第六話:もう一度、君とバージンロードを歩く
「……本当に、やるの?」
妻はヘッドセットを指先でなぞりながら、小さく笑った。
その笑顔は昔のようで、どこか違っていた。
夫・高瀬 恒一は少しだけ視線を落とし、それから静かに言った。
「やろう。」
「もう一回、ちゃんと」
それは結婚式の再体験というより、“二人の時間をもう一度見つめ直す選択”だった。
結婚して十二年。
大きな事件はなかった。
裏切りも、暴力もない。
けれどそれが、救いではなかった。
会話は減り、
気遣いは形式になり、
同じ部屋にいても、心だけが別の場所にいるようになった。
「一緒にいる」という事実だけが、二人をつないでいた。
白い光が視界を包む。
次の瞬間、二人は教会の入口に立っていた。
ステンドグラスから差し込む光。
白いバージンロード。
微かな花の香り。
あの日と同じ光景。
違うのは、二人が“今の自分”を知っていることだった。
「……本当に戻ってきたんだね」
妻がつぶやく。
夫は小さくうなずく。
「戻ったというより……見直す感じだな」
妻は少しだけ笑った。
「相変わらず、そういう言い方」
式が始まる。
扉が開く。
二人が歩き出すと、友人たちのざわめきが広がった。
「おお……来た来た!」
スーツ姿の男が笑いながら立ち上がる。
高校時代からの友人・藤堂が大きく手を振る。
「やっと来たな、新郎!」
「今日くらいは逃げるなよ!」
会場に笑いが広がる。
その笑いは記憶のままだった。
「高瀬!」
別の席から声が飛ぶ。
「お前、あの時スピーチで噛みまくってたの覚えてるぞ!」
「やめろって!」
会場がさらに笑う。
その空気の中で、少しだけ“あの日の温度”が蘇っていた。
友人代表のスピーチ。
藤堂が立つ。
「えー、本日は高瀬夫妻の結婚式にご列席いただきありがとうございます!」
拍手。
藤堂は一度息を吸い、少しだけ真面目な顔になる。
「こいつは昔から、不器用で」
「でも、誰よりも人のことをちゃんと考えるやつです」
夫は少し目を伏せる。
その言葉は、昔も聞いたはずなのに、今の方が深く刺さった。
藤堂は続ける。
「ただな」
「言葉にするのが遅いんだよ、こいつは」
少し笑いが起きる。
「でも今日くらいは言えよ」
藤堂は夫を見た。
「ちゃんと、隣にいる人に」
会場の空気が静かになる。
夫は一瞬迷ったあと、妻を見る。
妻は、少しだけ視線を逸らしていた。
でも逃げてはいなかった。
誓いの場面。
牧師の声。
「健やかなる時も、病める時も――」
その途中で、妻が小さく息を吸う。
そして、ほんの少しだけ先に言った。
「ねえ」
夫はうなずく。
妻は続ける。
「昔さ」
「みんなに祝ってもらって、すごく嬉しかったの覚えてる」
会場の友人たちが静かにうなずく。
「でもね」
妻は少し笑う。
「その時は、“これからちゃんとやっていけるかな”って、不安もあったんだよね」
少しだけ笑いが起きる。
夫は驚いたように妻を見る。
そんなことは知らなかった。
いや、知ろうとしていなかっただけかもしれない。
妻は続ける。
「今日ここに来て思ったの」
「その不安、今の方がちゃんと見えてる」
「でもね」
少し間を置く。
「それでも、もう一回ここに立ってよかった」
沈黙。
その言葉は、派手ではない。
でも、確かに二人の時間の重さが乗っていた。
夫はゆっくり口を開く。
「俺も」
「昔は、結婚式って“終わり”だと思ってた」
「でも違ったんだな」
「始まりでもなくて」
「続けていくってことだった」
藤堂が小さく笑う。
「やっと気づいたか」
会場に笑いが戻る。
しかし、その笑いの中に、少しだけ静かな余韻が残っていた。
指輪の交換。
拍手。
フラッシュの光。
そして最後の場面。
二人は並んで立つ。
友人たちが立ち上がる。
「おめでとう!」
「幸せになれよ!」
「喧嘩すんなよ!」
笑いと拍手が混ざる。
その声の中で、夫は小さく言う。
「なあ」
妻は振り向く。
「これ、過去じゃなくていいな」
妻は少しだけ目を丸くする。
そして、ゆっくり笑った。
「うん」
「今でいい」
白い光が二人を包む。
現実に戻ると、部屋は静かだった。
友人たちの声も、拍手もない。
ただ、隣にいる相手だけがいる。
しばらくして妻が言う。
「さっき藤堂、うるさかったね」
夫は笑う。
「変わってなかったな」
妻は少しだけ間を置いてから言った。
「ねえ」
「次、みんな呼ばなくていいから」
夫は少し考える。
「いいな、それ」
静かな夜。
二人の間には、以前より少しだけ“言葉の通り道”ができていた。
それは完全な修復ではない。
でも、もう仮面で覆い隠す必要のない、小さな隙間だった。
その隙間から、ようやく本音が呼吸をしていた。




