広がる波紋
放課後。
レオナードは迷いなく中庭のテラス席へと向かった。
その足取りには、決意と怒りが滲んでいる。
目当てはただ一人――
「先輩……いや、セシル・フォン・ロウ」
読んでいた古書からゆっくりと視線を上げたロウは、穏やかな微笑みを浮かべて応じた。
「やあ、レオナード。そんな怖い顔をして、何かあったのかな?」
レオナードの瞳は氷のように冷たく、鋭くロウを射抜いていた。
その表情には、これまで誰にも見せたことのない、底知れぬ怒りが宿っている。
「なぜ……エリーに近づく?」
ロウは少しだけ眉を上げ、そしてさらに微笑を深めた。
「なんだ、そんなことか」
「“なんだ”じゃない!エリーは俺の婚約者だ!」
声を荒げるレオナードに、ロウはふっと愉快そうに笑う。
「……ヤキモチかな?」
「違う!これは嫉妬なんかじゃない。俺はこの国の第一皇子だ。その婚約者に、必要以上に馴れ馴れしくするのは控えるべきだ。それに……クラスまで訪ねたって聞いた」
「それは誤解だよ。わざわざ、なんてしていない。たまたま通りかかっただけさ。そしたら──ああ、たしか“リリス君”だったかな。彼女がエリーに、身に覚えのない疑いをかけていたんだ」
「疑い……?」
「僕とエリーが、恋人関係にあるって」
「……なっ!」
「でも、彼女は見事だったよ。堂々とその場を収めていた。さすがは未来の王妃だ。大したものだね」
「そっ、それは当然だ。俺の婚約者なのだからな」
誇らしげに言いながらも、どこか照れを隠しきれないレオナード。
するとロウが、意味ありげにニヤリと笑った。
「――あの様子だと、他の男たちも黙っていないかもしれないね」
「なっ……どういう意味だ!」
焦りを隠しきれないレオナードの声に対し、ロウは軽やかに言葉を続ける。
「ガウェインにヴァイル、そしてユーリ……彼らもエリーに興味を持っているのかもしれない。名前の呼び方ひとつで、あんなに揉めていたくらいだからね」
ロウの口から次々と挙がる名前に、レオナードの眉がぴくりと動いた。
「……あいつらが、エリーに?」
「確証はないよ。でも、彼女のことを“エリー”と呼ぶことに、やけにこだわっていた。君と同じようにね」
ロウは紅茶のカップを手に取り、涼しげな仕草で一口啜る。
その瞳は静かに揺れながらも、どこか楽しげな色を宿していた。
「気づいてるかい?あの子は、誰に対しても公平で、屈託がない。だからこそ……誰かを特別扱いする時、その影響は大きい」
「……どういう意味だ?」
「君は“婚約者”として、当然のように隣に立っている。けれど、周囲の目にはどう映っているか……それは別問題さ」
ロウの言葉は、静かに、けれど確実にレオナードの胸に突き刺さる。
“婚約者”という立場に甘えていたつもりはない。
だが、その存在が、無防備なエリーを標的にしてしまうこともあると……気づいていたはずだった。
「……あいつらには、俺がエリーを選んだ理由なんて、分かるまい」
「なら、伝えてあげればいい。言葉じゃなく、行動でね」
ロウは微笑みを深めると、静かに古書を再び手に取った。
「君が彼女を本当に大切に思っているなら、迷うことはないはずだ。誰が近づこうと、彼女の隣に立ち続ければいい」
その言葉に、レオナードはしばし沈黙した。
やがて、ひとつ深く息を吐き、拳を固く握りしめる。
「……ああ。もう、迷わない」
きっぱりとそう言い残すと、レオナードは背を向け、歩き出した。
その姿を、ロウは静かに見送る。
そして――
「……さて。次は、どう動くか、だね」
小さく呟かれたその声は、風に紛れて、誰の耳にも届くことはなかった。
中庭に再び静寂が戻る。
セシル・フォン・ロウは古書のページをめくりながら、ふと顔を上げた。
遠ざかっていくレオナードの背を、もう一度目で追う。
その瞳に浮かんでいたのは、憂いとも、興味ともつかない曖昧な色だった。
「……まったく、ややこしい時代だ」
誰に語りかけるでもなく、独り言のように呟く。
だが、その声音には僅かに熱があった。
ロウは本を閉じると、そっと立ち上がる。紅茶はまだ少し残っていたが、彼の興味はすでに別の方向へ向いていた。
「エレノア・フォン・ヴァレンシュタイン。君は、どこまで無自覚でいられるのか……」
自らの口からエレノアの本名が漏れた瞬間、その柔らかな響きが風に溶けていく。
その足は、中庭を離れ、校舎の奥へと向かっていた。
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一方、図書室では。
エレノアは棚の奥で、積み上げられた本を抱えていた。魔法薬理学の資料に、古代植物の図鑑。ロウの助言を思い出しながら、次の実験の構想を練っていた。
婚約を破棄され、追放されたあとも職に困らぬよう、さまざまな道を模索していたのだ。
「……先輩、次に見せる時は、もっと驚かせたいな」
ふとした拍子に、そう呟いたエレノアは、自分で言った言葉に赤面し、頭を振ってかき消す。
「な、なに言ってるのよ、私……!」
そこへ、扉の開く音がした。
顔を上げると、現れたのは――
「おや、こんなところにいたのか。エリー」
その声にエレノアは固まった。
「……ヴァイル、様?」
そう。そこにいたのは、氷のようにクールな瞳を持つ、Bクラスの筆頭――ヴァイル・フォン・グレイアスだった。
「君が最近作ったという魔力回復の薬、見せてもらえるかな。興味があってね」
「え……あ、は、はい……」
驚きながらも資料の一冊を手渡すと、ヴァイルはその場に腰を下ろし、まるで当然のようにエレノアの隣に座った。なんだろう。距離が近いような気がする。
「……こうして近くで見ると、本当に不思議だ。君の魔力は、他と質が違う」
「え?」
「いや、気にしないでくれ。個人的な観察だ」
その言葉は何気ないものに聞こえたが、エレノアの胸には不思議なざわめきが走った。
――知らぬ間に、彼女を中心とした波紋が広がり始めていた。
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そしてその夜。
ロウの部屋では、蝋燭の揺れる灯りのもと、彼が一枚の古い書簡を見つめていた。
そこに記された文字――
《賢者の塔に遺された“魂結びの紋章”》
指でなぞるその符号に、ロウの表情がわずかに陰る。
「……これは、エレノアの運命に関わる」
そう呟いた彼の眼差しには、かすかに迷いが浮かんでいた。
だが、その指先はすでに、次のページをめくっていた。
ロウが見据える未来――それは、レオナードもまだ知らぬ、より深い陰影を孕んでいた。
皆さま、お久しぶりです。芝佐倉です。
体調不良のため、しばらくお休みをいただいておりました。
更新をお待ちくださっていた皆さまには、ご心配とご迷惑をおかけし、申し訳ございません。
少しずつではありますが、また執筆を再開してまいりますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。




