斎藤麗子
フランス北東の果て、リールという街は、パリから車で片道三時間、ぼくの第二の故郷ブリュッセルまで二時間という位置にある。
これといって他にすることのないぼくは、リールの新居まで軽トラックのドライバーを引き受け、荷下ろしまで手伝うことになった。
おかげで移動中にもたっぷり話すことができた。
ぼくと斎藤さん……アンリの事とか、麗子さんと、アンリの事とか。
家出少女だった麗子さんと公演で来日していたマルク・ルノワール氏が出会ったのは、アンリが生まれる少し前、東京の繁華街にあるショーパブでのことだった。
年齢を偽って歌姫をしていた麗子さんは、客として店を訪れていたマエストロに見初められ、倍以上歳の離れた彼と一夜を共にしたのだそう。
体の関係をもったのはその一度だけだったが、連絡は頻繁に取っていたようだ。
麗子さんの声に惚れ込んでいた氏は彼女をフランスに呼んでオペラを学ばせようとしたが、義務教育すら終えていない家出少女を国外に連れ出すわけにもいかず断念し、麗子さんの成人を待つという話までしていた。
「私もまあまあ乗り気でね、勉強なんかこれっぽっちもしたことなかったのに、フランス語教室に通ってみたりして。
でも、すぐにその話はご破算になった」
アンリの存在が発覚したからだ。
麗子さんは一五歳でアンリを出産し、マルク氏の援助を受けながら日本でアンリを育てた。
フランスの名前を与えたことや物心がつく前から鍵盤に触れさせたことは氏の意向だったようだが、麗子さんに異論はなかったという。
「ピアノは私も応援してたのよ。上手に弾けるようになったらフランスのパパに聴いてもらおう、たくさん褒めてもらえるようにたくさん頑張ろう――ってね。
声が出せなくても、音楽の世界ならのびのびと生きられる。そう思っていたから。
それに、あの子はあっという間に上達した。
きみも知っての通り、五歳でベートーヴェンのソナタも、ショパンの練習曲も弾きこなした」
ああ、よく知っている。今でも鮮明に覚えている。
しかし、弾いているのが五歳の子供だなんて、あのときは夢にも思わなかった。
「白先生の仕事もとても素晴らしかった」
すんとなるぼくをおいて話は続く。
そしてその日はアンリが五歳のうちにやってきた。
約六年ぶりの来日、お忍びで息子と初対面を果たしたマエストロは、アンリが抱える発声の問題に大きなショックを受けた。
しかし幼いアンリのピアノが彼に与えた衝撃は、そのショックをまるでなかったことにした。
「レイコの喉に宿った才能はこの子の指にしかと受け継がれた。
君が産んだのはモーツァルトの生まれ変わりだ」
そう語り、たった一度の演奏を耳にしただけで実の息子であるアンリを養子としてルノワール家に引き入れる決断をしたのである。
かくして二人はパリに渡った。
当初は麗子さんもアンリと共にルノワール邸で暮らしていたそうなのだが、そこでの生活は順風満帆とはかけ離れていた。
ルノワール邸のもう一人の主人、氏の正妻であるオレーナ・イヴァノヴナが受け入れられなかったからだ。
マダム・オレーナは麗子さんとアンリの二人を徹底的に冷遇した。
まともな食事や衣服すらろくに与えず、屋敷の住人と口を利くことすら許さなかった。
二人を塗炭の苦しみから救えるのはマルク・ルノワール氏の他になかったが、年がら年中世界を飛び回っている彼の耳に入ったところで根本的解決に至ることはなかった。
「彼をあまり悪くは言いたくないけど、彼女も被害者だったのよ」
と麗子さんは言った。
「仕方なくあの子を連れて逃げようと準備を進めてたんだけど、長男がこっそり私のところにきてね『弟ひとりなら守ってやれるから、あなたは身を引いてはどうか』って提案してくれたわけ。
正直ありがたかったわ。あの子にピアノの才能があるのは私にも分かったけど、私一人じゃどうにもしてあげられなかったから」
〝立派なピアニストになったら必ず迎えに行く〟そう約束して、麗子さんはルノワール邸を去った。
そして母の言葉を幼気に信じたアンリは、一五年もの間待ち続けることになるのだ。
「本当にこのまま、アンリとの縁を断ってしまわれるおつもりですか? アンリとの約束は?」
訊ねたぼくに、麗子さんは
「女が子供を産んだからってね、必ずしも母親になれるとは限らないのよ」
ときっぱり返した。
その言葉はぼくにとって理解を示せるものでは全くなかったが、それ以上は何も言わなかった。
死んでも母親にはなれないぼくが何を説いたところで彼女の心に響くことはないだろう。
ぼくの母も同じだったのだろうか――なんとなく当て嵌めて考えようとして、やめた。
人によって心に響く音楽が異なるのは、たとえ生まれや育ち、見た目や属性が似通っていても、人の数だけ心があり、その状態も刻一刻と移ろうからだ。
一括りにできるものなど、ひとつとしてない。
そんなこんなでパリに戻ってレンタルした軽トラックを返却する頃にはきわどい時間になっていた。
現在時刻は午後六時五〇分。
目の前には、なんというか、宇宙から飛来してきたようなメタリックで不思議な形をした巨大建造物がアッパーライトで青白く浮かび上がっており、そこに向かうぼくの少し前を、ばっちりフォーマルなメイクと服装にトランスフォームした麗子さんが、吹き荒ぶ横風を肩で切りながら歩いている。
ちなみにぼくは今朝からずっと黒が基調のスリーピースだ。
当初の予定では力仕事でも長距離運転でもなく、芸術鑑賞をするはずだったので。
あと一分もあれば到着するであろう目的の建造物の正体は、数年前に完成したばかりのパリで最も新しいコンサートホールだ。
杮落とし以降、クリスマスにアンリ・ルノワールによるリサイタルが催されなかったのは新型感染症が街をロックダウンさせた年のみであり、今年は無事に開演時刻の午後七時を迎えようとしている。
「麗子さん」ぼくは街灯の下で足を止め、やや声を張り上げて前方の彼女を呼び止めた。
実はまだ、彼女に会っていちばん伝えたかったことが伝えられていない。
風になびく長い黒髪を押さえながら振り返った麗子さんは、目的地を目前に足を止めたぼくを見るなり首を傾げた。
「何? もう開演まで一〇分もないわよ」
「はい。ですから、一言だけお伝えさせてください」
とぼくは言った。
「ぼくが今日までピアノを続けてこられたのは、麗子さん、あなたのおかげです。
同じ道を進んでいれば、いずればったり会うこともある――あなたのあの言葉がなければ、ぼくはとっくにピアノに背を向けていたでしょうし、アンリとの再会も絶対に叶いませんでした。
なんと感謝申し上げればよいか……ぼくにはおよそ相応しい言葉が浮かびません。本当に――」
「大袈裟ね」
彼女は渾身の謝儀を最後まで聞かずに一蹴した。
「今さら礼を言われるほどのこと? そんなことより早く中に入りましょ。
まさか、チケットが無いなんて言わないわよね」
失った要因の半分は、その大袈裟で今さらな謝儀を申し述べるためだったと言っていい。
正直に白状しようものなら心底呆れられそうな雰囲気だが、目的を果たした今のぼくには一縷の後悔もない。
「ありません。昨日まではあったのですが、少々とちってしまいまして」
どうにか救出して乾かした残骸が手元に残っているにはいるが、元が高価なチケットであったとはとても知れようがないほど見る影を失っている。
席を判別する記号も真っ赤なアルコールに溶けて消えてしまった。
昨晩ホテルのベッドであれほど泣いたのに、また泣きそうになりながら無理やりはにかんで手袋を外す。
ジャケットの内ポケットから取り出したのは、小さなベルベットの巾着だ。
「これ、ぼくの代わりに返してきてもらえませんか。
一点物ですので、公演が終わってから関係者にお見せすれば理解していただけるかと」
巾着を受け取った麗子さんは、中のイヤリングをしばし見つめた。
留め紐を縛り直し、ひときわ大きなため息をつきながら右の手袋を外す。
真っ赤なエナメルのハンドバッグに差し入れ、出てきたその手は、昨晩犠牲になったチケットと同じ柄のチケットを掴んでいた。
冷たく吹き荒ぶ風が今にも攫っていってしまいそうで、とても見ていられない。
「一日手伝ってくれた礼よ。持っていきなさい」
と彼女は言った。
「なっ……何をおっしゃいますか!」
ぼくは慌ててチケットを掴む彼女の手ごとバッグへ押し返した。
「こんな貴重なもの、ぼくなんかが受け取っていいわけがありません。
ぼくみたいに失くしたら事です。しっかりしまっておいてください」
「いいのよ。実質タダみたいなものだから」
「無料……?」
「長男から受け取った手切れ金をこれに使った」
ぼくは息を飲み、声を張り上げて返す。
「だったらなおさら……!」
つい声を張り上げるぼくを彼女は制し、再びバッグから取り出したチケットと巾着をぼくに無理やり握らせた。
唖然とするぼくを他所に、彼女は続ける。
「私はこれのために彼からお金を受け取ったんじゃない。あの子との縁を完全に断つためよ。
あえて高い席をオークションで落札したのはね、手切れ金の使い道に丁度よかったってだけ」
「でっ……でも……」
問答しているぼくたちの傍を別の客が脇目も振らずに追い越していく。
演奏中の出入りを禁じられているクラシックのコンサートに遅刻することほどもったいないことはない。
「ああもうっ! つべこべ言ってないで、今すぐこれを持って客席に行くの!
あの子がステージの上で待っているのはきみであって、子供を捨てたろくでもない女じゃないはずよ。
それともきみは、私があの子のために何かをしてあげられる最後の機会を奪うつもり?」
「麗子さん……」
ぼくたちは互いの手のひらでチケットをサンドしたまましばらく視線を交わしていたが、その眼差しに逡巡の兆しがないのを見て、ぼくは明らかに分がないことを悟った。
白旗を上げてチケットと巾着を慎重に受け取り、ジャケットの内ポケットに差し入れる。
「いつかアンリが望んだそのときは、ぼくが彼をリールの街まで連れて行きます。
ですから麗子さん、今度はあなたが待っていてください」
そもそも次にアンリと話せる機会があるかどうかも分からない。
それでも――
「この御恩を返せる日が来ることを、ぼくは信じています」
「引越を手伝ってくれた礼だって言ってるのに」
やれやれと首を振り、はにかむぼくの背を勢いよく叩く。
「さあ、早く行きなさい。あの子が待ってる」




