第1話 最悪の王子に、世界一かわいい求婚者
第1話 最悪の王子に、世界一かわいい求婚者
王都ルクシアに春の祝祭を告げる鐘が鳴り、白い石畳の大通りを第二王子アレンの馬車が進んでいた。沿道の花壇には黄色い水仙と薄紫のパンジーが植えられ、窓辺からは刺繡を施した旗が垂れている。焼きたてのパン、砂糖をまぶした木の実、炙った腸詰めの匂いが風に交じっていたが、馬車の中にいるアレンは、銀糸の手袋についた小さなほつればかり気にしていた。
「この礼服を仕立てた職人は誰だ。袖口の金糸が一本、曲がっているぞ」
アレンが腕を突き出すと、向かいに座る近衛騎士ヴィンスは目を細めて袖口を確認した。礼服は濃紺の絹で仕立てられ、胸元には真珠と青玉が隙間なく縫いつけられている。その一着だけで職人一家が十年は暮らせると知っているヴィンスは、腰の革袋から胃薬を一粒取り出し、水も使わずに飲み込んだ。
「私には曲がっているように見えません。沿道の民へ手を振ってください。皆、朝から殿下を待っています」
「俺を見るためなら、待つのは当然だろう。それより、あの女の帽子を見ろ。干した茸でも載せているのか」
「聞こえますので、おやめください。あれは今年流行の麦わら帽子です」
アレンは鼻で笑い、座席の背へ深くもたれた。赤い羽根飾りのついた帽子が少し傾き、髪に塗った柑橘の香油が馬車の中へ濃く漂う。朝食に出された蜂蜜入りの焼き菓子を三つ食べたせいで胸焼けがしていたが、それを料理人の腕が悪いせいだと考え、帰ったら厨房長を叱ろうと決めた。
馬車が市場前へ差しかかると、前夜の雨が残した大きな水たまりへ車輪が入った。茶色い泥水が扇のように跳ね、道端でパンを並べていた商人バルトと、その息子リオを頭から濡らした。生成りのシャツへ黒い染みが広がり、台の上に積まれていた丸パンも籠ごと地面へ転がった。
「父ちゃん、パンが!」
十歳ほどのリオは慌ててしゃがみ込み、泥の中からパンを拾い上げた。まだ温かかったはずのパンには小石がめり込み、香ばしい匂いに馬の汗と泥の臭いが重なっている。バルトは息子の震える指を見てから、止まろうとしない馬車へ顔を上げた。
「お待ちください、王子殿下! 税金で作った馬車に、道まで譲らなければならないのですか!」
沿道が静まり返り、祝祭の笛だけが間の抜けた調子で鳴り続けた。アレンは聞き間違いかと思って窓から顔を出したが、泥だらけの商人がこちらをにらんでいる。民に批判された経験のないアレンは頬を熱くし、手袋をはめた拳で窓枠を叩いた。
「馬車を止めろ。今の男を捕らえろ!」
衛兵がバルトの両腕をつかむと、リオが父親の腰へしがみついた。地面には売り物にならないパンが散らばり、野良犬が一個をくわえて走り去っていく。ヴィンスはもう一粒胃薬を飲みたくなったが、先に馬車を降り、アレンと衛兵の間へ割って入った。
「祝祭の日に商人を投獄すれば、広場が騒ぎになります。殿下の名誉を守るためにも、ここはお収めください」
「俺へ逆らったのだぞ。王族への侮辱だ」
「子どもの前で父親を連行すれば、明日には王都じゅうで噂になります。陛下のお耳にも入るでしょう」
父王の名を出され、アレンは舌打ちした。牢へ入れる代わりに銀貨五枚の罰金を命じ、馬車へ戻る。バルトがそれは今日の仕入れ代だと訴えても、アレンは窓の絹幕を閉めた。
「五枚で済ませてやったのだ。感謝されてもいいくらいだろう」
「泥水を浴びせ、商品を駄目にした相手へ罰金まで科したのです。感謝する者はいません」
「おまえは誰の近衛だ、ヴィンス」
アレンがにらむと、ヴィンスは腰を折って頭を下げた。けれど、その手は剣ではなく胃の辺りを押さえている。馬車が再び動き出すと、車輪の後ろには、泥のついたパンを一つずつ拾う親子だけが残された。
夜になっても、アレンの機嫌は直らなかった。寝室には昼間着ていた礼服が椅子へ脱ぎ捨てられ、片方だけの靴下が絨毯の上に落ちている。窓辺の花瓶には庭師が摘んだ白い木香薔薇が飾られていたが、アレンは一度も目を向けず、銀盆に載せられたワインを口へ運んだ。
「冷たい。こんなものを飲ませるつもりか!」
杯が床へ投げつけられ、赤いワインが淡い色の絨毯を汚した。銀の杯は壊れなかったものの、隣に置かれていた硝子の水差しへ当たり、細かな破片が散る。侍女のマルタが急いで膝をつき、破片を拾おうとして人差し指を切った。
「申し訳ございません。すぐに温め直してまいります」
「絨毯も替えろ。染みが残ったら、おまえの給金から引いておけ」
マルタは白い前掛けで指を包み、返事をしてから床を片づけ始めた。小さな赤い染みが布へにじんでも、アレンは呼び止めない。昼間の商人も、この侍女も、なぜ自分を不快にさせるのかと考えながら、寝台の上に置かれていた砂糖菓子を一つ口へ放り込んだ。
マルタが部屋を出て間もなく、閉じていた窓がかたかたと鳴った。春の夜気とともに木香薔薇の甘い匂いが流れ込み、若葉色の光が窓の隙間をくぐり抜ける。光は天井を一周したあと、アレンの枕へ勢いよく着地した。
そこに立っていたのは、手のひらほどの少女だった。若草色の服は花びらを重ねたような形をしており、腰まで届く蜂蜜色の髪には小さなどんぐりの帽子を載せている。背中の透き通った羽が忙しく動くたび、金色の粉が枕へ落ちた。
「運命の殿下、お迎えに上がりました! 私をお嫁さんにしてください!」
「……誰か! 寝室に虫が入ったぞ!」
アレンが枕をつかんで振り上げると、少女は「きゃあ」と楽しそうな声を出して飛び立った。天蓋の縁へ腰掛け、どんぐりの帽子を両手で直している。虫と呼ばれて怒る様子もなく、むしろ王子が元気そうで安心したという顔をしていた。
「虫ではありません。私はティカです。立派な森の精霊です!」
「立派な精霊が、なぜどんぐりをかぶっている」
「かわいいからです!」
あまりに迷いのない返事をされ、アレンは次の罵声を忘れた。ティカは再び枕へ降りると、乱れた掛け布を小さな手で伸ばし始める。ほんの指一本分しか直せていないが、本人は立派に寝床を整えたつもりらしい。
「ずっと殿下を捜していました。あの日、お水をくださったご恩をお返しに来たのです」
「水などやった覚えはない」
「十年前、北の森で小さな木へお水をかけてくださいました。枯れかけていた木は元気になり、私も消えずに済みました」
アレンはしばらく考え、幼いころの狩猟訓練を思い出した。雨上がりの森で靴を泥だらけにし、従者が持っていた水筒を奪って洗ったことがある。その水が、たまたま足元の若木へ流れただけだった。
「俺は木を助けたのではない。靴の泥を落としただけだ」
「恥ずかしくて、やさしくしたことを隠しているのですね」
「違う。俺は靴を洗ったと言っている」
「はい。殿下は靴も木もきれいにできる、世界一やさしい王子様です!」
話が通じない。アレンはティカを片手でつかみ、開いた窓から放り出そうとした。しかし指の間でティカは抵抗せず、くすぐったそうに笑っている。
「殿下の手、温かいですね」
「俺を恐れないのか」
「どうしてですか? 私は殿下のお嫁さんです」
アレンの指から力が抜けた瞬間、ティカは両手を伸ばし、彼の額へ触れた。若葉と湿った土の匂いが一気に広がり、寝室の壁も寝台も闇の中へ消える。代わりに響いてきたのは、鐘ではなく、大勢の人間が怒鳴る声だった。
城門は炎に包まれ、王家の紋章が刻まれた旗が泥の中で踏みつけられていた。空には黒い煙が立ち上り、春だというのに雪のような灰が降っている。鎖につながれたアレンは破れた灰色の服を着せられ、裸足のまま石段を上らされていた。
「離せ! 俺は王子だぞ! 兄上はどこだ、ヴィンスを呼べ!」
返事をする者はいなかった。兄王子は城から逃れ、家臣たちはアレンから目をそらしている。群衆の先頭には、昼間に罰金を科した商人バルトが立ち、その隣では成長したリオが泥のついたパンを握っていた。
断頭台の刃が朝日を反射した。未来のアレンが膝を折らされ、首を木枠へ押し込まれる。刃をつなぎ止めていた縄が切られたところで、目の前の光景は砕け散った。
アレンは寝台から転げ落ち、冷たい床へ両手をついた。背中まで汗で濡れ、柑橘の香油に混じって、自分の体から酸っぱい匂いがしている。床へこぼれたワインが膝へ染み込んでも、立ち上がることができなかった。
「今のは何だ。俺に幻を見せたのか」
「三年後の春です。殿下は民に捕まり、あそこで死んでしまいます」
「ふざけるな。俺は王子だぞ。俺を処刑できる者など、この国にはいない」
「今はいません。でも、三年後には、殿下を助けてくれる人もいなくなります」
ティカの声から初めて明るさが消えた。小さな羽が力なく下がり、金色の粉も落ちなくなる。アレンは、刃が降りてくる音を忘れようとしたが、窓の外で風に揺れた枝が壁をこするたび、縄の切れる音を思い出した。
「なぜ、おまえが俺を助ける。さっき言っただろう。あの水は偶然だ。俺はおまえが思っているような人間ではない」
「はい。殿下は少し怒りっぽくて、お話を聞くのが苦手で、物を大切にできないところがあります」
「少しだと?」
「でも、私を助けてくださいました。だから今度は、私が殿下を助けます」
ティカは床まで飛んでくると、アレンの親指を両腕で抱き締めた。体は小さくても、頬から伝わる温かさは確かだった。世界一やさしい王子様を死なせないと、彼女は何の疑いもなく言い切った。
アレンはティカを追い出せないまま寝台へ戻った。夜食として用意されていた鶏肉のパイは冷え、表面の脂が白く固まっている。いつもなら料理人を起こして作り直させるところだったが、今夜は銀の蓋を戻しただけだった。
「おまえの未来は、変えられるのか」
「はい。そのために私が来ました!」
「では、最初に何をすればいい」
「よく眠って、朝ごはんを残さず食べましょう!」
アレンは額を押さえ、聞いた相手を間違えたと思った。けれどティカは真剣な顔で、枕の端へ木の実を並べ、明日の献立を考え始めている。外では夜明けを告げる鳥が鳴き、淡い光の中で水仙の花がゆっくり開いていた。
結局、アレンは一睡もできなかった。目を閉じれば断頭台が見え、目を開ければ枕の上で妖精が眠っている。ティカはどんぐりの帽子を抱き枕にして満足そうに寝息を立てており、寝返りを打つたび、羽から金色の粉がアレンの顔へ降りかかった。
「世界一やさしい王子だと? 見る目がなさすぎるだろう」
アレンが小声でつぶやくと、ティカは眠ったまま彼の指を抱え込んだ。振りほどこうとした手は途中で止まり、そのまま朝を迎える。処刑まで、あと三年だった。




