第二章 灯りから外れる
レイはしばらく由美を見ていた。正確には、由美と、その腕を交互に見ていた。
何度見たところで何も出てこない。由美としてはそう思うのだが、レイにとっては簡単に片づけられることではないらしい。
やがてレイは何かを言い、由美の横を通り過ぎた。数歩進んでから振り返る。
「……何?」
レイが先を指した。それから由美を指し、もう一度先を示す。どうやら、ついて来いということらしい。
「どこに?」
聞いてみる。当然、答えは返ってくる。ただし意味は分からない。
由美は動かなかった。レイがもう一度、同じ仕草をする。
「いや、だから」
言いかけて、やめた。言葉が通じない相手に「どこへ連れていくつもりなのか説明して」と要求したところでどうにもならない。
由美は周囲を見渡した。暗い草地。二つの月。道らしい道も見当たらない。
信用できるかと聞かれれば、できない。ついさっきまで剣を向けられていた相手だ。
ただ、今のところレイは剣を鞘に収めている。こちらが怖がっていることにも、たぶん気づいた。
そして何より。 他に誰もいない。 選択肢が少なすぎる。
「……分かった」
通じてはいないだろうが、由美は頷いた。
レイが歩き出す。由美は少し距離を空けて、その後を追った。
濡れた傘を持ったまま。
しばらく歩いて気づいた。レイが、ちらちらこちらを見ている。
最初はまた腕を確認されているのかと思った。だが違う。視線がもう少し下にある。
由美は自分の手を見る。
「……これ?」
傘を少し持ち上げる。レイの視線がついてきた。やっぱりこれらしい。
「傘」
言ってみる。反応はない。
「か・さ」
レイは由美を見たあと、傘を見る。何か言った。
「何?」
もう一度、何か言う。もちろん分からない。
「そっちの名前教えてくれてる?」
レイは歩き出した。
「分からないんだって」
由美も歩き出す。 少しして、またレイが傘を見る。
「何。傘くらいあるでしょ」
反応を見る。ない。
「……ないの?」
当然、それも分からないはずなのに、レイの顔が少しだけ「何を言っているんだ」という顔に見えた。
由美は傘を見る。透明なビニール傘。
確かに、この景色には恐ろしく似合っていない。
「私だって好きで持ってきたわけじゃないからね」
コンビニへコーヒーを買いに行く途中だったのだ。こんなところへ来ると知っていたら、もう少し違うものを持ってきた。
何を、と聞かれると困るけれど。
歩きながら、由美は周囲を見る。
月が二つあることを除けば、意外なほど普通だった。
土があり、草が生えている。風が吹けば草が揺れる。少し冷えた空気に、湿った髪が冷たい。遠くには木のようなものも見える。
もっと、何もかもが違っていた方が分かりやすかったかもしれない。
空が真っ赤だとか。草が光っているとか。巨大な何かが飛んでいるとか。
そういう、どう見ても自分の知っている場所ではない景色なら、まだ諦めがつく。
でも、似ている。 知っているものに、妙に似ている。
だからこそ、月が二つあることだけがひどく浮いて見えた。
由美は足を止めた。レイも数歩先で止まり、振り返る。
「ちょっと待って」
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面はついた。時間は進んでいる。電波は相変わらず圏外だった。
「ですよね」
何となく期待した自分が悪い。
顔を上げると、レイがスマートフォンを見ていた。今度は傘を見るときより明らかに警戒している。
「これ?」
由美がスマートフォンを持ち上げると、レイの身体が僅かに固くなった。
「大丈夫。武器じゃない」
分からないだろうと思いながら、画面を自分に向けて見せる。レイは近づかない。
由美は考えてから、スマートフォンを指した。
「スマホ」
自分でも何をしているのだろうと思う。でも、他にできることもない。
「スマホ」
もう一度言う。
レイが由美とスマートフォンを交互に見る。それから慎重に口を開いた。
「……スマ?」
「惜しい」
思わず笑った。レイが眉を寄せる。
「スマホ」
「……スマホ」
今度はかなり近い。
「そう」
由美が頷くと、レイは少しだけ首を傾げた。意味は分かっていないだろう。
それでも、由美。レイ。傘。スマホ。名前だけなら、増やせるのかもしれない。
そう思うと、さっきまでよりほんの少しだけ気が楽になった。
由美はスマートフォンをポケットへ戻す。レイも再び歩き始めた。
今度は、さっきより少しだけ距離が近かった。
どのくらい歩いただろう。緊張しているうちは気にならなかったが、身体は正直だった。
ぐう、と。 思ったより立派な音がした。
由美は止まった。レイも止まった。振り返る。目が合う。
「……聞こえた?」
レイの視線が、由美の腹の辺りへ落ちた。
聞こえている。間違いなく聞こえている。
「いや、違うから」
何が違うのか。自分でも分からない。
そういえば夕食をちゃんと食べたか。食べた。たぶん食べた。
それでもコーヒーを買いに行こうとしていたくらいだから、何か口に入れる余地は普通にあった。
レイが腰につけていた小さな袋を開けた。中から何かを取り出す。
由美は警戒した。 薄い焼き菓子のようにも見える。パンなのかもしれない。
レイが差し出してくる。
「……くれるの?」
レイはそのまま手を出している。 由美は食べ物を見る。
知らない世界。知らない食べ物。知らない男。
普通に考えれば、食べるべきではない。
由美はレイを見る。それから食べ物を見る。匂いを嗅いだ。 香ばしい。
困った。 由美は食べ物に関して、自分の理性をそれほど信用していなかった。
それでも、さすがにそのまま口に入れるほどではない。
由美は食べ物を指し、次にレイを指した。
「先に食べて」
口へ運ぶ仕草をする。
レイが由美を見る。もう一度、食べ物を見る。そして、ものすごく小さく息を吐いた。
呆れられた気がする。
「だって仕方ないでしょ」
レイは差し出していたものを少しちぎり、自分の口へ入れた。噛む。飲み込む。それから残りをもう一度差し出した。
「……ありがとう」
受け取る。少しだけかじった。 固い。でも、噛んでいるとほんのり甘い。
「おいしい」
思わずもう一口食べる。 レイがこちらを見ていた。
「何」
レイは何も言わず、前を向いた。 由美は食べながら、その後を追う。
何だったのかは分からない。でも、おいしい。
それだけで少し気分が戻った。我ながら単純だと思う。
やがて、遠くに小さな明かりが見えた。
由美は足を止める。
「……あ」
一つではない。いくつもの灯りが、暗闇の中に集まっている。建物らしい影も見えた。
人がいる。 そう思った瞬間、身体から少し力が抜けた。
ようやく誰かに聞ける。ここがどこなのか。どうすれば帰れるのか。
言葉の問題はあるけれど、人数が増えれば何とかなるかもしれない。
由美は自然と歩く速度を上げた。 だが、レイは違った。足が遅くなった。
由美も気づいて止まる。
レイは遠くの灯りを見ている。さっきまでとは表情が違った。
「……どうしたの?」
答えは分からない。 レイの視線が由美へ戻る。そして、腕を見る。
《痕》。 ないもの。
由美にも、それだけは分かった。
レイはしばらく考えていた。やがて何かを決めたように歩き出す。
由美もついていこうとして、止まった。
「……え?」
方向が違う。 灯りへ続いているように見えた道から、レイは外れていく。
「ちょっと待って」
レイが振り返る。 由美は灯りを指した。
「あっちじゃないの?」
次にレイが向かおうとしている暗い方を指す。
「そっち?」
レイは何かを言った。もちろん分からない。
ただ、来いという仕草だけは、もう分かる。
由美は灯りを見る。人がいる。たぶん。 そしてレイを見る。暗い。
どう考えても、そちらへ行く方が怪しい。
「いや……」
これはさすがにどうなのだろう。
知らない男について、わざわざ人のいない方へ行く。
文字にすると完全にやってはいけない行動だった。
由美が動かないでいると、レイも動かなかった。
急かさない。近づいてもこない。ただ、待っている。
そのことが逆に困る。
無理やり連れていくつもりなら、逃げる理由になる。でもレイは、由美が自分で決めるのを待っているように見えた。
由美はもう一度、遠くの灯りを見た。それから、自分の腕を見る。 何もない。
レイがあれほど気にしていた、ないはずのないもの。
「……これが理由?」
腕を指してみる。 レイの表情が僅かに動いた。
たぶん、そうなのだ。
理由までは分からない。でも、《痕》のない自分をあの場所へそのまま連れていくことを、レイは避けようとしている。
由美はしばらく迷ったあと、小さく息を吐いた。
「分かった。行く」
レイには通じない。それでも由美が一歩近づくと、レイは前を向いた。
二人は道を外れた。
灯りが少しずつ遠ざかる。草を踏む音だけが続く。
由美は歩きながら、もう一度後ろを振り返った。
人のいる場所が遠くなっていく。
そのとき、ようやく気づいた。
レイは自分を、人のいる場所へ連れていこうとしているのではない。
むしろ――
人目につかないように連れている。




