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黒、白、赤

盤上に駒が並ぶ音が、応接室に規則正しく響いた。

白の駒を操るエレノアの指先はわずかに震えていたが、その瞳は澄みきっている。


「では……ここに」

彼女は慎重にビショップを動かす。


対するロウは、まるで手の内をすべて読んでいるかのように黒の駒を進めていく。

彼の指先は一切の迷いを見せず、盤上の流れが彼の思考に従って形を変えていくようだった。


「……まるで、導かれているようだ」

ガウェインは低く呟いた。


駒が進むたびに、空気が微かに震える。幻か、それとも術の影響か。だがエレノアは顔を上げ、毅然と声を放った。


「負けませんわ、ロウ先輩」


ロウは目を細めた。

「いい心意気だ。だが、君はもう追い詰められている」


黒のナイトが、するりと盤上を跳ねる。

白のキングは、逃げ場をひとつずつ塞がれていく。


「チェックだ」


緊張が走る。

だがエレノアは怯まなかった。

「……まだです」


彼女は白のクイーンを静かに前に出した。

その動きは、まるですべての弱さを振り払うように堂々としていた。


「――チェックメイト」


ロウの指先が止まった。

盤上を見下ろし、確かに逃げ道が消えていることを悟る。


「……ほう」


わずかな沈黙のあと、彼は静かに笑みを浮かべた。

「参ったね。君は思った以上に……強い」


「え……?」

エレノアの目が大きく見開かれる。


「最後の一手、見事だった。僕の王は、もう動けない」

ロウは黒のキングを指先で倒し、素直に敗北を認めた。


「やった……わたくし、勝てたのですか」

頬を紅潮させるエレノア。その喜びは無垢で、まるで少女らしかった。


だがガウェインは笑わなかった。

(……わざとか? 本当に全力で戦ったのか?)


ロウはその視線に気づいたように、軽やかに立ち上がった。

「騎士殿、心配しなくてもいい。僕は約束通り、彼女に『勝つ術』を教えただけだ」


「……盤上のことだけとは限らぬように聞こえましたが」

ガウェインの声音は鋭い。


ロウはただ、微笑んで肩を竦めた。

「答えはいつだって、エリー自身が選ぶことさ」


その言葉に、エレノアは小さく胸に手を当てる。

勝利の喜びと同時に、今までにない緊張が心に宿っていた。


応接室を満たす陽光は変わらず穏やかだったが――。

盤上で下された決着は、三人の関係に新たな影を落とし始めていた。


エレノアは胸の奥に残る熱を持て余すように、そっと視線を伏せた。

勝てた――その事実は確かに嬉しい。けれどロウの言葉が、なぜか心をざわめかせる。


「……エレノア様」

沈黙を破ったのは、ガウェインだった。

彼の声はいつになく低く、緊張を孕んでいた。


「この男の言葉に、あまり耳を傾けてはなりません。甘い響きに隠されているものは……必ずしも、貴女のためになるとは限らない」


「おや、手厳しいな」

ロウは微笑みを崩さぬまま、長椅子に軽やかに腰を下ろす。

「騎士殿はまるで、僕が彼女を惑わせる魔物であるかのように言う。……まあ、間違いでもないかもしれないが」


「ロウ先輩……?」

エレノアが問い返そうとした瞬間、彼は片手を差し伸べた。

手のひらには、まだ温もりを残す白のクイーンが載せられている。


「この駒は君のものだ。最後に動かし、勝利を導いた証だよ」


指先が触れる。小さな震えがエレノアの胸を走った。

だがそれを見届けていたガウェインの瞳は、さらに鋭さを増す。


「……ロウ殿。軽々しく触れるな」

「軽々しく? とんでもない」

ロウの微笑はあくまで柔らかい。

「僕にとって、彼女の選んだ一手は――敬意を払うに値するものだった」


エレノアは言葉を失い、ふたりの間で揺れ動く。

忠義に満ちたガウェインの真剣さと、ロウの不思議な優しさ。

どちらも否応なく心に響いてしまう。


窓辺のカーテンが、柔らかな風に揺れた。

陽光は応接室を照らし続けている。

けれどその穏やかさの下で、三人の心には確かに影が差し始めていた。


――盤上の決着は終わった。

だが本当の試合は、まだ幕を開けたばかりだった。


そして――ついに迎えた白百合の君選考会当日。

「……な、なんてこと……!」


目に飛び込んできた光景に、エレノアは思わず息を呑んだ。

あれほど大切に、誰の手も触れぬよう厳重に保管しておいたドレスが、無惨に引き裂かれていたのだ。

布地は鋭利な刃で切り裂かれたようにぼろぼろに裂け、繊細な刺繍の糸さえ無情に断ち切られている。さらに追い打ちをかけるように、鮮やかな赤い塗料が白布一面に散らされていた。


その惨状は、ただの悪戯ではなかった。純白の衣がべっとりと血に濡れたように見える光景は、冷たい悪意そのものだった。まるで「舞台に立つな」と告げるかのように。


エレノアの指先が小刻みに震えた。

胸の奥に広がるのは怒りか、恐怖か、それとも屈辱か。頬を伝う熱は涙の予兆であったが、彼女は唇を強く噛みしめてこらえる。


――これは偶然ではない。

――誰かが、意図的に仕掛けた。


「エレノア様……」

背後からガウェインの低い声が響いた。彼の瞳は剣呑な光を帯び、すでに誰がこの暴挙を行ったのかを探し出そうとしているかのようだった。


しかしエレノアはゆっくりと首を振る。

「……泣いている暇など、ありませんわ」


血のように赤く染められた純白のドレス。

それを見つめながら、彼女は胸の奥に決意を燃やした。

試されているのだ。ならば、退くわけにはいかない。


白百合の君を選ぶ舞台は、すでに始まっていた。

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