香り立つ謀略、交差する一手
「チッ……あれなら大丈夫だと思ったのに。何があったのかしら」
物陰から舞台を覗く影がひとつ。舞台の中央に立つエレノアを鋭く睨みつけ、押し殺した声で不満を洩らす。
「まあ、次は無理でしょうけどね。ふふ……」
小さく笑みを残すと、その姿は音もなく掻き消えた。
そして、もうひとり。観覧席の片隅で、別の疑念と苛立ちを抱える者がいた。
「なぜだ……なぜエリーは、私が贈ったドレスではなく聖女の装いなどしている……?」
レオナード皇子である。
皇子は生徒会長でありながら、エレノアの関係者という理由で審査員から外されている。もし審査員であれば、迷わず満点を与える自信があった。だが、それは決して許されぬこと。ゆえに今日は観覧席から彼女を静かに見守るつもりでいたのに――。
舞台袖に控えるガウェインの姿を見つけるや、思わず鋭い視線を向けてしまう。
『俺の贈ったドレスはどうした?』――そう言わんばかりの皇子の視線に、ガウェインは思わず目を逸らしそうになった。だが観念し、指先で静かにサインを送る。
『皇子、申し訳ございません。ドレスは厳重に保管しておりましたが……黒百合の使者の手によって、着用不可能な状態にされてしまいました』
『なに!? 黒百合の使者だと――』
その名は、すでに皇子にも報告済みである。ガウェインの調べによれば、「黒百合の使者」と呼ばれる存在が姿を現したのは今回が初めてではなかった。最初に確認されたのは十数年前。学年代表に宛てて脅迫文が送りつけられ、さらに実際に妨害行為まで行われたのだ。
だが幸い、迅速に動いた担当教師と委員会の働きによって、首謀者とその関係者は捕縛され、大事には至らなかった――。
犯人は二学年代表の生徒と、その取り巻きの友人だった。
首謀者の少女は裕福な家に生まれ、幼い頃から両親に甘やかされて育った。欲しいものは何でも手に入れ、我儘を言えばすぐに叶えられる――そんな人生を送ってきた。
だが、彼女にもどうしても手に入れられないものが一つだけあった。それが「白百合の君」の称号である。
この称号を得るには、優れた成績と、多くの生徒からの推薦が必要だった。彼女の成績は決して悪くはなかったが、肝心の推薦の票が足りなかった。
そこで少女は二年生に進級した折、両親の財力に頼ることにした。教師を金で買収して成績を改ざんさせ、さらに生徒の推薦票までも金で手に入れたのである。
その結果、彼女は望み通り二学年代表の座に選ばれることとなった。
しかし――その虚飾は長くは続かなかった。
金銭で繕った推薦など、遅かれ早かれ綻びが露呈する。投票に不正があったのではないかと噂が立ち、次第に周囲の視線は冷ややかなものへと変わっていった。
「私が……私が一番なのに……!」
少女は焦燥に駆られた。
努力を積み重ねている者たちが称賛を受けるのが、耐えられなかった。自分こそが選ばれるべきだと信じ、周囲のすべてが妨害者に見えてしまったのである。
やがて彼女は、不正を覆い隠すためにさらなる策を講じた。
競争相手の机に偽の答案を忍ばせ、悪評を広め、時には小細工で衣装や資料を破損させる――そうして少しずつ、周囲を蹴落としていったのだ。
だが、度重なる嫌疑はついに彼女自身へと跳ね返った。
最終的に「黒百合の使者」と名乗って送りつけられた脅迫状と、彼女の筆跡が一致する決定的な証拠が発見され、全ては露見した。
――それが、十数年前に封じられたはずの事件である。
「まさか……再び、黒百合の使者の名を騙る者が現れるとは……」
レオナード皇子は眉を寄せ、拳を膝の上で固く握りしめた。
隣の観覧者が怪訝そうに振り返るのも構わず、彼は視線を舞台袖へと戻す。そこにはなおも控えるガウェインの姿。
(エリーを狙う者がいる――それだけは、決して許さぬ)
皇子の胸奥で、熱く鋭い怒りが静かに燃え上がっていた。
そして張りつめた空気の中、いよいよチェスの対局が始まろうとしていた。
観覧席に緊張が走る。
静かに盤上へ向かい合ったのは――一学年代表、エリス・フォン・ローゼンタール。
そして対するは二学年代表、エレノア・フォン・ヴァレンシュタイン。
ふと、淡く甘やかな香りが空気に溶け込むように漂ってきた。
(この匂い……どこかで嗅いだことがある)
駒を並べ終えた二人は、礼を交わし、静かに対局が始まった。
最初に動かしたのはエリス。白のポーンが一歩進み、盤上の空気を切り裂く。
エレノアは余裕の笑みを浮かべ、黒のナイトを跳ねさせる。序盤は互いに手堅く、観客の間にも「実力は拮抗している」との囁きが漏れた。
だが中盤――。
エリスの瞳が鋭く光る。
「ここですわ」
彼女の手によって白のビショップが斜めに滑り、エレノアのクイーンを脅かす。
観衆がどよめいた。
「クイーンが狙われた!」
エレノアは冷静に回避し、すぐに反撃の手を繰り出す。しかし、その一手先を見越していたエリスは、ルークを巧みに操作し、黒の守りを切り裂いていく。
「まさか……」
エレノアの額にかすかな汗が滲む。
盤上に広がるのは、美しくも鋭い罠。
クイーンとビショップの連携により、黒のキングの退路は徐々に狭められていった。
最後の数手。
エリスは静かに駒を進め、白のクイーンを王の前に置いた。
「チェックメイト」
盤上を見下ろすエリスの声は澄み渡り、観衆は一斉に沸き立つ。
エレノアは数瞬、盤を見つめ沈黙したのち、唇に微笑を浮かべて小さく頷いた。
「……見事ですわ、ローゼンタール様」
礼を交わし、勝負は決した。
勝者――エリス・フォン・ローゼンタール。
続いて迎えた三学年代表、ヴァネッサ・フォン・ベルモンテとの対局。
経験と自信に裏打ちされた彼女の鋭い手を相手にしながらも、エレノアは一歩も退かず、静かに盤上を制していった。
そして最後の一手が置かれた瞬間、勝利を収めたのはエレノアであった。
こうして、熱気に包まれた白百合の君選考会の初日が終わりを迎えた。




