第九話:初めての現実は戻らない
田所は気づいていた。
競馬で勝っても、キャバクラで騒いでも、心はすぐに慣れてしまう。
未来を知っている人生は、驚きが減る。
その代わりに残るのは、「全部分かっている」という退屈だった。
そんなある日。
何気なく開いた記憶の中に、それはあった。
**初めて好きになった人との記憶。**
高校の放課後。
駅前のベンチ。
夕暮れに染まる空。
ぎこちない沈黙。
「遅かったね」
彼女は笑っていた。
その一言だけで、胸が痛いほど動いた。
田所は思い出す。
あのとき何も言えなかった自分を。
気づけば、彼はヘッドセットをつけていた。
白い光。
世界が巻き戻る。
教室。
廊下。
帰り道。
そして、駅前のベンチ。
彼女がそこにいる。
まだ何も知らないままの彼女が。
田所は息をのむ。
(……これ、やり直せるのか)
「遅いよ」
彼女が言う。
同じ言葉。
でも、意味が違って聞こえた。
田所は座る。
心臓がうるさい。
未来は知っている。
でもこの瞬間だけは、どうしても“初めて”になる。
「今日さ」
彼女は空を見ながら言う。
「なんか、変な気分なんだよね」
「いつもと同じなのに、ちょっと違う感じ」
田所は言葉に詰まる。
(違うのは……俺のほうだ)
未来を知っている自分は、
この後の別れも、
言えなかった言葉も、
全部知っている。
それでも、今だけは違った。
「ねえ」
彼女がこちらを見る。
「なんで今日は、そんな顔してるの?」
田所は笑おうとして、できなかった。
「いや……」
「ちょっと、嬉しくてさ」
嘘ではなかった。
でも本当でもなかった。
沈黙。
風が吹く。
やがて彼女が小さく笑う。
「変なの」
その笑顔を見た瞬間、田所は理解してしまう。
この時間は、もう一度来る。
でも、この“彼女の目の中の今”は、二度と戻らない。
彼は静かに言う。
「なあ」
彼女は振り向く。
田所は一瞬だけ迷い、
そして言った。
「今日のこと、覚えててくれる?」
彼女は少し驚いて、それから笑った。
「当たり前じゃん」
「忘れるわけないでしょ」
その言葉が、胸に刺さる。
白い光が揺れ始める。
時間が終わる合図。
田所は分かっていた。
この後、彼女は別の未来を歩く。
自分とは交わらない人生を。
それでも。
田所は最後にもう一度だけ言う。
「ありがとう」
何に対してかは、分からなかった。
でも、それでよかった。
現実に戻る。
ヘッドセットを外す。
部屋は静かだった。
何も変わっていない。
でも、胸の中だけが少し違っていた。
田所はしばらく動かずに、ベンチの記憶を反芻していた。
何度も、同じ夕暮れを思い出す。
彼女の「変なの」という笑顔だけが、何度も繰り返された。
そしてようやく、小さく笑う。
「……俺、あの瞬間に置いてきたな」
窓の外は、いつも通りの夜だった。
でもその夜は、
少しだけ、優しく見えた。
田所は初めて、競馬のアプリを開かなかった。
未来を知っているのに、
今日は何も確かめなかった。
Memory Rewriteは過去を変えない。
でも時々、人に思い出させる。
“もう一度やり直したいもの”ではなく、
**“一度しかなかったことの重さ”を。**




