思い出は苦く痛い
「力を抜いて、ゆっくり」
「はい」
「そのまま……いいぞ、上手いな」
「ぁ……」
「大丈夫だ、焦らないで。リズム良く」
「はいっ」
「ああ、心地いいな。よし、ここからは少しずつ激しく」
「ヴァイル様、私……」
「何だ。もうお手上げか?」
「はあっ……」
「情けないな」
「もう、ダメっ」
「俺をまだ満足させてないぞ」
「……休憩にしませんか? もう二時間も弾きっぱなしですよ、ヴァイオリン」
放課後の音楽室に、張り詰めていた緊張がほどける。
ヴァイルとエレノアは、白百合の君選考で披露するためのヴァイオリン練習を続けていたのだ。
「分かった。少し休憩しよう」
そう応じるヴァイルの声に、エレノアは胸を撫で下ろす。
――事の始まりは、数日前に遡る。
「俺にヴァイオリンの先生をしてほしいって?」
「そうなのです。白百合の君選考では、服装だけでなく芸事の披露も求められます。エリスさんは得意なピアノ、ヴァネッサさんは踊りを披露される予定です。わたくしもピアノは弾けますが、少し変化をつけたいと思いまして……。そこで、次に得意なヴァイオリンを選びましたの。でも、自信がなくて……。だから音楽に詳しいユーリさんに先生をお願いしたいのですわ!」
幼い頃から皇子の婚約者候補として多くの習い事を課せられてきた。その一つがヴァイオリンだった。皇子の心を惹きたい――ライバルたちに負けたくない。その一心でエレノアは必死だった。
「エリーがそこまで言うなら、いいぜ。任せてくれ!」
頼られて悪い気のしないユーリは、二つ返事で引き受けてくれた。
しかし、練習が始まってみると――。
「そこはギューンじゃなくて、ギュンッだよ」
「ギュン……?」
「違う違う! ズバーンと勢い良く!」
「ズバーン……?」
例えが独特すぎて理解できない。困っていると、近くで聞いていたヴァイルが口を挟んだ。
「エリー。天才肌は言葉じゃ説明できない。肌で感じ取る特殊な人間だ。エリーも特別な方だが、ここは俺に任せろ。家庭教師の経験もある。分かりやすく教えてやろう」
「お願いします!」
こうしてヴァイルが指導役に加わったのだが――その教え方はとにかくスパルタだった。
一方いつも護衛を務めるガウェインは、例のポスター事件の件でエリオットと共にレオナード皇子に呼び出されていた。「これは男たちの問題だ、黙れ」――そう言われ、エレノアも口を挟むことを許されなかった。責任を感じつつも、後でクッキーを焼いて持っていこうと心に決める。ヴァイルにも、もちろんお礼として渡すつもりだ。
そう考えていたとき――ふと、嫌な記憶が甦った。
……あれは、転生前のこと。バレンタインデーが近づいたある日だった。
「今年も手作りにしようかな」
仕事の休憩時間、お菓子のレシピ本を捲りながら口にする。
「由里子の手作りお菓子、美味しいもんね。友チョコ期待してまーす」
「私も私も!」
同期たちと楽しく盛り上がっていた、その時――。
「え〜? 手作りなんて面倒じゃない。安っぽいし、売り物の方が高級感あって綺麗じゃん。本命なら分かるけど、義理チョコにまで手間かけるなんて考えられな〜い」
智美が、鼻で笑うように言った。
「別に智美には関係ないでしょう?」
「こわ〜い」
そこへ、休憩から戻ってきた部長が顔を出す。話の内容を理解していない様子で首をかしげながら――。
「おや、何の話だ? 楽しそうだな」
「部長〜、前田さんたちが私を仲間外れにするんですぅ」
また、男に媚びる作戦か。
「ほら、仲良くしないと。安藤さんがかわいそうじゃないか」
「……」
言い返したい気持ちはあったが、また悪者にされても面倒だ。エレノア――いや、由里子は黙り込み、気持ちを切り替えることにした。
迎えたバレンタインデー当日。
「はい、どうぞっ」
「ありがとう。手作り? すごいね、手が込んでる」
「そんなことありませんよぉ〜。簡単でしたぁ」
え?
智美が配っているチョコ――それは、由里子が作ったものだった。机の上に置いておいた紙袋が消え、代わりに智美の机に置かれていたのだ。しかも、同期のために作ったチョコは無残にもゴミ箱へ……。
思わず智美の肩を掴んだ。
「ちょっと、そのチョコ!」
「なぁに? 由里子も欲しいの?」
「違う! ……それは」
声を荒げても無駄だと分かっていた。男性社員たちは皆、あれが智美の手作りだと信じきっている。下手に騒げば、また私だけが悪者にされてしまうだろう。――黙るしかなかった。
そんな私を見透かすように、智美が耳元で囁く。
『どうしても欲しいなら……ゴミ箱でも漁ったら?』
「っ……!」
――甘いはずの記憶は、苦くて苦くて、今も胸に突き刺さったままだった。




