都るつ①
開いたドアからひょっこり顔を出したのは、ヴァイオリンケースを背負った女の子、今日のぼくの生徒さんだ。
黒々としたセミロングの毛先がくるっと内に巻いていて、目はくりっとして大きい。
垢抜けていない印象と目算で背が一五〇センチ程度しかないのも相まって中学生くらいにしか見えないが、これで立派なCMV高等課程の三年生、しかし服装は制服ではなくガーリーな私服だ。
俗世から隔絶された西鹿村では道端でいちいち身分を主張する必要がないのである。
「都さん、いらっしゃい」
「きょっ、今日も、よ……よろしくお願いします……っ!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
高等課程は一般的な四月始まりで、六月頃からここに通い始めた都るつさんのレッスンはそろそろ十回目を数える。
今なお慣れるまで唇が真一文字になってしまうのは、彼女が極度のあがり症だからだ。
弦楽科でヴァイオリンを専攻している彼女は中道くんと同じ西岡研から送り込まれてきたのだが……恒例の最初のトラブルは、ぼくが視線を合わせると真っ赤になって固まってしまうという風変わりなものだった。
初回の九〇分をまるまるぼくという存在に慣れてもらうことに費やしたのは怠惰などではけしてなく、外しようのない段取りだったと言わせてほしい。
「どうか楽にしてくださいね」
できるだけ柔和に微笑みかけるが、今日も今日とて、ますます顔を赤くしてしまっただけだった。
演奏家にとってあがり症は致命的な欠点であり、頭を抱えている学生はごまんといる。
だれもがフィンランドの大音楽家シベリウスのように「人前で演奏できないなら作曲で大成する」というわけにはいかないのだ。
なんとか都さんをステージに立たせてあげたい。
そう思いながら彼女の準備が整うのを待っていると、唐突に彼女の口から「きゃっ!」っと短い悲鳴が上った。
この頃は生き物が過ごしやすい気候である。
研究室に虫でも入り込んだかと急いで様子を窺うと、彼女は慌てふためくでもなく、ヴァイオリンを手にしたままピアノの方を見て固まっていた。
無論そこにいるのは、虫どころかぼくの生きる喜びそのものだ。
「ああ、驚かせてしまって申し訳ありません。ぼくから先にお伝えしておくべきでしたね。
都さんは特別生のアンリ・ルノワール氏をご存じですか?
今日は特別にそのご本人がいらっしゃっています」
他にどう説明しろと?
氏はやはり知らん振りを決め込んでいるが、他学科の学生が無許可で居座っているという事実だけをかいつまめば不審者だ。
しかしぼくは、彼の身元も音も、声の他は何だって知っているくらいの気持ちである。
「え、と、学部のパンフレットで見て知ってます!
あと、録音も聴かせてもらったことがあります。
友だちがルノワールさんのことを、えっと、その……おおっ、推してて……!」
「左様でしたか。レッスンの内容に変わりはありませんので、どうか普段通りにしていただけると幸いに思いますが、都さんが気になるようであれば遠慮なくおっしゃってくださいね」
「いっ、いえ、とんでもない!
失礼な反応をしてしまって、すみませんでした……」
「あなたが謝ることではありませんよ。
ご理解いただけたようで、ありがたく思います」
ぼくが小さく頭を下げると、都さんは首をぶんぶんと左右に振った。
「では、今日も音階練習から始めましょう」
言いながら、原始的な三角錐のメトロノームの巻きかぎをぎりぎりと回す。
遊錘を六〇の目盛に合わせて手を離すと針が左右に振れ、アナログ時計の秒針と同じ速さでカチカチ音を鳴らし始めた。
都さんは集中して音を聞きながら、ゆっくりとヴァイオリンを構える。
「今日はエードゥアでしたね」
「……はい」
こわごわとヴァイオリンの渦巻きを上下させた都さんの両手には、相変わらず余計な力が入ってしまっている。
ぼくがやんわりと指摘すると、都さんはせっかく構えた弓を慌てて下ろし、恥じ入るように唇を引き結んだ。
……ふむ。
「やはり弓と指を思い通りに動かそうと意識しすぎているのかもしれませんね。
まずはここで普段通りの演奏ができるように、イメージの練習もしておきましょう。
たしか、自室で練習されることが多いとおっしゃっていましたね」
「えっと……はい、他ではあんまりしない、です」
「でしたら丁度いいかもしれません。目を閉じて、普段練習されている部屋の風景を思い浮かべてみてください」
都さんは言われるがまま目を閉じる。
「はい、できた……と思います」
「では、そこに都さんご自身を置いてみましょう」
「わたしを……ですか?」
「はい。自分の立ち姿なんて案外見慣れないものですからね、難しければヴァイオリンを持ったテディベアとかでも構いませんよ。
できるだけ自己投影しやすいものを置いてみてください。
これからヴァイオリンを弾くのはあなたではなく、頭の中にイメージした都さんです。
あなたは、彼女を俯瞰で見守るだけで大丈夫です」
目を閉じたままこくりと頷く都さんを「さあ、いつでもどうぞ」と促すと、彼女はヴァイオリンを構え直して大きく息を吸い上げた。
一拍息を止めてゆっくりと弓を引き、音の階段を上り始める。
アドバイスの成果はというと……うん、イメージに気を取られているのか、むしろ音が固くなってしまっているが、最初はまあ、こんなものだろう。
ぼくがこの方法を試したときもそうだったが、これはこれで訓練が必要なのだ。
音階練習の目的は、ただ譜面通りに弾くことだけではない。
基礎的な弓の動作がきちんと保てているか、細かい所までチェックして、引っかかる箇所があれば巻き戻してもう一度……といった具合だ。
これがなかなか集中力と根気が必要で、しっかり練習してから来てくれる都さんの真面目さがよく知れる。
九〇分のレッスンの半分が音階だなんて言われたら、中道くんでなくともUターンしてしまいそうなものなのに、都さんは嫌な顔一つしない。
というかむしろ、毎回音階の後半に入ったあたりでちょっといい顔になるのだ。
イメージのコツが掴めてきたのか、はたまた忘れて没頭しているのか、今日は顔つきが変わり始めるのがいつもより少し早い。いい顔のときの都さんは音もいい。
変に意識してしまうと良くないだろうと彼女には伝えていないが、ステージに立った瞬間にこの顔をさせることがぼくの目標であり、役目なのだ。
都さんが研究室を去ったあと、ぼくはゴディヴァの棚を見つめ、首を傾げていた。
とても一人では消費しきれない量のチョコレート菓子が毎月補充されてしまうので、レッスンを終えた生徒に少しずつ引き取ってもらっているのだが……さきほど都さんに渡そうとしたところ、なんと一つ残らず消えていたのだ。
うーん、昨日見たときはまだまだ残ってたんだけどなあ……周囲の棚をあさっては頭を捻っていると、ルノワール氏がそっと立ち上がり、そのまま外へと出かけていった。
ぼくはゴディヴァの謎をいったん放置し、たった今空いたピアノ椅子に腰を落とした。
ほんのり温かい……




