第五章 ひとつ知っている
エダンたちの話は、しばらく続いた。
由美には相変わらず内容が分からない。けれど、少なくとも今すぐどこかへ連れていかれるような雰囲気ではなさそうだった。
それだけ分かれば、今は十分だった。
テーブルの上には、エダンが描いた図がまだ残っている。 《門》。
そこから離れた、自分が現れた場所。
見れば見るほど何も解決しないので、由美は考えるのをやめた。
今日はもう、十分すぎるほど知らないことが増えた。
やがてレイが立ち上がった。 エダンに何かを告げ、ミラにも短く声をかける。
由美はその様子を見ていた。
「……帰るの?」
意味は分からないはずなのに、レイがこちらを見る。
どうやら本当に帰るらしい。
考えてみれば当然だった。ここはレイの家ではないらしいし、由美をここへ連れてきた目的も果たしたのだろう。
それなのに、少しだけ落ち着かない。
この世界で最初に会ったのがレイだった。 剣を向けられたけれど。
人目を避けて連れ回されたけれど。
何を言っているのか、今もほとんど分からないけれど。
それでも、知っている顔が一人減る。 ただ、それだけだ。
レイが扉へ向かう。 その途中で足を止めた。
視線の先には、壁際に置かれた透明なビニール傘があった。
由美も見る。
「……また?」
レイは傘を見る。 由美を見る。 また傘を見る。
「そんなに気になる?」
最初に会ったときから、レイはこの傘を何度も見ている。
由美にとっては、コンビニへ行くために持って出ただけの、どこにでもあるビニール傘だ。
この世界では、どうやらそうでもないらしい。
由美は立ち上がり、傘を取った。 レイの前まで行く。
「見る?」
差し出してみる。 レイはすぐには受け取らなかった。
「武器じゃないって」
それはスマホのときにも言った気がする。
由美は傘の柄を持ち、もう片方の手でレイを促した。
ようやくレイが受け取る。
透明な部分を見る。 柄を見る。 先端を見る。 ずいぶん真剣だ。
「ただの傘なんだけどな」
レイが由美を見る。 由美は両手を上げた。 雨が降る仕草をしてみる。
指先をぱらぱらと下へ動かして、それから頭の上を指す。
「雨。これ。傘」
伝わっている気はまったくしない。 レイはもう一度、手元の傘を見る。
柄のあたりを触った。
「あ」
そこ。 由美が止めるより早かった。
ぱん、と音を立てて、透明な傘が開いた。
レイの身体が僅かに引く。 由美も驚いた。 ミラが振り返る。 エダンも見る。
室内の真ん中で、レイが透明なビニール傘を差している。
沈黙した。
「……っ」
由美は堪えた。 別におかしなことではない。 知らなければ驚く。
それだけだ。 分かっている。
でも。
剣を持って立っていたときは、あんなに警戒心の塊みたいだった男が、今は真顔でビニール傘を差している。
駄目だった。
「ふふっ……」
レイが由美を見る。
「ごめん。違う。違うんだけど」
違わない。 由美は口元を押さえた。
「似合わない……」
レイには当然分からない。 眉を寄せる。 それがまた駄目だった。
由美はとうとう声を出して笑った。
「ごめんって。怒らないで」
レイは何がおかしいのか分からないらしい。 傘を見る。 由美を見る。
それから閉じようとした。
閉じない。
「そこじゃない」
由美が近づく。 レイの手元を指して、閉じ方を教える。 レイが試す。
今度は閉じた。
由美は頷く。
「そうそう」
レイも傘を見る。 それから由美を見る。
まだ少し笑っていた由美と目が合った。
ほんの一瞬だった。
レイの口元が緩んだ。
由美の笑いが止まる。
「……あ」
笑った。
本当に僅かだった。 見間違いかと思うくらい。 でも、確かに笑った。
「笑えるんじゃん」
由美が言うと、レイの表情はもう戻っていた。
「いや、今笑ったでしょ」
知らない顔をしている。
「絶対笑った」
もちろん通じない。
ミラが何かを言った。 レイがそちらを見る。
ミラの顔には、明らかに笑いを堪えている気配があった。
「ほら。ミラも見てた」
由美がミラを指す。 レイは何か短く返した。 ミラが笑った。
意味は分からない。 でも今度は、由美も一緒に笑った。
何を話しているのか、一つも分からないのに。
少し前まで、《痕》がないことで距離を取られ、《門》ではない場所に現れたことが分かって、三人が難しい顔をしていた。
それなのに今は、ただのビニール傘一本で笑っている。
変なの。
でも、悪くなかった。
レイが傘を由美へ返した。
「ありがとう」
由美は受け取る。
レイは今度こそ扉へ向かった。 手をかける。
由美はその背中を見た。 やっぱり帰るらしい。
さっきまでなら、それで終わっていた。 でも、なぜか呼んだ。
「レイ」
レイが振り返る。
呼び止めたものの、続きがなかった。 ありがとう、と言っても分からない。
また明日、と言っても、明日という言葉すら知らない。
気をつけて帰って、も当然無理だ。
由美は少し考えた。 結局、何も思いつかない。
「……またね」
笑って、小さく手を振った。
レイは由美を見る。 それから、由美が振った手を見る。
意味が伝わったのかどうかは分からない。
レイが何かを言った。 聞き取れない。
由美が首を傾げる。
「何?」
レイは一度、自分を指した。
「レイ」
「うん。レイ」
次に、由美を指す。 少しだけ間があった。
「……ユミ」
由美は瞬きをした。
「そう。由美」
レイがもう一度言う。
「ユミ」
今度は、ちゃんと分かった。
由美は笑った。
「うん」
それだけだった。
レイは扉を開け、外へ出ていく。 扉が閉まる。
由美はしばらく、その扉を見ていた。
名前を呼ばれただけだ。 ただ、それだけ。
それなのに。
さっきまでより、この知らない世界に一人でいる感じが――
ほんの少しだけ、薄くなった。




