守護者の葛藤
白百合の君選考会二週間前――。
「エレノア様、皇子よりこちらをお預かりいたしました」
「まあ、ありがとうございます」
ガウェインが恭しく差し出したのは、上質な包装紙に包まれた大きな箱だった。
胸の奥が弾むのを感じながら、彼女はそっとリボンを解く。中には、精緻な刺繍が施された純白のドレス。そして、それに合わせたアクセサリーと靴が丁寧に収められていた。
「……きれい……」
思わず息を呑む。手触りの良い布を指先でなぞり、そっと抱きしめる。
「ありがとうございます、皇子」
感謝を呟いたその視線の先、箱の底にメッセージカードが添えられていた。
『愛しいエリーへ。約束通り、君に相応しいドレスを贈る。これを纏った君が選ばれることを楽しみにしている。頑張って。――レオナード』
その筆跡を見つめ、ふわりと頬が熱を帯びる。
この贈り物は、生徒会長として選考会に直接関われないもどかしさを抱えた皇子の精一杯の想いの証。だが、エレノアはその裏の気持ちに気づくこともなく、ただ純粋に喜びを抱きしめていた。
「……嬉しい」
無邪気に微笑む彼女を見つめ、ガウェインの表情は次第に硬くなる。
「ドレスは、被服準備室の鍵付きの棚に保管いたします。結界術も施しましょう。……念のため、です」
「そ、そうですね。お願いします」
黒百合の使者の影。浮かれている場合ではないと、彼女もまた表情を引き締める。
「ところで、チェスのレッスンはどうなさっていますか? 選考会では一戦目に対局がありますが」
「それなら……ロウ先輩にお願いしておりますの」
「……ロウ? セシル・フォン・ロウ!?」
その名を聞いた途端、ガウェインの眉が跳ね上がった。
――
『いいか、ガウェイン。護衛として、特に気をつけるべき人物がいる』
『はい』
『セシル・フォン・ロウだ。奴を近づけるな』
特待生、セシル・フォン・ロウ。古代語の書物と紅茶を愛する、寡黙で掴みどころのない青年。
『危険人物なのですか?』
『ああ、エリーに近づく不届き者だ!』
……そちらの意味か、とガウェインは内心で苦笑したが、皇子の表情は真剣そのものだった。
『あいつはエリーに会いたいがために教室にまで来る。何を考えているかわからない。――エリーの貞操の危機でもある』
(……自分だって、好きな時に会えるわけじゃないのに)
その思いを胸に押し込み、ガウェインは任務を受けたのだ。
――
「何故、あの男に?」
「以前、お話ししたときにチェスが得意だと伺ったので……休憩時間に、お昼を兼ねて」
だから最近、食堂で姿を見なかったのか――。
「そのくらい、私が教えます」
「え……? でも、ガウェイン様は護衛のお仕事がございますでしょう? そこまでお願いするのは――」
「構いません。それより、あのような男とは二度と会わないでください」
「……ですが、今日もこのあと対局のお約束が」
「いけません」
間髪入れず、強い声音が響いた。
「どうしても……?」
「なりませんと申し上げたはずです」
頑なな態度に、エレノアは眉をひそめる。
「……なぜ、そこまでロウ先輩を避けさせるのですか?」
「――皇子より、直々に命じられております」
「……皇子から?」
エレノアの声はわずかに揺れた。
「はい」
ガウェインは真っ直ぐに答える。その声音に偽りはない。
「ロウ殿は、才ある方ではありましょう。ですが……あまりに得体が知れません。皇子はそれを憂慮されているのです」
「……得体が、知れない?」
エレノアは小さく繰り返し、視線を落とした。
古代語の本を読み、紅茶を愛し、いつもどこか遠くを見ているロウ先輩。確かに、彼の心の奥底は簡単には覗けない。
けれど――。
「わたくしは……危険だとは思いません」
その声は静かで、けれど芯があった。
「エレノア様」
ガウェインは一歩踏み出し、彼女と視線を合わせる。
「護衛として、従っていただかねばなりません。あの男との接触は――」
「それでは、皇子のお考えに逆らうことになりませんか?」
エレノアの瞳が揺るぎなく彼を見返す。
「白百合の君を目指すにあたって、学び、挑戦することを禁じられるのでしたら……わたくしは皇子の思いに応えられなくなってしまいます」
一瞬、ガウェインは言葉を失った。
忠義と任務の間で、胸の奥が軋む。
「……エレノア様のお気持ちは分かりました」
ようやく絞り出すようにそう言ったが、その表情は晴れない。
「ですが、私が傍についております。対局の間も、必ず」
「……ええ。それなら安心ですわ」
エレノアは小さく微笑んだ。
けれどその笑みを受け止めながら、ガウェインの拳は密かに震えていた。
――皇子の命。
――エレノアの願い。
どちらを優先すべきなのか、その答えをまだ見つけられずにいた。
――
と、そのとき。
扉を叩く軽やかな音が響いた。
「失礼いたします。エレノア様、対局のお時間とのことです」
胸の奥に重い影を抱えたまま、ガウェインは剣の柄にそっと手を添えた。
エレノアを守るために。
そして――ロウと対峙するために。
「どうぞ」
エレノアの声に応じて扉が開き、侍従が深く礼をして去っていった。
彼女はそっと立ち上がり、裾を整える。
「では……参りましょう、ガウェイン様」
「はい」
彼は一歩前に出て、自然にエレノアを庇うように扉を押し開けた。
廊下の先に続く光の中を、二人は並んで歩き出す。
やがて辿り着いたのは、学院の中庭に面した静かな応接室だった。
陽光を受けて磨かれた大理石の床。窓辺には一局のために用意されたチェス盤が置かれている。
その傍らに――セシル・フォン・ロウは、既に待っていた。
「やあ、来てくれたんだね」
ロウはいつもの柔らかな微笑を浮かべ、椅子から立ち上がる。
古代語の本を閉じ、優雅に一礼したその姿は、穏やかでありながらどこか近寄りがたい気配を帯びていた。
「お待たせしてしまいましたわ、ロウ先輩」
「いや、君が来てくれたことが何より嬉しい」
エレノアの頬がわずかに赤らむ。
その横で、ガウェインの眉間には深い皺が寄っていた。
「……私は護衛として、同席いたします」
「もちろん」
ロウは軽やかに応じ、逆にガウェインへと視線を投げかけた。
その眼差しは静かで、けれどどこか試すような色を含んでいる。
「安心してくれ。君の役目を奪うつもりはない。ただ、僕は――彼女に少しでも勝つ術を教えたいだけさ」
ガウェインは口を引き結ぶ。
皇子の命が耳に重く響く。
(近づけるな――と仰せだったのに)
「では、始めましょうか」
エレノアは椅子に腰を下ろし、白の駒を手に取った。
ロウは対面に座り、黒の駒を軽やかに指先で弾く。
盤上に並ぶ駒が、これから織りなす未来の縮図のように見える。
その戦いを見守りながら、ガウェインは無意識に剣の柄へと指を添えた。
――もし、この対局がただの遊戯で終わらなかったとしたら。
――もし、ロウが皇子の危惧した通り、彼女を奪う者だったとしたら。
騎士の心臓は、今まさに試されようとしていた。
黒の駒が、ひとりでに動いたように見えた瞬間――。
空気が微かに震え、応接室の灯りが揺らめいた。
「……っ」
ガウェインの手は剣の柄を強く握りしめていた。
錯覚か、それとも禁じられた術か。いずれにせよ、彼の騎士としての直感が危険を告げていた。
「どうしました、ガウェイン様?」
エレノアが不思議そうに振り向く。だがその表情に影を落とさぬよう、彼は咄嗟に言葉を飲み込むしかなかった。
「気にしなくていい」
代わりに答えたのはロウだった。
その声音は穏やかだが、確かに薄い刃のような冷ややかさを孕んでいる。
「盤上の駒は、持ち主の意志に応じるものだ。心が揺らげば、駒もまた……わずかに動きを変える」
「そんな……」
エレノアの瞳が揺れる。彼女は、ただの比喩と受け取るべきか迷っていた。
ロウは、そんな彼女の迷いを見透かしたように微笑み、指先で黒の騎士〈ナイト〉を掬い上げた。
「見てごらん。駒ひとつを正しく扱えなければ、女王〈クイーン〉は簡単に孤立する」
彼の声が、妙に低く響く。
その瞬間、ガウェインは悟った。これはただの指南ではない――挑発だ。
(……皇子のお言葉は正しかった。やはり、この男は――)
「ロウ先輩」
エレノアの声が震える。
「あなたは……私に、勝つ術を教えると言いましたね。それは、盤上だけのことなのでしょうか」
ロウの微笑が、ほんの僅かに深まった。
「さあ……それを決めるのは、君自身だよ」
駒が置かれる音が、まるで運命の鐘のように重く響いた。
応接室の空気は張り詰め、次の一手が盤上の勝敗だけでなく、三人の未来すら左右するかのように感じられた――。




