雨の歌
ぼくはいつも、水曜の午後二時が待ち遠しかった。
部屋に閉じこもってばっかりだった一〇歳のぼくの救世主――斎藤さんのピアノが聴けるからだ。
彼女のピアノは、真っ青な海も、赤々と燃える炎も、色とりどりに着飾る花々も――無色の四畳半が世界の全てだったぼくにはあまりにも眩しい世界の色を、ときに鮮烈に、ときに朧げに、ぼくの瞼の裏に描いた。
そしてあるときは誰もが孤独であることを教えてくれて、またあるときは、現実を頑なに遠ざけているぼくを許してくれたのである。
そんな彼女は通い始めてから一年と経たずに〝つくもピアノ教室〟をやめてしまった。
器が違っていたのだ。
「同じ道を進んでいれば、いずればったり会うこともあるんじゃない?」
去り際にくれた彼女のその言葉だけが、再び色を失くした四畳半に残された、たったひとつの希望になった。
ぼくはずっと、彼女にもう一度会いたかった。
その一心でピアノを弾き続け、同じ道を進もうとしたのだ。
しかし、それも叶わなかった。四畳半を追われたぼくが見た世界の色は、ぼくの求めた色とはまったく違っていた。
鬱々とした第二楽章を終え、第三楽章冒頭――『雨の歌』の旋律を歌い出したそのとき、奇跡が起きた。
ぼくの脳内のイメージをなぞるように、背後のピアノが独りでに鳴り出したのだ。
動揺で震えた音を、すぐにねじ伏せる。
境地に達した妄想がぼくの耳を惑わせたのだと確信した。
あっという間にぼくの心の奥まで入り込み、やすやすと憂鬱を掻き消していくこの音色。
それは、アンリ・ルノワールの音に他ならない。
妄想の中で交わされるピアノとの完璧な対話に、思わず笑みがこぼれる。
見たか。これがぼくの手にある唯一の愛。推しに捧げた愛の力だ。
ぼくのヴァイオリンが生み出した愛と音楽の翼は、途方もない距離や時間、人の内にある精神、この世のありとあらゆる摂理の向こうに、この魂を運んでくれる。
第三楽章が終わり、弦から弓が離れる。
もう少しこの夢を見ていたい。
その願望をよそに、鼓動とか、呼吸とか、鼻白むような現実は否が応でも帰ってくる。
ヴァイオリンを肩と顎の間に挟んだまま立ち尽くして抗うぼくを急激にうつつへと引き寄せたのは、あまりに不格好で、音楽性の欠片もないピアノの音だった。
ぴったり一〇〇のテンポで二和音の四分音符が四回。
レシ、ファラ、ラミ、ソソ。
「ミ」とは中央ドを基準にしてオクターブ上の「ミ」を指すここだけの表現だ。
ピアノには同じ名前の音が少なくとも七つある。
その音を耳にしたぼくは咄嗟に「なんて失礼なやつだ」と思った。
どうしてそんな脈絡の欠片もない事を思ったのか、考える余裕がいくらかあればその場で気づけたのかもしれないが、ピアノの方を振り返ったぼくの頭は髪だけでなく思考までも真っ白だった。
いつの間にか鍵盤の前に人が座っていただけでも心臓が口から飛び出していきそうだったのに、そのときぼくが目にしたのは――宵の空を閉じ込めたような深い藍色の瞳、端正な顔立ちに透き通る肌、肖像写真を額に入れてルーブル美術館に掛けておいたって誰も咎めはしないような――美人の中の美人。
寝室の天井に貼ってあるポスターから落っこちていらっしゃったのですか?
と思わず訊ねてしまいそうなほどそっくりそのままの、等身大アンリ・ルノワール氏だったからだ。
こう近くで目の当たりにしても一切の脚色を見つけることができず、唯一見つけた間違い探しの答えといえば――シルバーの輪っかに白と黒のダイヤを上品にあしらった、トレードマークのイヤリングが無いことくらいなのだ。
氏はぽかんと口をあけたまま固まっているぼくを寝室のブロマイドと同じ無表情でじっと見ていたが、ぼくはその視線に怯むというよりも、そこかしこの闇を蓄えてきたような沈んだ瞳に意識を束縛されていたように思う。
何かきっかけがなければそのまま彫刻にでもなっていたのだろうけれど、ぼくを見つめていた彼がほんの少しだけ視線を落としたので、ぼくもほんの少しだけ気を取り直すことができた。
氏が気がかりなのは、ぼくが肩から少し離したところに浮かせたままにしているヴァイオリンだ。
腑抜けたぼくが床に落っことしてしまわないか心配なのだ。
途端にぼくも不安になり、わたわたと覚束ない手際でヴァイオリンと弓を壁のハンガーへ戻す。
「ええっと……、むっ……ムッシュ・ルノワールとお見受けしますが……」
咄嗟に出た久方ぶりのフランス語がみっともなくひっくり返る。
氏は否定も肯定もしないが、ぼくが推しを見間違うはずがないし、推しの音を聴き間違えるなんてことはもっとない。
よってそっくりさんを疑う余地はない。
疑うべくはぼくの頭の方だ。
夢なら夢と悟らせてやらねば。
現実的な話をしよう。
「ぼっ、ぼくはこの研究室でヴァイオリンの講師をしております、白と申します。あなたはピアノ科の学生でいらっしゃるかと存じますが……どういった御用向きでこちらに?」
評判通りの無反応。
客観的評価の続きになるが、天才ピアニスト・アンリ・ルノワールの無愛想の徹底ぶりは「その声を聞いた者もいなければ、人間離れした美しい顔が微笑むのを見た者もいない」と言われるほど。
一部のファンの間では
「悪魔に魂を売り払い、ピアノを弾いているときはリストやらラフマニノフやらの英魂に躰を貸している」
なんていう、さすがにそれはと言いたくなるようなスピリチュアルな噂が妄信されているらしい。
「ええっと……そうだ、欧州では音楽祭のシーズンが終わった頃でしたね。ひょっとして講義に興味がおありですか?
キャンパスに向かわれるようでしたら、ぜひご案内させてください。
ちょうどぼくもこれから仕事で向かうところでして」
めげずに再度話し掛けるがやはり無視。
しかし冷静になれ、汎音。
きみは彼の声を知らないはずだ。
幻覚だって喋りようがないではないか。
ぐりぐりと眉間を揉む。
現実的な話がだめなら……そうだ仕事、仕事をしよう!
書類が満載の鞄を手に取り、できるだけピアノの方を見ないようにしながら研究室を出る。
玄関に足を向けて深いため息をつくと、見覚えのない黒の革靴に目がいった。
纏う艶は息を飲むほど上品であるのに、つま先がそれぞれ別の方を向いていて、踵をすり合わせて脱いだままという感じ。
こっ、細かい。
幻覚の芸がひくほど細かい!
その先はだいたいがいつも通りだった。
スマホの専用アプリで先生方の現在地を確認しながらキャンパスやCMV周辺に点在する研究室を順に回り、雑用を返したり貰ったりする。
雑用の内容は講義で使う配布資料の作成や教材候補のリストアップ、学生や院生に課した課題の採点もしくは一次評価等が基本で、今日は懇意にしてくれている教授から愛弟子の試験の伴奏を頼まれた。
実を言うとぼくは人前でピアノを弾くことがあまり好きではないのだが、スポットライトの当たらない伴奏であれば特段拒む理由はない。
そしてその合間に、かつての同級生であり数少ない友人の一人でもあるオリヴィエに簡潔なメッセージを送っておいた。
『ぼくの研究室にアンリ・ルノワールがいる』
彼ならずばり現実的な一言でぼくを目覚めさせてくれるはずだ。
といっても彼のいるベルギーの現在時刻は早朝、返事は早くとも夕方になるだろう。
日本には友人と呼べるような友人がいないので致し方ない。
「うわあ……」
やるべきことを一通り終えて寮に戻ったぼくは、不揃いのまま玄関に放置された革靴を見て思わず呟いた。
これ、触ったらどうなるんだろう。
揃えたくてしょうがないが、万が一触れられてしまったら大変なのでひとまず見なかったことにする。
深呼吸して研究室の扉を開き、恐る恐るピアノを見やる。
ああ、いる。まだいる。閉じたピアノの屋根に肘をつき、棚の方をじっとみつめて微動だにしない、アンリ・ルノワールの幻覚が。
「ただいま戻りました」
横目がすいとこちらを向く。




