第四章 図の上の距離
ミラがレイを見ている。
由美には、レイが何を言ったのか分からなかった。ただ、さっきまで自分の《痕》のない腕を見ていたときとは、明らかに違う。
ミラは何かを確かめるように、もう一度尋ねた。レイが短く答える。
今度は、ミラが黙った。
「……何?」
当然、二人とも由美には答えない。 いや、正確には答えられない。
分かっている。分かってはいるのだが、自分のことらしい話を目の前でされて、本人だけ内容が分からないというのは、なかなか落ち着かない。
由美が二人を交互に見ていると、外から物音がした。 ミラが振り返る。
扉が開いた。
入ってきたのは、年配の男だった。 男は室内へ一歩入ったところで止まった。
まず、ミラを見る。次にレイ。そして由美。
視線が一度、テーブルの上に置かれた飲みかけの器へ落ち、最後に壁際へ置いた透明なビニール傘で止まった。
由美は何となく姿勢を正した。
「……こんばんは」
本日二回目である。 男は由美を見る。もちろん返事はない。
「お邪魔してます」
これも通じない。 分かっているのに、黙っている方が気まずい。
ミラが男に何かを言った。
最初は短かった。それからレイを指し、由美を指す。説明は次第に長くなっていった。
男は口を挟まなかった。ただ聞いている。
時々レイを見る。そのたびにレイが短く答える。
一度だけ、男がミラに何かを尋ねた。ミラが答える。それでまた黙った。
由美は器を両手で持ったまま、そのやり取りを眺めた。
また私だけ分からない会議が始まった。
仕方がないので飲み物を一口飲む。
やっぱりコーヒーではない。でも、これはこれでおいしい。
やがてミラの話が終わった。 男はすぐには何も言わなかった。
ミラを見る。レイを見る。それから、由美を見た。
ミラが由美の腕を指す。
「ああ」
もう分かる。 由美は器を置いた。
「はいはい、腕ね」
自分から袖をまくって差し出す。
慣れたくはなかったが、三人目ともなればさすがに慣れる。
男が近づいた。
レイのように警戒するでもなく、ミラのようにすぐ触れるでもない。
由美の腕を見る。 何もない。 少しして、反対側を示した。
由美はそちらの袖もまくる。
「こっちも何もないよ」
男はもう片方の腕を見る。それから最初の腕へ視線を戻した。
見落としを探しているようにも見えた。 でも、ない。
男はミラを見る。何かを尋ねた。 ミラが答える。 男は僅かに頷いた。
驚いているのかどうか、由美には分からなかった。
ミラのように一歩下がることもない。 ただ、確認している。
次に男はレイを見た。 短く何かを尋ねる。 レイはすぐには答えなかった。
その沈黙に、ミラもレイを見る。 由美もつられてレイを見る。
「……また何かあるの?」
レイが答えた。
男の目が僅かに細くなる。 それだけだった。 けれど、由美には分かった。
今の話は、腕のことではない。
男がもう一度、レイに何かを尋ねた。 レイが答える。
男はしばらく黙っていた。
否定もしない。驚いたように声を上げることもない。ただ、レイを見ている。
やがて視線が由美へ移った。
「……何?」
由美が首を傾げる。
男が何かを言いかけた。 由美には当然分からない。 男は途中で言葉を止めた。
由美を見る。 由美も見る。
「……?」
もう一度、首を傾げる。
男は少し考えた。 それから何も言わず、棚へ向かった。
薄い板のようなものを取り出し、テーブルへ置く。続けて、何かを書くための道具を持ってきた。
由美は椅子を少し寄せた。
男が板に線を引き始める。 文字ではなかった。 簡単な図だった。
大きな形を一つ描き、その中にいくつか印をつける。正確な地図なのかどうかは分からない。ただ、場所を表そうとしていることくらいは由美にも分かった。
由美は男を見る。 男も一度、由美を見た。 それから図の一点を指した。
「――《門》」
「……モン?」
男は頷いた。 もう一度、同じ場所を指す。
「《門》」
由美もそこを指した。
「門」
男が頷く。 どうやら合っているらしい。
一つ増えた。 《ワタリ》。 《痕》。 そして、《門》。
意味はまだよく分からない。
男は《門》と呼ばれた場所を指したまま、次に何かを言った。
その中に、由美の知っている音があった。
《ワタリ》。
由美は図を見る。
「ワタリ?」
男が頷く。
由美は《門》を指す。
「門」
もう一度、男が頷く。
「ワタリ」
頷く。
由美は二つを交互に指した。 《門》。 《渡り》。 関係がある。
そこまでは分かる。
由美は自分を指した。
「ワタリ?」
男はすぐには頷かなかった。 レイを見る。 レイが由美を見て、頷く。
それを確認してから、男も由美へ視線を戻した。
由美は自分の腕を見る。
「でも《痕》がない」
日本語で言いながら、何もない腕を指す。 ミラの表情が僅かに動いた。
言葉は分からなくても、何を言っているかは伝わったらしい。
由美はもう一度、図を見る。
たぶん、《渡り》と呼ばれる人は《門》と呼ばれる場所から来る。
そこまでは分かった。
では、さっきレイが言ったことは何だったのか。
男がレイを見る。 何かを尋ねた。 レイが図へ手を伸ばす。
《門》を指した。 そこから指を動かす。 離れていく。 少しではない。
図の上をかなり移動して、まったく別の場所で止まった。
由美はその指を見る。 レイが由美を見た。
「……私?」
レイが頷く。
由美は自分を指す。 次に、レイが示した場所を指す。 もう一度、自分。
「由美?」
レイがまた頷いた。
由美は男を見る。 男はすぐには反応しなかった。
レイを見る。図を見る。もう一度レイを見る。 レイが短く何かを言った。
そこで初めて、男が由美へ頷いた。
由美は黙った。
この人は、自分で見ていないことをレイに確認している。
何となく、そう思った。
図を見る。 《門》がある場所。 レイが自分を見つけた場所。 離れている。
由美は最初の印へ指を戻した。
「門」
男が頷く。
そこから、自分が現れたらしい場所へ指を動かす。
「……違う?」
言葉では伝わらないと思い、二つの場所を指して首を傾げた。
男は由美の指を見る。 それから由美を見る。 頷いた。
「え」
もう一度やる。 《門》。 自分がいた場所。 違う。
男はもう一度頷いた。
「ちょっと待って」
誰も何もしていないのに、由美は手のひらを向けた。
頭の中を整理する。
自分は《ワタリ》らしい。 《ワタリ》には《痕》がある。 自分にはない。
そして《ワタリ》は、《門》と呼ばれる場所から現れる。
自分は、そこにも現れていない。
「……私、だんだん問題増えてない?」
ミラが由美を見る。
由美は自分の腕を見せた。
「これ、ない」
次に《門》を指す。 そこからレイが示した場所まで指を動かし、自分を指す。
「ここも違う」
最後に両手を広げた。
「じゃあ何なの、私」
ミラが何とも言えない顔をした。 レイも由美を見ている。
男は由美が指した場所を順番に見た。 腕。 《門》。 別の場所。 最後に由美。
ほんの僅かに、頷いた。
「いや、頷かれても困るんだけど」
もちろん通じない。 ミラの口元が少しだけ動いた気がした。
男が椅子へ座った。 ミラが何かを言う。 男は聞く。 レイにも尋ねる。
三人の話が再び始まった。
由美はもう聞こうとしなかった。 聞いても分からない。
それより、目の前の図の方がずっと分かりやすい。
由美は二つの印を見た。 一つは《門》。 もう一つは、自分が現れた場所。
指でなぞってみる。 離れている。
由美は腕を見る。 何もない。
ここへ来てから、自分について分かったことは少ない。
《渡り》と呼ばれていること。 《渡り》には《痕》があること。
そして自分には、それがないこと。
それだけでも、この世界では十分おかしいらしい。
なのに。
由美はもう一度、《門》を指した。
そこから、自分が現れた場所へ指を滑らせる。
《痕》がないだけではなかった。 自分は、《門》から現れてすらいない。
由美は図に描かれた二つの印を見た。
どうやら自分は――
入口まで間違えているらしい。




