第二話:最後の「ごめん」
主人公・神崎義則、二十七歳。
彼は毎朝、同じ夢で目を覚ます。
玄関の扉が閉まる音。
「もう帰ってくるな!」
怒鳴る自分の声。
そして、振り返った母の、少しだけ寂しそうな笑顔。
その夢だけは、十年間、一日も欠かさず続いていた。
高校二年の春。
進路のことで母と衝突した。
「将来のことを真剣に考えなさい!」
「母さんには関係ない!」
売り言葉に買い言葉。
感情のまま叫んでしまった。
「もう帰ってくるな!」
本当はそんなこと、一ミリも思っていなかった。
勢いだけだった。
玄関を飛び出し、自転車を全力でこいだ。
その夜。
一本の電話が鳴る。
「お母様が交通事故に遭われました。」
病院へ着いた時には、もう遅かった。
母は一度も目を覚まさなかった。
謝ることも。
ありがとうを言うことも。
できなかった。
それから十年。
部屋には今も母のエプロンがしまってある。
洗濯した柔軟剤の匂いだけが、少し残っていた。
捨てられない。
捨てたら、本当に母がいなくなる気がした。
仏壇に手を合わせても、言葉は出ない。
「ごめん。」
その一言だけが、喉につかえていた。
そんなある日。
世界初の記憶再現システム。
『Memory Rewrite』
「記憶世界を再現します。
現実は一切変化しません。
あなたが納得するまで、何度でもやり直せます。」
義則は迷わなかった。
最後に一度だけ。
母に会いたかった。
白い光。
目を開ける。
高校の昇降口。
桜が舞っている。
友達の笑い声。
体育館から聞こえるバスケットボールの音。
春の風。
全部、本物だった。
胸が苦しくなるほど、本物だった。
AIが静かに言う。
「ここはあなたの記憶です。」
「失ったものは戻りません。」
「ですが、伝えられなかった想いは、ここで伝えられます。」
夕方。
玄関を開ける。
「ただいま。」
「おかえり。」
その一言だけで涙が出そうになる。
母は台所でカレーを作っていた。
玉ねぎを炒める音。
鍋から立ち上る湯気。
エプロン姿。
テレビではいつものバラエティ番組。
全部覚えている。
忘れたことなんて、一度もなかった。
そして、あの日。
母が言う。
「勉強しなさい。」
「もうすぐ受験でしょ。」
記憶では、ここから喧嘩になる。
でも今回は違う。
義則は深く息を吸う。
母の顔を見る。
十年間、会いたかった人が目の前にいる。
それだけで胸がいっぱいだった。
「……ごめん。」
母の手が止まる。
「え?」
「言い過ぎた。」
「母さんの気持ちも分かってる。」
「今日は一緒にご飯食べよう。」
母はしばらく黙っていた。
やがて困ったように笑う。
「急に素直になると気味悪いわね。」
二人で笑った。
その笑い声だけで、十年間凍っていた心が少しずつ溶けていく。
食卓。
カレーは少し甘かった。
「昔は甘口しか食べられなかったでしょ。」
「覚えてる?」
「……うん。」
母は笑う。
「大きくなったら辛口食べるって言ってたのに。」
義則はスプーンを止める。
こんな会話。
思い出にも残らないような会話。
でも、もう二度とできない会話。
一言一言が宝物だった。
食後。
冷凍庫からアイスを二本取り出す母。
「あ、一本しかない。」
「半分こする?」
「うん。」
一本のアイスを二人で分け合う。
それだけ。
本当に、それだけだった。
だけど義則は思う。
幸せって、こういうことだったんだ。
夜。
ゲーム終了。
白い光。
ヘッドセットを外した瞬間。
涙が止まらなかった。
母は帰ってこない。
現実は何一つ変わらない。
それでも。
あの日言えなかった「ごめん」は、ちゃんと届いた気がした。
胸に十年間刺さっていた棘が、少しだけ抜けた気がした。
初めて母の写真を見て、笑うことができた。




