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第六章 ひとまず、今日

カタン、と音がした。


由美は目を開けた。知らない天井があった。


「…………」


しばらく見たあと、小さく息を吐く。


「ああ……」


思い出した。


二つの月。《痕》。《門》。 ミラ。エダン。それから――レイ。


由美は目を閉じ、もう一度開けた。当然、天井は変わらない。


「……夢じゃないか」


期待していたわけではない。たぶん。


身体を起こす。


昨日はいろいろありすぎた。


コンビニへコーヒーを買いに出ただけだった。雨が降っていて、一歩進んだら知らない場所にいた。


剣を向けられ、知らない男について歩き、人目を避けられた。

知らない家に入り、知らない人たちに腕を見られた。


自分は《ワタリ》らしい。なのに《痕》がない。

しかも、《門》から現れるはずなのに、そこからもずいぶん離れた場所にいた。


最後には、なぜかビニール傘で笑った。


「……何だったんだろう、昨日」


自分で言っておいて、本当に分からない。


由美はポケットを探り、スマートフォンを取り出した。


画面はつく。時刻も進んでいる。電波はない。


「……ですよね」


一応確認した自分が悪い。


少し待ってみても、当然何も起きない。アンテナが突然立つわけでも、通知が届くわけでもなかった。


由美は画面を消した。


スマートフォンは動いている。自分もいる。 昨日と同じだ。


分かったことは、それくらいだった。


また、カタン、と音がした。


今度は少し遠い。


誰かがいる。たぶん、ミラだ。


由美は立ち上がり、窓へ近づいた。


外は明るかった。


「……朝だ」


口にしてから、少しおかしくなる。朝なのだから明るい。別に驚くことではない。


でも、この世界にも普通に朝が来ることを、昨日の由美は考えていなかった。


窓の向こうには木々が見えた。昨夜は暗くて、ほとんど何も分からなかった場所だ。

少し離れたところには別の建物もあり、地面には道らしいものが続いている。


風が吹き、枝が揺れる。 どこかで何かの鳴く声がした。


鳥――なのかどうかは分からない。


「……まあ、鳥ってことでいいか」


違ったところで、今の由美には確認する方法がない。


空も青い。木も生えている。家もある。 思っていたより、普通だった。


「いや、普通ではないけど」


月が二つある。 自分は昨日、たぶん世界を一つまたいだ。


十分すぎるほど普通ではない。


それでも、昨夜よりは少しだけ、この場所が近く見えた。


そして。


「…………」


急に、それどころではなくなった。


「トイレ」


朝だった。


昨日、自分が何者なのか分からなくなった人間にも朝は来る。そして朝が来れば、トイレにも行きたい。


由美は部屋の中を見回した。


扉はある。窓もある。家具らしいものもある。

でも、トイレがどこにあるのかは知らない。


そもそも、この世界でトイレを何と呼ぶのかも知らない。


「……ミラ」


昨日覚えた名前を、朝一番で使う理由がこれだった。


由美はスマートフォンをポケットへ戻し、扉を開けた。


「ミラ?」


呼びながら進むと、奥から物音が止まった。


少しして、ミラが顔を出した。


「あ」


いた。


それだけで少しほっとする。


「おはよう」


ミラが何か言った。声の調子からすると、たぶん挨拶だ。


たぶん。


由美も笑った。


問題はここからだった。


「ミラ。トイレ、どこ?」


ミラが由美を見る。


「……だよね」


通じない。分かっていた。


名前なら自分を指せばいい。《痕》なら腕を出せばいい。《門》なら図を指せばよかった。


トイレ。


由美は黙った。


「…………」


これは難しい。


お腹を押さえてみる。


違う。それでは腹痛にしか見えない気がする。


由美はすぐに手を離したが、ミラはもう心配そうな顔をしていた。


「違う違う。痛くない」


手を振る。


余計な情報を追加してしまった。


「えーっと……」


由美は周囲を指し、自分を指す。それからもう一度、周囲を指した。


「お願い、ミラ。察して」


当然、日本語である。


ミラはしばらく由美を見ていたが、やがて廊下の先を指した。


「……そっち?」


ミラが頷く。


「トイレ?」


もう一度、頷いた。


「お願いだから合ってて……」


今だけは、何とかならないと困る。


ミラの後をついていく。


やがて一つの扉の前で、ミラが止まった。 何か言いながら、中を示す。


由美は覗いた。


見慣れたものとは違う。一瞬、判断できなかった。


でも。


たぶん。


これは。


「……あった」


力が抜けた。


「あった……!」


ミラが由美を見る。


「ありがとう。ほんとにありがとう」


由美は両手を合わせた。


意味は通じていないと思う。それでも感謝だけは伝えたかった。


ミラは何となく察したように、少し笑った。


使い方も身振りで教えてもらった。

仕組みは分からない。でも、使えればいい。


水も使える。手も洗える。 それで十分だった。


最低限の身支度を終えて顔を上げると、少しだけ頭がはっきりした。


ふと、昨日会った三人を思い出す。


ミラも、エダンも、レイも、少なくとも不潔には見えなかった。


なら、身体を清潔にする方法もあるのだろう。服だって、何かしら方法があるはずだ。

どうするのかは、まだ知らないけれど。


「……まあ、何とかなるか」


昨日より少しだけ、そう思えた。


ミラのところへ戻ると、いくつかの器が並んでいた。


ミラが一つを由美の前へ寄せる。


「私?」


自分を指すと、ミラが頷いた。


朝ごはんらしい。


由美は座り、器の中を見る。


知らない。見たことがあるような気もする。

でも、何かと聞かれたら分からない。


ミラも向かいに座り、同じものを食べ始めた。


由美も一口食べる。


「…………」


少し待つ。


当然、何も起きない。


「うん」


食べられる。


もう一口。


普通に、おいしい。


「よかった」


何に対しての言葉なのか、自分でも分からなかった。


トイレに行ける。水が使える。眠れる。食べられる。


ここでも、人が暮らしている。


だったら、自分もとりあえず人間として暮らすくらいはできそうだった。


食べ終わると、由美は自分の器を持った。


ミラの器を見る。


「これも?」


指す。


ミラが何か言った。


分からない。


由美は自分の器を持ち上げ、もう一度ミラの器を指した。


ミラは少し見てから、それを渡した。


「はい」


通じた。


二つ持って立ち上がる。


そして止まった。


「……どこ?」


片づける気はある。片づける場所を知らない。


由美が器を持ったまま首を傾げると、ミラが立ち上がって場所を指した。


「あっち?」


頷く。


由美は教えられた場所へ運んだ。


ミラが一つやって見せる。由美が真似をする。 違えば、ミラが手を出す。


「あ、そっちね」


直す。


今度はミラが頷いた。


「よし」


言葉は一つも通じていない。


でも、できた。


由美は片づいた器を見る。


大したことはしていない。朝ごはんの器を片づけただけだ。


それでも。


「……できること、あるじゃん」


ミラが由美を見る。


由美は笑った。


「何でもない」


まだ、この世界のことは何も分からない。


帰れるのかも分からない。自分がなぜここにいるのかも、《痕》がない理由も分からない。


分からないことは、山ほどある。


それでも、朝起きて、トイレに行って、顔を洗って、ごはんを食べて、少しだけ片づけをした。


昨日は、何をするにも誰かについていくしかなかった。


今日は一つ、自分でできた。


此方でも、とりあえず今日を始めるくらいはできそうだった。


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