第一章 痕のない渡り人
初投稿です。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いします。
雨は、思っていたより強かった。
玄関を開けた由美は、しばらく外を眺めてから、一度ドアを閉めた。
「……やめようかな」
誰に言うでもなく呟く。
別に、今日でなければならない用事ではない。牛乳が切れたわけでもないし、明日の朝食がないわけでもない。そもそも、買わなければ困るものなど一つもなかった。
ただ、コーヒーが飲みたかった。
家にコーヒーがないわけでもない。インスタントならある。お湯を沸かせば数分で飲める。
でも、今飲みたいのはそれじゃない。
コンビニの、カップを買って自分で機械のボタンを押す、あのコーヒーだった。
「……行くか」
結局、傘を持った。
こういうところで食べたいものや飲みたいものへの執着が勝つのを、由美は自分でもよく知っている。
玄関を出ると、雨の音が一気に近くなった。傘を開く。透明なビニールの上を、大粒の雨がぱたぱたと叩く。
夜の道路は濡れて黒く光っていた。通り過ぎる車のタイヤが水を跳ね、街灯の光が濡れたアスファルトに細長く伸びている。
見慣れた景色だった。
何度歩いたか分からない道。少し歩けばコンビニがある。コーヒーを買って、たぶん何か甘いものも見て、余計なものまで買うかどうか少し悩んで帰る。
それだけ。 明日になれば忘れているような、いつもの夜になるはずだった。
由美は傘を少し前へ傾け、歩いた。
雨が傘を叩いている。車の音。水を踏む自分の足音。少し先に見えるコンビニの明かり。
いつもの夜。 由美は交差点を渡った。水たまりを避けて、一歩。もう一歩。
そして次の一歩を踏み出した。
――はずだった。
「……ん?」
足を止める。 何かがおかしい。
何がおかしいのか、すぐには分からなかった。由美は辺りを見た。
暗い。それは同じだった。 でも、静かだった。 妙に静かすぎる。
「あ」
雨だ。 雨の音がしない。
由美は傘を見上げた。透明なビニールには、さっきまでの雨粒がいくつも残っている。髪も少し濡れている。肩も、靴も濡れていた。
なのに、今は一滴も降っていない。
「……雨、止んだ?」
言ってから、違和感が増した。
そんな止み方をするだろうか。ほんの一歩、数秒前まで、あれだけ傘を叩いていたのに。
由美は足元を見る。 そして、動かなかった。
地面が乾いている。 アスファルトではない。 土だった。 乾いた土と、草。
「…………は?」
ようやく顔を上げる。
道路がない。街灯もない。車も、建物も、さっきまで少し先に見えていたコンビニの明かりもない。
由美は振り返った。 同じだった。 暗い草地が続いている。
「いやいやいや……」
もう一度、前を見る。 何も変わらない。
「何これ」
由美はスマートフォンを取り出した。
画面はつく。それだけで少し安心した。少なくとも、自分が持っていたものまでおかしくなったわけではなさそうだ。
画面に表示された時刻は、21時47分。 電波表示は圏外になっていた。
「まあ……圏外くらいはある。山奥なら。たぶん」
問題は、自分は数秒前まで山奥にいなかったということだ。
地図を開いてみる。現在地を取得できない。もう一度試しても変わらない。
「圏外以前の問題か……」
由美はスマートフォンを握ったまま、ゆっくり周囲を見渡した。
知らない場所。
どうしてここにいるのかも、どうやって来たのかも分からない。
とりあえず、分かることだけ確認する。
スマートフォンはある。傘もある。服も濡れている。自分も、たぶんいつもの自分。
雨の中をコンビニへ歩いていた。そこまでは間違いない。
なのに今いる場所には、雨が降った形跡すらない。
「……コーヒー」
ぽつりと口から出た。 我ながら、今それかと思う。
でも、コーヒーを買いに行っただけなのだ。本当に、ただそれだけだった。
それがどうして、こんなことになる。
由美はもう一度スマートフォンを見る。 21時48分。
電波は相変わらず戻っていない。
「……一分経ったところで、何も分からないか」
スマートフォンをポケットへ戻した。
そのとき、雲の切れ間から白い光が差した。 月だった。
「ああ……」
月が見える。
それだけで一瞬、妙に安心した。何もかも分からない場所でも、月くらいは同じらしい。
そう思って、由美は空を見上げた。 白い月。
そして、その少し離れたところに――
もう一つ。 小さな月が浮かんでいた。
「…………」
数秒、見た。 一度、目を閉じる。 開く。 二つ。 見間違いではない。
「……知らん」
何が起きているのか。 本当に、知らん。
ただ、少なくとも、ここが自分の知っている場所ではないことだけは、さすがに認めるしかなかった。
異世界。 そんな言葉が一瞬だけ頭をよぎった。 いや、それはない。
ないと思う。 というより、いきなりそこへ結論を飛ばすのはどうかしている。
まず人を探そう。 ここがどこなのか。近くに何があるのか。
分かることから確認すればいい。
由美は傘を握り直した。このまま立っていても仕方がない。道でも、建物でも、人でもいい。
何かを探そうと、一歩踏み出した。
その瞬間だった。
「――……!」
背後から男の声がした。 鋭い。短い。 由美の足が止まる。
何を言われたのかは、分からなかった。聞いたことのない言葉だった。
けれど、声の強さだけで。
動くな。
そう言われたのだと、なぜか分かった。
由美は傘を握ったまま、ゆっくりと振り返った。
月明かりの下に、見知らぬ男が立っている。
その手には――
抜き身の剣があった。
剣を向けられた経験など、もちろんない。包丁ならある。料理をするから。
でも、あれは明らかに用途が違う。 月明かりを受けた刃が、鈍く光っている。
由美は傘を握ったまま動かなかった。
男が何かを言う。やはり分からない。低い声で、短い言葉だった。
ただ、剣先がわずかに動いたのを見て、由美は慌てて両手を上げた。正確には、片手には傘を持ったままだったので、ずいぶん間の抜けた格好になった。
「分からない。ごめん、何言ってるか分からない」
通じるはずもないと思いながら、日本語で言う。
男の眉が僅かに寄った。返ってきた言葉も、やはり聞いたことがない。
困った。本当に困った。
こちらは剣を持っていない。敵意もない。そもそも、ここがどこなのかすら知らない。それを説明したいのに、説明する手段がない。
由美は自分を指した。
「由美」
男の目が細くなる。 もう一度、自分の胸元を指す。
「ゆ・み」
今度は少しゆっくり言った。
男はしばらく由美を見ていたが、やがて低い声で何かを返した。短い音だった。
「……レイ?」
男の表情が変わった。ほんの少しだけ。 どうやら合っているらしい。
「レイ」
確認するように呼ぶと、男――レイは小さく頷いた。
名前は分かった。それだけだった。
会話ができるようになったわけではない。それでも、さっきまでの「剣を持った知らない人」から「レイという剣を持った知らない人」くらいには進歩した。
たぶん。
レイが再び何かを言った。 由美は首を傾げる。
「だから分からないって」
当然、これも通じない。
レイはしばらく考えるように黙っていた。それから、自分の腕を指した。次に由美を見る。
「……腕?」
由美も自分の腕を指す。 レイが頷いた。 どうやら見せろと言っているらしい。
嫌だな、と思った。
知らない場所で、知らない男に、剣を持ったまま腕を見せろと言われている。普通なら断りたい。
ただし、断る方法も分からない。
由美は少し迷ってから、傘を閉じた。濡れた傘を地面に置き、袖をまくる。
レイの視線が、由美の腕へ落ちた。
そして、止まった。
「……?」
さっきまでとは明らかに様子が違う。
レイが何かを言った。由美には分からない。
けれど、その声から警戒とは別のものを感じた。 驚き。
いや、もっと近いのは困惑かもしれない。
レイがもう一方の腕を指す。
「こっちも?」
意味が通じたわけではない。それでも何を求められているかくらいは分かる。
由美は反対側の袖もまくった。
何もない。
当然だ。 少なくとも由美には、いつもの自分の腕にしか見えない。
レイには、そうではなかった。
剣を持つ手が、ゆっくり下がる。由美は少しだけ息を吐いた。
安心したのも束の間、レイが一歩近づいた。 由美は反射的に一歩下がる。
レイが止まった。
「いや、それは怖いって」
通じないと分かっていても、言わずにはいられない。
レイは由美の顔を見た。それから剣を見て、何かに気づいたように鞘へ戻した。
その動作を見届けてから、由美はもう一度息を吐いた。
「それなら、まあ」
何が「まあ」なのか、自分でもよく分からない。ただ、剣先を向けられているよりは圧倒的にましだった。
レイは再び由美の腕を見る。それから、自分の手首の内側を指した。
何かを説明しようとしている。
「そこ?」
由美は自分の手首を見る。 何もない。
レイは首を横に振った。自分の手首に指で何かを描くような仕草をする。
「……印?」
今度は反応があった。正解なのか、近いだけなのかは分からない。
由美は腕をひっくり返してみる。
傷もない。痣もない。もちろん、見覚えのない印などあるはずもない。
「ないよ」
そう言って両腕を見せる。 レイは答えなかった。ただ、じっと見ている。
その表情を見ているうちに、由美にも分かってきた。
自分に何かがあることを警戒しているのではない。
逆だ。
あるはずのものが、ない。
そのことを警戒している。
「……私、何かおかしい?」
聞いても通じない。
レイは少し考えたあと、由美を指した。次に遠くを指し、それから自分の手をこちらへ引き寄せるように動かした。
由美は眉を寄せた。
「……来た?」
レイが同じ動きを繰り返す。
「ここに、来た?」
今度は頷いた。 由美は空を見る。二つの月。乾いた地面。濡れた自分。
「まあ、それは私も知りたいんだけど」
由美は自分を指し、次に足元を指した。それから大きく首を横に振る。
ここは知らない。 そう伝えたつもりだった。
レイは黙って由美を見る。そして、また手首を指した。 印。来た。印。
由美は二つを頭の中でつなげる。
「ここに来た人には、それがある?」
レイには日本語の文章など分からない。だから由美は、自分を指してから手首を示し、首を傾げた。
レイが頷く。
少しずつ。本当に少しずつだが、意味がつながる。
外から来た人間には、何か印のようなものがある。そして自分には、それがない。
そこまで分かったところで、由美はふと思った。
「じゃあ」
もちろん日本語である。レイは分からない。
それでも由美は、自分の両腕を見ながら続けた。
「私、それじゃないんじゃないの?」
レイが眉を寄せる。
「だって、ないんでしょ?」
腕を示す。何もない、と手のひらを見せる。それから、自分を指す。
レイの目が僅かに細くなった。
伝わったのかもしれない。由美が言いたいことの、ほんの一部くらいは。
あるはずの印がない。
なら、自分は彼が考えている「それ」とは違うのではないか。
由美には、ごく普通の疑問だった。
だがレイにとっては、そうではなかったらしい。
彼はしばらく何も言わなかった。やがて何かを呟く。
その中に、繰り返される音があった。 由美は耳を澄ませる。
「……わたり?」
レイが顔を上げた。もう一度、ゆっくり言う。
「ワタリ」
今度は聞き取れた。
意味は分からない。けれど、それが自分に向けられた言葉だということは分かった。
「わたり……」
由美が繰り返す。 レイは自分の手首を指した。 そこにあるはずの何か。
そして、由美の何もない腕。
「これが……ない?」
レイが頷く。 由美はもう一度、自分の腕を見た。何度見ても何もない。
そのとき、レイが別の言葉を口にした。
「――――」
聞き取れない。 由美は首を傾げる。
レイは手首を指し、もう一度言った。今度は少しゆっくりだった。
由美はその音を真似してみる。
「……あと?」
少し違うらしい。 レイが言い直す。
何度か繰り返して、ようやく近い音になった。
「……痕?」
レイが頷いた。
《ワタリ》。 《痕》。
意味までは分からない。それでも、二つの言葉だけは覚えた。
由美は腕を見る。
「《渡り》の……《痕》?」
レイの表情が、ほんの僅かに変わった。
通じた。
由美はそこでようやく理解した。自分はどうやら、この世界で《渡り》と呼ばれる何かだと思われている。そして、《渡り》には痕がある。
でも、自分にはない。
だったら。
「やっぱり、私をそれだって決める方がおかしくない?」
もちろん、レイには伝わらない。
レイは何も答えず、由美を見ていた。二つの月の下、濡れた傘を持ち、見たことのない服を着て、どこから来たのかも説明できない女。
外から現れたことだけを見れば、《渡り人》と呼ぶしかない。
けれど、その腕には、渡ってきた者なら必ず残るはずの《痕》がない。
レイは再び何かを言った。
由美には、ほとんど分からなかった。ただ、最後に一つだけ、さっき覚えたばかりの言葉が聞き取れた。
《ワタリ》。
そしてレイは、由美の何もない腕を見た。その目に浮かんでいたのは、もう単なる警戒ではなかった。
理解できないものを見る目だった。
由美は袖を戻し、地面に置いた傘を拾う。
「そんな顔されても、私だって知らないよ」
当然、返事はない。 由美は小さく息を吐いた。
コーヒーを買いに出ただけだった。それが今は、月が二つある知らない場所で、言葉も通じない男から《渡り》と呼ばれている。しかも、その《渡り》にあるはずのものが、自分にはないらしい。
分かったことより、分からないことの方が圧倒的に多い。
それでも一つだけ。
この世界へ来て、初めて自分について分かったことがある。
由美は、自分の腕を見た。
何もない。ただの、いつもの腕。
けれど、この世界では。 どうやら自分は――
痕のない渡り人らしい。




