推し語り
かの有名な『星条旗よ永遠なれ』や『ワシントン・ポスト』を世に生み出したマーチ王、ジョン・フィリップ・スーザの『美中の美』という行進曲をご存知だろうか。
その標題に示される通り、数あるスーザの行進曲の中でもとりわけ美しいメロディを擁する曲として知られているが、それ自体がタイトルの由来というわけではない。
和訳前のタイトルは『ザ・フェアエスト・オブ・ザ・フェア』美人の中の美人という。
スーザは自身が率いていたバンドが毎年招待を受けていた博覧会で働く一人の美しい女性に心を奪われていた。
そして、彼女の印象を楽譜に著し、美人と博覧会に因んだタイトルをつけた。
あの美しいメロディは彼の音楽の才能とユーモアが掛け合わさって誕生したのである。
では美人の中の美人が実際どれほどのものなのか、あなたはご存知だろうか。
もちろん、ぼくは知っている。
宵の空を閉じ込めたような深い藍色の瞳、端正な顔立ちに透き通る肌、癖のない滑らかな黒髪。
肖像写真を額に入れてルーブル美術館に掛けておいたって誰も咎めはしないような――美人の中の美人。
めっきりしのぎやすくなった爽秋の朝、ぼくの一日は低い天井にでんと貼られたA2の大判ポスターの彼、アンリ・ルノワールのパーフェクトな横顔と、トレードマークのイヤリングが煌々と放つ星芒をじっくり眺めるところから始まる。
天辺から差す金色のスポットライトの下、宇宙から深海を覗くような眼差しの先にずらりと整列する白と黒の鍵盤。
その上を神が世界を手玉にとるが如く白くしなやかな十本の指を踊らせる――彼はそう、ピアニストだ。
ぼくの部屋にはポスター、ジャケット、雑誌、パンフレットにカレンダーと彼の美を収めたブロマイドがそれはもう無数に存在するにはするが――断言しよう。
ぼくはその麗らかな容貌に心を奪われているのではない。
彼に宿る美の本質とは、彼の指がピアノを介することでしかこの世に表現されることのない、唯一無二の音楽にあるのだ。
彼の音楽の何がどう素晴らしいのか、きっぱりと言語化したくともぼくの豊富とは言えない語彙では難しい。
ただ一言〝聴けば分かる〟と言えればどれだけよいか。
あなたはきっと、この世のありとあらゆる感情を、感覚を、目には見えないこの世の全てを、その耳で知ることになるだろう。
推しの主観的評価は追々にして、客観的評価についてもう少し語らせてもらっても構わないだろうか。
ぼくの推し、ピアニストのアンリ・ルノワールは、世界に名を馳せる指揮者の父とヴァイオリニストの母を持つクラシック界のサラブレッドであり、幼くして両親から受け継いだ才能を開花させた。
地元フランスでのデビューは僅か九歳。
伝説の親子共演として語られるマルク・ルノワール指揮によるピアノ協奏曲で神がかりな演奏を披露し〝神童〟と世間からの評判を得てからの十年ちょっとで積み重ねた功績は数知れない。
具体的な例を挙げるときりがないので割愛するが――コンクールに出場すれば漏れなく一位、アルバムをリリースすればクラシックとしては類を見ない大ヒットを記録、公演チケットは高額かつ高倍率――といった具合に、概要だけでもその凄まじさは十分伝わることだろう。
ちなみに九月も終盤ということで、そろそろ今年のクリスマスリサイタルの抽選結果が発表される頃だが……もちろん期待はしていない。
すべきではない。
涙を飲みたくないのなら。
推しの尊さに心を傾けながらとる朝食。
それをより優雅にしているこのモーツァルトももちろん推しの演奏だ。
推しがいる毎日、よき……っ! ――と幸せをかみしめていると、テーブルの上のスマホがぶるぶると震えだした。
シリアルを掬いかけていたスプーンを皿に戻し、オーディオの音量を下げる。
「おはようございます」
ぼくは受話器のアイコンをスライドして言った。
『おはよう白くん。急で悪いけど、今朝のご予定は?』
と電話越しに訊ねた女性は、CMVの弦楽科の教授であられる西岡桜先生だ。
ぼくはデスクに準備してある書類がぎっしりつまったビジネスバッグを見やり
「いつも通りですよ。研究室をあちこち周らせていただこうかと準備しておりました」
と答える。
『つまり、いつもの雑用集めね』
「ええ、まあ……」
苦笑いのぼくに、彼女は電話越しに呆れたようなため息を返した。
ぼくはこれでもCMVの講師だ。
教授や准教授の雑用を引き受けるのは当然として、他の講師や助教の雑用まで集めて周っている事を窘めてくれているのだろう。
お心は有り難いが、コネだけで採用されたコネ講師のぼくが役に立てることといったら雑用くらいなのだ。
どうか許していただきたい――なんて思っていたら
『ま、今日のところは許しましょう』
と言ってくれた。
『おかげで助かりました』
「そうおっしゃるということは……また、ですか?」
『さすが白くん、察しが良いわね。
彼には今日から白研へ行くよう伝えてあります。
細かいことは言わないから、いつもの感じでよろしく』
彼、というのは西岡門下の学生さんに違いない。
今朝の予定を聞かれた時点で覚悟を決めていたぼくは
「はい、よろこんで」
と即答した。
今回はどんな波乱が待ち受けているのか、つい気を重くしてしまうが、コネ講師にとって専科の学生を預からせてもらえる機会は、言うに及ばず貴重なのだ。
断るという選択肢はない。
さて、そろそろCMVについて触れておこう。
ぼくの雇い主であるCMVは正式名称を〝サイカ・ミュージック・ヴィレッジ〟といい、東京都西鹿村にキャンパスを構える山間の音楽大学である。
新宿から車で一時間半ほどの距離にある西鹿村はCMVを中心に街が広がっており、住民の多くを占めているのが学生や院生、教職員をはじめとするCMVの関係者とその家族だ。
ゆえに音楽を学ぶための村と呼ばれ、毎年春になると全国から受験を勝ち抜いた高校生が、秋になると学生が越してきて、卒業や修了と共に去っていく。
もちろん、脱落という例も少なくはない。
何を隠そう、今年二十歳を迎えたあのアンリ・ルノワールもCMVの二年生である。
しかし惜しいことに、全単位を免除されている特別生の彼がキャンパスに姿を現すことはまずないと言っていい。
有り体に言えば、近年のクラシックブームの火付け役である彼の人気にCMVがあやかっているだけなのだが――そのおかげでピアノ科では五割、他の科や学部では二割ほど受験生が増えたというから馬鹿にならない。
一限の開始時刻は午前九時。
定刻ぴったりにチャイムが鳴り、ぼくは玄関で「よし」と気合いを入れ直す。
開いたドアの先には、いかにも真面目そうな青年が片手にカーボンのヴァイオリンケースを下げて立っていた。




