聖女エレノア
この惨状……黒百合の使者の仕業に違いない。
だがどうする? 替えのドレスなど用意していないし、屋敷へ戻る時間も残されていない。
「まあまあ、エレノアさん。そのドレス、いったいどうされたの? あまりにも無残で――ふふっ」
嘲りを含んだ声音に、胸の奥がざわつく。
振り返れば、そこに立っていたのはリリスだった。
「……なぜ、あなたがここに?」
「ふふ、そんな顔なさらないで。私が来ては困る理由でも?」
「あなたが来ると、ろくなことが起きないからよ」
エレノアは唇をかすかに噛み、深呼吸をひとつ。
せめて動揺を悟られてはならない。
「エレノア様から離れろ!」
ガウェインが鋭く叫び、二人の間に割って入る。
「まあ……おそろしいこと」
するとガウェインの声を聞きつけたのか、生徒たちが次々と集まってくる。
「何だ、何だ?」
「見て、あのドレス……」
ざわめきの中、リリスがわざとらしく声を張り上げた。
「まあ、なんてひどい! エレノアさんのドレスが、誰かにめちゃくちゃにされているじゃない。エレノアさんのことをよく思っていない方がいるのかしらぁ」
その言葉に釣られるように、周囲の女子生徒たちがひそひそと囁き合う。
「これでは白百合の君選考会に出場できませんわね……」
「演劇部の友人から聞いたことがありますけれど、衣装を作るのはとても時間がかかるそうですわ」
――演劇部? 衣装? そうだわ、それなら……!
「そこのあなた。演劇部にお友達がいるとおっしゃいましたね。案内していただけますか?」
「えっ、わ、私ですか?」
指名された女子生徒が目を丸くする。
「時間がありませんの。急いで!」
「……わ、分かりました!」
「エレノア様、いったい何を……」
「ガウェイン様。お願いがございます。どうか私の出番を最後にしていただけるよう、掛け合ってくださいませんか?」
「……何かお考えがあるのですね。かしこまりました」
深く一礼すると、ガウェインは迷いなく会場へと向かっていった。
「さて――行きますわよ」
小さく息を整え、エレノアはくるりと振り向く。
「……そうでしたわね。リリスさん」
その微笑みはどこまでも優雅で、挑むように澄んでいた。
「な、何よ……」
近くまで歩み寄ったエレノアは、微笑一つ浮かべぬまま口を開いた。
「ドレスは……誰かの幼稚な悪戯でしょうか。けれど、大声でギャンギャン吠えてくださる犬が一匹いて助かりましたわ。おかげで、事態もどうにかなりそうですもの」
「……!」
「では急ぎますので――ごきげんよう」
にこやかな笑みを浮かべたエレノアは、女子生徒に導かれてその場を後にした。
残されたリリスの唇から、低く呟きが漏れる。
「覚えていなさい……エレノア・フォン・ヴァレンシュタイン。その澄ました顔も、今のうちだけよ」
その視線は、去っていく背中を鋭く射抜いていた。
「エレノア様……」
ガウェインは一足先に会場へ赴き、進行役へ事情を説明していた。皇子の名を出せば話は円滑に進んだが、果たして彼女の方はどうだろうか。胸の奥に不安が渦巻く。それでも今は、ただ祈るほかないのだった。
その瞬間、舞台の照明がふっと落ち、会場がざわめきに包まれる。
「何事だ……黒百合の使者か!?」
一瞬の不安が胸をよぎったが、次の刹那、再び光が差し込んだ。
そこに立っていたのは――。
「聖女様!」
「聖女様だわ……なんて素敵なの」
頭にはフェロニエールを添えたレースのヴェール。金糸の刺繍が施された白い聖服は光を受けて淡く輝き、ひらひらと揺れる羽衣がその姿をいっそう神秘的に彩る。三つ編みに整えられた髪と艶やかな化粧が、凛とした美しさを際立たせていた。
「二学年代表――エレノア・フォン・ヴァレンシュタインさんです!」
間に合った。
エレノアは演劇部の生徒に頼み込み、劇で使った衣装を選び直してもらったのだ。多少合わない部分は布で巧みにごまかしたが、それでも十分だった。
思い出したのは、新歓公演で演じられた聖女の役。――あれならば印象に残る、と。
そしてその予想は見事に的中した。この会場の反応を見れば、一目瞭然である。




