ノエル
勢いよくエントランスに突入したぼくは、満天の星を模した天井の下、雪のように真っ白な床の上を滑るようにつっきりゲートに向かった。
開演時刻まではあと三分をきっている。
当たり前だが、人気はほとんどない。
サンタ帽を被ったレセプショニストの男性に早口のフランス語で謝罪を申し述べつつ譲ってもらったばかりのチケットを懐から取り出して渡す。
しかしどうしてか、受け取った彼の目線は手元のチケットではなくぼく。
「急いでいるのですが、ぼくの顔に何か?」
つい声に苛立ちが滲む。
「こちらで少々お待ちください」
彼はチケットを持っていない方の手で床を指し、カウンターの方へと行ってしまう。
出演者への贈り物を預けたり、当日券があれば販売したりするところだ。
「え、ちょっと、この状況で何を待てと?
半券をください! 分かりますよね? 急いでるんです!」
ぼくの要求を無視してカウンターの内側へ移動したレセプショニストは、あろうことか悠長にスマホで通話を始めた。
まるで意味が分からない!
――ので放っておいて、ベルトパーテーションで仕切られているだけのゲートの先に進もうとしたところ、今度は頭にトナカイの角を生やしたスーツの男が無言でぼくの前に立ち塞がった。
二本の茶色い角は見るからに布製で恐れるに足りないが、それに似合わぬ強面で、何よりぼくなんかワンパンでふっとばしてしまえそうな屈強な図体の持ち主だった。
「ここを通してください」
厳ついトナカイは威嚇するような低い声で「ノン」と言った。
「チケットをお持ちでない方はお通しできません」
「いや、あなたもご覧になってましたよね?
あちらで通話されているサンタの彼にお渡ししましたよ。ほら――」
と指で示した先には、なんと女性のレセプショニストが一人いるだけだ。
彼女の頭にもサンタ帽が乗っているが、男の姿はどこにもない。
さっと血の気が引くのを感じ、ぼくは一目散にカウンターまで駆け寄った。
「こちらで通話されていた男性はどちらに?! ぼくのチケットは――」
女性は困り顔で首を横に振る。
「あいにく業務に集中しておりまして、いらっしゃったのにも気が付きませんでした。
本当にこちらで通話を?」
「そんな……馬鹿な……」
ぼくは「焦るな」「落ち着け」と自分に言い聞かせながら腕時計を見た。
午後七時ジャスト。
リサイタルが時間ぴったりに始まることはまあないが、仮に今ゲートを突破できたところでホールの中に入れるのは一曲目が終わった後になるだろう。
焦るな。落ち着け。焦るな――
「こんなの落ち着いてられるか! くっそお!」
「お静かに」とぼくを窘めるトナカイに「パルドン」と詫びてから「このやろう」と日本語でにこやかに付け足す。
チケットを持ち去った男がいないか、今一度エントランスを見渡す。
すると、シルバーとゴールドでシックに飾りつけされたツリーにぶら下がる〝Joyeux noël〟の白い文字が目に入った。
これが楽しいクリスマス?
冗談だろう。
ぼくはきつく唇を噛みしめる。
それから女性スタッフにぼくのチケットを持ち去った男を呼ぶようしつこく交渉したが、何を言っても首を横に振られるばかりでまったく埒が明かなかった。
ゲートの防衛に隙ができるのを待つしかなくなり、静まり返ったエントランスでひたすらトナカイと睨み合っては罰当たりな日本語を吐くの繰り返し。
そうこうしているうちに数十分が経ち、ゲートの向こうに見えているホワイエがざわつき始めた。
前半のプログラムが終わり、心地よい気分に浸りながら軽くワインでも嗜もうと聴客のみなさんがホールから出てきたのだ。
浮ついた雰囲気が遠目にも有り有りと伝わってくる。
さて、かつてこれほど余人を妬んだことがあっただろうか。
ぼくは初めて口にするような不届きな言葉を吐き、膝を叩いた。
いやしかし、今ならどさくさに紛れて突破できるやも――ゲートを注意深く観察していると、ぼくのスマホがぶるぶると震えだした。
ああもう、こんなときに誰だよ!
念のため手に取ったスマホの画面に表示されている発信者の名前は――
「マダム?」
『リュックがそっちに向かってる!』
「……クワ?」
『ここの見取り図を送るから、印の場所まで来なさい。
とにかく今すぐ外に出て! 急いで!』
ぼくはエリーズ嬢に言われるがまま外に飛び出し、画像で送られてきた印の場所に向かうべく階段を駆け下りてライトアップされた建物の外から地上階へ向かった。
さすがにサンタやトナカイが追いかけて来ている気配はない。
エントランスでクレーマーをしている間に死ぬほど考えたことだが、彼らはみんな性悪マネージャーの手先だったのだろうか?
手の込んだ根回しまで必要な、知ればなおさらチケットが手放せなくなる事情って、いったい――
たどり着いた印の場所は、楽屋や舞台袖に直結する関係者専用の通用口のようだった。
そう書かれているわけではないが、搬入口がすぐそこに見えているのでステージの近くであることは間違いない。
警備員は配置されていないようだが、金属製の白い両開きの扉にはロックがかかっており、解錠にはIDが必要なようだ。
まさかここから?
クエッションマークは積み重なるばかりである。
息を整えつつスマホを手に取る。
履歴からエリーズ嬢にコールしようと操作していると、目の前にある扉の片側ががたんと内側から開いた。
その向こうからは真っ赤なドレスとルージュ、ホワイトパールのアクセサリーでおめかししたエリーズ嬢が姿を現した。
補色の瞳が際立つこの配色はいわゆるクリスマスカラーだ。
しかし華はあれど俗っぽさがない。
ぼくは「美しい。とてもお似合いですよ」と言わずにはいられなかった。
「なあ……っ、あったり前でしょ!
無駄口叩いてないで早く中に入って!」
手首を強く引かれて中に足を踏み入れる。
カシャとオートロックの音。エリーズ嬢は手に持っていたIDをぼくの首にかけ
「ワタシのだけど、持ってなさい」
と言った。
彼女は顔パスで問題ないとのことだった。
楽屋と舞台袖を繋ぐ通路はどの劇場でも似たようなものだ。低い天井、つるつるの床、通行を妨げるような物はいっさい無く、角には衝突防止のカーブミラー。
脱いだコートとマフラーを腕にかけつつ前を行くエリーズ嬢に続く。
走ってじんわり汗までかいているのに、壁の向こうから漏れ聞こえてきたプログラム後半の一曲目、ラフマニノフの鐘の音に肌がぞわりと粟立った。
「ちょうど今、二部が始まったみたいね。
アンタの席は上手側一階のテラス席で間違いない?」
ぼくは頷く。
一階なのにテラス席?と思われるかもしれないが、フランスの地上階は日本と違って〇階なのだ。
そしてエリーズ嬢は、地図を送ってくる際にぼくの席番号を訊ねていた。
ぼくが伝えたのは麗子さんに譲ってもらった方だ。
アンリから貰った方も中央席前方のいちばん高い席だったが、性悪マネージャーに控えられているため他の誰かが埋めている恐れがある。
それに――
「アイツがアンタに特等席を用意しないわけないものね」
特等席。つまりはそういうことだ。
ぼくはエリーズ嬢の誤解を解きつつ、勝手知ったる様子でプライベートエリアをすいすい進む彼女を早足で追いかける。
ルノワール一家にしてみれば、ここはもう一つの家のような場所なのかもしれない。
その間にぼくは訊ねた。
「そういえば、マダムはぼくが困っていることをどうやってお知りになったのですか?」
「そう、それよ。アンタ、アンリとちゃんと連絡取り合ってんの?」
「まさか。連絡先を知らないので取りようがありません」
改めて思い返すと不思議な話だが、三か月近く同じ屋根の下に暮らしていて、これといった不便を感じたことはなかった。
こんな例えしか思いつかないのは我ながら遺憾だが、天才ピアニスト・アンリ・ルノワールではない、ただのアンリは、お金持ちの家から家出してきて勝手に居ついた黒猫のようなものだった。
猫にメロメロになる同居人はいても、連絡先を交換しようとする人はいない。
「……クワ?」
エリーズ嬢はぴたりと足を止めて振り返った。
「それでワタシがパシられてるってワケ?!
信じらんない。ほんっと、いい迷惑!
アイツ、普段こっちが連絡したって全然返さないくせに、よりにもよって幕間によ、珍しく連絡を寄こしたと思ったら〝アノンを探せ〟って、兄妹を召使いかなんかだとでも思ってんの?!」
彼女の怒号を聞いて、ぼくは言葉を失う。
たった一行のメッセージひとつでここまでしてくれる彼女も彼女だが――
「それは、アンリが待っているということでしょうか……?」
「単なるワタシへの嫌がらせでなければね」
ふんっと鼻を鳴らして早足を再開する彼女に続く。
胸がざわついて仕方がない。




