第五話:あの日伝えられなかった想い
雨が降っていた。
神崎義則は、ヘッドセットを静かに頭へかぶる。
「Memory Rewrite 起動します。」
無機質な音声が部屋に響く。
「再生する記憶を選択してください。」
目の前に無数の記憶が並ぶ。
幼稚園の運動会。
中学校の卒業式。
高校最後の文化祭。
母との最後の夕食。
そして、その一つ下。
『高校二年 六月二十一日』
義則は迷わず、その記憶に触れた。
白い光が視界を包む。
次の瞬間、懐かしい教室の匂いが鼻をくすぐった。
窓の外では運動部の掛け声。
黒板には数学の問題。
教室の時計は午後四時十二分を指している。
「ああ……。」
間違いない。
あの日だ。
彼女に告白しようとして、結局何も言えなかった日。
「義則、帰らないの?」
振り向くと、そこには佐倉美咲がいた。
肩まで伸びた黒髪。
優しい笑顔。
制服の袖を少しまくる癖まで、記憶そのままだった。
現実では、彼女はもう別の人生を歩んでいる。
結婚し、子どももいると風の噂で聞いた。
もう二度と交わることのない人生。
それでも、この世界では十七歳のままだ。
「帰ろう。」
義則は笑って答えた。
あの日には言えなかった言葉を胸にしまいながら。
帰り道。
夕焼けが街を赤く染めていた。
二人は川沿いを並んで歩く。
「ねえ。」
美咲が空を見上げる。
「卒業しても友達でいてくれる?」
あの日。
義則は笑って答えた。
「もちろん。」
その一言だけだった。
本当は違った。
友達ではなく、恋人になりたかった。
でも、勇気がなかった。
告白して関係が壊れることが怖かった。
その結果、何も変わらないまま卒業し、やがて連絡も途絶えた。
十年間、ずっと後悔していた。
「美咲。」
義則は立ち止まる。
「ん?」
胸が苦しい。
心臓が早鐘を打つ。
これはゲームだ。
現実は変わらない。
彼女はこの後、自分とは別の人生を歩む。
それでも。
だからこそ。
今なら言える。
「好きだった。」
美咲は目を丸くした。
夕焼けが二人を照らす。
「高校に入ってから、ずっと。」
「毎日一緒に帰る時間が好きだった。」
「文化祭も。」
「体育祭も。」
「全部、大切だった。」
「でも怖くて言えなかった。」
「断られることより、この時間が終わることが怖かった。」
「今の関係が壊れるのが怖くて……何も言えなかった。」
夕焼けの風が二人の間を通り抜ける。
美咲は驚いたように義則を見つめ、少しだけ目を伏せた。
「……そうだったんだ。」
しばらく沈黙が続く。
やがて美咲は小さく笑った。
「実はね……知ってた。」
「え?」
「女の子ってね、案外わかるんだよ。」
「でも、義則は何も言わないから。」
美咲は笑う。
「私も、義則と一緒に帰る時間が好きだった。」
義則は息をのむ。
「放課後になると、『今日は一緒に帰れるかな』って、いつも思ってた。」
「でも、お互い何も言わなかったね。」
「うん。」
「だから、私は今のままでいいんだと思ってた。」
美咲は照れくさそうに笑う。
「もし義則が今日言ってくれなかったら、この気持ちは知らないままだった。」
義則の胸につかえていたものが、少しずつほどけていく。
「ありがとう。」
「伝えてくれて。」
「私、うれしい。」
義則は涙をこらえながら笑う。
「こっちこそ。」
「ありがとう。」
夕焼けに染まる土手で、二人はしばらく何も話さなかった。
未来のことは誰も知らない。
この世界の美咲にとって、明日もまた学校があり、何気ない日常が続いていく。
だからこそ、この瞬間の「好き」は、未来への約束ではなく、その日、その時だけの本当の気持ちだった。
白い光が世界を包む。
「Memory Rewrite を終了します。」
目を開けると、そこは静かな自室だった。
時計は現実の午後九時を指している。
スマートフォンには仕事の通知が並び、部屋には誰もいない。
現実は何も変わっていない。
美咲は今も別の人生を歩んでいる。
義則と結ばれる未来は、どこにも存在しない。
それでも、不思議と胸は軽かった。
「あの日、伝えられなかった。」
そう思い続けてきた十年間。
その後悔は、もう「言えなかった後悔」ではなく、「伝えることができた大切な思い出」へと変わっていた。
ゲームは過去を変えない。
人生をやり直すこともできない。
だが、人は心の中で過去と向き合い、その意味を変えることができる。
義則はヘッドセットを机に置き、小さく笑った。
「ありがとう。」
その言葉は、もう誰かに届けるためではない。
ようやく前を向けた、自分自身への言葉だった。




