中道偉①
「どうも、西岡研の中道偉です」
「はじめまして、中道くん。講師の白汎音と申します。
どうぞ、よろしくお願いします」
そう、ここは紛れもなくぼくが住まう寮なのだが、それぞれの部屋に学生を招くための研究室が備わっている。
つまり、実技専門で講義を持っていないぼくは基本的にキャンパスへ赴く必要がない。
CMVでは常勤講師以上の教員ならもれなくこの境遇に与ることができ、勤め始めた当初は学生を迎える度に「まるでちまたのヴァイオリン教室だな」と感心したものだが、三年目に入った今ではすっかり慣れてしまった。
「ヴァイオリンの先生がハノンですか」
「よく言われますが『母がピアノ教室を開いている』と言えばだいたい察していただけますよ」
ぼくが微笑むと、中道くんは「なるほど」と言った。
どうやらヴァイオリニストを志す彼にとっても『ハノン』といえばピアノ教師御用達の教本であることは常識の範疇らしい。
ぼくはラックから来客用のルームシューズを取り出して
「一応ピアノも弾きますから、名前については女性に間違われやすい事の方が厄介に思います。
あとは、白の字が読みにくいとか」
とぼやく。
中道くんはぼくの歳にそぐわない真っ白な髪にさっと視線をやってから、どうでもよさそうに「そうですか」と言い、ぼくがセットしたルームシューズにさっさとつま先を差し込んだ。
無機質な研究室に、ブラームスの第一番――『雨の歌』の旋律が満ちていく。
ぼくの耳を刺すのは、どこの馬の骨とも知れぬ若輩講師に己の実力を知らしめてやろうという剥き出しの敵意だ。
教授の意図を測りかねながらも、ぼくはその敵意を孕んだ指先に目を光らせる。
つい左手の指使いや右手の弓使いに口を出したくなるが、それはご法度だ。
教授がぼくに求める仕事は、彼の技術の頂を弄ることではない。
底を強化し、崩れない土台を作ること。
教授が格下のぼくに繰り返し弟子を預けてくれるのは、ぼくがその境界線を決して踏み越えない男だと知っているからだ。
ぼくはピアノの屋根の上に広げていた楽譜を閉じ、二五分間の演奏を無伴奏でやりきった中道くんに微笑みかけた。
「ありがとうございます、中道くん。
おかげでだいたい把握できたと思います」
「把握? 自分の実力の話ですか?」
「それもそうですが……まずぼくが知りたかったのは、ここであなたに何を学んでいただけるか、ですね。
というわけで、早速カイザーから始めましょう。
お手持ちの教本はありますか?」
「……寮になら」
「では来週からお持ち下さい。今日はぼくのを――」
使って下さい。
言いかけた言葉を、中道くんは「ですが」と鋭く一刀両断した。
その容赦の無さに、これから彼に言われるであろう言葉を察してしまう。
「自分がここにくるのは今日が最初で最後なので、教本を持ってくる機会はありません」
「……つまり、ぼくに教わることはない、と」
「さっきのブラームスを聴いてましたよね。
白先生、ここにくる前にあなたのプロフィールを拝見しましたが、趣味でヴァイオリンを嗜まれている程度の方に、いったい何を教われと?」
中道くんの鋭い突っ込みに、ぼくは「あー」としか言えない。
もちろん、CMVのホームページに公表されている白汎音のプロフィールに〝ヴァイオリンはただの趣味です〟とは書かれてないはずだが、経歴の欄がすかすかどころかたった一行だけなのも確かで、さらに言えば、歳は二五とある。
二年生の中道くんとは五つほどしか違わないし、器楽部を卒業してから音楽学部に入り直すなんてことがざらな音大では、ぼくより歳上の学生だってそう少なくはない。
「ピエール・ヴァンデンベルヘに師事。
それが事実なら大層ご立派だと認めざるを得ませんが……自分が知る限り、彼はヴァイオリニストではなくピアニストです。
さきほどピアノも弾くとおっしゃいましたが、彼に師事しているというのもピアノの話ですよね?
まるっきり意味不明だ。周りはみんな、あなたのことをコネ講師だって噂してますよ」
遠慮もなしに捲し立てる中道くんに、ぼくは短く「そのようですね」と応えた。
「否定しないんですか?」
「ええまあ、CMV理事長のご友人であられるヴァンデンベルヘ氏に推薦状を書いていただいたのは紛れもない事実ですから。
もちろん最初はピアノで試験を受けたのですが、ヴァイオリンも受けてみないかと理事長が直々に薦めてくださいまして。
折角なので受けてみましたら、採用されたのはヴァイオリンの方でした」
中道くんはふっと鼻で笑い、視線でぼくを蔑んだ。
「無類のピアニストに師事しておきながら、趣味のヴァイオリンの方がまだマシだったということでしょうか?」
「残念ながらそのようです」
ぼくは笑顔をキープしつつ頷く。
「そうは言いましても、試験に立ち会ってくださった教授方の耳を疑うわけにもまいりませんし、コネとはいえ、最低限講師として採用されるだけの心得はあるかと。
経歴を示せない以上、趣味の範疇を出ないことも否定できませんが」
「……そうですか。いずれにせよ、ヴァイオリンの経歴に関してはコンクールでの実績がある自分が上です。
あなたにお聞かせするカイザーはありません」
そう言って、中道くんはやや投げ遣りな手捌きでヴァイオリンをケースに片し始めた。
口ぶりは冷静だが、必死に取り繕っている感じがする。
静かにきゅっと唇を噛んだ彼に、今度はぼくが「そうですか」と返すしかなかった。
レッスンに割り当てられた時間はまだ一時間ほど残っていたが、ヴァイオリンを片し終えた中道くんは挨拶もそこそこに去っていった。
はあ、やっぱり、今回もこうなってしまうのか……。
学生がレッスンを終えずに立ち去ってしまう事例は今回が初めてではない。
これまで西岡研の門下生を預かって最初から上手くいった試しがそもそもなく、指定した曲の譜読みをまったくしてこない、指導にまったく耳を貸さない――なんてのはざらで、ぼくの存在を無視して目の前で個人練習を始めてしまう、なんてこともあった。
まあ〝師事する音楽家が人生を左右する〟と言っても過言ではないクラシックの世界でぼくのようなコネ講師があてがわれてしまったのだ、それは反発したくもなるだろう。
講師の肩書を持ちながら雑用集めばかりしているぼくが音楽家を志す若者たちの目にどう映っているか、重々自覚しているつもりだ。
それでもぼくは、ワーグナーのオペラで床に就き、グリーグのフルートで目覚める西鹿村での日々に満足している。
ウィーンやパリに負けないくらい音楽に汎れるこの村と、この仕事を愛している。
そんな風に強がりながら、壁にかけてあったヴァイオリンと弓を手に取り、ゆっくりと息を吸いながら構えた。
ブラームス『ヴァイオリンソナタ第一番』。
このソナタの第三楽章には、ブラームスが生涯にわたって愛した女性、クララ・シューマンに贈った歌曲『雨の歌』のメロディが用いられている。
その美しいエピソードが発表当時の人々の胸に響いたのだろう。
引用先であるこのソナタもまた、『雨の歌』の通称で親しまれるようになった。
このソナタを奏でるとき、ぼくはどうしても愛について考えてしまう。
『雨の歌』の背景に交錯する、男と女、友、あるいは親子の情愛。
クラシック音楽の成熟とともに語り尽くされてきた普遍的なものだというのに、ぼくの手は、その欠片すら掴めた試しがない。
ぼくをこの世界に産み落とした母の愛さえ、ぼくは知らないのだ。
ううん、つい感傷的になってしまって駄目だな。
学生に逃げられた慰みにブラームスなんか始めてしまったせいだ。
弓を操りながら目を閉じると、幼い頃に過ごした子供部屋がじんわり浮かんでくる。
埃をかぶった黒いランドセル。
年季の入ったアップライトピアノ。
壁を覆い隠す本棚をびっしりと埋める無数の楽譜。
おもちゃも漫画もテレビもない――無色の四畳半。
床ごしに毎日聞こえてくる灰色の音は、間取り上その真下にあった〝つくもピアノ教室〟の生徒たちのものだ。
音は曜日と時間できっちり決まっていて、ときどき挟まる真っ白な音は、母が生徒に披露するお手本である。
ぼくはいつも、水曜の午後二時が待ち遠しかった。




