底なし沼
ホール二階席。
その後方でラヴェルの『ピアノ協奏曲ト長調』を鑑賞していたある青年は、第三楽章が終わるやいなや、何かにどんと背を叩かれたかのように素早く立ち上がった。
事実その背を叩いたのは、二〇〇〇を越える客席を震撼させた最後の一音、バスドラムのフォルティシモである。
青年はきょろきょろと後方を見回し、いち早く視界に入った扉にむかって駆け出した。
その背を追うように上がった拍手は虚しくも疎らだが、今の演奏が観客を失望させたわけでは決してない。
悪いのは全て、この世界に蔓延っている新型感染症の脅威だ。
無観客――四年に一度の格式高い国際ピアノコンクールとて、その決断なしには実現しなかった。
彼が飛び出していった大理石のホワイエは、異様なほど静まり返っていた。
しかしそれとは対照的に、彼の胸にはまだ、ラヴェルの音楽がまるで天啓のように響いている。
縄の上を命綱なしで飛んだり跳ねたりするようなスリリングなピアノ。大技をこれでもかと囃し立てるオーケストラ。
少しのミスが命取りになるような緊張感をむしろ楽しんでいるかのような第三楽章は、彼の心を幼子のように躍らせ、夢中にさせた。
どこに行けばあのピアニストに会えるだろう。
しばらくホワイエをさ迷っていた彼の耳に聞こえてきた楽しげな話し声。
手摺まで駆け寄って下のフロアを見下ろすと、そこにようやく、あのピアニストの姿を見つけることができた。
フランス語で談笑する人の輪の中に、ついさっき出番を終えたばかりの、彼がいる。
今すぐ目の前の階段を駆け下りて話しかけたい!
さっきの演奏がいかに素晴らしかったか、あのフレーズが!あのパッセージが!この心をどれほど揺さぶったか、伝えたい。
それは、これまで彼が生きてきた世界にはない、猛烈な衝動だった。
ところが青年と彼とを隔てている灰白の階段は、青年にとって断崖絶壁も同然だった。
彼はまだ、あのピアニストの視界に入っていない。
怖気づいている間に行ってしまうその背中を、どうすれば呼び止められるだろう。
どうすれば気づいてもらえるだろう。
そもそも伝えるなんてことが果たして自分に可能のか、まったくもって自信がない。
まるで底なしの沼に足を踏み入れてしまったかのように、少しも身動きが取れなくなってしまった。
それから二年が過ぎた。
青年はあのときハマった沼の、もっと深くに沈んでいる。




