第三章 一歩ぶんの距離
道を外れてから、どのくらい歩いただろう。
遠くに見えていた灯りは、いつの間にか木々の向こうへ隠れていた。足元には細い道らしきものがあるが、町へ向かう道とは明らかに違う。
由美は前を歩くレイの背中を見る。
「……誘拐されてないよね、私」
もちろん返事はない。
自分でついてきたのだから、少なくとも誘拐ではない。たぶん。
やがて木々の間に、小さな建物が見えた。
暗闇の中にぽつんと建っている。完全な廃屋という感じではない。窓からは明かりが漏れているし、人が暮らしている気配もある。
レイは建物の前まで来ると、由美を振り返った。
「何?」
レイはその場を指した。待っていろ、だろうか。
此方へ来てから、身振りを読み取る能力ばかり上がっている気がする。
「ここにいればいいのね」
由美が頷くと、レイは扉を叩いた。 少しして中から返事が聞こえる。
人の声だった。
由美は思わず、町の方を見る。
ここへ来てからレイ以外の人間の声を聞いたのは初めてだった。遠くに灯りがあって、人が暮らしているらしいことは分かっていた。でも実際に声を聞くと、思っていた以上に安心する。
誰かがいる。 ちゃんと、人が暮らしている。
月が二つある知らない世界でも、夜になれば家に明かりがついて、人が話をしている。
その事実だけで、少しだけ現実に戻れたような気がした。
扉が開いた。 中から出てきたのは、年配の女性だった。
女性はまずレイを見た。それから、その後ろに立っている由美を見る。
止まった。 もう一度レイを見る。 何かを言う。 レイが短く答える。
女性がまた由美を見る。
「……こんばんは」
言ってから、意味がないことに気づく。
女性は当然返事をしなかった。ただ、由美を頭から足元まで眺めている。
濡れた髪。見慣れない服。靴。そして手に持った透明なビニール傘。
傘のところで、少し長く止まった。 由美は傘を身体の後ろへ隠した。
なぜ隠したのか、自分でも分からない。
レイと女性が何かを話している。 その中に、聞き覚えのある音が混じった。
《ワタリ》。
由美は反応して、自分を指した。
「それ、私のこと?」
女性が由美を見る。 由美はもう一度自分を指す。
「ワタリ?」
女性の表情が僅かに変わった。 どうやら間違ってはいないらしい。
レイが何かを言う。
女性はしばらく由美を見たあと、扉を大きく開けた。そして中を指す。
「……入っていいの?」
身振りを見る限り、そういうことだろう。 由美はレイを見る。 レイが頷く。
「お邪魔します」
たぶん、この世界で今一番意味のない挨拶をして、由美は中へ入った。
室内は思っていたより暖かかった。
華美ではないが、生活している家だとすぐに分かる。机があり、椅子があり、棚には瓶や器のようなものが並んでいる。
見たことのないものもある。でも、分かるものもある。 それが妙に安心した。
女性は由美を椅子へ座らせると、奥から大きめの布を持ってきた。差し出される。
「……これ、私?」
女性が由美の髪を指す。
「あ」
触ってみて思い出した。 まだ濡れている。
雨の中から突然ここへ来たのだから当然なのだが、あまりにもいろいろ起きすぎて、すっかり忘れていた。
「ありがとうございます」
由美は布を受け取り、髪を拭いた。
女性は濡れた服にも触れ、不思議そうにレイへ何かを尋ねた。 レイが答える。
女性が外を見る。 由美もつられて見る。 雨は降っていない。
「そうなんだよね。私だけ雨降ってたんだよね」
女性には分からない。
それでも由美の濡れた服と乾いた外を交互に見て、何かがおかしいことくらいは伝わったらしい。
しばらくして、女性が湯気の立つ器を置いた。 由美はそれを見る。
飲み物らしい。 匂いを嗅いでみる。 知らない香りだった。
一瞬だけ、コンビニのコーヒーが頭をよぎった。
ずいぶん遠くまで買いに来てしまった。
由美は慎重に一口飲む。 少し苦い。でも、その後に柔らかい香りが残る。
「……まあ、これはこれで」
悪くない。 女性がこちらを見ている。 由美は器を少し持ち上げて、頷いた。
「おいしい」
意味は伝わらなくても、表情くらいは伝わるだろう。 女性の顔が少し緩んだ。
それだけで、由美もほっとした。
少なくとも、この人は自分をいきなり追い出すつもりではなさそうだ。
女性は由美の向かいに座ると、手を出した。
「……何?」
手首を示される。 由美も手を出した。 女性の指が手首に触れる。
脈を取られているような気がする。
次に顔を覗き込まれた。目元を見られ、額にも触れられる。
由美はされるがままになった。
「なんか健康診断始まった?」
女性は真剣だった。
由美には何を確認しているのか分からない。ただ、身体の状態を見られているのだろうということだけは分かる。
レイは少し離れたところから、その様子を見ていた。
女性がレイへ何かを言う。 レイが答える。 そして、自分の手首を指した。
由美はそれを見て、すぐに分かった。
「ああ。また腕ね」
今度は言われる前に袖をまくった。 女性が由美を見る。 由美は腕を差し出す。
「はい」
何もない。 いつもの腕だ。
女性の視線が止まった。
由美は待つ。 女性は腕を取ったまま、じっと見ている。
やがて反対側を指した。
「こっちも?」
由美はもう片方の袖もまくった。 女性が見る。 表情が変わった。
最初の腕へ戻る。 もう一度見る。 反対側を見る。
レイに何かを言った。 声が、さっきまでとは違った。 レイが答える。
女性は由美の腕をもう一度確かめる。
探している。 何かを。
でも、ない。
由美には分かっている。 《痕》。
女性の手が離れた。 そして、一歩下がった。
「……え?」
由美は女性を見る。 さっきまでとは違う。
濡れた髪を気遣って布を渡してくれた。温かい飲み物もくれた。身体に異常がないか見てくれた。
その人が、今は由美との間に距離を取っている。
由美は自分の腕を見る。 何もない。
「……そんなに?」
レイだけではなかった。
レイが知らないだけでも、由美が意味を取り違えているだけでもない。
この人も、同じところを見ている。 そして明らかに動揺している。
女性がレイに何かを言った。 レイが答える。 女性の声が強くなる。
何度か言葉が交わされる。
由美にはほとんど分からない。 ただ、その中で何度も聞こえる。
《ワタリ》。 《痕》。
女性が外を指した。 町の灯りがある方角だ。 レイが首を横に振る。
女性がもう一度言う。 レイは動かない。
「……絶対、私の話してるよね」
誰にも通じない日本語で呟く。
本人がここにいるのに、本人だけ何も分からない。 なんとも落ち着かない。
由美は二人を交互に見た。 このまま待っていても仕方がない。
まず、できることをする。
由美は自分を指した。
「由美」
二人が黙る。 次にレイを指す。
「レイ」
そして女性を指した。 女性が由美を見る。
由美はもう一度、自分から順番に指した。
「由美。レイ」
最後に女性。
「……?」
女性はしばらく由美を見ていた。 やがて、自分を指す。
「ミラ」
「ミラ?」
女性――ミラが頷いた。
「ミラ」
由美も繰り返す。 名前が分かった。
それだけなのに、少しだけ距離が戻った気がした。
由美は迷ってから、手を差し出した。
「よろしく」
ミラがその手を見る。 すぐには取らなかった。
由美も気づく。 差し出した手。 その先にある腕。 《痕》のない腕。
ミラはそれを見ている。 由美は手を引かなかった。
しばらくして、ミラの手が動いた。 由美の手を握る。 温かかった。
「よろしく、ミラ」
通じない。 それでも今度は、ミラがほんの少し笑った。 由美も笑う。
さっきまで張っていた空気が、少しだけ緩んだ。
ミラが手を離し、レイを見る。 何かを尋ねた。 レイは答えない。
ミラがもう一度言う。 今度は少し強い。 レイが短く答えた。
由美には、その言葉の意味は分からなかった。
ただ。 ミラの表情が変わった。
さっき、自分の腕に《痕》がないと分かったときとは違う。
驚きとも、恐怖ともつかない顔。
由美は思わず自分の腕を見た。
けれど。 今度、ミラが見ていたのは由美ではなかった。
レイだった。




