引越
翌朝、パリ・ノール駅から地下鉄と徒歩で三〇分のベッドタウン、片側一車線の細い通りには、石造りの古いアパルトマンを見あげる怪しいアジア人がいた。
ぼくだ。
今日にも越すということなので念には念をと早めにホテルを出たら日の出前に着いてしまった。
休日ともあって訪ねるのはせめて窓に明かりが見えてからにしたいが、これではいつ通報されてもおかしくない。
昨晩のホテルが超特急でクリーニングしてくれていなければ、とっくにお縄にかかっていただろう。
相場の倍のチップを渡したが、さらにその倍でもよかった。
「八時か……」
くそう。日本ならとっくに明るいのに……!
他で時間を潰そうにも、その間に部屋が引き払われてしまったらと思うと踏み切れない。
どうしたものかと狭い歩道を右往左往していると、折よく目的の部屋の窓にぱっと明かりが灯る瞬間をとらえた。
文字通り光明を得たぼくはほっと胸を撫で下ろし、階段でワンフロア上がってから通りに面した部屋のブザーを鳴らした。
応答を待つ間にドアプレートに掲げられている大文字のアルファベットをじっと見つめる。
日本にありふれたそのファミリーネームは、ルノワール氏が彼の名刺の裏に住所と並べて記してくれた氏名とぴったり一致していた。
ガチャン、と金属製の扉が一〇センチほど開く。
「キエス?」
元々すこぶる緊張していたのもあるが、隙間から覗いた彼女の強烈な印象にぼくは思わず息を呑んだ。
ファンシーな薄ピンクのネグリジェの上にクリーム色のもこもこガウンという格好も非常に男心を擽るが、それより何より首から上だ。
そこにある顔は、アジア人としての特長を保ったまま華を持たせるだけ持たせたような――肖像写真をルーブル美術館に掛けておい誰も咎めないであろう、非の打ち所のない美しさだった。
「おはようございます」
日本語の挨拶に彼女ははっとする。
「非常識な時間に押しかけてしまい、たいへん申し訳ありません。
ぼくは日本から参りました、白という者です」
「日本……つくも……」
「はい。あなたは斎藤麗子さん……ですね」
そして、たった一度だけお目にかかった記憶の中の斎藤さんとそっくりそのままだった。
一五年前はずっと大人に見えたが、今はぼくと同じか、少し上くらいに見える。
「そうだけど、私に何か?」
「不躾なのは存じております。決して怪しい者ではありません。
ほんの少しで結構ですので、お話できないでしょうか?
覚えておられないでしょうが、昔……一五年ほど前に、ぼくはあなたにお会いしたことがあるのです」
麗子さんはゆっくりとドアの隙間を広げ、ぼくの顔と頭をじっと見た。
それから「入って。散らかってるけど」と言ってノブから手を離した。
彼女の言う通り、玄関から一つ扉を抜けて通されたリビングには段ボール箱がいくつも積まれていて、中にはまだ封がされていない箱もちらほら見えた。
「ごめんなさいね。ちょうど今からこの部屋を引き払うところなのよ。
夜に用事があって、夕方までに済ませないといけなくて」
「……実を申しますと、今日越されることは存じておりました。
行き違いだけは避けたいと思い、無礼を承知でこのような時間に……」
その上荷造りで忙しいタイミングでもある。
恐縮の至りなぼくは深々と頭を下げ、陳謝を繰り返した。
「頭を上げなさい」
麗子さんはでんとソファに腰を沈め、ごった返した部屋を見渡しながら言う。
「見ての通り、このあと荷造りやら荷運びやらごみ捨てやら掃除やら、骨が折れる仕事が盛り沢山なの。
つまるところ、ちょうど男手が欲しかったのよね。
手を貸してくれるなら話を聞くわ」
「もちろんです! なんなりとお申し付けください」
胸に手を添えて恭しく頭を下げると、麗子さんは封がされた箱を玄関にまとめるようぼくに用命し、ローテーブルの上に置かれていたタバコに火をつけた。
ぼくがせっせと仕事に取り掛かるのを窓際でゆったり煙をふかしながら監督し、火を灰皿に押し付けると別室に消えていった。
二〇分ほどで軽い身支度を済ませて戻って来た麗子さんは、話は手を動かしながらでいいでしょと言い、さっさと荷造りの続きをし始めた。
段ボール箱の運搬をあらかた終えていたぼくは彼女の采配でバケツに水を汲み、拭き掃除に取り掛かる。
「先に確認しておきたいのだけど、私のことはどこで?」
「パリで、ルノワールさんに伺いました」
麗子さんはぴたりと手を止め、わかりやすく動揺を示した。
「その……お兄様の方の……」
彼女は「ああ……」と呟き、再び手を動かし始める。
ぼくにはほっとした「ああ」と、いろいろ察せられた「ああ」が混じり合った呟きのように聞こえた。
「なら、あの子にも会えたのね」
と彼女は言った。
「えっ……?」
「一五年前、って言ったっけ? あなた、私にまた会えるかって訊いてきたでしょう」
「まさか、覚えていらしたのですか……? というか――」
これはもう、間違いない!
「オーモンデュー……」
床に崩れ落ちたぼくは、落とした雑巾と見分けがつかなくなっているに違いない。
よろよろと姿勢を戻し、ぽかんとしている麗子にさんに「三ヶ月ほど前に、日本で」とだけ答えた。
濯いで絞りなおした濡れ雑巾で空っぽのキャビネットを拭きながら、心の中で「オーララー!」「たいへんだ!」と似たような言葉を繰り返す。
雑巾を握る手はひたすら同じところを拭いている。
どうやらぼくは、とんでもない思い違いを二つ重ねたままにしていたようだ。
斎藤さんがつくもピアノ教室を去ったあの日、玄関先でまみえた女性は、ぼくが恋い焦がれた斎藤さんではなく、斎藤さんの母、麗子さんだった。
そして、そもそも彼女……いや、彼は、母のカレンダーの法則では斎藤くんと呼ばれるべき生徒だった。
これはぼくというより母の勘違いだ。
一〇歳の息子が呆れるほどのド天然だった彼女にすれば、アンリの名前と容姿はたいそう紛らわしかったことだろう。
アンリはぼくが気づくことに賭けて、リサイタルのチケットをあの楽譜に挟んだのだ。
恐らくは、彼がぼくの研究室にやってきたその日のうちに。
ああ、ぼくはなんてアホなんだ! 鈍感なんだ!
アンリがことあるごとにぼくを罵るのも無理はない。
「推しの音を聴き分けられる」と高を括っていながら、偶然『愛の夢』を手に取るまで疑いもせず、こうして確かめるまで確信を持てなかった。
なんなら二年前、ベルギーで初めてアンリ・ルノワールの演奏を耳にし、彼の音楽がこの胸に響いた、あの瞬間に気付いたってよかった。
人生の半分以上追いかけていた〝斎藤さんと再会する〟という夢を、ああもきっぱり諦めようとしたぼく。その感性を、あの場で追求してさえいれば――
「きみのことはよく覚えているわ」
と麗子さんは言った。
「あのとき私、あの子が泣くのを初めてみたのよ」
「アンリが……?」
「ええ。私はそこにいなくて聴けなかったけど、あの子、あなたのリストにいたく感銘を受けたみたいでね。それに――」
最後の『悲愴』を演奏し終えたアンリは、麗子さんの手のひらに指を使って示したそうだ。
「やっと話せる友だちができたって、涙ながらにね。赤ん坊のときだって泣かなかったのに」
そう言って眉を下げる彼女に、ぼくはここに来て初めて母親らしさを見た気がした。
「泣かない赤ん坊なんて初めて聞きました」
「私もよく知らないけど、あの子くらいのものなんじゃない?
今の澄ました雰囲気から逆算したら、なんか、らしいって感じがするし」
「確かに、そうですね」
ぼくはバケツの上で雑巾をしぼり、一〇歳のぼくに思いを馳せる。
あの日の『愛の夢』のことは当然のことながらぼくもよく覚えている。
あの日ぼくが音にしたのは、孤独を極めていたぼくが夢に見た空想上の愛であって、リストが伝えようとした、例えば愛する人の墓標の前に見る走馬灯のような、究極の愛とはまるでかけ離れたまやかしであったに違いない。
だからこそ自ら黒歴史の烙印を押したものだが、他でもない、アンリの胸の内に響き、今も大事にしまわれているというのなら、それは紛うことなき音楽であったのだろう。
東側の窓がぼんやり赤く染まり始める。




