第七話:失われた声のある部屋
その部屋は、ずっと止まっていた。
おもちゃ箱は開いたまま。
小さな靴は玄関に揃えられたまま。
壁のカレンダーだけが、止まった時間の上に薄く埃を積もらせていた。
「……ここ、入るの初めてだね」
母親が小さく言った。
父親は答えなかった。
ただ、ドアノブを握ったまま動けなかった。
三年前。
交通事故。
たったそれだけの言葉で片付けられた出来事のあと、この家は一度も“現在”に戻れなかった。
二人は生きていた。
働いていた。
食事もしていた。
会話も最低限はあった。
それでも、この部屋だけは触れられなかった。
「Memory Rewrite、起動しますか?」
無機質な音声が響く。
母親はヘッドセットを見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……ずっと、怖かったの」
ようやく口を開く。
「ここに入ったら、全部本当になってしまいそうで」
父親は小さくうなずく。
「もう、本当だろ」
その声は、怒りでも慰めでもなかった。
ただ事実を受け入れた声だった。
二人は同時にヘッドセットをつけた。
白い光が視界を包む。
気づくと、子ども部屋の前に立っていた。
ドアの向こうから、小さな声が聞こえる。
「おかあさん!」
「おとうさん!」
走る足音。
笑い声。
母親の手が震える。
「……嘘でしょ」
父親は扉に手をかけたまま動かない。
扉を開ける。
そこには、小さな子どもがいた。
何も知らない顔で、満面の笑みで二人を見ている。
「今日ね! 学校でね!」
言葉は止まらない。
未来も、死も知らない声。
母親は一歩も動けなかった。
「……どうしよう」
声が震える。
「私、これ……耐えられるのかな」
父親はしゃがみ込む。
子どもと目線を合わせる。
「なあ」
子どもは笑う。
「なに?」
父親はしばらく言葉を探す。
でも、出てこない。
代わりに、頭を撫でた。
それだけだった。
その瞬間、母親が崩れたように座り込む。
「やめて……」
「こんなの……やめて……」
父親は振り返らないまま言う。
「でも、これが“あった時間”だ」
「なかったことにする方が、もっと怖い」
沈黙。
子どもは何も知らずに笑っている。
母親は涙を流しながら言う。
「じゃあ……どうすればいいの」
父親は少しだけ目を閉じる。
そして言った。
「ちゃんと、さよならするしかない」
母親は首を振る。
「いや……まだ……」
「まだ、ここにいるじゃない……!」
父親は静かに言う。
「いない」
「もう、ここにはいない」
その言葉が、部屋の空気を変えた。
子どもがふと首をかしげる。
「おかあさん、どうしたの?」
母親は、震える手で子どもを見つめる。
その顔を記憶に焼き付けるように。
「……ごめんね」
やっと声が出た。
「大好きだったよ」
子どもはまだ笑っている。
「ぼくも!」
その一言が、いちばん残酷だった。
白い光がゆっくりと満ちていく。
世界が消えていく。
現実に戻ると、二人は同じ部屋に座っていた。
あの部屋。
止まっていた部屋。
何も変わっていない。
おもちゃ箱も。
小さな靴も。
カレンダーも。
でも、母親はもう泣いていなかった。
代わりに、小さく言った。
「……会えたね」
父親はうなずく。
「会えたな」
沈黙。
でも、それは空っぽの沈黙ではなかった。
母親は続ける。
「もう一回は……いいかな」
父親は少し笑う。
「一回でいい」
「一回で、ちゃんと足りた」
二人は立ち上がる。
部屋を出る。
扉を閉める直前、母親が一度だけ振り返る。
そこにはもう誰もいない。
でも、確かに“いた時間”だけが残っていた。
扉が閉まる。
Memory Rewriteは何も救わない。
過去は戻らない。
子どもは帰らない。
それでもこのゲームは、
「会えなかった時間」を、
「一度だけ会えた時間」に変えることだけはできる。
そしてその一度が、
人を再び歩かせることがある。




