たちの訓練場。
魔導士たちの研究室。
母が過ごす部屋。
侍女たちが使う場所。
要求を聞くたびにグレイが外側から空間を調整していく。
中へ入れない以上、細かな部分は人形たちから説明してもらうしかない。
「右です、姫様」
「俺から見て?」
「私から見てでございます」
「お前の右と俺の右は同じだろ」
「確かに」
「……本当にそこに扉があるんだな?」
「はい」
「じゃあ、少し広げるぞ」
砂の上に座ったグレイが魔力を流す。
異空間の一部が広がる。
数分後。
中から戻ってきた侍女が首を振った。
「広げすぎでございます」
「……どれくらい?」
「部屋が三つほど入りそうです」
「もうそのままでいいだろ」
「廊下にそれほどの幅は必要ございません」
「注文が多いな!」
そんなやり取りも増えた。
グレイが見られない場所を、家族たちが説明する。
グレイが外から作る。
また確認してもらう。
失敗する。
直す。
その繰り返し。
いつの間にか、《ドールハウス》はグレイだけが作った魔法ではなくなっていた。
中で暮らす家族たちと一緒に作っている場所になっていた。
そして。
砂漠を越える頃には、その魔法も安定していた。
◇
朝。
グレイは砂丘の上に立っていた。
風が吹く。
長い銀髪が外套の隙間から流れ出した。
夜明け直後の空は薄い青。
砂漠の向こうが、少しずつ明るくなっていく。
「……見えた」
小さく呟く。
遠く。
砂の色が途切れている。
その先に緑があった。
最初は目の錯覚かと思った。
けれど違う。
木々。
草原。
そして、さらに向こう。
朝靄の中に人工物の輪郭が見える。
壁。
建物。
街。
砂漠の向こう側。
グレイが故郷を離れてから、初めて辿り着く国。
獣人たちが暮らす東方の国。
グレイはしばらく動かなかった。
胸の奥に、ほんの少しだけ妙な感覚がある。
怖いわけではない。
不安とも違う。
知らないものが、あそこにある。
自分を知らない人々がいる。
自分が王女だったことも。
国を失ったことも。
吸血鬼になったことも。
真祖を殺したことも。
何も知らない人たち。
そこでは、自分が何者なのかを決めるものは過去だけではないのかもしれない。
「グレイ」
後ろから母の声がした。
今日は街へ入る前に皆を《ドールハウス》へ戻す予定だった。
グレイは振り返る。
母だけではない。
家族たちが揃っていた。
「そろそろだ」
「ええ」
「街へ入ったら、しばらく呼べないかもしれない」
「必要になれば呼んでくれたらいいじゃない」
「でも、人前じゃ無理だろ」
「それなら、グレイが一人で頑張るしかないわね」
「……簡単に言うなよ」
母がグレイの前へしゃがむ。
今のグレイと視線の高さが近くなる。
「大丈夫よ」
「何が?」
「あなたなら」
その言葉に、グレイは少しだけ眉を寄せた。
「根拠は?」
「母親ですから」
「意味分からない」
「それで十分なの」
母の手がグレイの頭へ触れた。
髪を撫でる。
昔から変わらない手つき。
けれど、温度はない。
そのことに気付いてしまい、グレイは一瞬だけ目を伏せた。
すぐに顔を上げる。
「……行ってくる」
「はい」
「別に、別れるわけじゃないけどな」
「ええ。いつでも呼んでちょうだい」
グレイが魔力を動かす。
空間が開く。
一人。
また一人。
家族たちが《ドールハウス》へ入っていく。
料理人。
魔導士。
騎士。
侍女。
最後まで残ったのは母だった。
「では、グレイ」
「ああ」
「いってらっしゃい」
グレイは一瞬、言葉を失った。
旅立った日の城門で聞けなかった言葉だった。
帰る場所そのものがなくなったと思っていたから。
けれど。
今は違う。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……行ってきます」
母が微笑む。
その姿が《ドールハウス》へ消えた。
空間が閉じる。
砂丘の上に残ったのは、グレイ一人。
風が吹いた。
外套が揺れる。
グレイは東を向く。
もう、さっきまでのような静けさは気にならなかった。
皆がどこにいるのか分かっている。
いつでも会える。
だから歩ける。
砂丘を下る。
足元の砂が少しずつ固い土へ変わっていく。
やがて、小さな草が見えた。
さらに進めば木がある。
乾いた砂の匂いに、土と植物の匂いが混ざり始めた。
遠くから鳥の声が聞こえる。
久しぶりに聞いた生き物の声だった。
グレイは足を止める。
少しだけ耳を澄ませた。
鳥は何度か鳴き、木々の向こうへ飛んでいった。
「……世界って、広いんだな」
当たり前のことを口にした。
知識では知っていた。
地図も見たことがある。
父の執務室には国外から持ち込まれた書物もあった。
教師から他国について教わったこともある。
けれど。
知っていることと、自分の足でそこへ立つことは違った。
背後には砂漠。
そのさらに向こうには故郷。
目の前には、まだ名前しか知らない国。
グレイは外套の襟を少し整えた。
深紅へ変わりやすくなった瞳を意識して、魔力を抑える。
人間だった頃に近い淡い銀灰色へ戻ったことを、水を張った小さな器で確認した。
「よし」
十歳ほどの少女。
一人旅。
それだけでも十分怪しい気はする。
「……まあ、なんとかなるだろ」
誰も返事をしない。
それでも今度は足を止めなかった。
街へ続く道へ出る。
遠くから人の声が聞こえてきた。
荷車の車輪が地面を転がる音。
動物の鳴き声。
誰かが笑う声。
少しずつ近づいてくる。
故郷を失ってから、初めて聞く知らない街の音だった。
グレイは歩く速度を少しだけ落とした。
胸の奥に残る警戒を無理に消そうとはしない。
怖がられたことを忘れたわけではない。
自分へ向けられた剣も。
あの言葉も。
まだ覚えている。
それでも。
ここまで来た。
知らなければならない。
世界のことを。
吸血鬼のことを。
そして――自分のことを。
グレイは再び前を向いた。
朝日が昇る。
砂漠を越えた先の街が、その光の中ではっきりと姿を現し始めていた。
まだグレイは知らない。
この街で、自分の長い旅路を大きく変える二人と出会うことを。
今はただ。
砂漠の向こうへ辿り着いた小さな旅人として、グレイは初めての街へ向かって歩いていった。




