オムライス
あっと、やばい。やばい以外の語彙が一瞬にしてふっとぶほどやばい。
ぼくは固まり、彼は無言で棚の方へ視線を戻した。
毎月ピエール師匠から送られてくるチョコレート菓子を保管している、ぼくが〝ゴディヴァの棚〟と呼んでいる棚だ。
仮に……仮にだ。
目の前に見えている彼が生身のアンリ・ルノワール氏で、朝から何も食べていないとしたら――ああああ、固まっている場合ではない。
すぐにももてなさねば!
「ああっ、あの、オムライスでよければすぐご用意できますが、召し上がりますか……?」
〝オムレット〟と〝ライス〟で〝オムライス〟ぼく自身よく分からない手振りを氏はじっとみつめ、ぼくは固唾を飲んで反応を待つ。
すると彼は、目の前の鍵盤に触れ、チャッチャと同じ和音を二度鳴らした。
ぼくはイエスと解釈する。
冷静に考えればピアノが鳴ったことに驚くべきだったが、それよりも、ピアノ椅子から立ち上がった推しに意識を持っていかれた。
おっ……推しが立った!
いや、まだだ。実物と確信するにはまだ早い。
声は知らなくとも、立っている姿なら遠目に拝んだことがあったはずだ。
あれはぼくが最後に挑戦したコンクールでのこと。
出番を終えたぼくは客席の後ろの方にいて、舞台袖から現れる最年少コンテスタント、アンリ・ルノワールの姿を初めて目の当たりにした。
当時一八歳にしてあまりに人間離れしたスタイルとオーラをものにしていた彼は、鍵盤に触れる前からその場に居合わせた人々を魅了し、ついにピアノから弾き出された音は、ときに天は二物を与えるのだと知らしめていた。
そんな彼の身長は、西洋人としては標準だがフランス人としては高めの一八二センチ。
ネット記事の内容が正しければ、ぼくよりこぶし一個分高い。そしてバレエ団のトップダンサーが真横に並んだって見劣りしないファンタジックなプロポーション、シックかつシンプルな着こなし、やっぱりいい……。
つい見惚れてしまっていたぼくに、無表情のまま詰め寄る推し。
これ以上はやばい。
ぼくはさっと後退り、どうにか取り繕って言った。
「失礼しました。ダイニングは二階です。ご案内しますね」
終止無表情だった彼が初めて表情らしい表情を見せたのは、キッチンに立ったぼくが玉ねぎと包丁を取り出したときだった。
すぐ隣までやってきたかと思えば、何か言いたそうな顰め面でバラバラにされる玉ねぎをじっと見つめていた。
「あまりじっと見ない方がいいですよ」
忠告はしたものの、手遅れだったようだ。
退散する彼の目には少し涙が浮かんでいた。
こうなってくるとむしろ妄想だったときのほうが怖い。
だってぼく、気持ち悪すぎやしないか……?
そして今、決定的瞬間が目前に迫っている。
たった今完成したばかりのシンプルなケチャップオムライス一人前。
スプーンと共にテーブルに配置し、その行く末を、彼の上品な口元を、ぼくはじっと、じーっと見つめずにはいら――あっ、た……食べた……?
推しが、ぼくのオムライスを食べた――!!
あとから包んだぼくの分のオムライスに味はなかった。
生身のルノワール氏は綺麗に完食してくれたので、動揺のせいだと思っておく。
正直仕事どころの心境ではなかったが、推しにうつつを抜かして仕事を疎かにするなど言語道断だ。
動揺を鎮めるためにも、午後からのレッスンに備えて研究室の軽い清掃に取り掛かる。
手持無沙汰なのかルノワール氏もついてきて、ピアノ椅子に戻ってのんびりしている。
なんというか、定位置にしようとしているようだ。
「あの、ムッシュ」
無反応――かと思いきや、すんなりと視線をもらえた。
まさかオムライスが効いているのだろうか。
しかし、いつまでいらっしゃるつもりかとは訊きにくい。
「もし夕食もお任せいただけるようでしたら、レストラン街を案内させてもらえませんか?
普段召し上がっている食事には劣るかもしれませんが、ぼくの手料理なんかよりはマシなものが食べられますよ」
探りと期待と畏怖とを混ぜこぜにして提案してみると、氏は玉ねぎのときのように何か言いたそうな顔をした。
それでも言葉は発さないのだろうというぼくの予想と違わず、ことっと鍵盤蓋を開いて、チャッチャとあの和音を鳴らす。
これもイエスと解釈してよいのだろうが、オムライスのときとはニュアンスが若干違うように感じとれる。
「まあ、いいよ」とか「しょうがない」といったところだろう。
少なくとも夜まで立ち去る予定がないことが分かり、内心のそわそわを笑顔で誤魔化す。
「ではそのようにしましょうか。学生から聞いた話だと、ディナーは定番の和洋中が人気のようです。
あとはイタリアンにファーストフード、エスニック専門店なんてのもあるようですよ。
高級志向の懐石とフレンチだけは数日前に予約しておく必要がありますので、しばらくこちらに滞在されるご予定でしたら予約しておいてもよいかもしれません。
今思いつくのはそのくらいですが……どうでしょう。
どれか気になるお店とか、食べたいものはありますか?」
イエス・ノーでは答えられない質問だが、どう出るだろう。
氏の薄い唇は、やはり閉ざされたままだ。
無理に答えようとしなくて大丈夫ですよ、そんな意を込めて微笑むと、ピアノが単調な二和音を鳴らし始めた。
雨の歌のあとも似たことがあったが、今度は四回ではなく五回、加えて中央ドより下の「シ」と単音が現れる。
シミ、ファラ、シミ、シレ#、ミ。
どうにも意味深に聞こえるが、暗号か何かだろうか?
であれば不思議な話だが、ぼくはこの暗号を解けるというより、知っているような気がする。
顎に指を添えて沈思するぼくを現実に引き戻したのは、がたとドアレバーが捻られる音だった。




